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「晩稲」と「行動力」と

2016-07-09
「自らの力では及ばない」
「やってみなければ自らの力はわからない」
独りよがりな思い込みで人生をつまらなくしていませんか?

『古今和歌集』巻十六に紀貫之の歌として「朝露の晩稲(おくて)の山田かりそめに憂き世の中を思ひぬるかな」(八四二・哀傷)が見える。上二句は序詞で三句目の「かりそめに」を引き出す役割。どなたかの死に際し「かりそめにこの辛く悲しい世の中を思うようになったものだ」と人の世の儚さと無常の心を歌うものである。「かりそめに」は「仮り初め」と「刈り初め」の掛詞となっていて、前者が歌の後半に詠まれる主眼の意に反映され、後者は「朝露が置く晩稲(おくて)を山の田では刈り初めている」という上二句の意味に沿い、詞書にある「山寺にまかりける道にてよめる」の折の実景と読むことができるだろう。和歌の読みの話題となってしまったが、この歌に詠まれる「晩稲(おくて)」という語が気になった。『日本国語大辞典』に拠れば「おそく実る稲」のことで、「江戸時代は晩稲が一番安定、多収穫品種だったので、最も広く作付けされた。」とある。稲のみならず、広く「植物などの生長、成熟が遅い種類。」と大見出しにある。転じて「人の成長が遅いこと。」といった意味で、現在では使用される語彙であろう。

前述した語彙変遷からすると、「晩稲」の場合は熟成するという趣旨で「よきもの」とされているようであるが、「人の成長が遅い」という趣旨で使用されると、どちらかといえば負のイメージで捉えられてしまうことが多いように思われる。慎重過ぎて行動力に欠けるとか、恋の道になかなか踏み出せないといった文脈での使用となる。僕自身の勝手な想像であるが、明治時代以降の近代化によって、さらに言えば戦後の高度経済成長や現在のデジタル情報化社会によって、「晩成」が認められない社会になってしまったのかもしれない。そんな反動で、今やむしろ「スローライフ」などという概念が脚光を浴びている。諺にも「急いては事を仕損じる」とあるのは周知の通りだ。だがしかし、稲は植えなければ生長することもない。植える前から、実らないのではないかと憂いていては、実るか実らないかもわからない。僕自身を省みれば、小中高校とかなりの慎重派だったように思う。だが、大学時代の様々な経験から「前進すれば何とかなる」といった行動力を身につけた。その後、もちろん幾多の失敗もあるのだが現在に至る。総じて考えてみれば、何事も動いてみなければ結果はわからないのである。

独りよがりな思い込みで
行動を固着させてはいないか?
失敗を恐れず繰り返すことから、明るい未来が見えてくるのである。
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