時を駆けるよ
2016-07-21
次から次へやるべきことが一息つく間もなく動き出す感覚
呼吸とは実に長いものとは知りながら・・・
思わず、「時を駆ける」ような状態である自分を発見する。立ち止まることなく「動きながら考えて」いるようでもある。などと文章に綴ることそのものが、己を静観した状況なのかもしれない。だが1日1頁の手帳を使用しており、見開きの2日間に書き込まれたことを見るに、穏やかな時間は何処なのかと疑問も脳裏に浮上する。せめてこのように毎朝、多少なりとも静観する時間があるのは、何より自分のために貴重な時間である。このように堂々巡りをしつつ、また今日も走り出そうとする自分が此処にいることに気づかされる。
身体トレーニングの上では、穏やかな筋肉痛が常にあるような感じを理想とする。そのためには「筋肉痛」を自覚できるように「トレーニング」をしない日も必要になるわけで、筋繊維の断裂を修復する日もまた、「トレーニング」の一環と考えたい。もちろん適切なタンパク質補給や、他の栄養素摂取も必須である。この鍛錬と静養の循環の中で、筋力は維持され増幅傾向となる。その合間に入れる「静観・内観」の時間、最近は「ヨガ」に臨む60分が週に1回はあるように努めている。たぶん仕事も同じように、「ヨガ」に臨むような状況に置かれる必要があるのだろう。それは己の心を見つめ直し、ことばに変換するにはどうしたらよいかと向き合う時間。歌を詠もうとするとき、僕の中ではまさに「静観・内観」の時間が訪れることを実感している。
昨晩は「筋トレ」に「ヨガ」を励行
身体的「内観・静観」の時間を確保した
そしてまた「時を駆ける」心身が甦るのである。
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己の弱さを知れ
2016-07-20
己の思考する傾向を知る己が如何に「読んだ」かを「読む」という視点
感情的な思い込みで「レッテル」を貼り思考停止に陥らないこと
「強くあれと言う前に、己の弱さを知れ」、桑田佳祐の新譜『ヨシ子さん』(ソロシングル)に収められている「百万本の赤い薔薇」という曲の歌詞にある、僕のお気に入りの一節である。いつの時代も世情は「強く逞しい」ものを求める傾向があり、メディアを通じて暴論とも思える発言が喧伝されると、世論はその人物にリーダー性を覚えるという構造が成立することが多い。現代のメディアは討論を劇的に見せることに躍起になり、視聴率を念頭に置いた制作姿勢となると、理性からは程遠い茶番が展開することさえある。だが考えてみれば、自らを「強く逞しく」見せている思考の人物は必然的に他者にも「強くあれ」を強要し、弱者の視点を持つことがない傾向を示すことが少なくない。歴史を見ても明らかだが、独善的に「強くあれ」を希求した人物は、短期的に滅亡する脆弱さを孕んでいると見るのが妥当ではないかと思うことが多い。
ここ最近のゼミでは、「文学教材を如何に読むか?」そしてまた「豊かな読みのある国語授業とは如何なるものか?」という点について、様々な視点から学生とともに考えている。中学校定番教材『走れメロス』が、どれほどに大学生として独創的に「再読」できるかといったことを対話的に話し合う。そのテクストを己が「読んだ」ことそのものを、ゼミ内で他者と共有しつつ次第に己の「読み方」を相対化していく。小説の登場人物を感情的な固定観念で決め付けるのではなく、小説の内外から、そして己の諸々の思考を対峙させて、批評的分析的に読み解いていく。全員で11名のゼミ生を三分割して3・4名のうちで自由な対話を、構成人員を入れ替えつつ3度実施する。その小班の「読み方」にも影響され、場合によると自主規制するかの如く、班の「読み方」に同調する傾向も顕われる。まさにその「読み方」の葛藤そのものに、「己の弱さ」が表出する。「強くあれ」という独善的定式的な「読み方」を強要するのは簡単である。知性を動員して「読む」ことの入り口がそこにある。それは「文学テクスト」のみならず、自らが向き合う社会的事象に対しても、せめて大学生ならすべてそのような思考で臨んでもらいたいという願いを込めての作業である。
頽廃したメディアを多様な視点で読み解くこと
弱者を卑下する言動を、僕たちは理性をもって拒む必要がある
今一度唄おう「強くあれと言う前に、己の弱さを知れ」
