運命と希望への向き合い方
2016-07-11
「人は運命を持って生まれてくるその運命に気付くか否かということ。」
そのためにも常に希望を失わずに生きる・・・
大河ドラマを視ていると、ふと人生において大切だと思われることばに出会うことがある。先週は歌会があって当該時間に視聴できなかったので、録画を今週の回の前に視聴し連続で物語を追うことにした。そこでは、祖母・とりが高齢になって衰弱している折に真田源次郎信繁が上田に帰郷し、祖母から聞かされることばが冒頭に記したものであった。戦国の乱世を強大な勢力に囲まれながらも、したたかに生き抜く真田家。かの武田信玄にも信任厚かった祖母の含蓄あることば。「なぜ今の時代に生きているのか?」というのは、人間誰しも1度は考える問いなのではないだろうか。生きる時代を責めたところでどうにかなるわけではなく、まずは現状を受け容れることが前向きに生きるための原点であるように思われる。だが、我々はすべての運命に気付くわけでもないのかもしれない。1度しかない儚い命は、実は様々に微妙な均衡の上で寸分の違いで大転換してしまうように動き続けているようにも感じることがある。戦国の乱世ではそれが極端な現象になって表面化する。もちろん大河ドラマを、フィクション(虚構)の産物と見た上での考えである。
どんな時代でもその時代状況に応じて、絶望もあれば希望もある。絶望してしまうのは簡単であるが、何事もどんな状況になっても希望を失わずに生きることが、与えらえた運命に出逢うただ一つの道であるように思う。幸運は歩いてやって来るわけではなく、こちらから歩いて掴み取っていくものだと、今までの僕自身の歩みから実感することがある。それゆえ「気付く」ということは決して受動的なのではなく、自らが能動的になればこそ運命の方も適応して好転してくれることがあるということだ。大河ドラマという虚構が通常の時間より早く放映されて、その後に始まる正時からの現実を伝える報道の冒頭を、正視したくない気持ちが僕の中に充満する。それは現実の報道でありながら、極めて芝居がかって虚構かのように結果を伝えるような始まり方をするからである。そんな「時代」に、僕たちは生きている。そんな状況下でも、いくつもの希望を見出して、明日にまた夢を託すのである。
常に冷静で謙虚で現場主義
民意という理性に希望が見えるところもある
いつの時代も運命と希望への向き合い方に、芯の通った生き方をしたいものである。
- 関連記事
-
- 夢と現実・肯定と否定 (2016/09/07)
- 71年目の夏ー「立ち止まる力」に学ぶ (2016/08/16)
- あらゆることに「絶対」はなし (2016/08/13)
- 我を忘れて走っていると (2016/08/09)
- 躊躇せるのちの我が身の哀れさよ (2016/07/25)
- 本当にやりたい夢を求め続けて (2016/07/24)
- 平常心と自己を失うとき (2016/07/23)
- 運命と希望への向き合い方 (2016/07/11)
- 「晩稲」と「行動力」と (2016/07/09)
- 歩みに生命力 声に存在感 (2016/07/05)
- 寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間 (2016/07/04)
- 集中・切替が運気を創る (2016/07/02)
- 因果応報即ち言動傾向なり (2016/06/23)
- 人生を楽しもう (2016/06/09)
- 真心の新潟 (2016/05/30)
tag :
人間こそが侵略者ー「ウルトラセブン50年」の信念
2016-07-10
幼少時に涙を流してみた最終回幼心に何か心に響くものがあった記憶が
ウルトラマンシリーズ50年の特番を視て・・・
