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坂本龍馬没後150年特別展

2016-10-31
「世の人はわれをなにともゆはばいへ
わがなすことはわれのみぞしる」
京にて、いまあらためて龍馬の志を読む

高校生の時に出逢った司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』を、今までに3回は読み直している。自らの人生の節目節目で、主人公・竜馬の生き様はそれぞれに違って読むことができ、その都度、その先の道に希望をもたせてくれて来た。一番最近読み返したのは、NHK大河『龍馬伝』が放映された年のことだが、中高専任教員を続けるか大学での教育経験を重ねるために非常勤講師になってしまうかと悩んでいた頃であった。「竜馬」の脱藩という大局を見た選択が、僕自身の背中を押したのは言うまでもない。

当時の思いも小欄に綴っていたのだが、特に京都での龍馬の足跡を自分の足で追いかけ、寺田屋や遭難場所や墓所に頭を垂れて、その志のあり様をこの身で実感しようとしていた。「私心があっては志と言わず」という龍馬の言葉に、僕はどのように生きればいいのか?と自問自答し、歩むべき道を探していた。そして数年後に「わがなすこと」をすべき場所が宮崎であることとなり、今に至るわけである。毎年のように龍馬の命日である11月15日に京都の墓所を訪れたいと思いながら、仕事や京都の宿の予約が難しいことなどと相俟って、実現に至っていないが、今回は一番近い時季に京都国立博物館で特別展を開催している幸運に巡り会えた。

今回の展示では、暗殺時に佩用でその鞘で敵の刀剣を受けたという銘吉行という日本刀や、血染めの書画屏風に梅椿図掛軸などが目玉ではあった。その既に薄くなりつつある血飛沫に、龍馬の無念を読み取り胸が熱くもなった。だがそれ以上に今回の展示で興味深かったのは、大量の龍馬の書簡の展示であった。その文字を読み進めるうちに、龍馬の思い遣りある人柄に触れ、そして志を叶えようとする行動力や視野の広い構想などが、僕の心の内に躍り上がるように立ち上がってきた。最近は重要な案件でも多くが電子メールで送ることが多いが、その文面を僕自身はどれほどの迫真さをもって記しているだろうか。あらためて「手書き書簡」の大切さを再考するとともに、人と人を繋ぎ心を動かすのは「手紙」であるということを見直そうと思うに至った。

手紙の中には冒頭に記した著名なものを含めて和歌もあり、龍馬が歌の心得もあったことが偲ばれた。決して「上手な」とは言い難いかもしれないが、志を高く生きた人物の歌は心に深く共鳴する。そういえば、6月に行われた短歌トークで俵万智さんは「短歌は手紙」という説を述べていた。自己満足ではなく、自己の心情を如何に他者に伝えるか。その訴える言葉を紡ぎ出すのが、短歌なのである。あらためて多くの龍馬の手紙文を肉筆で読むことができて、また僕の中であらたな龍馬像が膨らんだ思いである。

賑やかな京町を歩き新たな志が起動する
そしてまた宮崎で繋がりのある店主のカウンターへ
仮装者が跋扈する街の喧騒をよそに、龍馬の遭難地で深く頭を垂れて手を合わせた。
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京都・宮崎合同歌会

2016-10-30
「向かひ風五十四度の氷点下待ち焦がるるは母の肉じやが」
題詠「飛行機」は簡単なようで難しく
様々なご意見もいただき冒頭のような一首を出したが・・・

短歌結社「心の花」は、各地で歌会が開催されている。僕の所属する宮崎歌会は、代表者の伊藤一彦先生のお人柄もよろしく、毎回30名から40名近くの方々が出席し月1回開催されている。以前には京都歌会の方々が5名ほど遠路遥々いらしてくれたということがあったらしく、今回は宮崎歌会の方から京都での開催に参加するという企画が立てられた。僕としては、研究学会への出張で忙しい月でもあるので当初は参加は難しいと思っていたが、9月の上旬頃に「頑張っている自分にご褒美」というような気持ちになり参加を決めた。

偶然にも宮崎空港から大阪伊丹空港へと向かう飛行機の便が伊藤先生と同じという幸運にも恵まれ、空港ロビーや伊丹から京都への高速バス車内で、様々に懇談することができて充実した時間を持つことができた。伊藤先生は今年、NHK短歌(Eテレで第3日曜日朝6時放映)の講師も務められ、毎回の短歌講評とともに若山牧水の各地の旅の歌を紹介され好評を博している。更に先生は、堺雅人さんの高校時代の恩師であることでも有名である。