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熊本地震の現在
2016-07-19
地面が一旦は上がりそして下がる感覚被災後、勤務先の小学校で奮闘した教え子
熊本地震から3ヶ月の現在を訪れて・・・
震度7の活断層型地震の、所謂「本震」に熊本が襲われてから3ヶ月以上が経過した。地震の当初から、熊本で教職に就く教え子のことが気になっていた。メールで連絡を取り、せいぜいその文面で励ますくらいしかできす、誠に歯痒い思いをしていたのだが、ようやくこの休日を利用して熊本を訪れて、彼に再会することができた。学校のガラスが大幅に損傷、その後、避難所となった校舎・体育館にて避難されている方々のお世話、そして5月10日に再会した授業。その直後に、予定されていた運動会を縮小しても短期間で準備をして実施に漕ぎ着けたと云う。文章で挙げれば簡易に聞こえてしまうが、その1日1日が彼にとっては経験したこともない誠に困難な日々であったのだと、諸々の会話を通して想像を致す。ライフラインでも水道の復旧が一番遅く、生活自体に大変な不自由を強いられたということ。こうして3ヶ月間の話を今現在の時点で聞くだけでも、この列島に住んでいる以上、自然災害と常に隣り合わせなのだと実感するひと時となった。
ちょうど熊本に向かう途中、高速道路のサービスエリアで休憩をし、用を足していた時のことである。今までに経験したことのない震動を足元に感じた。その場から動くこともできず、用を足すことを継続はしたが、どうも妙に嫌な感覚が身体に刻まれた。下から突き上げられて、その後に再び沈み込むかのような感覚。直後にスマホで情報を確認すると「震度3」、これこそが活断層型地震の揺れなのだと大きな恐怖の片々に触れたような気持ちにさせられた。九州自動車道も一部は対面通行となり、その区間の補修中の路面は甚だしい損傷を受けているように見える。一般道に降りてみると見た目には普通に見える路面が、路肩に凹凸があり車がそのギャップに跳ね返される動きを覚える。概ね、市民の方々の生活は復旧しているように見えるものの、目には見えない部分にこそ、被災した方々の困難が潜んでいるのであろう。それでも尚、宿泊施設の再開や交通機関の整備が施されて、観光客への呼び掛けも再開している。せめて九州に住む僕たちが、熊本に思いを寄せて、この困難を乗り越えるよう行動すべきであると、あらためて実感する訪問であった。
必然的に起こる地震列島ゆえに
どのような生き方が求められるかを、僕たち市民が真摯に考えるべき
明日は我が身、と思いつつ教え子との再会に学ぶこと多き時間となった。
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いつか逢ったような人と味
2016-07-18
初対面なのにそう感じない不思議な人や味がある
郷愁に満ちたあの感覚はなんだろう?
人と味との出逢いは、誠に不思議な「縁」で結ばれているように思うことがある。初対面である店員さんなどでも、いつか過去に逢ったことがあるような感覚になって親しみを覚えたり。そんな相性を感じ取って2度目にお店を訪ねると、先方が僕のことを覚えてくれていたりすると(尤も先方は商売ではあるのだが、それでもまったくそんな縁も感じず、覚えるなど程遠い態度を示す方もいる。)誠に親しみが湧いてくる。僕の場合は、妙に人との相性にこだわりがあり、感覚のズレる方との対応があまる得意ではない。とりわけ、ファッション関係の店舗と飲食店には、かなりのこだわりがあると言っても過言ではない。洋服はその人のこころのあり様を表面化していると思うたちであり、飲食における様々な価値観というのは、生育過程やそれまでの人生に大きく関わって形成されるものであると思うことが多い。(この他に、理容師と医師についてもこれと類似したこだわりがある。)
幼少時からよく行っていた飲食店が、今も健在です美味しい料理を出すのは嬉しいことだ。僕の中では、ある1軒の「ロシア料理店」への思いはまさに人生の節々に温存されている。そのせいか、他の場所でかなり近い味わいの料理に出逢うだけで、代え難い郷愁に似た感情を覚える。「ピロシキ」なる挽肉の詰まった揚げパンのような料理に、限りない親近感が湧くのである。たぶんこの郷土ではない地のロシア料理店も、昔から多くの家族を受け容れてこの美味しい料理を出し続けて来たのであろう。ナフキンには「創業1960年」と記されていた。店全体の落ち着き、店員さんの品位、料理の味わい深さ、諸々の条件を考えるに、僕がまたこの店に出逢ったのも必然的な縁であったのかと思ったりもする。人は様々な人や味と出逢い、人生に彩りを添えて歩み続けている。何か大切な記憶と縁と感覚が、そこに確実に存在するのであろう。