幼少時に両親が仕事で忙しかったせいもあって、結構自分のことは自分でやる習慣があった。テレビ番組は何があるだろうと探り、ウルトラマンは必ず視ていた記憶がある。だがなぜかアニメ番組は好きではなく(不思議な子供で漫画本が嫌いだった)、「サンダーバード」「ジャイアントロボ」「仮面ライダー」など実写版の英雄物が好きであった。そんな中でやはり「ウルトラマンシリーズ」は、僕の成育史において記憶に残る名作といってよいだろう。特に「ウルトラセブン」に関しては、「地球防衛軍」の基地を始めとするメカが精巧であったこと、場面場面の音楽が誠に適合していたこと、そして子供心にその正体は分からなかったが、何らかの考えるべきテーマがあることを無意識に察知してか、奥深いものだと感じて一番没頭したシリーズであった。そのシリーズからほぼ50年が経過したようで、NHKで特集番組が放映された。それを視るとやはり「ウルトラセブン」に関しては、沖縄出身の脚本家・金城氏の揺るぎない信念をもとに書かれた社会派人間ドラマであったことを知り、子供心に感じていた「分からなかった正体」が理解できた気になって大変感激して番組を視た。「セブン」の中の幾つかの場面においては、幼少時の記憶と重なり、当時も無意識の涙を流したが、あらためて涙腺が緩む感慨に見舞われた。
善行な英雄が悪者を懲らしめる、所謂「勧善懲悪」は、江戸時代頃より大衆文芸において民衆受けする一つの話型である。多くの時代劇が類型的で、「悪者」を主人公が懲らしめて一話が完結する。いうなれば「印籠」や「成敗」や「必殺」などと「スペシウム光線」は同じ仕掛けであり、民衆はそれが最後に使用されることを知りながら、その安心感を担保にそれまでに至る悪行の甚だしさに心を一度は痛める。そして最後は英雄の笑顔が、民衆の心を掴む。だが子供心に僕は、「悪者の手下として斬られてしまう者にも家族があるのでは?」とか、「怪獣や宇宙人にも、地球に来るべき理由があるのではないか?」と思うことがあった。「分からなかった正体」というのは、こういう疑問のうちにあった。特集番組においては、とりわけ「ウルトラセブン」で描かれた「人間こそ侵略者ではなかったのか?」というテーマを紹介した。地球防衛軍が宇宙開発を進め、惑星を瞬時に消滅させる恐ろしい兵器の実験を行ったりする。そこに生命体はいないという独善的で傲慢な思い込みに反し、破壊された星から怪獣が地球に復讐のために飛来する。ウルトラセブンは、やるせない思いでその怪獣と対峙する。また地球そのものにおいても、実は先住民たる「ノンマルト」がいて、人類こそが彼らの生活を侵略して現在の繁栄を築いたというテーマも描かれている。その回を子供心に視た記憶は鮮明で、「ノンマルト」の代表として人間の姿をした少年が、地球防衛軍隊員のアンヌに語り掛けた内容を、僕はほとんど記憶していた。「ウルトラセブン」には英雄の抱くべき葛藤が随所に散りばめられており、それはベトナム戦争を背景とする時代の主張でもあったと番組は伝えた。地球防衛軍は反転すれば侵略軍になり、真の英雄とはその狭間で葛藤に明け暮れる理性を持った人のことだと、「セブン」は語っていたようである。誠に芯のある子供向け番組の制作信念であると、今更ながら深く感心した。現在、これほどの深みを持った子供向け番組が、果たしてあるだろうか?今こそ僕らは昭和の「セブン」に学ばなければならないのかもしれない。だが、そうしたテーマを描き出すと、当時であっても視聴率が下降したというから、視聴者たる民衆の理性とは何かを考えさせられる。さながら現代であればSNSなどで,食べ物などの写真を挙げると「いいね」が大量に付くが、社会的話題には少ないことと類似した現象である。
『走れメロス』もまた同じ
正義は反転する可能性の高いものなのである
苦しくて受け容れ難い葛藤を描くことこそが、知性なのだと知るべきであろう。
- 関連記事
-
- 手を出そうとしない少年 (2017/08/10)
- 「キイハンター」土曜の夜の楽しみ (2017/06/18)
- 「カメラ」を欲しかったあの頃 (2017/05/05)
- 人生で種を蒔く時期 (2017/03/19)
- 芸術を楽しもう!!! (2016/12/15)
- 自己存在の原点を訪ねて (2016/09/04)
- 故郷と歴史のいま (2016/08/27)
- 人間こそが侵略者ー「ウルトラセブン50年」の信念 (2016/07/10)
- 追悼・モハメッド・アリ氏 (2016/06/13)
- プラモデルの思い出 (2016/05/13)
- 教育実習から連なる人生 (2016/05/07)
- 日本一の豆腐料理と炒飯を悼み (2016/03/23)
- 到着ロビー出発ロビー (2016/03/05)
- 入試開場前の正門に立つ彼 (2016/02/23)
- 親の心子知らず (2016/02/22)
tag :
「晩稲」と「行動力」と
2016-07-09
「自らの力では及ばない」「やってみなければ自らの力はわからない」
独りよがりな思い込みで人生をつまらなくしていませんか?
