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熟成を持ち焦がれて

2016-10-21
実りの秋である
早生に収穫どき食べごろ
待ち焦がれども焦りは禁物・・・

ボジョレー・ヌーボーの解禁に先立つこと約1ヶ月。地元宮崎では、県産葡萄の本年仕込みワインが「解禁」になったと云う。都農・綾・五ヶ瀬に加えて都城にあるワイナリーが、地元栽培の葡萄を利用してワイン作りに奮闘していると聞く。友人との会食などで主に都農の産品は賞味したことがあるが、未だお気に入りを発見するまでには至っていない。既に「焼酎」の生産高は、隣県で本場の鹿児島県を抜いて一躍首位となった宮崎。東京在住時から「霧島」(特に黒)には食指が伸びていたが、宮崎在住になってから「白」の味わいが最も好みとなった。酒に限らず「食」については、その自給率の高さとともに原材料の質の高さにおいて、誠に恵まれた環境にあるとつくづく感じることがある。正直なところ、今は都会の飲食店で食する野菜でも肉でも、特に魚などは、ほとんど美味しいと感じることは少ない。もちろん都会で高額を支払えば賞味できるのであろうが、その「値段」という意味でも宮崎の「食」は誠に良心的である。

まさに「食欲の秋」である。実りの秋で早生蜜柑から梨などの果物類から野菜(こちら今年は台風の影響がないわけではなく、宮崎とはいえやや高騰している)、魚介類では「伊勢海老」なども9月から解禁となっている。それぞれの食べ物について、それぞれの旬がある。また食べ頃を計るように熟成時を待つことも重要だ。社会全体が「何かに追われる」如き風潮の中で、この熟成を「待つ」という心の余裕が大変重要であると最近痛感している。ある現象を以て即断し、先走れば「急いては事を仕損ずる」となりかねない。だが「性急」だと思われたことでも、実は時間が経過し熟成すれば好転することもある。人生が旅路だとすれば、「今此処」では見えていない光景が、3日先には見え始めることがある。また「今此処」で見た光景が、翌日という位置から見ると違った光景に見えたりすることも多々ある。前述したワインなどは特にそうであるが、「熟成」をしっかりと見定めるには、それなりの我慢と忍耐も必要になって来る。「食」の面白さはこんなところにもあり、また「食」こそが生きる源ゆえに「人生」の歩み方を象徴しているのかもしれない。

じっくり熟成
小さな「時」の積み重ねが実り、美味しくかけがえのない一品となる
駆け抜けた喧騒の夏とは違い、僕の秋は「時」が長く感じられている。
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人間性の回復ー宮崎発地域ドラマ「宮崎のふたり」

2016-10-20
「夫婦は、てげてげがいいとよ。」
「ハネムーン=最高の満月」〜欠けていくだけ
宮崎発地域ドラマに見た人間性の回復・・・

NHKBSプレミアムで、宮崎が舞台の全国ドラマが放映された。以前から地域の放送では予告が盛んに放映されていて気になっていたので、帰宅後すぐにチャンネルを合わせた。柄本明演じる男は、嘗ての高度経済成長時代に土建関係の仕事に勤しみ、都市発展のためのインフラ整備に人生を賭けて生きてきたが、会社を退職後に自分を見失っていた。アルツハイマーを患ってしまった妻に愛情も注げず、「自分の何が悪いのか?」と傲慢な態度で息子に妻を託して、頑なに自己肯定にだけ溺れる惨めな晩年を迎えていた。施設に入った妻から簡易な絵が描かれた葉書が届くようになり、その光景は嘗て新婚旅行で訪れた宮崎の自然であった。そして男は独りで宮崎を訪れるところからドラマは始まった。タクシーで新婚旅行で訪れた先へと向かうが、運転手との会話の中でも男は、ハネムーン天国だった頃の宮崎からすると頽廃した光景を目にして、この地を罵倒する言葉を繰り返す。自分が都市のインフラを整備し発展させたという倨傲に裏打ちされた、「成長」のみに目が眩んだ男の罵詈雑言には、在住している僕でさえ頭に来るほどに言い倒す口ぶりであった。