この人には逢ったことがある
この閃きが人と人との輪を広げるコツでもある
自らの身体化された記憶と感性を大切に生きていたいものである。
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2016公開講座第2回「ファンタジーの響き」
2016-07-17
読み語る「声」と「こころ」対象年齢を超えて味わいたいファンタジー
そこに「葛藤」があり、「葛藤」は人生の中心だから。
今年度公開講座第2回「ファンタジーの響き」を開講。来月実施する地域連携群読劇「星の王子様」へ向けて、受講者の方々と「読み語り」の意義とともに「声」で絵本を味わう大切さを体験する内容とした。よく講習等を通じて「絵本は何歳ぐらいまで読んであげたらよいのですか?」、という質問を受けることがある。その際に僕は「絵本には対象年齢はありません。高齢の老人でも大人でも味わうことができます。」といった趣旨の回答をすることにしている。実際問題として大人の方が絵本の中で描かれることを味わい、穏やかで優しい気持ちになったという報告を聞き、この回答に確信を持つことがある。僕自身は幼児の頃から、絵本が大好きでよく一人で本を読んでいた。その中に出てくる人間社会の様々な「葛藤」に、幼心が大きく揺さぶられたのだと今にして思う。ここに「ロバート・ペン・ウォーレン」の「「フィクションを読む理由」を引用をしておこう。
「フィクションが好きだから。
フィクションには葛藤があるからーそして葛藤は人生の中心だから。
その葛藤がわれわれを日常の退屈さからめざめさせてくれるから。
フィクションはわれわれの感情を、涙、笑い、愛、憎しみなどで発散させてくれるから。
そこに記された物語が自分自身の人生の物語への手がかりを与えてくれるだろうから。
他人の生活に逃げ込むことによって、生活の重圧から解放されるから。」
「ファンタジー」はもちろん虚構である。だが「虚構」にこそ人生の「真実」が埋め込まれている。僕たちは社会という荒波の中で、ともすると自分を見失い「見るべきものも見ないで」過ごしていることも多い。そんな荒涼たるこころに一滴の「フィクション」を差せば、遥かに「こころのかたち」が見え易くなる。自らを対象すべき「物語」の中に置き、相対化することで初めてこころは豊かに起動し始めるということだろう。元来、「文学」とは僕たちの「生活に意味を与えるもの」なのである。ところが学校空間では、それを「ワークブックに押し込めたり」とか「学問的に解剖する」など、「論理的」などという体裁の上で技術的に扱うことのみに終始するので、「本来の目的」を失ってしまう。「感想文」「語彙テスト」「答えを得るため」といった狭量で権威威圧的な作為で、豊かなはずの文学を歪めているのも事実であろう。僕は幸いにして幼稚園の時に、学校空間に先行して「豊かなこころの窓口」に出逢ったということになろうか。最後にまた「ゲイル・E・ヘイリー」の言葉を引用しておくことにしよう。
「生きいきと受け答えをしてくれる大人に、じかに話しかけられたことのない子供は、ちゃんとした話し方を身につけることはないでしょう。尋ねても答えてもらえない子供は、尋ねることをしなくなるでしょう。そういう子供は、ものごとへの好奇心を失っていくでしょう。そして、お話をしてもらったり、読み聞かせをしてもらったりすることのない子供は、本が読めるようになりたいとも思わなくなるでしょう。」
今夏、1人でも多くの子どもたちと大人たちに
こうした文学との豊かな邂逅をしていただき
穏やかなこころで人生を歩んでもらいたいと思っている。
群読劇公演は、8月6日(土)7日(日)18:00〜
宮交ボタニックガーデン青島にて開催。(詳細は後日小欄に掲載します)
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矛盾の均衡が求められる言葉
2016-07-16
「大胆かつ細心たれ」「悠々として急げ」