『古今和歌集』巻十六に紀貫之の歌として「朝露の晩稲(おくて)の山田かりそめに憂き世の中を思ひぬるかな」(八四二・哀傷)が見える。上二句は序詞で三句目の「かりそめに」を引き出す役割。どなたかの死に際し「かりそめにこの辛く悲しい世の中を思うようになったものだ」と人の世の儚さと無常の心を歌うものである。「かりそめに」は「仮り初め」と「刈り初め」の掛詞となっていて、前者が歌の後半に詠まれる主眼の意に反映され、後者は「朝露が置く晩稲(おくて)を山の田では刈り初めている」という上二句の意味に沿い、詞書にある「山寺にまかりける道にてよめる」の折の実景と読むことができるだろう。和歌の読みの話題となってしまったが、この歌に詠まれる「晩稲(おくて)」という語が気になった。『日本国語大辞典』に拠れば「おそく実る稲」のことで、「江戸時代は晩稲が一番安定、多収穫品種だったので、最も広く作付けされた。」とある。稲のみならず、広く「植物などの生長、成熟が遅い種類。」と大見出しにある。転じて「人の成長が遅いこと。」といった意味で、現在では使用される語彙であろう。
前述した語彙変遷からすると、「晩稲」の場合は熟成するという趣旨で「よきもの」とされているようであるが、「人の成長が遅い」という趣旨で使用されると、どちらかといえば負のイメージで捉えられてしまうことが多いように思われる。慎重過ぎて行動力に欠けるとか、恋の道になかなか踏み出せないといった文脈での使用となる。僕自身の勝手な想像であるが、明治時代以降の近代化によって、さらに言えば戦後の高度経済成長や現在のデジタル情報化社会によって、「晩成」が認められない社会になってしまったのかもしれない。そんな反動で、今やむしろ「スローライフ」などという概念が脚光を浴びている。諺にも「急いては事を仕損じる」とあるのは周知の通りだ。だがしかし、稲は植えなければ生長することもない。植える前から、実らないのではないかと憂いていては、実るか実らないかもわからない。僕自身を省みれば、小中高校とかなりの慎重派だったように思う。だが、大学時代の様々な経験から「前進すれば何とかなる」といった行動力を身につけた。その後、もちろん幾多の失敗もあるのだが現在に至る。総じて考えてみれば、何事も動いてみなければ結果はわからないのである。
独りよがりな思い込みで
行動を固着させてはいないか?
失敗を恐れず繰り返すことから、明るい未来が見えてくるのである。
- 関連記事
-
- 71年目の夏ー「立ち止まる力」に学ぶ (2016/08/16)
- あらゆることに「絶対」はなし (2016/08/13)
- 我を忘れて走っていると (2016/08/09)
- 躊躇せるのちの我が身の哀れさよ (2016/07/25)
- 本当にやりたい夢を求め続けて (2016/07/24)
- 平常心と自己を失うとき (2016/07/23)
- 運命と希望への向き合い方 (2016/07/11)
- 「晩稲」と「行動力」と (2016/07/09)
- 歩みに生命力 声に存在感 (2016/07/05)
- 寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間 (2016/07/04)
- 集中・切替が運気を創る (2016/07/02)
- 因果応報即ち言動傾向なり (2016/06/23)
- 人生を楽しもう (2016/06/09)
- 真心の新潟 (2016/05/30)
- 自営業の矜持 (2016/05/09)
tag :
『走れメロス』が読まれ続ける理由
2016-07-08
「激怒した」途中から始まる物語超人的な行動のメロス
それでも人間的な弱さも覗かせるゆえ・・・
1960年頃から中学校教科書に教材として採録され、今や全出版社の教科書で所謂「定番教材」となっている太宰治『走れメロス』。50年以上にわたり中学生が〈教室〉で学び続けて来たということは、親子二世代か既に孫の代まで三世代にわたって読まれる小説となっているということだ。大学の講義でも、『走れメロス』を例に取り上げればほぼ全員が概ね筋書きはわかっているという利便性もある。まさに「国民文学」として読まれ続ける理由は何であろうか?たぶん多くの方々がこの小説を「正義感に奮い立ったメロスが、苦難の末に信実と友情を守る物語。」として読んでいるのも事実であろう。演出の効いた劇的な結末と冒頭で語られる王の残虐性に対する印象のみで、この小説の一面しか読まずに終わっているのが現状であるやに思われる。だがしかし、果たして「友情を守れ」とか「信実は尊い」といった道徳的主題に収斂する「読み方」を授業で提供して、果たして本当にこの小説を読んだことになるのかは甚だ疑わしい。そんな閉じた方向での授業が成されるならば、それは50年以上の教材史に対する教師の限りない甘受と怠慢と言わざるをえないであろう。ではどのようにこの小説を「読んだ」らよいのだろうか。
現在、附属中学校の先生方と『走れメロス』に対する取り組みを実行中である。昨秋には、知人の役者&ギタリストの朗読会を実施し、全篇の演劇的表現を聞くのみならず、各所の会話文やメロス自身の内言と語り手が重なる、所謂「自由間接話法」の部分を役者とともに「シャドーイング」したりする機会を、附属中学校の全校生徒を対象に実施した。ここで重要なのは、中学校小説教材を、その場限りのもので終わらせないということ。1年生から読み始め、2年で授業で扱い、3年生となって成長した心で再読するといった、3年間、いや人生にわたる読書としてこうした小説を位置付けたいということだ。もしやメロスの激しい葛藤は、苦難多き社会を生き抜く20代や30代という年齢になった時に活きてくるのかもしれない。その際に、「信実と友情」のみではないメロスの弱さや矛盾を思考した経験があるかないかで、小説を再読しようとするか、思い出しもしないかが決まってくるのではないだろうか。この日に行われた附属中学校公開研究会では、「ワールドカフェ」という四人一組の話し合いをメンバーを入れ替えて2セット行い、その中でこの小説の「魅力」について生徒たちが、他者に決して否定されないという前提のもとに自由に話し合った。「完璧ではない勇者」「題と矛盾して走っていない」「メロスの独り言から心情がよく分かる」「読み手をがっかりさせる演出が効果的」「裏切る気持ちがあるのが人間らしい」「超人的な面がコミカルでさえある」等々、僕自身が授業観察している限りでは、このような類いの「信実と友情」に収斂しない複眼的な読み方が、生徒の中から提示されていた。色に喩えるならば、〈教室〉(学校空間)では「白色の読み方」を押し付けがちなのである。だが、現実社会は多彩であり「黒い」ことも横行するのが常であろう。「人間関係形成力」や「モラルスキル」をも教科学習との関連で学ぶことを理想と掲げてしまう、ある意味において複雑で錯綜した現代社会においては、まさに「白」のみに収斂しないことこそが知的な学びであるということになろう。そのような多様性を認めた文学活動こそが、脳内をアクティヴにし視野の広い若者の心に豊かな種を蒔くことになる。あとは個々の「自己」を起ち上げて萌芽を自力で成していくことになる。
概ね「指導助言」で語った内容を記した
「道徳」の教科化を前に「文学」教材は如何に生きるか?
