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ことばと調べの奥深い関係

2016-07-06
聞く人に伝わる声
あるフレーズが耳に残るのはなぜか?
歌詞・曲調・ことば・調べ・字余りのことなど・・・

先月29日に発売された、桑田佳祐のソロ(サザンではない)による新譜を聴いている。4曲の新曲が入っているが、各曲の趣も違いそれぞれに楽しめる仕上がりである。個々の曲への感想・批評なども記したいところであるが、まず本日は聴いて約1週間の僕なりの思いを記したいと思う。もしかするとあまり桑田のファンでない方が聞けば、「またか」といった印象をどの曲にも持つのかもしれない。だがファンからすると「これぞ桑田だ」という幾つかのバリエーションの基盤の上で、4曲それぞれの展開にたまらない興奮を覚えるのである。ファンになるとはこういうことで、反転して創作者側にすれば、一貫して変わらない「ことばと調べ」を持ちながら、時勢や年代に合わせた新しさと一般化した普遍性を持つ必要があるのだと思われる。特に僕の場合は、ある特定の節回しとともに、「しみじみと郷愁を覚える」ごとき曲調を、常に期待通りに桑田の楽曲は兼ね備えていると言えるのである。

一例を挙げるならば、普通ならどう考えてもその調べの長さに入り切らないと思われることばを、桑田は見事な均衡を保って曲の中に「流し込んで」いる。いわゆる短歌でいうところの、「字余り」が炸裂する部分があるということだ。それは一般の方からすれば、単なる「早口言葉」のように聞こえ、また「何を言っているかわからない」と蔑む可能性さえ高いと思われる。だがその一般的には「不安定」と思われるような部分にこそ、桑田の真骨頂が見出せると僕は思うのである。短歌でも「定型」が意識されるから「字余り」が浮き立ち、それを作為的にできたらどれだけよろしかろうと感じることがある。むしろ仕方ない「字余り」「字足らず」には、足を引っ張られてしまうのが一般的であるように思う。このように発想することそのものが歌を「文字」中心主義で考えているのではないかと、気付かさせられる。話を桑田佳祐に戻すと、彼の五感においては「日本語」が、多様な「外国語」の一種のように聴こえることがあり、曲を繰り返し聴くことでようやく気付くことのできる歌詞の多様性を味わうまでには、ファンとしてもそれなりの熟練が必要ではないかと考えている。それでいてふと挿入された文語調の歌詞に、思わず日本語そのものの奥行きさえも見出せる。さらには、「心に響く歌」が多かったと評される「昭和歌謡」の王道を感じさせる厚みが、ことばにならない「郷愁」を帯びて僕らの五感を刺激するのである。

ある敬愛する歌人の歌集を夢中に読んでいるが
どうやら桑田佳佑を聴くときと重なる感興に至る
ことばと調べとの無限な奥深い関係を旅しているような思いである。
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