デジタル教科書への幻想

2016-08-31
写真・ワーク資料の利用
訳の提示や暗唱補助教材に音声と動画
デジタル教科書の有効性と誤解と・・・

集中講義2日目。観測史上稀に見る進路であった台風10号の影響も東京地方ではほとんどなく、通常通りの講義をすることができた。この日は、デジタル教科書についての理解を深める内容。ICTの教育への導入が推進される中、タブレット端末などを介して使用するデジタル教科書が登場してきている。電子書籍の普及が進む中、教科書も紙から電子へという流れが進んでいる。だが、まずは地方自治体レベルで大掛かりな予算がなければ簡単には導入できず、全国的な普及率はそれほど高いわけではない。佐賀県などは県を上げて推進に前向きな動きを見せており、今後もその成果報告が期待されるところである。だが、ただタブレットなどの端末と教科書ソフトがあればよろしいというわけではなく、校舎教室のWeb環境などを含めた整備を実行する必要性がありそうだ。そうなるとただでさえ基本的な教育予算が十分でないこの国の現状では、4〜5年単位で普及率を上げようなどという目標は、”絵に描いた餅”に他ならない。予算的なことを念頭におくならば、まずは「電子」よりも「人」へではないだろうか。1学級あたりの児童数・生徒数を考えても、教育予算は世界的に見て恥ずかしいほどの次元であることを、まずは念頭に置くべきであろう。

デジタル教科書を使用すると何が変わるのか?時折、その「デジタル」という響きに巻き込まれるのか、大きな万能感を抱いて捉えている方々がいる。いわば、かなりのことが”オートマチック”に進むような幻想を期待している向きがある。本文に何色もの色線を付したり、図形で囲んだりすること。本文を拡大表示したり振仮名の有無を選択できること。挿絵や解説資料映像が使用できること。本文の朗読音声や、漢詩などの場合は中国語読み音声が利用できること。ワーク類が添付されていて、暗唱や現代語訳・漢字や語彙などを自学自習できること。小説教材などであれば「人物」や「関係」「感情」パーツが示されていて、相関図を作り出すことができること。まだまだ機能はあるが、概ねこのような内容が基本的に使用できることである。ここで肝心なのは、やはり指導者が十分な学習計画と教材研究を施してなければ、「デジタル」たる意味も効用ももたらされないということである。至極当然のことであるが、この捉え方をまずは前提とすべきである。むしろメモする視写するといった「書くこと」に対しては、学習者の怠慢を生み出しかねず、現代語訳などの情報も十分に備わっているので、「考える」授業設定にするかしないかで、学習を安易に考える者とそうでない者との格差が実に大きくなると思われる。この日の学生たちとの議論においても、このような点を多面的に確認することができた。

「本」は何処へ向かうのか?
印刷術の一般化、書籍出版の普及などメディアがもたらした革新
「デジタル」は何をどのように変えていくのか、現在進行中の革新をまだ僕らは知らない。
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集中講義始まりました

2016-08-30
「メディアと国語教育」
授業にどのように活用するか
視点を拡げてあらたなる学生たちとの出逢い

3年ぶりに母校で非常勤講師として集中講義を担当することになり、その講義期間が始まった。母校での非常勤はやはり僕の大学教員としてのスタートであり、後輩である受講学生たちとの出逢いがいつも刺激的だ。今回、配当された科目は「授業に活かすマルチメディア」であり、やや自分の専門のど真ん中ではないが、転換を求められている国語教育の未来を考える科目と捉え直して、学生とともに創造的な発見を試みてみようと思っている。抑も「メディア」という概念そのものが多様であり、時代とともにその性格にも変質が生じているように思われる。「マルチメディア」という語彙そのものが一時代前の感も否めず、時代は「ソーシャルメディア」全盛であり、より個人的な範疇でのメディアとの関係性が問われ始めているといってよいだろう。それゆえにむしろ「印刷」などの文字媒介となるものの意義や、国語教員としての身体性そのものなどにも自覚的になるよう、問題意識が高まる講義を目指している。