さて京都に到着し会場に入り歌会の冒頭は伊藤先生の「声」をテーマにした歌についての御講演が30分ほど。「をちこちに啼き移りゆく筒鳥のさびしき声は谷にまよへり」などの歌にあるように、牧水が鳥の啼く音の聞き分けに長けていたことを端緒に、歌に詠まれた「声」の話題が展開された。更には「短歌とは?」という内容について、長崎の歌人・竹山広さんの「追ひ縋りくる死者生者この川に残しつづけてながきこの世ぞ」などの歌にあるように、被爆体験を時間をかけてながきに生きることで、迫真の歌にし続けたという生き様が紹介された。

まさに短歌とは、己の生き様を投影することであるという思いを新たにする。反転すれば言葉に表現しようとすることで、「生き方」が変えられるのかもしれない。小欄の存在もそうであるが、表現することでしか人は「本当の自分」を捕捉できないのかもしれない。同時にそれは独善的であってはならず、表現したら出会うべき人々の批評に晒されていく必要もあるのだろう。冒頭の短歌は僕がこの日に出詠した歌を、歌会後にやや推敲したもの。「母の肉じゃが」は故郷の温かさの象徴として詠んだが、飛行機で宮崎と東京を往還するのは搭乗しているといともたやすいことのようだが、機長アナウンスで示された「向かい風五十四度の氷点下」という実に苛酷な条件を超えて、その都度母と再会しているという感慨を歌にした。「飛行機」の語は使用せず、そのイメージを詠んだのだが、歌会ではあまり得票は獲得できなかった。

懇親会そして二次会へ
京都の夜はやはり楽しい
三次会は、宮崎の僕の自宅近く出身の店主が経営する店に伊藤先生らと。
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1年後は研究学会大会

2016-10-29
会場使用申請を終えて
1年後には研究学会大会を開催する
「歌」の縁が結ぶ僕がすべき仕事

ちょうど1年後の今月、「第63回和歌文学会大会」を本学を主催として開催する。本学は市内から10Km以上あり、空港からの公共交通機関も本数に制約がある上に、最寄駅から徒歩20分という外来者にとっては誠に不便な環境にある。それゆえに自然に囲まれた好環境があるとも言えるのだが、100名以上の和歌研究者の先生方をお迎えするには、誠に心苦しいロケーションである。

そこでこれまで約1年間ほどかけて、大会会場に適した場所を市内で模索してきた。幾つかの候補から様々な条件を考えて、「市民プラザ」の施設を使用することに決定した。施設の使用にあたり短歌会でお世話になっている伊藤一彦先生にご相談したり、コンベンション協会との協議を重ねた結果、「招致事業」として開催できるということで会場の申請と使用料の支払いを昨日完了した。

この大会を引き受けたのは、研究学会で開催校を決定する担当者が、同窓で学部時代からお世話になっている先輩であるからだ。昨今「文学系研究学会」では、事務局を担当できる大学が極端に減少しているという憂い深き事態となっている。「文学部」の縮小や大学院生の減少などがその大きな原因である。学会運営の中心はやはり院生たちの力による点が大きかったが、その構造が崩壊しつつあるのだ。

今月から和歌文学会の事務局も移転し、やはり同窓の親しい研究者の方が引き受けた。だがやはり、院生に頼れる学内環境ではないと聞く。かくいう僕自身の勤務校も教職大学院はあるものの、学会運営に協力してくれる院生は皆無で、実働戦力は「学部生」である。しかし物は考えようである、「教師」を目指す学生たちにとって、多くの方を迎え入れる「おもてなしの心」はきっと将来の糧になると信じている。そしてまたこの大会開催の機会が、「宮崎県」にとっても貴重な機会となるように運営を進める決意である。

さて「五輪」ならぬ「大会」の旗を受け取った
1年後とはいえ、「東京都」よりも会場準備体制は整ったか
研究者としての僕が、一生のうちでできる貴重な機会であると思いを新たに・・・
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疲労は知らぬ間に身を・・・

