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群読劇「星の王子さま」稽古初日挨拶

2016-07-31
今ここに参加している不思議
学校の「音読」への問題意識から始まる
参加者とそして己と向き合う9日間が始まる

いよいよ地域連携型群読劇公演に向けて、稽古が始まった。出演していただく女優さんが早朝1番の便で東京から宮崎へ。その後、公演場所である宮交ボタニックガーデン青島を下見。夏の太陽が容赦なく照りつけるが、やはり海浜リゾートたる青島には夏が似合う。名物の店で海鮮丼を賞味し栄養をつけて、いざ大学へ。スタッフ学生たちが稽古の準備を着々と進めていてくれていた。一般1名・大学生6名・中学生2名の合計9名の出演者が初顔合わせ。開口一番、僕がまずはこの公演の趣旨を含めた挨拶を行った。以下、その趣旨を記しておくことにする。



「いまこの場になぜいるのでしょうか?」この場所にみなさんがいるために欠かせない人たちの顔を、数名でも思い浮かべてみてください。各自がそのような人と人との繋がりがあって、今日この場に集合できたのです。その人たちへの感謝を噛み締めて、この公演に向けて動き出しましょう。さて、みなさんは「教室での音読」は好きでしたか?好きだった人も嫌いだった人もいるでしょう。問題は「教室での」という点にあります。たぶんこのような企画に参加しようとするみなさんですから、「音読」「朗読」「表現活動」が嫌いではないはずです。だがしかし「教室で」行われると、どうも思ったように表現できなかった現実があったのではないでしょうか。同時に端的に申し上げますと、「教室で行われる音読は表現として適切ではない」ことが多いのです。そのことに気づくためには、「学校」の中に「表現活動」を閉じ込めておいては、いつまで経っても埒が開きません。

そこで今回は、宮崎県立芸術劇場との連携協力事業として、脚本・演出家の方や女優・音楽家の方々をお招きして、演劇表現の持つ豊かな芸術性に生身で接することで、この「教室」という籠に閉じ込められた「音読」を解放し、より豊かな「群読劇」に仕立てていくことで、能動的な朗読学習活動方法が発見できるのではないかと考え、この企画に取り組んでいます。出演者・スタッフの学生のみなさんがこの企画に取り組むことで、教員や社会人になった時に、自らのそして周囲の他者の「表現」に対して敏感となり、豊かな感性で「朗読」活動に向き合う生き方ができるようになる契機として重要な機会となることでしょう。もちろん今回公募に応じてくれた一般の方にとっても、「芸術」「文字表現」「音声表現」への意識が高まり、自らの歩みにおける新たな道標が起ち上るのではないかと期待しています。また地域の中学生のみなさんは、決して「学校」の中では体験できない「表現活動」に参加し、自らの強さも弱さも見つめることになるでしょう。

最後に桑田佳祐さんの新曲「百万本の赤い薔薇」の一節。
「広い世界の果てに、愛と憎しみの雨
 ずぶ濡れはいつの日も、弱くはかない命。
 『愛と平和』なんてのは、遠い昔の夢と
 強くあれと言う前に、己の弱さを知れ」
という歌詞の一節をみなさんにお知らせしておきたいと思います。

社会を見渡せば、理解に苦しむ事態ばかりが起きています。
それだけに、僕たちは『愛と平和』を諦めることなく、
そのためにも「星の王子さま」の珠玉のことばたちに触れることで、
「己の弱さ」を知り、この時代を生きる意味をこの宮崎・青島の地から
全世界に発信したいと願っています。

(*以上、冒頭挨拶の趣旨に加筆修正を加えてここに覚書とした)
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学園都市に生きて

2016-07-30
大学を中心にできた街
学校・住宅街・企業が自然の中に溶け合い
そして至近に青島リゾートが控えている・・・

「学園都市」といえば「つくば」が全国的に有名であるが、この地「みやざき」も学園都市として造成された街がある。空港からバイパスを約10分弱車で走ると、「宮崎学園都市」の表示が現れる。巨人軍のキャンプ使用球場を左手に見てバイパスを降り、田園地帯を走り抜ける。すると街路樹が整備された坂道があり、それを登ると雰囲気が一変する。小高い丘の上の平坦な地には、区画整理された住宅地が目を引き、その街の中に中学校や小学校も配置されている。街の中心部には、郵便局とスーパーがあるのと聊かの娯楽施設にファミリーレストランとコンビニと学生向けの居酒屋が数軒。至って素朴な街であるが、最終的に坂を登り詰めると大学キャンパスの敷地が、広大な丘陵たる自然の中に広がっている。(車使用の視点ゆえ、このような記述になるが、公共交通機関は至って不便であるのも事実である。これはいずれの県でも地方国立大学法人の特徴でもある。)

