無知の自覚と開放性
2016-07-01
「知らない」ことを知る「師を自ら見つける」力
そして「師を教える気にさせる開放性」
平成28年度版教育出版中学校2年生用教科書に、内田樹氏による書き下ろし「学ぶ力」という文章が掲載されている。その主旨は概ね冒頭に記した3点に整理されている。「無知を自覚」し、「師を自ら見つけ」て、「師を教える気にさせる」ように運ぶのが「学ぶ力」であると説かれている。僕自身の中学校教員であった頃の経験からすると、中学生は「学ぶ」ことを単純化して「覚える」ことだと偏向して捉え、主体的な思考をなかなか求めることが容易ではなかった。ただ中学校3年生で「卒業論文」という課題を設定し、自らテーマを発見し調査し文章表現するという活動を学年全体で取り組んだ際には、今思えば内田氏の云う「学ぶ力」を育むことができたのではないかと顧みることができる。その反面、学校内でも「覚えろ」「師は私だ」「言う通りにしろ」というような姿勢の教師がいて、中学生が元来持っている自ら「学ぶ力」を根絶やしにしているような実情にも、直面したことがある。
「知らない」ことが愚かなのではなく、その自覚がないことが「本当に愚か」だということ。『論語』にある著名な「三人寄れば必ず我が師あり」が示唆するように、「師」はどこにでもおり学校の「先生」だけが「師」にあらずということ。そして自らに対話力があり、「師」の胸元に飛び込み教える気にさせる「開放性」あるコニュニケーション力があるということ。あくまで「学ぶ側」が能動的に動いてこそ、「学び」が起動することがわかる。これは何も中学生のみに向けられたメッセージではあるまい。高校生にも大学生にも、そしてむしろ一般社会人にも考えて欲しい姿勢である。(それだけに義務教育・中学校段階の教科書に掲載された内容なのだが)社会常識的な行動の範疇ならば尚更、「無知の自覚」なき者の愚かさは手に負えない。要するに「わかっている」という強硬な発言は、自ら「わかっていない」と言っているようなものなのだ。さらには誰彼を問わず相手を「師」として尊重する姿勢がなければ、独善的で開放性もなく自らが頽廃へと向かう道しか用意されないという、不幸な方向にしか進めなくなるのである。
学生による模擬授業から学ぶこと
内田樹氏の文章の書き方そのものから学ぶこと
「生きていくための学び」を中学校で展開するためにも・・・
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