2016-10-28
朝から元気に活動開始
だが昼食を食べた後の身体の重いこと
「疲労」は突如として顔を覗かせる

日常から比較的「元気な人」のように、周囲には受け止められていると思う。健康に対して日常生活で幾つか留意していることもあり、例えば「大学ではエレベーターを使用しない」ことも貫いている。研究室は4階にあるのだが、よほどの荷物がある時とか来客を同伴した時以外は、すべて階段を使用している。東京在住時と大きく違うのは、自家用車の利用により1日の「歩数」が意識しないと極端に減少してしまうことだ。概算であるが公共交通機関を利用して通勤をする東京での生活歩数を毎日「1万歩」とすると、自家用車ばかりで生活をすれば1日「2000歩」に満たない場合さえある。これは確実に身体を退化させてしまう「生活習慣」であるように思われる。(現に宮崎県の「肥満率」は全国でも高いというのは、こうした自家用車生活も大きな要因ではないのだろうか。もちろん美味しいものが沢山あることもだろうが)そこで授業でもなるべく学生たちの間に入り込むなど教室を巡り歩くことを意識したり、事務所や印刷室に行くなどの階段を使用する行為も、むしろ非効率的に何度でも上下するようにするだけで、1日の歩数は「7000歩」程度までは上がることがわかってきた。この「習慣」においては、「疲労」と相関関係がある範囲ではないことも申し添えておく。

この日は、朝から大学からほど近い小学校での「朝の読み聞かせ」時間を訪問した。僕のゼミ生を中心にした「地域と創るプロジェクト第2弾」の開始である。4名のゼミ生たちが、朝の15分間というお時間をいただき、絵本を1冊ずつ1・2年生の児童たちに読み語った。教員志望の学生たちにとって、現場で直接に子どもたちと触れ合うことの意義はこの上なく大きい。また当該小学校は、小規模校であるために学生などの学校外の人々と触れ合って、表現活動をすることは社会性を養う上で重要であるといった信念を校長先生も実践していらっしゃる。そんな充実した時間を経て、大学へと戻って会議を1時間強。その後、甚だしく空腹を感じたので生協の購買で弁当を買い求めて食した。すると自分でも制御ができないほどの倦怠感に襲われて、しばし研究室の椅子でぐったりとしてしまった。「動かそう」と思う身体は、「疲労」を隠蔽し前に進める。思わぬところで「疲労」の正体と出会った思いがした。だが、その自覚なき「虚飾の元気」こそが恐ろしいのだとも悟った昼下がりであった。

夜は親友の店で
店主も同じように「疲労」が蓄積しているという弁
暑さも残る秋に、身体を養生することも大切な使命であるという思いが深まる。
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「生涯一教師」の思い

2016-10-27
輝く中学生の眼差し
構想の意図を受け止めてくれる爽快感
教壇に立つ・・・生涯一教師

「生涯一捕手」とは、野村克也氏の名言として有名である。テスト生として入団し、現役時代は捕手ながら好打の選手として活躍しつつ、途中から監督も兼ねて球団に貢献し続けた。その後、球団を追われることとなるが、他球団から誘いを受け「一捕手」として45歳まで現役を貫いたという選手としての矜持を表現した名言である。どうやら「生涯一書生」という、禅の言葉をもとにした発言であるらしい。昨日、僕自身が抱いた感慨はまさに「生涯一教師」であった。好奇心旺盛な中学生たちに、自分の好きな文学教材の授業をする。その例えようのない爽快感は、体験した者でなければ決してわからないであろう。人が人と向き合い、人が創り上げてきた「言葉の彩」を、人として伝えていくこと。その「教える」という行為の中に、「個人」の中に醸成された「文化」が見え隠れする。臆せず頽廃せず無関心にもならない純粋な「学び」への欲望が、中学生の眼差しに反映している。東アジアにおける「言語文化」のあり方の一端を提示する僕の授業構想を、存分に受容してくれた中学生たちの姿に触れるにつけ、「教師」になってよかったという純情な感慨を、今更ながら深く抱くのである。

附属学校との共同研究においてこの3年間で、年に1回は小・中学校いずれかの教壇に立っている。教育学部の教員として、特に「教育研究(教育法)」を担当する教員として、自らが「できない」ことを学生たちに教えられないという思いも強い。その上で研究に携わっている者としては、授業実践も「プロトタイプ(試作車)」であるべきだとも思う。現況の教育の時流も意識しつつ、批評的に新たな前向きな提案をする姿勢が求められているだろう。この日の研究授業も、「デジタル教科書」を使用するという内容であった。教材は僕自身が得意とする「漢詩」であり、「デジタル」に収められた「中国語」と「訓読日本語」の音声を使用し朗誦を中心にした授業展開を意図した。最終的に班ごとに様々な形式で漢詩を読み合い、各班が「暗唱作品」を発表するというのが概ねの流れである。「国語」でなぜ「漢文」を学ぶのか?という確固たる問題意識を啓発する授業は、そう多くは実践されていないように思われる。「デジタル」でできることは、「自動運転」に匹敵する「オートマチックな授業」では決してない。それを如何に利用するかという「一教師」の独創性が、より求められるのではないだろうか、という問題提起はできたように思う。