自己紹介やアピールの際のメディア性にも意識を持つこと。基本情報の紹介に加えて、特徴的な体験をエピソードとして挿入し、自己を印象付ける「物語」を添える。講義というのも出逢いの場であり、まずは受講者同士や担当者が如何に十分な対話のできる環境を築くかが肝要であろう。まずはこうした場を「口語表現」といった「メディア」で伝え合って共有していく。その後は、中高時代の「国語授業」経験の相対化を促すために、その「好悪」について発表し合い相互に質問意見を交わしていく。自己の持っている教育経験というのは絶対化しやすいので、「国語授業」に対する固定観念をほどくことがとても重要な過程である。さらには「国語授業」にメディアが活用されていた経験についての対話。受講者の体験を聞いているとやはり、「文字」中心主義の座学的な解説講義型に終始している授業経験も多く、世相が個別のメディアによって多様な他者と出会っているにもかかわらず、「国語教育」そのものは旧態依然であることを再確認させられる。同時に双方向性の国語授業もそう多くはなく、教師の持つ「正解」へと向かわざるを得ないゆえに、個々の学習者の意見が無視されてしまう授業体験を持つ学生も多かった。もちろん、情報検索を活動的に実践したり、多様な読み方を考え合う授業の体験を持つ幸福な経験を持つ学生もいないわけではない。さてそこで「メディア」をどう活用するか?ICT教育の推進などが喧伝される中で、まさに新時代の「国語授業」を挑戦的に構想するのが明日からの課題である。

20〜30年後に無くなる職業
「教師」は大丈夫なのですか?
胡座をかく時代は遥か彼方へ、教師こそ学び手として創造的であるべきだろう。
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心の花全国大会2016②

2016-08-29
中入りはお客のためと噺家の力士にあらずにんべんの粋
(心の花2016全国大会・中村佳文出詠歌)

題詠「中」、互選1票獲得。発見の歌である。「中入り」というのはお客様が休むための時間だと噺家の師匠が強調して説いている、決して力士のためではないので寄席では「仲入り」とにんべんを付けてお客様思いの粋な人情を表現しているのだ。解釈を添えるならば、このような歌になるだろう。初参加にして互選1票の獲得は、ささやかながら僕には誠に大きな自信となった。選評いただいた先生方において、落語に詳しい方には新鮮味がなく、寄席などに馴染みがない方には「わからない歌」だという批評をいただいた。だが、昨日の講評に続き、この日も帰り際に宮崎の伊藤一彦先生からお言葉をいただき「面白くていい歌だ」と言っていただけた。更に自分なりの解釈を加えるならば、「中」と「にんべん」で「仲」という寄席における人と人との人情の厚さを一文字に託すという粋なはからいを、「離合」(漢字の構成を分解して歌の中に詠み込む。『古今和歌集』時代にはよく詠まれた。)によって表現している。このあたりはなかなか現代短歌では、他者に「読まれない」技巧であるかもしれない。この日の選評における議論でも主眼となった話題であるが、「誰にでも分かりやすい歌では、説明的でああそうですか」に落ち着いて、読書の心を揺さぶることも少ない」と云う。「せいぜい五割の人が分かる歌、分からな過ぎてもまた駄目でせいぜい三割がスレスレのラインか」といった話が、佐佐木幸綱先生からも為された。

また幸綱先生曰く「歌の優劣の基準は、次の三点にある。
1、表現の完成度が高い歌(三島由紀夫が徹底的に追究したような)
2、新しい発見を詠んだ歌
3、風格・格調の高い歌
これに加えて、読んだ際に調べがよくて「愛誦性」が備わっていることが肝要だと云う。
この大会では大賞が決定する議論が全員の前で公開されたのだが、そこでもこの基準が具体的に当て嵌められて大変参考になった。
大会大賞受賞歌は以下のような歌である。

「祈るとき合わすてのひらその中に願いを入るるふくらみのあり」
(163・水口奈津子さんの歌)

全体が「やまとことば(和語)」で貫かれており、ひらがなと漢字の配合具合も絶妙で表現の完成度も高いと伊藤一彦先生も評価されていた。来年の初詣の際に思わず口ずさんでしまうほどの「愛誦性」が認められると幸綱先生評。互選でも13票を獲得していることに表れているが、実に多くの人に「分かりやすい」歌でもあると同時に、誰しもが経験する動作ながら、簡単には「ふくらみのあり」に気付くことはない、まさに「発見の歌」に仕上がっている。更に言えば、「祈る」という人間にとって重要な行為に「人生」が見出せ、誠に敬虔に「合わすてのひら」という動作には格調の高さもある。なぜこの歌が選ばれるのかという必然性を、あらゆる条件で適えている歌といってよいだろう。