矛盾し相反する心の持ち様を兼ね備えるということ
いよいよ、教員採用一次試験の時季となった。ゼミの4年生は全員が、この関門に挑戦する。出陣に当たって声を掛けて激励したいと思ったが、なかなか時間が合わず。大学構内で会えた学生もいたのだが、最終的にはメールで言葉を贈ることにした。それは月並みであるが「大胆かつ細心たれ」という言葉。受験というものは、細部にこだわりすぎて時間を浪費し、できる問題もできなくなるのが一番よくない事態である。決して「満点」が求められるわけではないので、「大胆」に攻めつつも、「細心」の注意も怠らないという姿勢が肝要であろう。特に生真面目な学生が、この「大胆」さに欠ける傾向があるように思う。所謂「完璧主義」的な発想でいると、社会でも憂き目を見ることが多い。せいぜい7〜8分で十分に達成、あとの2〜3分は脇を甘くしておいて、他者を立てるというのも、人間関係を潤滑に運ぶには有効な姿勢であるように思う。
「悠々として急げ」、この名言もまた矛盾を孕んでいる。ある知人の方が最近、この言葉を掲げて関門を突破し、そしてまさにその境地を実感したと述懐していた言葉である。出典はどうやら開高健の小説らしいので調べてみると、『河は眠らない』(2009文藝春秋)や『風に訊け』(1984集英社)の中に見える警句である。その一部を引用するならば「魚釣りも一瞬である。そのときの手がおくれるとだめだ。同時に一方、ゆったりとした気持でもなければならない。」という文脈の中で「フランスの王様」が「ラテン語」の類した諺を「座右の銘」にしていたことから「訳してみると」、という場面で登場する言葉だ。僕自身はあまり魚釣りを好まないが、どうやら人生は魚釣りの如きものというのが、開高の小説から読み取れる。「一瞬」においては決して「手がおくれる」ことなく俊敏に対応しつつ、「ゆったりとした気持ち」がなければその「一瞬」にすら到達できないということである。
冷静かつ情熱を持った男
昔、ハードボイルド小説に凝った折に読み取ったダンディズムの境地も
世は、一方に偏ることの方が危険であるということだろう。
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梅雨が明ける前に
2016-07-15
朝から激しい雨音が聞こえる家を出るのも憚られるような激しい降り
梅雨明け近しを感じさせる光景ながら・・・
梅雨明けに豪雨・雷雨はつきものであるが、南国に移住してからその程度の甚だしさに聊か驚きを隠せいない時がある。いやもしかすると、「南国」という地理上の問題ではなく、今や温暖化により豪雨の激しさが全国どこでも増してきたのかもしれない。日本語には雨の種類を使い分ける語彙が、200以上あるとよく云われている。まさに雨と共生してきた風土と民なのであるが、その趣ある事象に変化を来しているのかもしれない。この日は1限の講義がある曜日で8時前に家を出ようとすると、ちょうど激しい降りに思わず躊躇してしまった。約10分ほど待機したが降りは弱くならず、仕方なく「ゴミ出し」をした後に車で大学へと向かった。自宅近辺の道路も側道には水が溜まり、場所によっては車が大きな水しぶきを上げて走る様子が窺える。もちろん僕の車も例外ではなかったが、大学の駐車場に到着し次の難題は研究棟まで歩くこと。傘も役に立たない状況で、青色のシャツを着用していたために、背中を中心に濡れ方が余計に甚だしく見える状態で研究室に辿り着いた。
思い返せばこのような状況を想定して、この地に赴任する際には、アウトドア用品メーカーのレインウェアを購入していた。今にして思えば、なぜそれを着用しなかったのかと思う。たぶん丸3年間で着用したのは数回ほど、なぜか”カッパ”を着用する習慣がない。ましてや春先には、やはりアウトドア用品として撥水性あるパーカーも購入し、肌寒い折に気に入って着用していた。まさしく「宝の持ち腐れ」に後になって気づく始末。よくよく考えてみれば、雨を防ぐのではなく、雨と共生するのがこの風土の文化ではなかったか。それならば濡れるのも粋だと解釈しておいた方が気分的に楽なのかもしれない。昼前から現在進行中の企画に関して、県立劇場の方々と打ち合わせ。シリーズ立ち上げとなる今年は、かなりの手探り状態であるが、お互いに「動きながら考える」といった姿勢で一致。諸々と相談を進めるうちに、やはり「文化」こそ大切にするくにであって欲しいという話題となった。今現在が抱えている問題を、「文化」の力で発信し続ける。地域のささやかな文化発信に取り組んでこそ、明日への希望も見えてくる。そんな柔軟な思いを抱けば、雨もまた「仲間」だと思えるようになった。