この街に住んで丸3年が過ぎ4年目となった。「学園都市」とはいえ、「大学」のコミュニティのみで生きてきたのではないとつくづく思う。馴染みのお店に気の合う人々、この街で暮らす人々との出逢いが今日までの僕を支えてくれて来た。一昨日も「疲れているでしょ」と笑顔で迎えてくれたお店では、一足早く「土用の丑」と同時に「疲労回復ポーク」を賞味させてくれて、誠に心身が元気に復活をした。この店でも、また街のパン屋さんにも、昨日の小欄に記した企画のチラシをお知り合いに宣伝してくれるという。まさに街に支えられているような感慨を覚えるのだ。またこの日はあらためてこの「学園都市」地域にある小学校へ、チラシを持参して企画参加のご協力に対する御礼を述べた。僕が所属の教育学部にとって、この地域の学校との連携を今まで以上に大切にすべきだと痛感した。その意識によって、学生たちがさらに地域の児童生徒や住民と繋がり、自らの教員志望たる意味を主体的に見出していく環境こそを創成すべきであろう。今回の企画は、僕がこの街に住んできた3年間の節目と成果を形にしたものでもある。

車でさらに10分、青島リゾートが今回の公演場所
その地域の人々とも、ある人を介して広がり始めた
僕が公募採用面接の際に宿泊したもう一つの街が、今あらたな注目を集めている。
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地域とつくる群読劇「星の王子さま」はじまります!

2016-07-29
宮崎大学×(一財)みやざき公園協会×(公財)宮崎県立芸術劇場 連携事業
―宮崎大学の"地域とつくる"プロジェクトが始まります!
 この事業では、宮崎大学教育学部の中村佳文研究室が中心となり、地域資源を活用した取り組みを行っていくことで、学術研究の成果を地域に還元していくとともに、地域社会の一員として地域づくりに貢献していくことを目的にしています。
群読劇 『星の王子さま』
砂漠に不時着した飛行士の前に現れた、一人の不思議な少年。
その少年は、小さな自分の星を旅立ったあと、
いくつもの星をめぐって地球にやってきた王子さまだった――
原作:サン=テグジュペリ
脚本・演出:立山 ひろみ
日時:2016年8月6日(土)18:00開演
        7日(日)18:00開演
    ※各回開演の20分前から客席を設置します。
会場:宮交ボタニックガーデン青島(県立青島亜熱帯植物園)芝生広場
 ※雨天時は屋内に会場を変更して上演します。
 ※駐車場併設
料金:無料(事前申し込み不要)
※飲料の持ち込みは可能です。
~~お問い合わせ~~
 (8月4日まで)宮崎大学産学・地域連携課
        TEL 0985-58-7188(平日9:00~16:00)
 (8月5日から)宮交ボタニックガーデン青島 管理事務所
        TEL 0985-65-1042
主催:宮崎大学
共催:一般財団法人みやざき公園協会
協力:公益財団法人宮崎県立芸術劇場
   NPO法人 MIYAZAKI C-DANCE CENTER
企画制作:宮崎大学教育学部 中村佳文研究室
宣伝美術:松浦 有菜
~出演~
井手 円
武藤 誠弥
山口 千尋
奥池 大和
竹内 秀太
田島 祐介
能勢 絢子
平川 仁美
松本 海斗

下舘 あい
<ギター>下舘 直樹



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今こそ、メディア・リテラシーと国語教育

2016-07-28
マス・メディアの凋落
僕たちはどの情報を如何に読み取ればよいのか?
そしてまた、如何にして表現していけばよいのだろう?