最後に質問コーナーで話題となった「連作」について覚書を。この大会で表彰される「心の花賞」は二十首の連作である。俵万智さんは卒論が「連作論」だそうだが、やはりその構成の仕方・並べ方の工夫が肝要であり、その上で1首でも立ち上がる歌がよいと云う。「だんご串」に喩えるならば、「串が太すぎずだんごの肉付きがよい」連作がよいと云う。また幸綱先生曰く、明治になって印刷技術の普及と「我」(自我)が立ち上がったことで、「連作」が盛んになったという指摘があった。その上で「二十首あれば人生が歌える」のであると云う。などと考えると、自分の中にあるこれまでの人生の葛藤や悲哀は、十分に題材となる可能性を秘めていると感じるお話であった。

学び多き2日間の経験
千年以上のやまとうたの歴史上で「われ」もまたかく歌へり
人生に限りない発見と格調をもたらせてくれるのが歌である。
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「心の花」全国大会2016①

2016-08-28
どのような歌か?何を歌い?なぜ歌うか?
自分が何のために生きているかの問い掛け
その人らしさ自分との対話ーおのがじし

入会してちょうど1年ほどになるが、竹柏会「心の花」の全国大会に初参加した。会場は東京でも馴染みのある中野サンプラザ。早々に会場に赴くと、既に中野駅から宮崎歌会の方にお会いした。宮崎歌会には熱心な会員の方も多く、約20名の方々がこの全国大会に参加されている。会場に着いて廊下を歩むとすぐに、主宰者である佐佐木幸綱先生にお会いした。いつもと変わらずダンディな仕草で「よく来たね!」と笑顔で僕を迎えてくれた。学部時代からある意味で僕は幸綱先生の大ファンであるが、それはこうして広く公平に人に接してくれる温かさに惹かれているのだとあらためて実感する。日本文学専修学生研究班の合宿で、駅から宿までをお車でお出迎えした際の車内での貴重な僕の学生時代の経験が、このような形で大学教員たるいまに返って来ているようだ。自由参加である「撰者と語ろう」のコーナーも実に勉強になった。投歌した歌が撰者の先生方にどのように撰ばれているか?その内実が様々な表現で披瀝される。そこでもやはり宮崎歌会でお世話になっている伊藤一彦先生のことばには大変説得力があった。「歌を詠むとは、自分が何のために生きているかに対する問い掛けである」と云う。それを自分なりの感じ方・表現で歌にする。他の撰者の先生方も同様なことを述べていたが、類型にすがったり他人の感性に乗って詠まれた歌では詠んだことにならないということだ。「どのように、何を、そしてなぜ歌うか?」こんな問い掛けを常に自分の中に持つこと。それこそが「心の花」の目指す「おのがじし」の歌ということなのだろう。

午後からいよいよ大会本番、今回のテーマは「歌を読む」ということ。「詠む」ではなく「読む」である。冒頭の挨拶で幸綱先生曰く「例年は心のお祭りをやっているのだが、今年は勉強をすることになった。自分の作ったものを含めて短歌が読めるようになることが、よい歌を詠めるようになる道である。」と。僕自身はむしろ学部時代から古典和歌の「読み」を研究してきたわけであるが、反対にここに来て歌を「詠む」ようになり、歌の解釈の奥深さを再考させられている。歌会が始まると2名の評者の方々が、歌ごとに短時間ながら的確な評を加えていく。まったく知らない人の感性を揺さぶる歌とは如何なるものか?そんな問題意識を持ちながら、その進行に深く耳を傾けていた。物事の捉え方の視点、そしてどんな言葉を選び、どのような構成で韻律に乗った歌を表現するか。「読み解く」ということは、「詠み上げた」段階を遡及することでもある。「解釈」にも思い込みがあってはならないが、同時に「詠歌」にも独善は禁物であるという、「読み」の基本にあらためて気づかされる時間となった。そして無記名で評されている僕の歌に対して、評者の方々の評価は芳しくはなかったが、宮崎の伊藤先生に講評で掬い上げていただいたことには、誠に深い歓びを覚えた。やはり大学の大先輩でもある伊藤一彦先生に宮崎で出逢ったことは、僕にとってかけがえの無い邂逅であったと確信した。