今まで〈教室〉では言えなかった現実に対し、対話交流授業の導入で新しい扉が開かれている。
- 関連記事
-
- 小規模校に表現学習を運ぶ (2017/01/14)
- 教科専門と教科教育の融合とは (2016/12/22)
- 日本のいじめのやり口 (2016/12/14)
- 〈書くこと〉の抒情性と表現手段 (2016/11/03)
- 「生涯一教師」の思い (2016/10/27)
- 突き放す言葉が希望を生む (2016/09/23)
- 歩いた其処が道になる (2016/09/09)
- 『走れメロス』が読まれ続ける理由 (2016/07/08)
- 無知の自覚と開放性 (2016/07/01)
- 「国語教育と道徳教育」シンポジウム (2016/06/26)
- 正解と頽廃とマナーのことなど (2016/06/25)
- 「輝く眼」の内実 (2016/06/04)
- 知識欲を創る国語教育 (2016/05/29)
- 添削指導は過去のもの (2016/05/10)
- 正解ではなく意見を述べる授業を (2016/04/30)
tag :
7月6日は『サラダ記念日』
2016-07-07
「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日(『サラダ記念日』より)
世間を席巻したブームから30年目の7月6日
角川書店の雑誌『短歌』7月号は、「30年目のサラダ記念日」を特集として、俵万智さんのロングインタビューを、聞き手・伊藤一彦先生にて掲載している。東京・宮城・沖縄・宮崎と移住を繰り返してきた万智さんのこれまでの人生や、『サラダ記念日』出版当初から現在に至るまでの歌人としての芯のある活動と変遷が、豊かなことばで語り合われていて大変興味深い。先月宮崎市内で開催されたトークショーでも、同様の感慨を覚えたのだが、歌人というのは日常から「ことばを他者に伝えること」を念頭に置いているせいか、トークやインタビューを行っても大変わかりやすい内容になるということ。そのトークショーでの万智さんの名言「短歌は日記ではなく手紙」であるという弁は、誠にこの伝統的な文芸の核心を言い当てているようである。実際に短歌創作に勤しんでみると、自分の掴み取った題材による心の振幅を、他者にわかるように三十一文字に収めるのは、そう簡単なことではないと同時に、実はとても素朴な行為なのだと思うことがある。あらためて万智さんの短歌に潜んでいる「伝える力」の偉大さに、敬服する30年目を迎えたのである。
朝一番で車に乗ってエンジンを始動すると、「今日は・・・・の日です。」と必ずその日にまつわることをカーナビが発言する。現在の車種になってこの日が初めての「7月6日」であったゆえに、前車と同様に「サラダ記念日」と言うや否やと興味深く思いながら、エンジンスイッチを押した。するとやはりこの日は「サラダ記念日」と宣言したので、まさに「やってくれるじゃないのと思う」といった感慨で大学へ向けて車を走らせた。それはある種、生活実感の中に俵万智『サラダ記念日』という文学の一つの金字塔が樹立し、僕たちの日常において日本語の美しさや表現の豊かさを自覚できる、大きな功績に対する敬意を覚えることなのである。世情は「人文学不要論」渦巻く、世知辛い強風が吹き荒れる。だがどんな時代のどんな風当たりの中でも、1300年以上も息づいてきた「短歌(和歌)」という表現形式が、現代語を寛容に抱擁し同時代の変化の速い生活実感を鋭く捉えていることの歓びと可能性を、『サラダ記念日』は伝え続けてくれるのである。中学校教科書にも掲載されている「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」という歌は、今回のロングインタビューでも取り上げられているが、人と人とのつながりの大切さと妙を、万智さんの短歌は僕たちに語り続けてくれるのである。『短歌』7月号には、万智さんの新作50首も掲載されていて、宮崎に移住後に詠んだと思われる作も多い。同世代人として、そして今や同じ街の住人として、今後も万智さんから学べることの幸福をあらためて感じた7月6日であった。
ことばと伝えることの限りなき旅路のうちに
今、此処で30年目の『サラダ記念日』に出会い直す
1987年(昭和62年)当時の僕自身を思い返し、長くも短き道のりを想う。
- 関連記事
-
- 定型「五・七・五・七・七」の底力 (2016/09/13)
- 寄席に興じる父の七癖 (2016/09/06)
- 心の花全国大会2016② (2016/08/29)
- 「心の花」全国大会2016① (2016/08/28)
- 心をことばにする日常 (2016/08/24)
- 牧水短歌甲子園2016観戦 (2016/08/22)
- わが悲しみはひとにゆるさじ (2016/07/26)