3.11以後、メディアの質に注目が集まったゆえに、その凋落が囁かれるようにもなった。果たして信用に値する情報は何処にあるのか?残念ながらこうした問題意識が高まったはずであるが、何らかの影響があってか、年々メディアは閉塞的にその信頼性を失っている。例えば、再び我がくにでも理解に苦しむ凶行が起こってしまったが、繰り返し手を変え品を変え表示される容疑者の写真ばかりが喧伝される事態には、もう目を閉じざるをえない報道品位の低下を感じざるを得ない。問題は、この事件が「ヘイトクライム(人種・肌色・民族・宗教・性別・性的志向・身体障害に対する偏見や差別が原因とされる犯罪)イミダス2016より」であるということを、僕たち一人ひとりが真摯に熟考することであろう。前期最後の講義となったこの日、「メディア・リテラシーと国語科教育」と題して、学生たちが対話して考える内容を実践した。以下、その情報提供資料を示しておく。

1、メディアとは何か?=有形無形のメッセージを伝える媒介

2、「メディアリテラシー」の定義
=「メディアが形作る『現実』を批判的(クリティカル)に読み取るとともに、メディアを使って表現していく能力」

3、(その1)情報送信者の作る「現実」 → 解釈過程 → 情報受信者の作る「現実」

4、(その2)我々は「事実」をそのまま伝えることはできない
   → 政治的・経済的・社会的バイアスの介在

5、(その3)Webを介すれば、誰もが全世界に情報を発信できる社会
       → あなたの投稿が、世界という〈教室〉の黒板に書かれているようなもの。

6、参考文献:『メディアに心を蝕まれる子どもたち』有田芳生著(角川SSC新書2008)

7、子どもたちへのメディアの悪影響
  CM・広告の影響
  テレビ・ゲーム・スマホ漬けの子どもたち
  3歳児の視聴時間=週30時間
   多様なメディアの普及により、
  共同体活動やスポーツチームのような団体行動への参加率が低下。

8、日本の現状は
  理解に苦しむ理由なき犯行の増加
 「五木の子守唄」のような悲哀感の漂う曲を、嫌がりむず痒く感じる子どもたちの増加
  世代を越えて共有されてきた「悲哀感」に触れることなく、
  悲しみの感情を知らずに育つと、他人の心の痛みも分からず、
  攻撃と自傷しかなくなる。それも近年の少年犯罪の一つの原因では・・・(有田氏前掲書)


「メディア」とは、「報道」ばかりに限ったものではない。今あなたが着用しているロゴ入りの衣服も、「有形無形のメッセージ」を伝えている。そして内輪話のごとく、SNSに書き込まれる罵詈雑言であっても、公的な立場にあなたが立たされた時に、その向き合う対象となる側の人々は、検索を駆使すれば容易にその内実を知ることができる。よく米国の友人が僕に告げることには、「米国ではリクルートの際に、当該者のSNSを閲覧するのは常識となっている。」と忠告する。どうも日本の学生は、批評的意識の欠如が目立ち、幼稚で社会性のない「書き込み」が、後に自分の実利に跳ね返ってくることに無頓着過ぎるのである。

メディアが形作る「現実」
最近は母などにも、それを批判的に読み解くべきと僕は電話で語っている。
教員志望の学生たれば、あらためて熟考してほしい問題意識である。

(*講義を対話活動型で実践しているため、「スクリーンに提示する資料のメモが十分にできない」というご意見を、この日の「授業に対する意見・要望」で得たので、早速、小欄を利用して情報公開を実施したことを付記しておく。)
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教育は潜在的な流行にどう対応するか

2016-07-27
正門や図書館前に集まる学生たち
どうやら僕の大学でも流行が来ているらしい
何日かで、この眼に見える現象のゆくへはいかに?

日曜日に約10年近く前の大学講師時代の教え子に会い、30歳前後の世代が幼少の頃からの流行として「ドンピシャ」なのだと教わった。あるアニメキャラクターを「捕獲」するスマホGPS機能を利用したゲームが、この国でも一気に流行し始めた。彼らは僕からすれば、かなり優秀な学生たちであり、古典文学を学ぶことや社会的な意識も高く、各自の職業においても第一線で活躍している優秀な人材である。どうやらその学識の高さと、こうしたスマホゲームに興じることは切り離して考えた方がよいことにも気付かされた。何より僕自身は幼少の頃より、「アニメ」というものがあまり好きではなく、テレビゲーム(当時はゲームセンターであったが)なども聊かやってみると全く面白味を感じられなかったので、ほとんどやらないで過ごしてきたクチである。よって「アニメ」や「ゲーム」に興じることに、幾分かの偏見があるのだろう。僕にとっては野球に興じるほどの没頭を、ゲームに対して覚える方々も多いのだと考えれば、少しは均衡のとれた考え方といえるであろうか。

