「叩き台」を練り上げる対話
2016-04-20
叩かれてこそ上質への道揉んで練り上げて新たな発見を
ゼミ発表により良き対話が生まれるために
前週はゼミの今年度の方針や方法を概説したが、この日から4年生の卒論題目についての発表を開始した。現行で4年生5名、3年生6名で僕を含めて12名を3分割して各4名の班を作る。1回につき発表者3名が、この各班を一巡し発表と質疑の対話を繰り返す。卒論題目という要点と方向性を示す内容ゆえに、発表は5分各質疑は10分、計15分3セットににおいて対話を繰り返すことになる。新しくゼミに入った3年生にとっては初めて4年生のテーマについて聞くことになるが、むしろ初めてだからこそ素朴な疑問を忌憚なく発言するよう促す。発表レジュメには、卒論の仮題目とともに50字・200字・400字の三通りの要約文を載せることとし、要点から具体性に至るまで、自ら文章にすることであれこれと模索してきた跡を叩き台として、ゼミという土俵に上げるということになる。
概ね前述のような形式で、ゼミ実施の方法を試みた。僕が学部大学院時代は、1名が発表者となり十数名でそれに対して議論をし、最後には先生がまとめの講評を述べるといった形式であった。実際に昨年までは僕のゼミでもこうした形式を採用していた。だが昔と違うのか学風のせいか、なかなか後輩が先輩に対して遠慮して意見を言わない傾向が否めなかった。なるべく僕自身も我慢して発言を控え、学生同士の議論になることを促したが、今ひとつ活発なものには至らなかった反省がある。たぶん時代や学風が新たな形式を要請しているのだと痛感し、絶対化した自らのゼミ概念を相対化し、より良い方法を採ることにした。4名のうちならば発言をしないわけにはいかず、素朴な質問を素直に投げ掛けられる。更には発表者も定められた時間内に効率よく三度の発表をすることで、次第に内容に「化学反応」が生じる自覚を持つ。まさに「叩き台」となった卒論テーマが、三度の対話を通じて揉んで練り上げられる。最後にゼミ時間中にどんな変化・発見があったかを発表者はコメントし、僕が講評を述べて90分が完結となる。丸型を勾玉型に二分割できる演習室の机を1セット講座で購入してもらったが、このような使用法に格好の設備となっている。
大教室講義型も含め
大学教育にも変化の要請が喧しい
有効な対話を醸成するために有効な方法を模索している。
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思い込みを排さねば
2016-04-19
「もう来ないだろう」果たして誰がわかるのだろうか?
あらためて思い込みを排する重要性を考える・・・
一連の熊本県大分県に跨る活断層型群発地震が続いている。僕自身も「もう落ち着いたであろう」などと考えて自宅にいると、午後8時42分に緊急自身速報が鳴り響いた。居住地は震度3程度であったが、震源周辺の地域では震度5強などの強い揺れに見舞われている。その流れでNHKの報道を暫く観ていると、先週14日夜の震度7から一夜明けて「大きい地震はもう来ないだろう」と判断して、翌日には自宅に戻った方々が大勢いたと伝えていた。熊本市内の大病院の受け入れ体制においても、「災害時緊急対応」を一旦は採ったが、翌15日の朝の患者来院の状況を見て解除したとも報道されていた。こうした状況について、何も批判を述べるつもりは毛頭ない。むしろ、その「判断」への考え方そのものが、自分自身にも当て嵌まるのではないかという危機感を覚えたのでここに記すのである。
特にTV映像を観ているということは、当事者意識からかけ離れる心性に至るのではないだろうか。その上で「自分だけは大丈夫」と、誰もが思いたくなるのも人情でもあろう。過去の大地震の記憶からすると「震度7」が起きたら同等の揺れは二度と来ないと思い込むのも、むしろ一般的な判断だと思われる。だがまさにその人間の「思い込み」を超えた域で、自然は活動しているのだろう。もはや「想定外」という語彙は使用され難くなっているようだが、所詮人間の考えることなど「猿知恵」に過ぎないのだということか。そういえば尊敬する恩師である唐詩を専門とする先生が、僕が大学院生時代の演習でその「猿知恵」ということについて語っていたのを思い出す。人間の叡智など「猿知恵」だと認めた上だからこそ、「言語芸術」たる唐詩を原論的に考究するのだといった趣旨のことを、重陽の宴席で語っていらっしゃった。近代科学はあらゆることに対して人間は「わかった」と思わせ、思い込ませているのではないだろうか。だが実はまだまだ人間など何にも「わかっていない」のかもしれない。思い込みで開発し大自然に逆らう如き機器は、自然による戒めを受けることになる。それを「想定外」と呼ぶのは、まさに「猿知恵」の言い訳に過ぎないだろう。