タクシー運転手もその罵倒に辟易し、仕事を放棄しようとまでするが、その運転手の恋人の実家が嘗て新婚旅行で柄本役の男が泊まった旅館で、今は廃業し料理屋を営んでいる。この若い男女二人がこの男の宮崎での目的に向かって関わることで、夫婦とは恋人とは人生とは、といった様々な人間模様が浮上してくる。嘗ては南国の風景を背景にし賑わった公園施設なども今は廃墟になっており、「成長」を誇りにする男にはその宮崎の「今」が、誠に情けなく見えるのであろう。だがしかし、いつからか「静止」したかのような地域だからこそ、「自然」豊かな美しい光景が残っている。新婚旅行で二人だけで感激した光景をあらためて男は目にして、「何にも変わらず美しい」ことから、再び妻との対話が蘇ってくる。発病前に妻も独りで宮崎を訪れ、その光景に接していたようだ。その折も、男は「仕事で行ける訳はない」と妻をないがしろにして「会社」を優先していた。宮崎に「成長」がないとするならば、この都会で企業戦士であった男の生き様には、「人間=自然」がまったく失われている。それを回復できるのは、宮崎の純朴な「自然の光景」しかなかったということを、ドラマは訴えかけていた気がする。「仕事に生きる」とは何か?そして「一生の伴侶」とは何か?現実を見ても、「五輪」に「市場」と喧騒ばかりの都会には、既に「人間性」など微塵もなくなってしまっているのかもしれない。

男は人間性を回復し妻へ愛情を注ぐ生き方へと返り咲いた
僕自身が宮崎に住んで抱く感慨とも重なった
「成長」という倨傲からいち早く目覚めたものだけが、人間らしく生きられということだろう。
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自然と模造品ー牧水の鳴らした警鐘

2016-10-19
「われわれは自然の一部であることを忘れている。」
牧水『短歌作法』の中のことばから
「近代」と「国語」についてゼミで考えて・・・

若山牧水研究会の刊行誌『牧水研究第20号』が今月8日に刊行された。僕自身も初めて「牧水の朗誦性と明治という近代」という評論を掲載していただき、恐れながら巻頭に据えていただく栄誉に聊かの恐縮を覚えている。ここ1年半ほどで歌の創作とともに、宮崎が生んだ国民的歌人である牧水の歌をかなり愛誦するようになった。就寝前には必ず牧水の歌を20首は、「低唱微吟」するようにしている。こうして牧水の歌を読んでいくうちに、その朗誦性の豊かさとはどこから生じているのか?という問題意識が浮上した。そしてまた僕が研究するもう一つの課題である「音読」については、牧水の青春時代がまさに「音読」から「黙読」へ読書法が移行する文化的な変質が生じた時代であった。さらには、「国語」という教科が成立する「学制」が制定されたのも牧水が延岡中学校(現・延岡高校)に進学する頃と合致する。「牧水・音読・国語」が僕の中で横一線に結びついたのも、今回の評論を執筆する大きな動機であった。

今回の刊行誌は特集「牧水と近代」を組むが、その「はじめに」において冒頭に記したような牧水の考え方を提起している。そして「われわれが近代において作り始めているものの多くは模造品(模型)のようなものだ」と、「近代」のあり方に警鐘を鳴らす趣旨が述べられる。誠に「自然」を愛した牧水ならではの感性であるが、その警鐘を無視して牧水の没後も戦前戦後を経て、昭和平成と今に至るのであるが、その「模造」の「模造」たる度合は増すばかりのように思う。この日はゼミで、このように「牧水と近代と国語」というものを課題に、学生たちと議論した。「国語」の学習の中にも、たくさんの「模造」された茶番のような内容が多く見出された。「作者の意図」も「主題」も「登場人物の心情」も、多くが「模造」を「正解」と祀り立てた「偽装」に過ぎないのではないか。少なくとも「国語」に携わる教師は、それらが「模造品」であるという自覚はせめて持ち得て欲しいように思う。昨今の「政治」などを見るに、まさに「茶番劇場」以外の何物でもないと思えることも多く、それを権力に絡め取られたメディアは馬鹿騒ぎで喧伝し、われわれ有権者も十分に監視できてはいない。僕が少なくとも「自然」への欲望を持って宮崎の地を愛好しているのも、どうやらこうした社会状況への忌避からかもしれない。「3.11」がそれを日本人に気付かせようとしたが、この国の社会はそれを見ないふりをして通り過ぎてしまったのである。誠に牧水先生の警鐘に、頭が上がらない状況が眼前にあるのだ。