「教えたい」と僕が中学生の時に抱いた志
「深く教える」には「研究」が欠かせないと決意した「教師」になった後の志
「生涯一教師」そしてまた「研究者」であり「表現者」でありたい。
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「ひとつ」に集中すること

2016-10-26
守備位置で前の打席を悔やんだり
打席で投球に集中せず考え過ぎたり
いつでも眼前の「ひとつ」に集中する準備ができていること

野球シーズンも大詰めで、日本シリーズでは白熱した試合が展開されている。いずれもシーズン前の下馬評では決して優勝するとは思われていなかったチームが、逆転勝ちや堅実な勝利を重ねて、どちらかというと金に任せて選手を漁るチームらを蹴散らしてきた図式があって、ある意味で興味深い。接戦において最後に勝利に至るには、何が必要なのかなどと考えることがある。僕も曲がりなりにも野球経験があり、また教員時代はソフトボール部の顧問・監督を長年務めた経験がある。特にベンチにいる際などは自分の思い通りにはならない中で、生徒たちが「勝ちたい」という気持ちが強いとむしろ緊張して逆転されたりすることもしばしばであった。そんな経験から、特に「素人」の場合はそう思うが、「後悔を引きずったり先のことを考え過ぎない」ことが何より肝要であるということを学んだ。「プロ」でもそのような「邪念」が見えるときがないわけでもないが、冒頭に記したような「後先にこだわる」姿勢であれば、なかなか結果を残すことは難しい。

王・長嶋以来の稀代の天才野球選手であろうイチローは、どのような状況であろうとも、常に「準備」ができているという姿勢が、今季改めて結果を残している要因である。全盛期に米国の球場で彼のプレーを何度も生で観戦したことがあるが、彼は走攻守のどの場面であっても、そうした「邪念」がないように見受けられた。野球ファンなら誰しもが胸に刻んでいるであろう、09WBC決勝の韓国戦での決勝打の打席では、さすがにかなりの重圧があったと後に述懐しているが、やはりあの緊迫した場面で結果を残せたのは、眼前の「一球」に集中できたからだ。自分が打席に入る状況を頭の中で思い描き「もう一人の自分」が「実況中継」することで客観視して、精神を落ち着けたと漏らしている。その結果、何球もの「決め球」をファールして粘り尽くして、投手が根負けするまで追い込み、最後には痛快な中前打を放ったのである。大会を通して決して打撃が好調ではなかった過去や、そこで打てなかったらどんなに叩かれるかという、不安な未来を捨てきれてこその快打なのであった。

今日の仕事、今日の授業、今日のコミニケーション
その「ひとつ」に集中できなくて何かあらむ
今日は附属中学校で研究授業者として「ひとつ」に挑む。
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都市の過誤と方言の古語

2016-10-25
空港に到着して
小さなターミナルビルから出たその時
都会にはない薫香と爽やかな空気が出迎えてくれる

都会育ちであるはずの僕が、どうも最近はその「都会」に否定的な感情のほうが断然強くなった。人口密集が招く公共交通機関の混雑や建物の密集、そしてむやみやたらな高層ビルの乱立など、大阪伊丹空港から離陸した航空機の窓から見降ろす関西都市圏の街は、やや濁った空気に覆われて喧騒と密集に蠢く「砂漠」のように見えなくもない。西欧の都市もそれなりには密集してはいるが、米国などでは”ここまで”の喧騒を感じることもなく、欧州ならば尚更、潤いのある都市として好感が持てることも多い。明治維新以後の約150年間の急速な近代化・西洋化の波は、この日本の都市を、江戸時代までに培った「良識」を破壊した「似非成長」の象徴のような風体にしてしまったのではないかとさえ思われる。日本社会はその矛盾に気付く機会もないわけではないが、気付かないふりをして、さらにこの「似非」の思考から抜け出せずにいるように思えてならない。