文学では思い込みを排することが重要
ましてや敬虔たる大自然に対してなら尚更だ
大地が動けば地震と驚くが、動かぬ大地になぜ驚かぬ。
被災者の方々に思いを寄せ
自分に何ができるかを考えつつ
人としてこう考えた。
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短歌講評と若山牧水
2016-04-18
要点・主眼を押さえる冗長に迂遠しない表現とは
短歌の講評と牧水に思いを巡らして
日曜早朝放映のNHK短歌(Eテレ)に今年度は、心の花宮崎短歌会でお世話になっている伊藤一彦先生が出演されている。今回のテーマは「桜」であったが、いつもの短歌会と変わらぬ名調子で選歌された秀作に解釈と鑑賞を施し講評をされていく。テレビ番組であると、とりわけ時間の制約が大きいであろうから、的確にしかも短く歌を講評する口頭表現そのものが、大変勉強にもなる。僕たち研究者はともすると歌を考究するあまり、理屈ばって冗長なコメントばかり考えてしまいがちであることを反省させられる。式典・宴会・朝礼の話はもとより、乾杯の音頭などでは特に人の心に伝わらない上に冗長な話は禁物だと、最近強く思うことがある。尤も短歌・和歌そのものが最短の形式の中で、人の心に訴える最たる表現であることを考えると、講評の仕方にもそうしたよき趣向が表れるのも必然ではないかと思う。どこがその短歌の主眼であるか、そしてまたどこが惹かれる表現なのか、それを明晰に迂遠せず表現する術を学ぶのである。
同番組内では、宮崎が生んだ歌人・若山牧水の歌にも毎回触れていくと云う。僕自身もこの地に赴任して以来、大学の先輩でもある牧水との少なからぬ縁を感じることが多い。ここ最近は岩波文庫版「若山牧水歌集」(伊藤一彦先生編)を、常に鞄の中に携行している。昨年9月には、沼津で墓参し牧水記念館を訪ねている。僕もこの地に住んで、自然と酒をこよなく愛した牧水の短歌を味わうと、様々な点で共感できる点が多い。更には、この日の番組内で伊藤先生が指摘していたことだが、牧水は「意味」のみならず「韻律」を大切にしたと云う。近代歌人は「意味」ばかりを重視してきた傾向がある中で、「韻律」を重視する傾向は古典和歌にも通じる。同時にそれは明治以降の「近代読者」の成立とも、大きな関わりがあるのではないかと考えている。「朗詠」や「音読」の観点から牧水の歌を評してみることに、深い興味を覚えるのである。
講義や発表でも同じ
コメント力を磨くためにも
「やまとうた」の長き歩みから牧水へと連なる線を模索する。
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警戒かつ肝を据えて
2016-04-17
「本日の歓迎会は1次会で終わります」地震の続発を受けて学生の判断した言葉
話をすると実に成長を感じる面々も・・・
気象庁発表では昨日深夜に起きたM7.3が「本震」である、と報道された。「余震は暫く続く」とも報道されていたにもかかわらず、1日後の深夜に再び熊本を悲劇が襲った。どれを「本震」だと形式的に名付けることよりも、今回のごく浅い内陸断層型地震の特徴を市民に伝え、どのような備えが必要かを報道を通じてさらに徹底して伝える必要があるように思った。”今のところ”僕の居住する地域には活断層もなく、地震の影響は少ない。だが地震というのは確実に誘発するのであるとすれば予断は許されない。現に頻発する緊急地震速報のある回では、「日向灘を震源」とすると表示されたものがあった。その折はいよいよと肝を据えたが、幸い極端な揺れには見舞われなかった。そんな状況下、研究発表要旨原稿を送ろうと宅配便配送所まで行くと、「配達の目処が立っていない」と言われた。それでもタイムサービスを利用しやや高い料金を支払い航空便に載せれば〆切までに間に合うことがわかって安堵した。さらに夜は、国語科の学生たち主催の新人歓迎会が開催された。安易に「自粛」とするのではなく、堅実に冷静に日常の「生活」をすることも、こうした際の心構えだと5年前に僕は学んだ。それゆえ何も指示することなく、冒頭に記したような「判断」が学生のうちから発せられたことに、ある意味で教員として実に嬉しい思いであった。