人と人が繋がり・話し合い・聞き合い・豊かに笑い合う
この地には、自転車で倒れたおばあちゃんを車から降りて助ける自然がある
社会の荒波で苦しめばこそ、話せる相手がすぐそばにいることの自然を大切にしたいものである。
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己に嘘はつけぬものなり

2016-10-18
性分・性癖・本性
己の行動の傾向を外側から見つめて
総合的に考えてそれが「自分」なのだと・・・

「学ぶ」「学習する」という単純な単語があり、その意味をわからないという人もいないであろう。だがしかし、本当にその「意味」をわかっている人はそう多くはないように思えることもある。例えば、自分のことを考えてみても、過去に「学んだ」はずのことでありながら、繰り返し同じ傾向の行動を採ってしまったりもする。それを「性分」と済ますのは簡単であるが、言動の後になって誠に「愚か」であったと省みることも多い。その反面で、やはり「自分の心の赴くまま」というのが「自然体」で良いと思い直すこともある。こう考えるとやはり「学ぶ」ということは相対的なもので、「絶対」と決めつけたり思い込んだりすること自体が「学び」ではないということになろうか。また短絡的に判断したり焦って結果を求めたりすれば、やはり相対化にはならず「性急」な「愚かさ」となって現れてしまうようでもある。

『論語』以来、さまざまな「学問論」で語られて来たことであるが、「自分が何をどのように”知らないか”を”知ること”」が「学び」だと云う。「自分が知らない」ことを誤魔化して現実を受け入れなければ、結局は「己」にその瑕疵がすべて返ってくるものである。病いなどの場合の把握においては、そうした「学び」こそが大切だと痛感することがある。いずれの場合であっても何より避けるべきは、「己」の中だけに思考を込めておくことであろう。それはまさに「知らない」事実にさえ気づかず、独りよがりで頑なな危うさを伴う。信頼できる人には自己開示をして、思考を相対化する場を持つ必要がある。そうした場における他者の反応によって、ようやく「己」が見えて来る。学問でも日常生活でも、こうした姿勢が肝要だと最近殊に思うことがある。その上で「己に嘘はつかない」ことで、ようやく「自己」を保っていけるのかもしれない。

重要な言葉のやりとり
日々の文脈の中で相対的に判断する
それでいて「心の赴くまま」でも「学び」続けるということ。
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MAXのみを讃えること勿れ

2016-10-17
日本球界最速という165Km
メディアもファンもこのMAXを讃えるが
この大谷投手の投球で見るべきものは・・・

野球シーズンも大詰めを迎え、いよいよ日本シリーズ進出チームが出揃った。2000年以降は特段、日本プロ野球に贔屓チームはないが、宮崎に来てからというものこの地に”腰を据えて”キャンプを張るチームには注目する気持ちが強くなった。宮崎をキャンプ地にするのみならず、地元九州の選手に注目してスカウトをしている編成などを見ると尚更、興味が湧くものである。セ・リーグ優勝のカープは日南をキャンプ地とし、12球団1の練習量を誇る。一方、王会長への敬意もあるが、ホークスには地元宮崎出身のエース・武田を擁する。シーズン中盤までは、この「広島×福岡」という西日本対決を予想していたが、ホークスの失速のみぎり躍進して来たのが北のファイターズであった。昨日はテレビ映像ながら試合を観戦していて、やはりファイターズ躍進の原動力となった大谷投手の投打に自然と注目する結果となった。

彼は指名打者で試合に出場していたが、9回のマウンドにクローザーとして上がった。そしてメディアが喧しく伝えているように、「日本球界最速165Km」の投球記録を塗り替えた。もちろんその球速はMLBであっても圧巻の投球であり、これまでの速球投手の企画からすると型破りである。だがしかし、対打者という観点から見ると決定的なのは「最速」ではなく、150Km前後の変化球であると痛感した。時に140Km台後半のスライダー、そして150Km前後のスプリット(テレビ中継のアナウンサーは「フォーク」と呼称するが、これこそ「スプリットフィンガー・ファーストボール」の約でこう呼びたい。)である。打者からすると、ほぼ速球が来たように見えるところから微妙にスライドしたり落ちたりする。この日の試合でホークスの選手たちも「最速」はファールにする機会も多かったと見受けたが、この変化球に空振りをさせられる場合がほとんどであった。何事も「最高・最速・最高値」などをよしとする、過当競争社会の価値観から抜け出せない発想には、誠に危うさを感じざるをえない。やはり大谷投手の場合も、速球への注目のみならず変化球の精度と制球こそが生命線であることを、評価すべきではないだろうか。