地方に古語が方言として保存されているように、地方には日本文化が培った大切なものも保存されているような気もする。宮崎の方言「よだきい」は、「億劫だ・面倒だ」といった意味であるが、「ものうい・つらい」や「嫌である」「汚い」といった意味もあることが『日本国語大辞典第二版』を繰ると示されている。元来は「よだけし(彌猛)」という古語の形容詞で、『源氏物語』にも「おほやけに仕ふる人ともなくて、こもり侍れば、よろづうひうひしうよだけくなりにて侍り」(行幸)という用例があることも『日本国語大辞典第二版』に見える。『山家集』にも「けぶり立つ富士におもひの争ひてよだけき恋をするが辺ぞ行」と西行は歌に詠み、ここでは「大げさである。ぎょうぎょうしい。程度がはなはだしい。」といった意味の用例として『日国』は引く。「面倒臭い」といった否定的な状態を表現する語でありながら、宮崎でこの語彙を聞くと決して嫌悪感は覚えず、むしろ「ご愛嬌」を感じるように好感さえ持てる。それはこの土地が爽やかに澄んでいるからであり、むしろ都会こそが「よだきい」に他ならないからであろう。

空港からの道すがら
産直野菜市場と無添加パン屋に立ち寄る
そこには無機質な「レジ」ではなく、「一人の人」が僕を出迎えてくれる。
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自分を支えるために書く

2016-10-24
研究に向き合うということ
自分が何をどうしたいか見定めること
「書く」ことは人を支える

いつもそうであるが研究発表を聞くということは、自問自答の時間でもある。発表者の問題意識と、自己のそれとを向き合わせて、何を知っていて何を知らないかを見定めながら、己にしかない観点からどんな質問が可能かを模索する。特に発表題も多方面に及ぶ中古文学会などの場合は、その模索の振幅も自ずと大きくなる。この日も午前中の発表の後半は、「和漢比較」を視点とするものであったので、僕自身の問題意識とも通ずるものであり、質問者はすべて「和漢比較文学会」の会員の先生方であった。僕もその中の一人として短い質問をし、特に和歌の流れの中でどう位置付けができるかという趣旨のことを問い掛けた。もちろんこれは発表者への質問であるとともに、「自己」の「仕事」だという自覚を高めるためでもある。その問題意識の上で、まだ自分で「書いていない」ものを「書くべき」とあらためて心を奮い立てる時間でもあるのだ。

昼休みに大学の同窓の大先輩たる先生や院生と、昼食弁当をともにした。さる先生はいつも小欄に関心を寄せていただいている「熱心な読書」のお一人である。小欄に「ジムでのトレーニング」のことなどを記しているゆえ、その内容は「どんなことをしているのか?」といった趣旨の質問で場の話題が作られる。そうこう懇談していると「中村さんは(小欄を)書くことで自分を支えている」といったことを仰っていただいた。あらためて考えるとまさにそうなのである。「日々、自分は何をしたのか?」という実感を持つためにも、こうして「書くこと」を習慣化し、今なども大阪の空港で帰りの便を搭乗待ちしながら、この内容を綴っている。そして自分で「書いた」牧水研究の評論をさる先生にはお渡しし、この面でも自分の「書くこと」によって、あらたな面をご提供できたと思うことができた。

宵の口は再びゼミの卒業生と会食
初任者教員としての様々な話を聞いた
彼の中でそれらを「話した」ことが、明日からの糧になると信じるひと時であった。
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中古文学会創立50周年記念行事

2016-10-23
「今よりは風にまかせむ桜花散るこのもとに君とまりけり」(後撰集・105)
「散る木の下に君とまりけり」
「子の許に君とまりけり」

中古文学会創立50周年記念行事が大阪大学で開催された。ひとえに50年ということであるが、長きにわたる研究の積み重ねによって、雅やかな王朝文学の粋が解明されてきた。その継続と蓄積によって、「古典文学」というものが現代においてどのような意味を持つかということも、多くの人々に伝わるようになった筈である。『源氏物語』『枕草子』を中心とする女流散文作品とともに、王朝文学の中心となったのは和歌である。記念講演においては平野由紀子先生による「中古文学と女性ー層をなす書き手」と伊井春樹先生による「桐壺院の贖罪」と題する2講演に引き続き、雅楽の演奏と舞楽が披露され、その後も多くの研究者の先生方とともに50周年を賑々しく祝う宴まで、記念すべき時間が続いた。