僕も、母が送ってくれた緊急避難具一式を居間に出して、いつでも持ち出せるようにしている。またミネラルウォーターを5箱備蓄し、車のガソリンはあらためて満タンにした。親友のお母様でも、荷物を用意しベッドでは寝ないなど、最大限の警戒態勢をとっている方がいると聞いた。まさに備えあれば憂いなしである。その一方で、自宅近所の親友などは「この辺りの土地は岩盤で揺れには強い」などと、肝を据えた発言を繰り返した。その根拠もないように見える発言が、僕にはこの上なく頼もしく思えた。たぶんいざという時には、この親友の肝が据わった行動力が、何より「現場」を動かすのではないかと思ったからだ。「何処にいても変わりはない」などと中途半端な楽観主義を安易に「発言」することは簡単であるが、要はいざという「現場」で如何に動けるか否かであろう。この近所の親友の貫徹した楽観主義には、他の事象に対しても学ぶ点が多い。僕らのような研究者が如何に「現場」や「世間」を知らない、狭量な「理屈」だけを口にしているかをいつも痛感させられる。ある意味で見習いたい肝を据えた「現場主義」なのである。
九州の地に、如何なる怒りが浴びせられているのか?
熊本在住で教員のゼミ卒業生も車の中で寝泊りしているという
今後も気構えを忘れず、警戒とともに肝を据えて生活しようと思う。
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忙しいからこそ人と繋がろう
2016-04-16
研究・実務・学生対応・管理運営僕たちの仕事の総量をどう分配するか
「忙しい人に仕事が集まる」とは・・・
早朝から大学へと出向き、研究室の書棚などに被害がないかを確認。震度の大きかった地域にご実家のあるゼミ生が、前晩のメールに対して感謝の言葉をくれた。まずは学生たちみんなが、そしてご家族などが無事であったことに感謝しなければなるまい。心に聊かの動揺を抱えながらも、研究発表用の資料原稿を進める。プロであるからには、どんなに動揺してもまたどんなに忙しくとも、本分を疎かにせず冷静にこなせる姿勢が求められるであろう。忙しいから「読書が進む」、忙しいから「返信が早い」、忙しいから「心温まる対応」ができる「人」でありたいと、こうした時であるからこそ、つくづく思うのである。それは換言すれば、向き合う「一人」を大切に思うことに尽きるであろう。自分自身の研究でも事務仕事でも、必ずその向こう側には誰か「人」がいるということ。ゼミでも学業だけを教えればいいというのではなく、学生時代を生きる一人の若者の「生き方」に関わるということだ。それこそが「教育」であり、「人」として生きるということであり、ましてや「人文学」を突き詰める「研究」でもあるはずだ。
学生時代から、「役割」を引き受けやすい性格なのかもしれないと己を顧みることがある。書道会というサークルで幹事長を務め、更には東京学生書道連盟展覧会の実行委員長、有志会「空海の会」でも代表を務めた上に、所属学部の日本文学専修では学生研究班の代表幹事になっていた。よくもこれだけの「長」をこなしたものだと、こうして羅列するとあらためて自身の過去に驚きを隠せないが、その陰には協力を惜しまなかった親友たちの顔がたくさん浮かんでくるのである。今思えば、このような学生生活を送ることで書物に向かう時間は削られてしまったとも思わなくもないが、卒業後に現職教員として大学院に入学し直した際に、その分を躍起になって取り返したのだと自負できる。やはり動ける限りは動きながら考えた方が、物事は好転した上に貴重な人間的な繋がりを得ることができるのではないだろうか。4月になり今年度も半月が過ぎたが、15日間に青天の霹靂の如く降ってきた実務は、かなりの「重量」があるのだと実感している。だからこそだ、だからこそ研究にも真摯に向かい、学生にも心で対応しようと、その意識や姿勢が高まったのだと思っている。
九州地方の地震は予断を許さず
だからこそだ、ゼミ生を始め各地で頑張っている人々へ助け合いの言葉を。
「それでも人しか愛せない」(海援隊「人として」)
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緊急地震速報とこころの輪
2016-04-15
あのこんにゃくを握り潰したような音が久しぶりにスマホから鳴り響いた
緊急地震速報そして多くのみなさまからの連絡
近所の馴染みの店で、夕食を取っている時のことだ。いつものように店主ご夫婦と談笑していると、「あの音」が久しぶりに僕のスマホから店内に鳴り響いた。みなさんが「何っ?」と声を上げる中、僕の身体は3.11以後数ヶ月で得た感覚が再び起動し、席を立ち店の戸を開けようと身構えた。その何秒か後に、照明器具が聊かの音を立てて揺れるのをみんなが静観した。僕は直後にスマホでTwitterを立ち上げて情報収集。これも5年前の3月11日14時46分直後にとった行動と同様である。その時スマホ画面に映し出された「震度7 震源地:熊本」の表示を思わず僕は大声で読み上げた。店の奥様が即座にテレビのチャンネルをNHKに変更すると、熊本局の固定カメラが大きな揺れで振り回されながら市内の様子を、ブレた映像で伝えていた。九州山地を挟んで東西の反対側の熊本で、予想もしなかった大地震が起きたのだ。数分の後、店の中は落ち着きを取り戻し、店主は居住する土地の地盤がかなり良質であることに安堵し感謝するごとき言葉を繰り返した。そうこう深刻な話をしていると、僕のスマホに東京の母からの電話が鳴り響いた。