強引なだけでは通用せず
「最高」狙いの思考が地球規模で限界を迎えている
やはり「柔弱」の剛たる発想を目指さなければならないはずであるが・・・
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己の運命に気付くか気付かぬか

2016-10-16
「運命」とは何処にあるのか?
そしてまた「生きた証」はあるか?
静観した時に見えてくることから考えて・・・

先月から土日の研究学会出張が多く、ゆっくりとした休日となるのも稀である。筆者は今「出張」と書いたが、正しくは「自己研修」がほとんどとなっている。いづこの大学もそうであるが、現況では研究費がかなり縮減され、「出張」に使用できる分はかなり制約される。それでも複数の研究学会に所属しており、各分野の最先端研究に触れぬわけにもいかぬと思い「自己」の裁量で時間的にも経済的にも土日は学会に行くことを選択する。ちょうどこの土日もある所属学会が開催されているが、さすがに今回は「休憩」とした。それでも「非常勤」時代は東京在住とはいえ、研究学会に行くのは全て”手弁当”であった。更には中高教員時代は、部活動指導・引率などが学会シーズンと重なることも多く、容易には学会に赴くことは難しかった。それからすると「地方在住」として交通費はかかりながらも、学会に行くことを「自己裁量」で選択できるだけ幸せと思うのが妥当なのかもしれない。それにしても交通費と宿泊費は、まったく”バカにならない”のではあるが・・・。

貴重な休日ゆえ、自宅の清掃や更衣に勤しんだ。忙しい日々を支えつつ、清潔さを保つためにこうした”仕込み”は重要である。衣装箱の中身を入れ替え、クローゼットに吊るすシャツも袖が長くなった。清掃というのは時間を費やしただけ、気分が良くなるものだ。最近、さらにそれを実感している。その流れでキッチンの整理整頓まで及び、生活環境が新たに整備された思いを抱いた。その合間に先週の大河ドラマ「真田丸」の再放送を観た。真田源次郎信繁が過去を回想した中で、祖母の言葉を思い出す場面がある。その言葉が、本日の小欄の標題である。先週の本放送を東京で観てかなり感涙したことは既に記したが、再放送でも再度の感涙に至った。幽閉され歴史の表舞台から姿を消し、その生活に埋没しようとしている源次郎を、それまで彼を囲んで生きた人々の言葉が再び奮い立たせるわけである。この「婆婆」の言葉とともに、やはり幼馴染で源次郎を慕い続ける「きり」が、「あなたの生きた証は何なの?今まで何にもしてないじゃない」と迫るシーンには、胸が詰まる思いがする。その感涙はやはり、人生の分岐点で回想をした時に浮かび上がる「己の生き様」を、自分に置き換えて感じるからであろう。

動きのない静観の休日にこそ
己の「いま」が顕に映し出される
「清掃」という自問自答が、明日への道を拓くのである。
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「風に吹かれて」一石を投じる受賞に思う

2016-10-15
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
ボブ・デュラン氏のノーベール文学賞に思う

毎年のことであるが、この時期の講義には「村上春樹」の作品の冒頭部分をスライドに仕込んでいる。古典から近・現代小説まで、主に散文の冒頭部分を教材にして「音読」活動をする授業構想を実践的に講ずる講義内容においてである。この日も、漱石・鴎外・芥川・川端に引き続き村上の作品冒頭部分を紹介した。明治から大正・昭和・平成という時代の中で、大まかではあるが冒頭部分が如何に変化してきたかを考えるためにも重要な配置である。そしてまた「村上」は「川端」の後の「一作品」として紹介するに過ぎず、特にコメントもしなかった。もしこの朝に受賞が決まっていたら、学生たちの反応はどう違っていただろう?などと僕一人が考えて講義はそのまま進行した。学生たちの中に、ぜひこの「思い」をわかる文学好きがいて欲しいと願いながら。