天より与えられる「水」の偉大さよ
濡れてこそこの地球に生きているということかもしれない
思い返せば、いつから「雨に濡れてはいけない」と世間が言い始めたのであろうか。
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言うが易し行うは難しは授業なり
2016-07-14
学習指導案作成そして授業実践へ
机上で考えるのと現実で実行することの大きな距離
前期授業も大詰めの時期となってきた。3年生の担当講義では、来るべき9月の教育実習に向けて「授業実践ができる」ことが大きな目標である。1・2年生で学んだ基礎教育や教科専門科目の知識をもとに、それをどれだけ応用できるかが課題ということになる。教育実習では学習指導案を作成し授業が理論的にどのように成されるかを文字化・図式化する。所定の書き方・項目に従って指導の目標や教材・学習者・指導観を記す。単元ごとの指導計画と本時の指導過程に評価や板書計画など、それを見れば授業のほとんどが見えるような書面をまずは整えることになる。まずは、この指導案作成が「できる」ようになるのが大きな目標であるゆえ、前期課題も模擬的に教材を設定し、指導案の書き方について受講者同士の協働活動で理解が深まるように進めている。
だが指導案が「書ける」のと、授業実践が「できる」のとは大きな違いがある。理論と実践をいかに融合するかも、こうした講義内容の大きな課題である。僕自身は文学部出身であり、学部時代の「教科教育法」の講義は、著名な近代文学研究者の先生が担当されていたので(もちろん教育学部に受講に行くのだが)、むしろ「近代文学」に関する知見に興味が湧き、課題はやはり学習指導案作成であったが、その内容や授業実践については、あまり学ばなかったのが正直なところだ。授業のやり方など「自分で考えるものだ」などと、やや斜に構えた姿勢が文学部の連中にはあったように思い返される。よって教育実習も大学附属校であったので、自由に授業をやらせていただき、実際にやってみてその反省から学ぶことが多かったと記憶する。そんな意味からすると、僕が現在勤務する教員養成学部では、誠に懇切丁寧に「授業ができる」ことへと導く講義を展開している。この日も班別の代表者が模擬授業に挑んだが、「やってみて」初めてそれが思い通りに行かないことを実感したという感想が多く聞かれた。授業実践とはやはり、「技術・方法」のみならず「実践経験」に自己の無知を悟り、そこからどのように思考を深めて改善していくしか道はないように思う。よって大学講義もそれに適うように、活動型において学生個々が「実践」を「体験」できることが望まれるであろう。
「単位の実質化」への対応とや如何に
活動型に向けて学生が自ら学ぶ時間を確保する循環を作ること
そうした中でやはり、「文学(教材)」の内実を考えさせたいのが僕の信念でもある。
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雨に降られても悠々と
2016-07-13
朝陽が眩しく差し込む降水確率は20〜30%
結果的に降られてもいいじゃないの・・・
梅雨時はどなたも、洗濯物に頭を悩ます日々であろう。何日も雨に降り込められていると、陽射しが誠に恋しくなる。朝陽が眩しく差し込む書斎、小欄の文章を書き連ねる机上は真東を向いていて、覚醒とともに1日の行動を予見しつつ思考の襞を文の彩に流し込んでいる。文章執筆と同時進行で働いているのが、洗濯機である。とりわけ発汗の多いこの季節は、自ずと洗濯物が多くなる。朝の空模様や天気予報を窺いながら、外干しか内干しの選択を迫られる。この日はあまりにも朝方の青空が清々しく、降水確率は1日を通して20〜30%であったゆえに、気分的に外干しを選択し、タオル類を一応は考慮して軒下を中心に干して大学へと仕事に赴いた。その後も晴天が続き午後を迎え、たぶん乾きにくいタオル類も乾いただろうと思っていると、皮肉なことに確率30%に見舞われる結果となった。