冒頭に記したのは平野由紀子先生の講演資料に引用された後撰集の和歌である。下に二通りの意味を記したように掛詞が施されていて、「かな書きすると同じ連なり」となる「二つの文脈」が一首に詠み込まれている。中古文学の雅の開花は、まさに「かな書き」が発明されたことによる成果であり、女性が自由に和文脈を構成できるようになったことが大きな原動力となった。中でも和歌における「掛詞」という技巧は、和語における同音異義語によってユーモアを交えて相手に真意を伝えようとする表現行為である。三十一文字(みそひともじ)の限られた中で、「他の語と呼応して二つの文脈を作る」ということになる。後の時代となれば落語の「下げ(オチ)」や洒落に通ずるものでもある。さて平野先生は講演の中で、冒頭の歌について「会場の皆さんで声に出して2度読んでください」と促した。同様のことを海外での講演でも実施したことがあるそうだが、昨日の大阪大学では会場に起こった声は実に残念なものであった。平野先生ご自身も、「海外の方が大きな声が出てました」と語っていらした。その後の休憩時間に平野先生と話す機会を得たが、先生は僕が「朗読」の研究をしていることも覚えていてくださり、「何であそこでみなさんは声を出さないのでしょう?」と一言疑問を呈されていた。あらためて「音読」の位置付けが「大人」になればなるほど避ける傾向にあり、多くの研究者が「黙読」主義なのであることが浮き彫りになったと僕は思った。だがしかし特に和歌の掛詞の場合は、「音による享受」が体感できてこそ使用された深みもわかるというもの。その後の伊井先生の『源氏物語』に関する講演での原文音読を交えた内容は実に聞き応えがあっただけに、年代によって「音読」への意識も違うようにも感じられた。今後も中古文学研究を担う者としてやや構えたことを記しておくが、享受者として内に沈潜させていく研究も必要であるが、更に広く社会に訴える「表現する古典研究」も必要ではないかと思った次第である。時流となってしまった「人文学軽視」という逆風を何とか逆手にとり、むしろ教育現場では「伝統的言語文化」などと重視されている現状に、何らかで僕ら研究者が「表現して」斬り込みを掛けるしかないのではないかと思った次第である。

中古文学の素晴らしさ
実はそれが讃えられ表舞台にあった50年でもあった
あらためて文学研究とは何かと自問自答し、己の仕事を自覚する記念行事であった。
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「声を聞くこと」の真意

2016-10-22
「市民の声を聞く」という成句の真実
実際には「声を聞かない」ようにしていると云う
個々人が「文化」であり相互にその異質性から学ぶのが仲間とも云う

定期的に届くメルマガに、細川英雄氏が主宰する八ヶ岳アカメディア「言語文化研究所」からのものがある。細川氏とは大学院博士課程時代に興味があって「日本語教育」の学部入門科目を受講した際にオムニバス講義を受けたことがある縁で、その後も研究学会等でお話をする機会があるという間柄である。「文化」というのは「個々人」の中に根付くという趣旨のことを力説され、抽象的な「文化」という存在は幻想であるという考え方を学んだ。今回届いたメルマガに「人は実は人の声を聞くことを極力避けようとするのだ」という趣旨のことが記されていた。「他者の声を聞く」と異質な「文化」に曝されて、「自己のすべてを見直さなければならなくなる」からだと云う。特に「政治家」や「行政側」が「市民の声を聞く」などというのも、大変皮肉な表現であるといったことを考えさせられる。われわれは実は「他者」の発言から受ける「抵抗」に対して「自分」を主張することで、「自己防衛」しているのかもしれない。

学校空間の〈教室〉でもそれはまた同じ。発達段階が上がれば上がるほど個々の「文化」が明確になってくるわけで、そうなると「人の声を聞く」ということを避けるようになる。この原則からすると、中学校から高校になればなるほど「国語」の授業での「音読」に影響を及ぼすことになる。現実に小学校ではみんなが大きな声で恥も外聞もなく「音読」する光景をよく見かけるが、5年生ぐらいから女子を中心に「控え目」になり始め、そして中学校2年生にもなると男女を問わず「声を出さない」か頽廃的な声で「付き合う」かという姿勢が見え始め、高等学校に上がるとほとんど「音読」への意欲は薄れてしまう。やはり「大人」になるごとに「人の声を聞く」ということを忌避しようとするのは、こうした学習者の「音読」に対する姿勢を見ても明らかである。さすれば、個々人の「文化」に対して「音読」の価値や効用を積極的に認めるような方法を、指導者側が採る必要があるということになろう。〈教室〉という多様な「文化」の集合体を、「音読」という行為を許容する「意味」を持たせるように施すということだ。

大阪にて高校国語研究会の先生方と懇談
小欄に記したようなことを、具体的にワークショップで実施する予定
「人の声を聞く」仲間が集っていただき、誠に光栄な機会が与えられた。
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