周知のように今年の「ノーベル文学賞」に、ボブ・デュラン氏が選考された。早速、大学へ向かう自家用車の中で、冒頭に示した歌詞の「Blowin’ In The Wind」を聞きながら大学の正門を通過した。そして、村上のように「作家」の受賞が一般的に目されているこの賞に、「シンガソングライター」が受賞した意味について自分なりに考えてみた。この代表曲「風に吹かれて(邦題)」のように彼に対する評価として耳にするのは、聴く人の立場立場で「如何様にも解釈できる」ということであろう。聴き手がその人の置かれている立場・状況を踏まえて、「自分」を起ち上げて解釈すると、その歌詞が寄せる波の如く「己」の中で響き渡るように”できて”いるということである。これまでの日本の国語教育の「失敗」として、教材の読み方を「一つ」に決めてしまうという点がある。「教師」の「読み(解釈)」が〈教室〉での唯一無二の正解であり、試験があるから仕方なく己の意に反して、学習者はそれに従う。その繰り返しが、せっかくの文学を「無味乾燥」なものとしてしまう。意見を発言したり自分なりの解釈で「音読」することも避けてしまう。実にシラけた〈教室〉を作り上げてきた。だいぶ改善はされてきたものの、いまだにその悪弊は払拭しきれていないと感じる場面に出会うこともある。歌詞は個々人の立場で「自由に解釈」してこそ、味わい深いものになることは、ボブ・デュラン氏の歌詞を味わえば明らかである。もしかするとこの受賞は、日本の「国語教育」にも大きな「一石」となるのかもしれない。

The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind.
「友よ(学習者よ・中村挿入)、答えは風に吹かれている」のである。
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無為自然は自らを見つめる心から

2016-10-14
作為なく自然体でいること
「無為自然」と意識しては作為あり
あくまで自分が楽に時間を忘れられるということ

「無為自然」とは、辞書(『日本国語大辞典第二版』)によると、「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること。「無為」「自然」は「老子」に見られる語で、老子はことさらに知や欲ははたらかせずに、自然に生きることをよしとした。」とある。中国の思想では一般的に「老子」を道家の祖と称し、「孔子」の儒家と対立的な立場であるとされて、長い歴史の中で相互に官僚や文人・詩人たちに大きな影響を与えてきたわけである。日本古代にも影響の大きかった中唐の詩人・白居易なども、左遷の憂き目を見た際には、道家に傾倒していることがその詩表現から読み取れる。中央で官僚となって身を律して出世の道を歩む生き方に対して、地方で田園生活を送り詩作に励むといった生き方は、前代の詩人・陶淵明の生き方にも通じ、自らの詩表現に新たな境地をもたらす発想の根源ともなったと考えられている。

果たして僕たちは日常で、どれほど「無為自然」でいられるのであろうか?とふと考えた。仕事に行けば常に「知」を働かさないわけにはいかず、研究にも私生活にも「欲」がないという状況であるのは、なかなか難しい。対人関係においても僕たちは常に「社会性」を考慮し、勤務先の人々や学生たちにも対応している。使用「言語」一つを考えても、「社会言語」の通念に従って適切な使用を心掛けている。そうした「拘束」から解き放たれた時、ようやく「無為自然」の境地に至るのだろうが、現代社会でそれは至難の技であるとも思う。だがしかし、仕事でも私事でも様々な人間関係の中で、自らが自然体でいられる人がいないわけではない。「親友」と呼べる人というのはたぶん、「自然体」でいられる度合が高い人ということになろう。「宇宙のあり方」とは実に壮大な思想であるが、雄大な思考の中で心の赴くままに自分が晒け出せる状況にあることが大切だということだろう。

意識なく時間を忘れる境地
知覚できなくてこそ「無為自然」に近づく
そしてまた、己の心の赴くままの方向を閑かに見つめることも必要だ。
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声を届ける 心を贈る

2016-10-13
声を的確に相手に届けるには?
後ろ向き4名に投げる声
〈話す 聞く〉学習の自覚を促すために

後期「初等国語教育研究」2回目の講義にて、本格的に内容が始動。講義の冒頭は5人1班の中で毎週の決められた担当者が絵本を図書館(もとより図書館ラーニングコモンズで講義を実施している)で選び、読み語りをすることになっている。図書館にはエントランス周辺に絵本と大型絵本もあり、教育学部のある大学図書館としての配慮が為されている。いつぞや学内理系学部方面からの声で、「大学図書館に(幼稚な)絵本があるのはおかしい」といったものが寄せられたと聞くが、「絵本」は大人の為にも必要な心の栄養剤でもある。社会全体が「理系」に重点的な偏向を見せる中で、学内での象徴的な出来事であったと僕は胸に刻んでいる。絵本の読み語り経験というのは、確実に学生の〈話す 聞く〉と感性を育てる。対面でその内容を生の声で伝えるという、極めて基本的なコミュニケーションを活動的に学ぶ機会である。特に教師を目指す学生には、この届く声を身につけて欲しいと願う。