- 7月6日は『サラダ記念日』 (2016/07/07)
- 擬音語による生命力の実感(短歌裏話) (2016/06/27)
- 「歌はやがて人の心の花なり」宮崎歌会300回記念トーク (2016/06/19)
- 「原型・推敲・完成」円環上の苦悩 (2016/06/12)
- 撰ばれること再考 (2016/06/08)
- 歌集『キリンの子』セーラー服の歌人・鳥居さん (2016/06/06)
- 短歌講評と若山牧水 (2016/04/18)
- 短歌創作者とジェンダー (2016/04/10)
tag :
ことばと調べの奥深い関係
2016-07-06
聞く人に伝わる声あるフレーズが耳に残るのはなぜか?
歌詞・曲調・ことば・調べ・字余りのことなど・・・
先月29日に発売された、桑田佳祐のソロ(サザンではない)による新譜を聴いている。4曲の新曲が入っているが、各曲の趣も違いそれぞれに楽しめる仕上がりである。個々の曲への感想・批評なども記したいところであるが、まず本日は聴いて約1週間の僕なりの思いを記したいと思う。もしかするとあまり桑田のファンでない方が聞けば、「またか」といった印象をどの曲にも持つのかもしれない。だがファンからすると「これぞ桑田だ」という幾つかのバリエーションの基盤の上で、4曲それぞれの展開にたまらない興奮を覚えるのである。ファンになるとはこういうことで、反転して創作者側にすれば、一貫して変わらない「ことばと調べ」を持ちながら、時勢や年代に合わせた新しさと一般化した普遍性を持つ必要があるのだと思われる。特に僕の場合は、ある特定の節回しとともに、「しみじみと郷愁を覚える」ごとき曲調を、常に期待通りに桑田の楽曲は兼ね備えていると言えるのである。
一例を挙げるならば、普通ならどう考えてもその調べの長さに入り切らないと思われることばを、桑田は見事な均衡を保って曲の中に「流し込んで」いる。いわゆる短歌でいうところの、「字余り」が炸裂する部分があるということだ。それは一般の方からすれば、単なる「早口言葉」のように聞こえ、また「何を言っているかわからない」と蔑む可能性さえ高いと思われる。だがその一般的には「不安定」と思われるような部分にこそ、桑田の真骨頂が見出せると僕は思うのである。短歌でも「定型」が意識されるから「字余り」が浮き立ち、それを作為的にできたらどれだけよろしかろうと感じることがある。むしろ仕方ない「字余り」「字足らず」には、足を引っ張られてしまうのが一般的であるように思う。このように発想することそのものが歌を「文字」中心主義で考えているのではないかと、気付かさせられる。話を桑田佳祐に戻すと、彼の五感においては「日本語」が、多様な「外国語」の一種のように聴こえることがあり、曲を繰り返し聴くことでようやく気付くことのできる歌詞の多様性を味わうまでには、ファンとしてもそれなりの熟練が必要ではないかと考えている。それでいてふと挿入された文語調の歌詞に、思わず日本語そのものの奥行きさえも見出せる。さらには、「心に響く歌」が多かったと評される「昭和歌謡」の王道を感じさせる厚みが、ことばにならない「郷愁」を帯びて僕らの五感を刺激するのである。
ある敬愛する歌人の歌集を夢中に読んでいるが
どうやら桑田佳佑を聴くときと重なる感興に至る
ことばと調べとの無限な奥深い関係を旅しているような思いである。
- 関連記事
-
- 桑田佳祐さん「がらくた」福岡公演 (2017/11/26)
- 「100万年の幸せ」ー夢は小さな友情から (2017/10/02)
- 凄いぞ!「若い広場」 (2017/07/25)
- 優しさに泣けるのはふとした未来さ (2017/03/03)
- 同じ空の青さに (2017/01/15)
- 桑田さんとあめましておめでとう2017 (2017/01/01)
- 「君への手紙」届きました (2016/11/25)
- ことばと調べの奥深い関係 (2016/07/06)
- グルーヴとことばの多様性 (2016/06/24)
- この世に生かされてーサザンLIVEの共感性 (2015/07/05)
- 「平和の鐘が鳴る」響くのは・・・ (2015/04/23)
- 「最初のテイク」がプロの道 (2015/04/20)
- 「はっぴいえんど」なら いいのに (2015/04/17)
- 夢や希望は後回しにすること勿れ (2015/04/13)
- 美味しい『葡萄』届きました! (2015/04/04)
tag :
歩みに生命力 声に存在感
2016-07-05
早朝の大学にて「先生の歩き方は生命力を感じます」
挨拶を交わした先生のお言葉