前期のゼミも最終週を迎えたが、文学・国語教育に対する内容は概ね先週までに終えたので、この日は「緊急提言」と題して、「このスマホゲームの現状と、将来教師として最新のゲームに興ずる子どもたちを指導する教師として、この実情をどう考えるか?」といった内容で討議をしてみた。ゼミ内でもこの流行ゲームを行なっている者は数名、行なってみたがすぐ辞めた者もいる。さすがに採用試験前後であることや前期末ということで、そんな余裕はないという者もいた。既に大学キャンパスのある地区でも、ゲームをしている学生たちの夜間の散歩などが増えたり、キャンパス内では正門と図書館前がスポットなのだという学生間の情報も得ることができた。また学部間で、興じる者の多寡に差があることも教えてもらった。同時に僕の方では、地元紙の報じていた「県内・道交法違反で既に3件の検挙」といった記事を紹介したり、虚構と現実の狭間で危険と隣り合わせである実情も伝えた。構造的には、他者が製作した虚構な夢想に対して、現実との境目を曖昧にして、知らぬ間に課金されてしまうという、無意識への罠を仕掛けるが如き資本主義に溺れる行為ではないかと、否定的な見解を述べてみた。まずはとりあえず、ゼミ生たちとこのゲームに関して、意識が共有できたことが大変有意義であった。

虚構と現実
文学でも同様の語彙で語ることもある
この時代を生きる教育者として何を如何に語っていくかである。
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わが悲しみはひとにゆるさじ

2016-07-26
最近、常に携帯する文庫本
『若山牧水歌集』(伊藤一彦編 岩波文庫)
その歌に励まされ勇気づけられ

「われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ」
          (『若山牧水歌集』岩波文庫「海の声」より)

文庫冒頭から頁を開き、最初にある歌である。牧水若き日の第一歌集『海の声』の歌が抄出されている。私が短歌を詠んでいる、するとわけのわからぬかなしみなどにいつもいつも追われているようなものだ、といった意味になろうか。(「うたへり」や「つつ」の解釈は多様であろうがひとまず)「故わかぬかなしみども」と詠歌という行為が、日常的に密接な関係であることが読み取れる。短歌は元来「抒情的」なものであるとされるのは、『古今和歌集』仮名序以来の伝統である。古典和歌でも、桜花が満開である心を詠むことよりも、むしろ散ってしまう儚い心を詠む歌が勅撰集では中心である。となれば自ずと「抒情」の題材は、「よろこび」よりも「かなしみ」ということになろう。

大学学部時代に佐佐木幸綱先生との交流を通して、「失恋」のような精神的な痛手があると短歌を詠めるようになる、といった趣旨のお言葉を直接ちょうだいしたことがある。自己の心の中で燻る苦悩を歌に詠み表現することで、精神的な発露になるとともに、大仰にいえば自己存在・人間存在の探究ということにもなろう。今あらためて牧水の歌を読むに、若かりし日の牧水もやはり同じような階梯を経て、短歌の道を歩み始めていたのだということが知られる。若さゆえの苦悩もあれば、年齢を重ねてようやく至る苦悩もあろう。最近の世情として、苦難を避けるといった傾向もあるやに思われるが、やはり生きる上での濃淡があってこそ、一抹の歓びに初めて到達できる境地があるということか。「かなしみ」と苦悩を背負うことで、ようやく人の愛情の奥深さを知ることができる。誠に人間とは鈍感な生き物なのだと、我を省みて思うのである。最後にもう一首牧水の歌を挙げておこう。

「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ」
          (『若山牧水歌集』岩波文庫「海の声」より)

「歓喜」や「愛情」を知るために欠くことができない「悲しみ」
その「わが悲しみは決してひとにはゆるすまい」という牧水の力強い声が聞こえる
「ひとりわれゆかむ」という若き日の牧水の矜恃が、その後の秀歌を生む礎なのであろう。
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躊躇せるのちの我が身の哀れさよ