その後は、新潟の従姉妹、北海道の中学校野球部での親友、各地の教え子、東京のお店の常連仲間の方々などからメールやSNS上で、心配をする気遣いのメッセージが相次いだ。当面、Twitterにおいて僕自身が無事であるという旨の書き込みを表明し、できる範囲で個々のお気遣いに返信をした。同時にゼミで熊本方面に実家のある学生や、熊本で教員として頑張っている卒業生に僕はメールをした。更には阿蘇に住む友人など、頭に浮かんだ熊本在住者にでき得る限り連絡をつけた。NHKの報道を見ていても、未だ被害状況は十分に把握できなかったが、メールやメッセージをした何人かの方々からは、返信が届き無事が確認された。微細な安堵感を覚えながら、あらためて地震の恐怖を感じた僕は、同時に親族親戚をはじめ親友たると思える方々のお気遣いが存分に感じられたことに、心から感謝した。更にはこの懇意にする店主ご夫妻が、「いざという時は、うちに食料はある」と言ってくれたり、地震や津波の折にこの街はどのように対応できるかといった話になったことに限りない心強さを覚えた。もちろん更なる高台にある大学キャンパスは「避難所」に指定されているわけで、そんな折には地域住民の方々への対応を僕自身も考えなければならないなどと、様々な地域の対応に想像を巡らした。その後も余震が続き、自宅へ帰って寝床へ入ってもまた、緊急地震速報が再び鳴り響き、安易に安眠できない一夜を過ごし今に至る。
母も「その店にいるなら安心」と太鼓判
自然の大地は必ず動く、それゆえに矮小な人間はどう対応したらよいか
人と人とがつながり合って強固で柔軟な「こころの輪(和)」を築いておくことしかあるまい。
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授業の遅刻防止策
2016-04-14
起床・覚醒・動作如何なる規則性の中で教室に来るか
朝一番の授業に至るまでの身体
前期時間割では、週に2回朝一番の授業がある。所属学部のカリキュラムは比較的過密で、なかなか自分の思い通りの時間割希望となることはない。聞いた話によるとどうやら前任の先生が「朝型」を好んだらしく、僕の時間割は早い時間の設定となっていると云う。更には時間割全体が4限(〜16:20)までの間で殆どの科目が設定されているので、むしろ夕方に至る時間割になる確率も少ない。「朝一番」とは8:40〜である。医学部キャンパスが車で5分ほどの場所ゆえに、移動を考慮し各休憩時間が20分の設定になっている。概ね都市部の大学の始業は9:00〜であったが、8:40〜というのは小中高校と同じ次元である。(もっとも母校学部在学中は夜間開講の関係で8:20〜であったが)この状況であるゆえ、1限の授業には学生の遅刻も比較的目立つ。この日に開講された授業でも、数分から最大20分ほどの間に7〜8人もの遅刻者がいた。(それでも「少ない」と思われる方もいるかもしれないが・・・)
「遅刻したら教室の前の黒板の隅に、自己申告で現在時刻と名前を書き記す」というのが僕の授業のルールである。教室にいるすべての人たちが「遅刻の証人」となる。大学生たるや、遅刻にいちいち苦言を呈している暇はない。ましてや講義で話をしている流れを切られるのが、僕は一番嫌いである。この日は「授業ガイダンス」の内容であったので、「見本」になる人が複数出てくれたわけである。前述の「ルール」を指示し実行してもらったが、この日は「説明」ということですべて記録としてはリセットした。来週からが「本番」でカウントが始まる。では遅刻しないためにはどうしたらよいか?常識であろうが、「規則正しい生活」以外に道はない。授業を繰り返し行っていると遅刻者は固定されてくる、これは中高でも同様だ。そういう学生は、遅刻してしまう「規則性」の流れで生活をしてしまっている。なかなか、前倒しする矯正ができないわけだ。どうやらこれは学生に限らずのようで、ジムのスタジオクラスにも必ず毎回遅刻して入場して来る方がいる。ヨガで最初の瞑想をしているときなどは、誠に迷惑であると僕は感じているのだが。
規則性ある朝の生活
1日すべての仕事が順調に流れ出す
教育実習へ向けての授業ゆえ、こうした身体性も学んでもらいたいと願う。
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この20年で教育の何が変わったか?