懇親会そして二次会
歌に酒はつきもので、それは出身大学の先生方の流儀でもあった
宮崎でこそ出逢えた「短歌」、この歓びを噛み締める1日となった。
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故郷と歴史のいま

2016-08-27
4年後の東京五輪
果たしてどのようなことになるのか?
モノレールに山手線の車窓から眺める故郷

宮崎から空路で東京へ。羽田空港に降り立つと、いまだ夏の面影も濃く入道雲が東京湾越しにお出迎え。明らかに南国とは違う空の色が一面を覆っていた。空港のターミナルには「2020TOKYO」の表示が目に入ってくる。この大都市はもう既に、4年後の世界的イベントの開催を責任をもって履行せねばならなくなった。そんなことは以前から決まっているというかもしれないが、実際に2016リオ五輪が終わってみると、その感覚が違って受け止められた。以前から経済はもとよりファションやグルメの拠点としては、世界的に注目を浴びた都市であるのも間違いない。だが五輪という「平和の祭典」が4年後は世界で唯一開催される場として眺めると、明らかに違った風景として東京の街並みが見えた。親友の理容室で散髪をしていると、ドキュメンタリー映画「東京五輪1964」の映像をを流してくれた。僕にとっては記憶のない五輪が開催された折に、首都高速道路や新幹線が整備され羽田空港が世界からの玄関口になった。

リオ五輪の現実と4年後の東京が重なりをもって見えてくる。僕が幼少の頃には、街中に「外国人」がいると特段に注目するほど稀少な存在であったと記憶する。それがいまやかなりの外国人がこの街を闊歩している。僕の中には妙な記憶があって、東京五輪の聖火ランナーかマラソン競技の選手たちが、実家前の路を走っていくという、たぶん誤った記憶が刻まれている。まずは年齢的に記憶が刻まれるはずはないという事実と、実家前の路が聖火ランナーやマラソンコースにはなり得ないということは明らかである。だがしかし、近隣にあった有名私立中高の学生たちが日常的に実家前をランニングする光景が、あまりに印象深かったのであろうか、それと東京五輪の映像が折り重なって、僕の中で虚像の歴史が生成されたようである。地方居住者としてあらためて東京を眺める。大きな荷物を抱えて山手線に乗車し、次第に実家のある駅に近づく。そのなんと言えない郷愁とともに、半世紀という歴史の中にあるこの街のあり方が身に迫ってくる。東京にばかり住み続けていたのではわからない感性が、僕の中に確実に宿っている。

上野・鶯谷・日暮里・西日暮里
駒込・巣鴨・大塚・池袋
あと4年で「TOKYO」はどんな変貌を遂げるのであろうか?
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いつまでも初体験の夏がゆく

2016-08-26
地域とつくる初企画
そして短歌とともに歩む日々
初体験の夏がゆく・・・

小・中学生であれば、さすがにそろそろ宿題が気になりだす頃であろうか。振り返りますれば、僕も夏休み中に計画的に宿題を進めた記憶などはなく、ほぼ最後の3日間ででっち上げていた。こういう輩が「教師」になってはいけないなどと、肩肘張って語るほどのことでもあるまい。確かオーストラリアあたりの教育観であったか、夏休みこそ宿題などやっていないで冒険的体験をすべきだという趣旨の話を聞いたことがある。確かに「宿題」と出会って、豊かな人間性が育まれるのか?僕の記憶であれば、せいぜいその最後の3日間で書きたくて書いた『おやじ対子ども』という確か岩波新書の感想文によって、高校のコンクールで賞をもらったことぐらいである。「書きたくて書いた」という主体性・能動性とともに、自己の表現が他者を説得するという力に僕自身が目覚めた経験であった。同時にその本の内容から、親子関係に一つの道筋が得られた貴重な経験ともなった。やはり知識注入よりも体験が、新たな自分を起動する原点となる。