2016-07-25
目的とする店のシャッターが降りている
路地で躊躇し引き返すところにバイクの左折
脚の直前で車輪は止まりまだ護られていると我に帰る

様々なことを同時進行で背負っている折に気を付けたいのが、聊かの躊躇である。冒頭に記したような事態を経験して、あらためてそう思った。歩きながらも抱え込んでいる課題について、あれこれと詮索している。自ずと視野は狭くなり周囲が見えなくなる。それでも尚、僕の場合はどなたかに護っていただいているような感覚で、すんでのところで難を逃れた。躊躇する身こそ哀れなのであり、迷わず路地を横断し切れば向かい側の歩道にまた歩むべき道が続く。研究学会での質問、新しい企画への参加、そして新しい分野への挑戦などにおいて、躊躇した我が身こそ何より後悔が残るのである。

中高教員であった頃、臆せず大学院修士へと挑戦した。その契機は、研究学会で僕が質問をしたことであった。その質問の内容に対して、実に的確だと賛辞を寄せていただいた一人の先生がいらした。それこそ、のちに大学院指導教授となる先生である。暫く現職教員をしていた僕は無意識に聊か傲慢な感覚を持っていたのだろう。周囲の院生諸氏には、厳しい指摘を受けることも多かった。だが、いつも「現場と両立」している僕を精神的に支えてくれたのが、恩師の愛情であった。その恩師が急逝されて、既に今月で10回忌を迎えた。あらためて当時卒論を代講で担当した教え子たちと、恩師の墓前にこうべを垂れた。

やはりいまも恩師は、僕の「両立」を見守ってくれていた
教え子たちも家庭を持ち親となる世代となった
「自分を信じて研究を続けなさい」恩師はまた笑顔で囁いてくれた。





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本当にやりたい夢を求め続けて

2016-07-24
若かりし頃に抱いた夢
いまどれほど近づいているのだろうか?
いついつまでも夢を追い続けることの大切さを噛み締めて

小学校の頃であっただろうか、建築関係の会社を営んでいた父が、ある建物の完成予想図を描いていたことがあった。それを見て何を思ったか、僕も画用紙に両親が経営する会社が立派な「建築センター」を建てるという想定で完成予想図を描いた覚えがある。小学校の卒業文集にある「あんたの将来なんなのさ」(当時流行したダウンタウンブギウギバンドの「あんたあの娘の何なのさ」のパロディ)のコーナーには、「建築屋のおやじ」と記されている。たぶん漠然と僕は両親の会社を発展的に引き継ぐのではと考えていた節がある。だが、中学校に上がって野球に夢中になると誰しもが抱く「野球選手」などという幻想の陰で、心のどこかで「文学」とか「教育」への興味が湧き始めた。詩歌の響きの素晴らしさ、そして知らないことを知ることのできる「授業」という時間の面白さ、名文を「音読」することのワクワク感など、僕の中にあった素地が、両親の家業を世襲する意志を超えて起動し始めた。さらに遡れば、こうした素地が形成されたのは幼稚園の頃から、絵本が好きで独りでもいくらでも本を読んでいたという体験があるのだと思い返される。「詩歌(文学)」と「音読・朗読」というのは、やはり僕の夢の根源的な要素なのだと思われる。それがあるゆえに、これまで僕は聊か欲張りに生きてきたと自覚すると同時に、今もこれからも更に欲張りに生きていきたいという意欲が存分に湧き出してくるのである。

生業と目指す夢が一致することは、誠に幸せなことだ。MLB3000安打を目前にしたイチローは、「好きなことを仕事にしているのだから(決して言い訳や妥協はできない)」といった趣旨のことを口にしたことがある。そういう意味では、諸々の紆余曲折がありながら「今現在」の生業を得られた僕も、「言い訳や妥協」は許されないのだと思う。それでも尚、常に考えているのは「夢」とはあくまで一本道ではないということ。僕の場合は、中学生の頃に描いた「野球」に対する夢を、初任で勤務した学校で教師として「甲子園優勝」という形で叶えることができたという思い出がある。また大学の時に聊か抱いた「アナウンサー」という夢を、「朗読」をすることで叶え、また人を笑わせるような面白い話をしたいという夢を「落語」をすることで叶えている。そしてまた、「短歌を詠む」という大学時代から心に引っ掛かりながら踏み出せなかった「夢」に、今また挑戦している。こうした多様でありながらどこかで繋がる夢も叶えながら、「詩歌」を中心とする研究という太い幹を如何に伸ばしていくかが、今も今後も問われていくだろう。この日は、あるシンガソングライターと久しぶりに再会した。彼女もまた、僕と似通った経験があり、今もOLをしつつ様々な場で華麗な歌声を響かせている。「歌うのが好き」という根幹は決してブレることなく、人生を楽しんで生きる姿に、僕自身もあらためて励まされた。そしてまた、こうした縁を繋いでくれているお店のオーナーもまた、素晴らしき人々の笑顔に囲まれて、自らの夢を今も築き続けている。こうした人々に接することで、あらためて自分とは何かを見つめ直すことができるのである。