昔からのんびり歩くのが苦手で、ついつい前のめりに早足になってしまう癖がある。中高教員時代などは、最寄駅から学校までの「歩きぶり」を生徒たちが噂にするほどであった。駅などの階段でも1段抜かしで駆け上がる(エスカレーターも使用せず)のが常である。さすがに地方在住となって、のんびり(この地方の方言で「てげてげ」)したペースも体得するのかと思いきや、どうやら3年以上経ってもそうではないらしい。早朝から大学に出向き、玄関辺りを闊歩していると同僚の教授の先生から、冒頭のように声を掛けていただいた。それも保健体育を専門分野とする先生であっただけに、何か妙に納得して活力が湧いてきてしまった。その後、仕事に集中して、夜はジムで踏み台昇降を繰り返すエクササイズへ。足を多様に動かしているうちに、何事も躊躇せず前向きに一歩を踏み出すことの大切さを身に沁みて感じるに至った。どうやらここ2週間ほど、あれこれと考え過ぎて、気持ちが後退するような傾向にあったと省みる結果となった。
ある知人のTwitterを読んでいると、前日までに声を出し過ぎて朝起きたら声が出なかったとあった。しかし、ある著名な歌手の方から聞いた話として「ステージに立てば声は出た」というエピソードを紹介した上で、「現場に立てば声は出た」と記してあった。この猛暑の中、自己の確固たる信念を持って、日々奮闘している方もいる。後退した気持ちを持ったら、人間は坂道を転がり落ちるように頽廃してしまうのだと思い直した。まさに声こそは存在感を他者に感じさせる、大変大切な表現の具であろう。しかも単なる「具」にあらず、情を表現する唯一最大の力を発揮する人間の生命力と存在感の根源といっても過言ではあるまい。声といえば、夕刻に懇意にする洋食レストランで食事をした折、BGMとしてビリー・ジョエルの”Honesty”が流れた。本人の歌ではなく、女性シンガーのカバーバージョンであったが、その曲によって僕の脳裏に鮮明にある人の名が浮かんだ。それは高校の時に英語を担当していた、非常勤講師の先生の名前だ。1年きりのお付き合いで、しかもやや無頼なる生徒が多かった学級で、授業はかなり荒れたものであったと記憶する。だがその先生は、”Honesty”を心から愛していたのであろう、執拗に授業でカセットテープから音源を流し、その歌詞の意味を説いていたのである。その時は、僕にとってやや頼りなく見えた先生であったが、信念を貫いていたことで、何十年後の生徒の心にも浮上する存在感の種を蒔いていたんだと、今にして感心したのであった。まさに負けじと前へ進むことを、辞さなかった結果である。
今日の、今現在の前向きな一歩を疎かにせず
明日の夢と希望へ向かって人は歩み続ける
自分自身を信じているならば、それを人は「信念」と呼ぶのだ。
- 関連記事
-
- あらゆることに「絶対」はなし (2016/08/13)
- 我を忘れて走っていると (2016/08/09)
- 躊躇せるのちの我が身の哀れさよ (2016/07/25)
- 本当にやりたい夢を求め続けて (2016/07/24)
- 平常心と自己を失うとき (2016/07/23)
- 運命と希望への向き合い方 (2016/07/11)
- 「晩稲」と「行動力」と (2016/07/09)
- 歩みに生命力 声に存在感 (2016/07/05)
- 寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間 (2016/07/04)
- 集中・切替が運気を創る (2016/07/02)
- 因果応報即ち言動傾向なり (2016/06/23)
- 人生を楽しもう (2016/06/09)
- 真心の新潟 (2016/05/30)
- 自営業の矜持 (2016/05/09)
- 故郷と土地・人の縁 (2016/04/24)
tag :
寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間
2016-07-04
夜中に暑さで起きてしまう寝汗をかいた身体に水分補給
寝具は朝からすぐに洗濯へ・・・
暦も7月に入り、本格的な暑さが到来した。これまで通りの状態で寝ていると、不快さで目が覚めて、寝汗をかなりかいていた。自ずと水分補給をして、窓を開けたり一時的に冷房を入れたりして室内の温度調整を試みた。熟睡できるや否やという問題は、僕にとっては大変重要で、翌日の仕事や活動に大きな影響を及ぼす。ちょうど休日であったこともよろしく、ややゆっくり寝た後は、寝具類の洗濯に取り掛かった。水分を含み込んだシーツに敷きパッドを、すかさず洗って庭に干す。暑さは暑さで対処するということか、洗濯物の乾きは極めて早く、客人用のものを含めて寝具の整備を進めることができた。何事も日頃からの小まめなケアがあってこそ、快適さを手に入れることができる。