こうした意味では、今夏も僕自身は多くの「体験」をした。「地域とつくる群読劇」に始まり、諸講習では多くの現場の先生方との出逢いがあった。またオープンキャンパスでは、希望に目を輝かせる高校生たちの爽やかさに触れてみたり、自宅からそう遠くもない青島という地の、夏にしか味わえない活気も初体験することができた。既に産直市場には秋の味覚が並び、耳を澄ませば虫の音も喧しくなり始めている。暑く「熱い」夏に経験したことを、じっくりと沈着させて自分の”もの”にする時期が来た。そういえば現職教員として新卒から10年が過ぎようとしていた頃、夏の終わりになると言葉にならない「むなしさ」に襲われて、どうにもならなくなったことが思い出される。「一夏の自己を確かめられる経験」がなかったからであろう。その空虚さが、再び僕を研究の道に導いた。そして夏といえば大学院生として『平安朝文学研究』たる雑誌の論文執筆に明け暮れ、〆切までに投稿する日々となったことも、今では懐かしい思い出だ。こうして回想すると再び論文に向かう情熱が湧き上がるが、まだ今夏の初体験が待っている。明日から「心の花」全国大会への参加である。

動機付けに自己の内なる課題意識
体験したら個人思考で必ず表現にしてみること
小欄を書く動機にも通ずるが、何歳になっても人生の初体験に出逢い続けたいものである。
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明日へのジムを

2016-08-25
筋肉への痛気持ちいい刺激
そして柔軟性と内観のひと時
やはりジムは明日への活力

今月ほどジムに行けいない月は、記憶にないほどだ。月末近くなっても通算4回、ある意味小欄に何事かを記すようになってからでも特異な状況なので記しておこうと思う。ちょうど約1ヶ月ほど前から群読劇の企画・制作・稽古・本番に追われ、その後は免許更新講習・オープンキャンパスの準備その他に勤しんだ。ようやくジムに行けそうになるとお盆で休館。またその後に学校図書館司書講習が4日間であったが、講習があっても夜はジムという流れをようやく取り戻した。どうもジムで身体を鍛えないと、心身ともに停滞気味になるように思う。細胞が活性化せず、どうしても物事を否定的に捉えてしまう傾向が出てしまうのかもしれない。

この日、ジムに行ってもう一つ気づいたことがある。知らぬ間に実に多くの会員さんたちと、親しい関係にあることだ。何とはなしに挨拶を交わす人たちは、かなりの数にのぼる。スタジオプログラムの強度について語り合ったり、プログラムの全国的な動向について情報交換をする人もいる。またプログラムそのものに参加することを存分に楽しむ人や、ストレッチマットで親しげに話し掛けてくれる人も多い。これは都会のジムの人口密度では、あり得なかったことだ。僕の職業を知っている人も知らない人もいる。だがその「人」の近さを思うとき、ジムの会員でよかったという安堵に似た感情が去来することがある。大学という殻の中にいると、どうも世離れてしまう感覚があるが、ジムの場こそが地域の方々との重要な交流場所であるとつくづく思った。

地域の友人がどれほどいるか
些細な会話が細胞の活性化ともなる
明日へのジム!テンポよく!
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心をことばにする日常

2016-08-24
〆切だからと特別に構えない
日常の中に行動を埋め込んでおくこと
毎月必ず提出すると決めている歌の原稿

毎月20日は、地元歌会の提出〆切、そして25日が短歌結社の雑誌への歌稿(短歌を記した原稿)の〆切である。当初はいずれも〆切に合わせて、まさに”捻り出す”がごとく歌を詠んでいたが、最近はその1ヶ月の蓄積の中から、適切な歌を選び最終的な推敲をして提出できるような流れができた。もちろんすべてが納得のいく歌でもなく、歌会の場に行くと常にもう少し工夫があればなどと自己の表現を省みることしばしばだ。だがしかし、まずは「〆切」が設定されていることで、このような生活習慣が出来上がってきたことを、約1年の成果と考えてもよさそうである。一般的に「読書」などの習慣でもそうであるが、「忙しいからできない」のではなく「忙しいからこそ読書をする」というのが正統なる読書家の態度であろう。知人である大変忙しいジャーナリストの方が、いつもTwitterなどに読書した書物へのコメントを掲載しているが、時間の捻出の仕方、そして読書への集中力を、Twitterなどの記述から想像するに、やはり生活の中に読書が組み込まれていることを深く考えさせられることが多い。