夏休み中に実施する自分の研究室と県立芸術劇場のコラボ企画の勧誘に、地域にある高等学校を訪れた。当校の出身者はゼミでも卒業生を含め何名かいて、勤務先の大学とは様々な点で連携を深めている高等学校である。校長先生をはじめ数名の先生方には、企画のご理解をいただき、昨年度中に教職大学院で学ばれていた先生とも再会した。演劇部を中心にして生徒さんを企画に勧誘してくれるといった話となり、僕としても大変親和的に受け容れていただいたことに嬉しさとともに、地域連携に貢献できた感慨を覚えたところだった。大学へ戻ろうとハンドルを握り、しばらく走るとフロントガラスを大粒の雨が打った。即座に頭をかすめたのは、自宅の軒下に干してきた洗濯物である。「街中だけに雲がかかっており、自宅のある台地は降っていない」などというあり得ない愚かで独善的な希望的予想をしつつ、まずは自宅に一旦は戻ってみようと大学手前でハンドルを切った。庭先を見ると「軒下」の効果も虚しく、風に煽られて雨が横殴りに降り込み、タオル類は既に濡れてしまっていた。だが気分というのはおかしなもので、不思議と後悔や残念な気持ちもなかった。ただ、もう一度洗えばいいと思うだけの素朴さ、どうやら人生もこのように悠々と進めばよいという思いを新たにしたのであった。
夜は懇意にする店で夕食
地元の方にはこの地域の天候をまだ知らないのではと助言をいただく
されど、「知っていても干したかった」確率30%以内だと心の隅で呟く宵の内。
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遠くない明治との連接
2016-07-12
明治生まれだった祖母郷土の昔話もよく聞かせてくれた
大正昭和と駆け抜けた人生から僕が受け継いだものは・・・
母方の祖母は明治生まれであった。幼心に生年月日が「明治」だと聞いいた時、歴史と自分との接点を見出したような感慨があった。その頃もよく郷土に伝わる昔話を、口承で僕たちに伝えてくれていた。なぜ祖母は、こんなにも「昔話」を知っているのであろうか?と驚くこともしばしばであった。例えば、現代において「祖母」たる立場の方が孫に対して、これほどたくさんの昔話を話すことができるであろうか?誠にそれは大きな疑問である。だが、「音読」を取り巻く歴史を調べてみると、そのことが必然な結果であることがわかった。明治というこの国が近代化する過程において、「音読」を中心とする共同体での「読書」から、出版メディアの発達も相俟って「黙読」を中心とする個人の「読書」に変遷したという歴史があるのだった。しかもそれが急激に移行したわけではなく、緩やかに明治期の数十年間を掛けて進行した変化であったと云う。祖母自身の幼少時からの生育環境を考えると、「口承」で昔話を話すことができるのは自然のことだったのだろう。
この一点のみならず、平成の現代でも遠くない「明治」との連接が生きている現象が、他にも多くあるのではないかと痛感することがある。中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の著名な句が作られたのは1931年(昭和6年)ということだが、次第に忘れ去られ続けた明治の「正負の遺産」が、平成の今もなお僕たちの眼前に立ち現われることがあるのではないか。母方の祖父は宮大工であったが、若くしてこの世を去った。だがその本家の所蔵品には、越後長岡藩にまつわるものがあると母から聞いたことがある。明治後期の生まれである祖父母のさらに父母や祖父母を辿れば、容易に明治期や幕末期に至る。すると戊辰戦争のうちなる北越戦争で奥羽越列藩同盟に加わった長岡藩が、どのような情勢であったのかと興味が広がる。幕末明治の大きな世情の変革において、多くの人々の犠牲と努力と悲哀があったことに思いを致すのである。それは決して「遠からぬ時代・明治」の出来事なのだ。「音読」に関して言うならば、昭和の時代までは「新聞を音読する老人がいた」ことは、前田愛の名著(『近代読者成立』岩波現代文庫に所収)で語られていることだ。これぞまさに「明治」との連接が表面化した現象であったのだ。
「音読」を考えるにも明治の歴史なくしては
「短歌」もまた旧派・新派の明治期の対立を知るべきであろう
「世情」もまた、幕末明治期の変革の跡を恐ろしいほど反映した図式が成立している。
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