要は質でしょ

2015-10-31
体重測定をして思うこと
何処の何が増減したのか?
脂肪と筋肉との量における関係

忙しさに任せて、以前よりはトレーニングジムへ行く頻度が減少した。それはそれで研究・教育への従事度が上がったわけなので、悪いことではないと思っている。体重も1.5Kgほど増量、これもやや細すぎるのではなどと指摘を受けていたので、問題はなかろう。BMIによる標準体重には、それでも1.5Kgほど少ない。ただ増量した内実を鑑みてふと考えた。トレーニング不足で増えた体重は殆どが脂肪であるということだ。増量するならば筋肉量であって欲しいと切に思うのである。何より脂肪というのは腹回りから纏わり付き始める。それが何とも怠惰の象徴のように思えて、やるせない。「動かさない」ということで、これほど質が低下するということ。たぶんそれは脳もまた同じではないかなどとも考えたりする。

年代が上がるに連れて、筋肉量は確実に減少すると云う。ゆえに意識して筋肉を鍛える必要がある。この7〜8年の間、それを励行して来た。ただ走るとか有酸素運動に躍起になるのではなく、全身各部の筋肉量が落ちないように、むしろ増量するようにトレーニングに励んで来た。その甲斐あってか、体重も腹囲も学生時代とほぼ同じ数値を維持している。だが気を抜くとそれが脂肪に変転することを今回は実感した。大腿筋・胸筋・肩甲骨周りなどの大きい筋肉も然り、また腕の表裏にふくらはぎなどの小さめの筋肉、更には身体のやや奥にある見えない筋肉も均衡を保って鍛える必要がある。こんなことを考えた矢先に、通っているジムで新たなスタジオプログラムとして筋トレ系のものが導入されるという朗報。僕が東京在住の時は、このトレーニングで心身が保たれていたといっても過言ではない大好きなプログラムである。まさに「渡りに船」となった。

質に注目できる視点
意識して駆動させる作用
要は何事も量より質でしょ!
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想定外なき世の中で

2015-10-30
歩道を車が暴走する
尋常ではない出来事が身近な場所で
想定外などない世の中と心得るべきか

居住地市内でも有数の大きさを誇る書店があるので、よく往来していた歩道。更には2年後に研究学会開催にあたり会場下見として、駅からの距離を徒歩で確認したのは今夏のこと。そんな馴染みある場所で、考え難いことが起こってしまった。全国のトップニュースを飾った歩道での自動車暴走である。ちょうど発生した時間帯には、僕は市内の附属小学校で研究授業をしていたので、そう遠からぬ場所にいたことになる。附属小学校からの帰り道はどの道も普段とは違う大渋滞であったのは、このためであった。昨日朝になってTV報道を見るに、あらためてその歩道の幅だとか、形状などを経験的に思い返したりしてみた。どう考えても、そこを「車道」と認識して700mも走れるものとは考え難いのである。

もはや「常識」では考えられない事が起こる世の中と、心得ておいた方がよいのだろう。つい先日も、家から市内に向かうバイパスを車で走行していると、空港方面に下りる側道から逆走した車が上がって来て、進行方向に従って下りようとしていた車と双方正面で接触している直後の光景を眼の当たりにした。ニュースで報じられる光景のみならず、「逆走」などは身近で起こるものと心得るべきだと気を引き締めた。人口の高齢化が加速する中で、認知症である方々の社会生活のあり様は、今後の大きな社会的課題であろう。他人事ではなく身近で、そしていずれ僕たちも確実にその高齢化社会の一員となって生きていくわけである。人口密度の高い都会でも孤独な高齢者の問題が、そして地方でも同様ながら、さらに車社会である交通事情が様々な問題を抱える状況だ。「健康長寿」が唱えられる中、この国が本当に平和で健全に進むためには、この問題こそ急務な課題であるはずだ。

10年前からこうした人口動態はわかっていた
今も10年20年後の予測が報じられている
社会は政治は何をして来たのだろう?もう身近で惨事が起きているのである。
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プロトタイプで突っ走れ!

2015-10-29
試作を現場で実践してみる
様々な長短所が見えて来る
現実的な問題提起をせずして進歩なし

嘗て自動車のラリーが好きだった頃があった。ラリーにもいくつかの種類があり、「WRC」といって世界各地を転戦して年間総合成績で競うものが有名だ。各地の特徴を活かした悪路を走るのだが、自然の過酷さと対決するというよりも、車の性能とメーカーの威信をかけたスピード合戦といった様相がある。それに比べて通称「パリダカ」というアフリカの大自然の中を走破するラリーに、むしろ僕は惹かれていた。パリからアフリカ西海岸のダカールまで、壮絶な距離を過酷な自然の関門を何度も越えて走り切る。リタイアする車も多いのだが、部門も四輪・二輪・トラックといったカテゴリーがある。もちろん競技に参加しているのと同時に、トラックは最先端を走る「プロトタイプ」と呼ばれる試作車のサポートをし、開発したメーカーの次世代の夢を支える存在でもある。そんな理念の冒険的開拓の意味をもったラリーに、僕はある種人間としての憧憬を抱いていたのであろう。