短歌とは、何でもない日常をことばで繊細に切り取る行為である。先日の短歌甲子園観戦に際し、高校生の清々しい歌を鑑賞して、そのような思いを新たにした。反対側から物を言うならば、短歌を創ってなければ、生活の中にある大切な思いをことばとして残すことはできないということになる。俵万智さんはその御著書の中で、生活の中で出会った「心の揺れ」を捉えることから短歌ができると云う。そしてどんなことばで表現することが適切か、常に考えている。机に向かって椅子に座り、ペンを持つから歌ができるということでもなさそうである。机上での作業はあくまで最終段階の推敲とか、歌稿に記す際の行為ということになろう。『古今和歌集』仮名序冒頭「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。」が宣言するように、和歌は抒情性から成立するものであるゆえ、まさに日常の己の「こころ」に正対する眼差しが求められるということだろう。高校生の歌が清々しく響くのは、彼らの日常を素直にことばにしているからである。そしてまた「詠む」だけでは十分ではなく、日常で「読む」ことが必須である。最近は枕元に好きな歌人の歌集を1冊置いている。どんなに眠くとも、就寝前に歌を最低30首は読むようにしている。これもまた習慣にすれば、その行動は決して苦にならず楽しみの一つとなる。

8月も投稿完了
自らの表現が手を離れ批評されることの愉悦
こころを露呈してこそ「生きている」証が立てられるというもの。
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時間と心育そして人間性ー学校図書館司書講習④

2016-08-23
子どもたちも教師も時間に追われ
落ち着いて思考し自己を省みる間もなし
教育と人間性、技術や力にあらず人として・・・

学校図書館司書講習も最終日。4日目ともなると受講者同士も親睦が深まり、僕自身も最終日であることを惜しむ感情が去来する。対話と活動の時間を十分に採って実施してきただけに、受講者各位の発言場面や、ブックトークや読み語りの印象深い場面が脳裏に焼き付いている。資格講習である以前に、人と人とが出逢い前向きに子どもたちのことを熟考する。日々向き合っている現場から少し離れて、アカデミックな場で自己の置かれている状況を客観視する。かくのごとく「立ち止まり」そして思考を「沈着」させる、いい意味での”遊び”の時間が、現職教員にはぜひとも必要であると常々思っている。僕自身、現職教員として10年近く勤務した頃、ふと自分の置かれている状況に疑問を抱いた。自分の授業は子どもたちのために適ったもので、プロとして価値あるものなのだろうか?その現場における客観視が、僕を現在の位置まで導いてくれた。現職教員として自ら学費を支払い、仕事に追われつつ職場の理解も十分に得られないままの苦闘は、正直なところやった者でなければ理解できないであろう。だがしかし、もし僕が学部卒のまま研究者を目指していたら、今現在行っている如き講義はできないはずだ。受講者とともに子どもたちのために真摯に課題に向かう。やはり教育は、人間性あってのことである。

この日の講義でも紹介したが、僕の中にこうした感覚が宿っているのは、幼稚園時代の教育にあると実感している。水泳平泳ぎで名高い北島康介さんも卒園生である東京下町の幼稚園では、常に「心を育てる(思いやりとやる気)」教育環境が努めて整備されていた。(昨年、久しぶりに訪問したが現在もその教育は変わらない)「人の話を聴く時は、相手の眼を見てしっかり聴きます。」という園長と幼児たちの言葉のやり取りが慣例化し、様々な手作り玩具、折り紙に指人形、楽器演奏等々の情操教育が豊かに実践されている。通園もバスにあらず、保護者が責任を持って登園させる、手作りお弁当持参などと、現代社会においては不便だと思われる方針を貫徹して園は運営されている。北島康介さんが、インタビューを受ける際にあの丸い目をギョロッと聴き手に向けている真摯な姿勢も、たぶん幼稚園時代の教育の成果ではないかと僕は思っている。便利で効率的、対費用効果の高い仕事ばかりがもてはやされる時代。丹念にお客さんたる「人」に向き合い、真心と愛情を持ってその「人」の為に尽くす気持ちで仕事をする。そんな心ある経営をしている会社が置いていかれてしまう非情なる社会。いつからこんなにも「世知辛い」ことこの上ない社会を、僕たちは選択してきてしまったのであろうか?「技術」「力」「効率」主義であるゆえに、子どもも大人も「時間」にまくし立てられて、まったく「自己」を喪失するかのように走り続けている。だがしかし、その時間の延長上に待っているのは「不安」の二文字しかないことを、みんなが気付いているのに、気づかないふりをして追われる時間に仕方なく流されている。幸いここ宮崎県は、都会の喧騒に比べれば、まだ穏やかで豊かな時間が流れている。歌人の俵万智さんが、この日の地元紙の連載に「宮崎のタクシーはみんな優しい」といった趣旨の短歌と文を寄せていた。事務的に料金メーターを倒さず、実に人間味溢れる処し方をするというのだ。これぞ歌人の繊細なものの見方である。ここでは聊か僕自身の主張を綴ることになってしまったが、「人間性とは如何なるものか?」といったことを考える糸口が、受講者各位の個々の中に芽生えていることを確信し、講習を終えた雑感としておきたい。