昨年は長雨による湿気が強く、室内での黴の繁殖に悩まされたが、今年は梅雨の晴れ間もあったせいか、それほどではなかった。季節の仕業のみならず、昨年からの生活の知恵が功を奏していることも大きい。幼少時から、就寝時の支度を丁寧にするのが母の教えであった。寝具を整備し適する寝巻をきちんと着用して就寝する習慣がついていた。いつぞやベッドメーカーの広告で、「人生の三分の一は寝具とともに過ごす」といった趣旨のものを目にしたことがある。睡眠が安定しないということは、反面、起きている際の行動も安定さを欠くことになる。それだけに「寝る」時間というのも、至福の時間でなくてはならず、その際の環境整備に労を惜しんではならないということであろう。寝苦しい夏であるゆえ、あらためて睡眠への意識を高める契機とする。
「説明」できない睡眠の自覚
そこに人間の面白さや奥深さも垣間見える
無自覚な点を大切にしてこそ、人生が潤うのかもしれない。
- 関連記事
-
- 我を忘れて走っていると (2016/08/09)
- 躊躇せるのちの我が身の哀れさよ (2016/07/25)
- 本当にやりたい夢を求め続けて (2016/07/24)
- 平常心と自己を失うとき (2016/07/23)
- 運命と希望への向き合い方 (2016/07/11)
- 「晩稲」と「行動力」と (2016/07/09)
- 歩みに生命力 声に存在感 (2016/07/05)
- 寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間 (2016/07/04)
- 集中・切替が運気を創る (2016/07/02)
- 因果応報即ち言動傾向なり (2016/06/23)
- 人生を楽しもう (2016/06/09)
- 真心の新潟 (2016/05/30)
- 自営業の矜持 (2016/05/09)
- 故郷と土地・人の縁 (2016/04/24)
- いまは亡き人と語り合う (2016/04/23)
tag :
「大学で学ぼう」希望に導く講義
2016-07-03
附属中学校3年生希望に輝く眼の生徒たち
「詩歌はなぜ心に響くのか?」60分講義
附属中学校との共催で、標記の企画の講師を務めた。附属校においては、ここ2年間において年に1回ずつ、研究授業の教壇に立たせてもらっている。昨年は附属小学校6年生、一昨年は附属中学校1年生での授業に臨んだ。(今回の参加者の中には、僕の2年前の中1での授業を受けたことがある生徒もいた。)そんな意味で附属の子どもたちには、大変親しみを持っている。研究授業では、当該校種の授業を研究対象として試案的に実施するというものであるゆえ、小6と中1の各発達段階を考慮した、詩歌を教材とした授業を実践した。それゆえ僕の場合は、小学校から大学まで、すべての校種で授業実践に臨んだ経験を持つことになる。各校種でどんな学びが為され、どんな発達段階の子どもたちなのかという実態の把握は、やはり授業を実践し実感してみないとなかなか容易に把握できるものではない。ましてや「国語教育」を研究する立場であるから、こうした実践経験こそ理論を語る際の大きな糧となるのは言うまでもない。そういえば、昨年は高校生向けに「出前講義」と称して隣県まで出張したこともあった。大学の「講義」を模擬的に据えて、高校生や中学生に語るにはどうしたらよいか?そんな問題意識も、こうした経験から得られるものである。
今回は「詩歌はなぜ心に響くのか?」というテーマ。大学での学びに限らないが、「なぜ?」という問題意識を持つことが大変重要である。中学生は日常生活で、好きなアーティストの楽曲に思い入れを持ったり、映画とかスポーツのシーンに心を踊らせることもあるだろう。テレビならぬスマホが、1人1台という新たな「時代」を迎えて、エンターテーメントな「見せ方」の効いたメディアに触れる機会も多いはずだ。そんな中において「国語」で学ぶ「詩歌」は、一般的に劣勢を余儀なくされていることは容易に予想できる。だがしかし、「教材」だからとか「詩歌」だからという否定的な考え方を、まずは指導者側が回避する必要があると考えている。大仰に語るならば、人は根源的に「ことば」なくしては、自己存在さえも支えられないということ。日常で触れることばを豊かにすることで、人生が変わると僕は考えている。このような立場からすると、「詩歌」のことばは格好の題材であるということになる。その名作たる短歌などを読む際に、「自己の思い」を起ち上げて読むことで、他人事ではない想像の世界に誘うことができる。その中学生の「思い」とは、今現在すぐに起動するものではないかもしれない。来るべき将来において、大切な人に「人生で一番大切なこと」を伝えようとした時に、その「ことば」が必要不可欠になるかもしれない。そのいつ来るかはわからない人生の決定的な岐路に向けて、中学校時代に「種蒔き」をしておく必要がある。このような設定で、何首かの短歌を題材にして「自己創造的な読み」と「ことばへの思い」を、少々批評的に展開する60分となった。
最後は、参加者個々の「生きる」をことばに託す
「国語」の、「教育学部」の学びが、どれほど中学生に響いたであろうか?