2016-04-13
巻頭に記された「教育崩落」について約20年前に出版された『国語教育改革論』
その間に育ってきた学生たちと議論する
新年度初のゼミを開講。昨年からの4年生5名と、新たに3年生6名が加わり僕を入れて12名の所帯となった。従来は僕の研究室で実施していたが手狭となったので、向かいにある「国語演習室」での実施。ちょうど僕が発案して購入した「勾玉型」の机があり、6人から8人程度で囲み二分割すると半数の数でも議論できる形態になる。12人を三分割し4人で1班となり、個々のゼミ生がより少人数で積極的に意見を言える環境を整えたかったゆえの設定である。そして最後に12人全員で出された意見を共有し、ゼミを纏めていく。もちろん僕自身も特別な存在には敢えてならず、議論にも発表にも与することにする。初回のこの日は、冒頭のような書物の巻頭文を読むことを契機として、「私の国語教育改革論」を議論した。この書物は文学を専門としてきた僕自身が、現職教員として大学院修士に入学し直した際に、国語教育を直接学んだ故・大平浩哉先生の御高著である。
受験のみに躍起となって囚われる偏差値教育。管理を重んじる一律な指導。生徒の教師への暴言的な発言等々、『国語教育改革論』に記された当時の問題は、未だなお継続的な課題として教育現場を縛り付けている。ただSNSの普及などで「暴言」などはむしろ陰湿化し、陰で膨大な情報が飛び交い、子どもの間でのいじめや教師への風当たりは増してきているのが今の時代である。学校で行われる「話す・聞く・書く・読む」は建前に過ぎず、子どもたちはその仮面を表面上は被りながら、裏ではスマホなどの上で「ことば」のやり取りを中心にした言語生活がある。高校大学に入試がある以上、その内容に授業内容も縛られて高校などが予備校化し、入試対策が授業の中心となる。僕自身もこの20年を考えれば、中高一貫校の教員としてその流れの矛盾の荒波に対峙してきたといってよい。ならば入試改革が求められるという話題にも及んだが、ゼミ生の中には「スピーチ」が高校入試で課された経験がある者がいて、その経験によって「話す」ことに自信が持てるようになったという報告もあった。大学入試改革も急務であるが、一次で基礎学力試験を経ての2次試験では、評論や文学教材を題材としながらグループ対話などの議論で自由に意見を言い合い、その後に「朗読」などの表現活動を課すような入試が理想的ではないかと僕は考えている。さすれば、高校の教育内容を大きく改革できるのではないかと期待できる。
これから教育現場に向かうゼミ生たち
自己の生きてきた20年の教育経験を相対化する
そしてまた僕自身が研究してきた20年も、相対化せねばならないことを学ぶ契機となった。
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一声ある仲間のありがたさ
2016-04-12
「中村さん参加しますよね」久しぶりのクラス参加をを迷っている折に
一声ある仲間がいてよかった・・・
新年度前期授業も先週金曜日から開始され、再び規則正しい生活時間が戻ってきた。何事も物は考えようで、前向きでプラスな捉え方をすれば行動していても活力が湧いてくる。午前中は研究課題を進め、昼前後は会議と諸々の雑務、その後は今週の授業準備と時間配分も型に嵌って順調に流れる。そんな中において、諸々の相談がすぐにできる同僚の先生の存在がありがたい。学生の状況を始め「教育」に携わる現場にいれば、やはり情報の透明性と共有性は絶対条件であろう。身近にいるのに知らないことがあれば、不信感が不信感を産んで疑心暗鬼になりかねない。そんな意味でも、僕は同僚の先生と講義を始め諸々のことで話をする時間を大切にしている。その対話から日々の学生への対応が、充実してくると実感できるからだ。誠にありがたき仲間である。