睡眠時に見る夢は儚い
だが覚醒している際の夢こそ根強く大切に抱き続けるということ
命の限り夢を追い続ける、意気地のない人生なんて歩みたくはない
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平常心と自己を失うとき

2016-07-23
何が「平常心」なのか?
なかなかそれを自覚するのは難しい
それゆえに丁寧に他者と向き合う必要が・・・

冷静沈着、平常心を常に保つなどというのは、容易なことではない。だいたいにして人間がいつも同じなのは、せいぜい生物的な恒常性に関することだけで、精神的な面ではむしろ、いつも「違う」と考えておいた方が適切なのではないかと思うことがある。例えば向き合う相手によって、「ことば」を変化させるように、独りでいるときの「自己」が常に保たれているわけではあるまい。とはいえ、各人が「一定の範囲」に「自己」の存在を置き、常に適切で妥当な線を求めているのも確かであろう。

明治時代に「共同体的な音読」を中心とする「読書態度」が大きな転換期を迎えて、出版文化の隆盛と相俟って、ほぼ明治30年代から40年代に至ると「個人読書」による「黙読」が成立したことは、既に前田愛などによって指摘されている。最近、この日本近代の「読者のあり方」に関しての原稿を書いたが、「音読」から「黙読」への移行が「共同体」から「自己」を切り離すことになり、その「自己」存在とは何かという問いを、文学は諸作品の中で模索したという近代の歴史がある。一次言語(声の文化)であれば繰り返しや感情移入によって、むしろ共同体の中で自己表現を対話的に定位できるため、自ずと「力動的」な表現を生み出す可能性がある。そんな明治後半から既に100年以上、僕たちは「自己」という蟻地獄に過剰に嵌まり込んで生きているのかもしれない。

さらにはスマホが、現実空間と虚構空間の境を剥奪する
果たしてこれからの子どもたちの「自己」は何処に向かうのか?
生身の人間同士の対話からしか見えない「自己」を大切にしたいものである。
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細き糸を繋ぐが如し

2016-07-22
人と人との出逢い
ちょっとした契機で始まる
わずかに見える細い糸を大切に温めて・・・

誠に人との御縁というのは妙なもので、新たな出逢いもあり、また過去からの継続でも展開があったり、自分でも制御できない多様な糸で繋がっていると感じるものだ。地域における劇場や公園と連携し、新たな出演者公募制群読劇を創作するにあたり、このような感慨を覚えている。「公募」という見えない対象に企画を投げて、どのような反応が返ってくるか。その「見えない」対象を「見える」ようにするには、これまでに築いてきた人間関係における一本一本の糸を丁寧に手繰り寄せるしかないとも実感する。それだけに日常から、今現在向き合う一人の人を大切にしなければならないということだろう。

講義やゼミを通じての学生との出逢い。現職として大学院に学びに来る県内教職員の方々。附属学校園との共同研究を進める先生方。共同研究の一環として附属校で、研究授業を担当した際の児童生徒たち。教育実習でお世話になっている市内県内の小中学校の先生方。そしてまた今回は、県立芸術劇場の担当の方々や県内の公園を管理している協会の方々。地元放送局や新聞社といった地域メディアの方々。そしてまたパン屋の旦那さんのような地域住民の方々。こうした方々と約3年間という期間で繋いできた糸がある。その「糸」が「紐」に成長し、やがて「パイプ」になるためには、さらなる丁寧な温め方をしなければならないであろう。

今日、向き合った一人の人を大切に
忙しさの中で乱暴になりがちな己の弱さを見つめて
今、現在を、大切に丁寧に優しく温かくしていくしか道はない。
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