「たんか県みやざき」の附属中学生に向けて、歌の素晴らしさを伝えたい。
- 関連記事
-
- 時間と心育そして人間性ー学校図書館司書講習④ (2016/08/23)
- 創造的絵本群読のススメー学校図書館司書講習③ (2016/08/20)
- 本を愛情を持って語ることー学校図書館司書講習② (2016/08/19)
- 読書とWeb環境ー学校図書館司書講習① (2016/08/18)
- 詩歌教材への敬遠と軽視 (2016/08/10)
- 今こそ、メディア・リテラシーと国語教育 (2016/07/28)
- 言うが易し行うは難しは授業なり (2016/07/14)
- 「大学で学ぼう」希望に導く講義 (2016/07/03)
- 「できる力」を身につける (2016/06/16)
- 対話する鶯に学ぶ (2016/04/28)
- 授業の遅刻防止策 (2016/04/14)
- 通じ合う国語と美術 (2016/04/09)
- 手書き書類の悲哀 (2016/04/07)
- 教育学部「国語」専攻で学ぶこと (2016/04/06)
- 脳内アクティブな講義のために (2016/02/19)
tag :
集中・切替が運気を創る
2016-07-02
文章を書き出すと没頭するわれあれこれとやることは多けれど
集中したら切替て次へと繋いでいくこと
朝はまずたいてい、小欄を記すことから始める。「前日」という大切な1日で得られたこと、ヒントになったこと、忘れがたき契機となったこと、等々を言説化して自らを客観視し明日への糧とする。睡眠を経たのちの記憶は、自らの脳が「必要」としているものだけが整理されていると、よく茂木健一郎氏が語っている。かといって、明晰に「整理」されているわけではないと自覚することも多い。最近は特に「日記的」というよりも、「1テーマ」を立てて絞った書き方を心懸けているゆえ、「整理」された引き出しからさらに「選択」するという思考過程を踏むことが多い。そんな最中に、ついつい「やらなければならない」多くのことが脳裏に並ぶことがある。デスクでPCに向かいながら、臀部から脚の背部がむず痒くなるような、身体的な「焦燥感」を抱くことも稀ではない。さながら「動きたい身体」と、「分析的な思考」が対峙し葛藤しているような状態になることもある。
何事も「今」という「1歩」を積み重ねていくことでしか、遠くへは行けない。イチローが常に語る「真理」を自らに言い聞かせ、その「今」に臨む。職業柄、文章執筆に没頭した際には、まさに「我を忘れて」集中している時間となる。雑念や他の思考は脳裏から排除され、その文章執筆のこと一点に絞って力を注ぐことができる。まさにこれが野球で言えば「一打席」なのであり、時間的な長さよりも内実の質の高さが重要だと思うことがある。実際に「走る」という行為の好みがそうなのだが、僕は短距離型だと自らでは自覚している。大学受験の際も夏休み前まで部活動もしていたが、引退後の切替というのは自分でも驚異的だと振り返ることができる。そういえば、大学サークルで親しかった1年先輩で、教員採用試験に対して約1ヶ月前から集中して勉強して見事合格した方がいた。集中と切替、立ち直りの早さ、そして脳だけを働かせるのではなく、身体全体を活性化させることも忘れずにいると、「運気」は自ずから良好な方向へと流れてくるものだ。
人は「今」しか生きられない
不確定な「後で」に依存しないということ
「運気」とは、自らの集中と切替で身体に呼び込む流れを創ることなのかもしれない。
- 関連記事
-
- 躊躇せるのちの我が身の哀れさよ (2016/07/25)
- 本当にやりたい夢を求め続けて (2016/07/24)
- 平常心と自己を失うとき (2016/07/23)
- 運命と希望への向き合い方 (2016/07/11)
- 「晩稲」と「行動力」と (2016/07/09)
- 歩みに生命力 声に存在感 (2016/07/05)
- 寝汗で睡眠を再考〜人生の三分の一の時間 (2016/07/04)
- 集中・切替が運気を創る (2016/07/02)
- 因果応報即ち言動傾向なり (2016/06/23)
- 人生を楽しもう (2016/06/09)
- 真心の新潟 (2016/05/30)
- 自営業の矜持 (2016/05/09)
- 故郷と土地・人の縁 (2016/04/24)
- いまは亡き人と語り合う (2016/04/23)
- 思い込みを排さねば (2016/04/19)
tag :