仕事を終えてジムへ。此処にも入会して丸3年の月日が経過し、日頃から話をする会員仲間も数多くできた。昨年末からは、筋トレプログラムとヨガなど柔軟性を高めるプログラムを中心に取り組んできた。以前より適度な筋肉が付き、足腰を中心とする柔軟性も高まった。だがしかし、有酸素運動を行う機会が減少したため、どうしても体脂肪率が自分の思惑よりも高目になってしまっていた。そこでこの4月を機に、有酸素運動のプログラムに参加しようと目論んでいた。何事も久しぶりに臨もうとするものは、踏ん切りがいる。聊か迷いながらストレッチマットへ向かうと、予てからの仲間の方々がいた。そのうちの一人の同年齢の女性が、冒頭のような言葉を掛けてくれた。思わず「出ますよ」と答えて、何なくプログラムへの参加できた。ここでも仲間のありがたさが身に沁みた。
学生に会ったら一声かけよう
会議などと建前にこだわらず情報共有を
「仲間」と思える人々とともに、何事も活動したいものである。
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わだかまりを避けること勿れ
2016-04-11
「寓話は消化し切れないわだかまりを読者に植え付けるからこそ、時代を超えて残るのだ。」
(朝日新聞9日付 井伏鱒二「山椒魚」の朗読音声に対する島田雅彦氏の指摘より)
「わだかまり」を日本国語大辞典で引くと、「(3)心の中にこだわりとなっている感情。相手に対する何らかの不信、不満のある心情。すっきりしないこと。また、心中の晴れない思い。屈託。」とある。元来が「(1)かがまり曲がること。かがみ伏すこと。」の意味で、「(2)心がねじけていること。いつわりの気持ちや悪意を持っていること。」や「(4)くねり曲がること。滞っていること。」などの項目もある。まさに、心中に「屈託」という漢語で表現されるものが留まる状態というのが言い得ているようだ。井伏鱒二が作者として録音した「山椒魚」の朗読を、島田氏は「下手」とすると同時に「絶望と戯れる」と評し、「残酷」とする結末にある種の寓話性が見出せるというのである。前週の同記事で谷崎「春琴抄」をいとうせいこう氏が評したのに続き、「感情を抑えた」ような「棒読み」こそが内容を聞き手の感情のうちに素直に伝えてくるという点が大変興味深い。それはある種「古典芸能」の発声にも通じるといとう氏は云う。
だがしかし「国語」の授業では、その肝心な「わだかまり」を残さないために「教訓」を無理矢理こじつけて、小説や物語を「教師(教育)の独善」たる地上に着地させてしまう。その「教訓」に向けて試験なども行われるために、学習者は「評価」の脅しによってその読み方を強制される。持つべき「わだかまり」を強引に引き伸ばし、心の「屈託」を「直線」にされてしまう。「寓話」の持つ本来の価値が建前のもとに正当化され、むしろ学習者の心に残らないばかりか、不信感を持って嫌悪し隔絶するような事態が生じているような気がしてならない。ある意味で学習の動機付けは「反感」にあって、その「屈託」を自分の力で何とかしようとすることで学習意欲が湧くのではないか。恵まれない状況に置かれた者が、心身ともに「空腹」たる状態から脱するために努力を積み重ねるように、「屈託」を味わってこそが小説や物語を自己の内に活かすことができるはずである。考えてみれば、人生を歩むと「わだかまり」の連続である。直線的に何の障壁もなく歩めば、人としても磨かれることもなく、むしろ退屈な日々となるのかもしれない。教育にも社会にも、あまりにも建前の綺麗事が横行し過ぎてはいないだろうか。
「かがみ伏す」ところから飛び上がる
自ら跳ね返す力を養ってこその教育ではないか
「屈託」に疑問を投げかけたところから自ら学ぶ「国語」が始まる。
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