「人」を見失うこと勿れ
メダル数にあらず、人の個々の希望と苦闘の成果である
諍いの準備ではなく、人間性豊かな心を育てる教育の整備を僕らが死守しなければなるまい。
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牧水短歌甲子園2016観戦

2016-08-22
放課後の影伸びてゆく初夏のサビがどこだかわからない歌
ほわほわが足りない私のたまご焼き母がはじめて食べて笑った
「おはよう」が返りくるまでコウモリの反響定位していたこころ

野球の甲子園大会におけるまさに決勝の行われたこの日、若山牧水の生誕地である宮崎県日向市では、「牧水短歌甲子園」の準決勝・決勝が開催された。今や「甲子園」と冠する高校生の大会は多く、技術系の製作からこうした文芸系まで幅が広い。僕自身は教員としての勤務校が、野球の甲子園大会で優勝したこともあり、あの深紅の大優勝旗のぬくもりを体感したことがある。それだけに「短歌」という無限なことばの「表現」において、真摯に自己と向き合う高校生の姿には、また新たな感慨を覚える。冒頭に記したのは、決勝を勝ち抜いて僅差で見事に優勝した宮崎商業高校の作品である。高校生らしく飾らない自己表出が読み取れて、実に爽やかで清々しい歌である。「初夏(はつなつ)の一光景を、「サビがどこだかわからない歌」に見立てる発想の素直な比喩。「ほわほわ」という擬態語で「たまご焼」の出来栄えを表現し、母が喜んだという気持ちを表現に託す描写。「反響定位」という専門用語を三十一文字に託する発想に加えて「こころ」とひらがなや漢字の使い分けへの意識。どれも読み応えのある歌である。


「顔よりも性格重視」と言う君が口に運んだゼリービーンズ
避難所に運び込まれた千羽鶴ゼンイは隅に積み上げられる
運命線ないと言われた左手が君の右手を強く握った

この三首は、準優勝した宮崎西高校の準決勝を勝ち抜いた作品。「運」という題詠であるが(決勝は自由題)、そこにも高校生らしい恋の気持ちなどが詠み込まれていて秀逸な作品。「ゼリービンーズ」という見た目だけ着色してある派手なお菓子に見立て、「性格重視」を揶揄する切ない恋の心情表現。「善意」を漢字ではなく「ゼンイ」とカタカナにして、否定的な感覚を批判した社会詠。自己の「手」でありながら、「左手が」と主語として強調することで意志を持った本能的な「動物」かと思うような動きで彼女の「右手を強く握った」という淡い恋心の発露する刹那を捉えた歌。こんな純粋な恋心をいつしか忘れてしまっている大人にとって、心の空洞を埋めてくれるような清涼飲料の働きに似たものを深く感じ取った。短歌そのものの出来栄えもさることながら、その攻防戦における討議が実に秀逸である。双方の作品への敬意を忘れることなく、しかも的確な弱点の指摘、そして具体的な推敲案の提示。まさにゼミで行われる議論の見本のような展開が目を引いた。

「今時の若い者は・・・」というが
短歌によって自己の素直な心を詠む若者たち
閉会式での「高校生と短歌」というスピーチに、目頭が熱くなったのは僕だけではなかった。
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