絵本活動の後は、〈話す 聞く〉をテーマにした内容の課題発見。5人班で4人が後ろ向きに立ち、1人がそのある人の背中に向けて声を届ける。自分に届けられていると思った人は後ろを振り返るというもの。(演劇的ワークショップでよく実施されている)声を届ける人によって、声が手前で落ちてしまったりすると誰も振り向かないこともあり、また声が拡散し過ぎると複数の人が振り向いたりしてなかなか最初は上手くいかない。活動後、個人で「どうしたら声は届くか?」というテーマをレビュー用紙に個人思考として言語化する。その内容をもとに班内で話し合いをして、「届く声」の要点を小型ホワイトボード上にまとめて、全体に発表をして講義は締め括られる。各班から出た「要点」は多岐に及ぶが、「声をビームのように飛ばす」に代表されるように「意識を込める」という内容が多く出された。それほど僕たちは日常的には「相手意識」というものが希薄な中で生活している。教師となって教壇に立つと、本当になかなか目当ての児童生徒に対して簡単に声は届かないことを実感する。教師と学習者の間でもそうなのであるから、児童生徒間で〈話す 聞く〉が学べるような環境を整えるには、十分な準備と細心な配慮が必要となる。そして何より「届く声」には、「心」を載せるということが肝要。それは相手への「思いやり」でもあり「優しさ」とも換言できる。「志」という漢字は元来その構成上、「下にある〈心〉がある方向〈士〉指し示す」ことを表している。「心を贈る」という意識を持って大切な人に接することを、「愛情」と呼ぶのであろう。

人が人に向き合うことを学ぶ人文系
豊かで美しいくにには、欠くべからざる学問
今日も大切な人に「声を届け」たいものである。
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「精一杯」の語感に思う

2016-10-12
生活感覚と習慣と
特別ではなく日常に
「精一杯」な「今」のあり方を考えて

「精一杯」というと「なりふり構わず全力で」というように受け止められがちであるが、果たしてそうだろうか?もちろん辞書的意味も「力のある限り。できる限り。こん限り。力いっぱい」(『日本国語大辞典第二班』)とある。だが同じ「力のある限り。」であっても、粗々しい言動と精密なそれでは、のちになって大きな差になるように思われるのだ。「精一杯」の「精」はまさに「精神」「精魂」「精気」などの用例にある「精」であり、「こころ」の意味である。たぶん明治・大正・昭和の歴史の中でこの「精神」が強調されてしまい、「無謀であっても全力を尽くす」といった、いわば「精神論」を表現する語彙になってしまったように思う。この科学的トレーニング全盛の現在であっても、それなりの日本人スポーツ選手が「気持ち」を強調するのは、その象徴的な現象であろう。

「精」の文字は元来、「精米」の語があるように「きれいについて白くした米」の意味である。「精算」といった語彙には、「きれいさっぱり」という語感があるわけだ。そこから派生して「精巧」などに見られるように、「巧みですぐれている」といった意味にもなる。しかし残念ながら「精一杯」からは、こうした語感がほとんど感じられない。それは語史として仕方がない面もあるのだろうが、むしろそれだけに「精巧」を感じさせる「精一杯」があってもいいような気がする。「精度」を求めるということは、思考を高めることでもある。自分が何をどうしたいのか、という目標や欲望をどう叶えるのか?それはまさに「がむしゃら」ではどうにもならないことの方が多いはずだ。また身体の健康を考える際にも、なぜ身体に不調が起きたのか?という問題意識を客観的に科学的に見つめる必要があるように思う。生活習慣病であれば尚更、その人の生活そのものに「病巣」があるということになる。「病は気から」が強調され過ぎることで「精度」を持って自分の身体を見つめなければ、自らを滅ぼすことにもなりかねない。そこで大切なのが、やはり「精巧」の語感ある「精一杯」ではないだろうか。そのためには、生活の中で「小さな一つ」の心掛けから始めるしか道はないようにも思う。

昨日の小欄を読んで付加的内容
「考えて」生活を変えるとはどうすることか?
「今」あなたがしようとしていることが適切かどうか、自らの胸に問いかけることである。
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