さて、附属小学校6年生の児童を対象に、僕が研究授業を実践した。小学校6年間で「音読・朗読」の学びはどのように蓄積され発達して来ているのか。小中一貫も視野に入れて、その接続点でどんな学力として確認しておいた方がよいのか。このような問いを実際の授業で展開する、まさに試作車走行のような内容であった。一次言語(音声)から二次言語(文字)に移行する低学年の頃に身に付けたことは、意識化されているのか。「文字」を使用しない「ことばあそび」を体験させることで、無意識を炙り出す試み。「響き」の内実は何かを可視化(体感)するために、手拍子を打ちながら詩を読む試み。教室全体を左右に分けて「聞き合う」ことで、音声から内容を理解し、更に黙読をすることで「自分が心の中で読む声をもう一人の自分が聞き合う」といった試み。2人1組となって、相手に分かるように音読し合うという活動。そして4人1組で詩に対する感想を短いコメントにまとめ、その「思い」を他者に対して伝えるには、どのように朗読したらよいかを考案し発表する活動。ざっとこのような授業を試案して実践した。まさに「試作車の如き走り」になったわけで、全てが潤滑に走れたわけでもなく、不具合を生じる箇所も散見され、自分自身ではまったく納得のいかない授業となってしまった。されど、それでこそ研究者教員が実践する「授業」なのだと自分で着地点を見つめる検証が、今後求められるのであろう。

安定した走りをするのが目的ではない
より高度で効果的な実践を開発すべく走るのだ
嘗てパリダカを制覇した車は、日本でも一世を風靡したことがあったのだから。
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研究授業準備での胸の高鳴り

2015-10-28
構想し準備するとき
現実にどうなるのだろうかという不安
同時に試案を実現する胸の高鳴りも・・・

昨年度は附属中学校、今年度は附属小学校で研究授業を行うよう指名いただいた。教科教育法を担当する大学教員として、自らが現場で授業をできなくてどうするのだろうか?そんな疑問を以前からもっていたので、こうした場を与えていただいた附属校の先生方には、心から感謝申し上げたい。今や「教育」は「恊働性」と「能動性」を鍵として、新しい地平に踏み出した感がある。いや従前からこれらの理念はあれど、なかなか現場の感覚として定着してこなかったといった方が正確かもしれない。僕たち教員養成に関わる大学教員自身が、「自己批判」の視点を存分にもって教育・授業のあり方を問い直していくべきである。こうした意味で、附属校での実践授業機会は大変貴重である。

日頃は学部生や院生の学習指導案に対して、批評し意見を述べている立場であるが、今回は自らが指導案を提起する。そこに刻まれた文字が、現実に「授業」となると思うと、期待感で胸が一杯になる。1回のみの「投げ込み授業」ではあれど、児童らに「国語」の楽しさを存分に味わってもらいたいという希望を込めた指導案を作成した。更には教材開発したプリントを作り、黒板に貼付ける掲示物を毛筆で書き連ねる。作業の随所で想像するのは、児童らの反応である。果たしてこちらの思惑通りに事が運ぶや否や。期待以上かもしれないと思うと同時に、敢え無く構想は敗れ散るかもしれない。だがどう傾いたにせよ、人と人とが「文学」を介して豊かなことばを交わす45分間が、儼然としてそこに立っている事実はあるはずである。

理論と実践の融合
そんな机上のことではなく泥臭く自ら現場の教壇に立つ
この胸の高鳴りを聞くに、やはり僕は「教師」なのだと自覚する。
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空気は読むものにあらず吸うものなのだ

2015-10-27
大都会の雑踏から生還
大海原と山の樹木が作り出す新鮮な空気
やはりこの地方がよいと実感するひととき

いまこの生を維持するのに、不可欠な空気。だがそれほどに大切なものに、我々は無頓着だ。異質な対象物があると物事が見えやすくなるとは、昨日の小欄にも記した趣旨だが、大都会と地方の空気の差を実感するときほど、後者の恩恵のうちに生きているのだと気付かされる。ともすると迅速と喧騒と密集の蠢きに乗ってしまいそうな都会育ちの心性は、真に人として生きるために重要なものを嗅ぎ分ける理性をもつことができるようになったのかもしれない。つい先日も地域の書店で、「地方移住」をテーマにした雑誌や書籍が特集されているのを見た。人間らしく生きるとは、新鮮な空気を吸うことに象徴されるだろう。

ある学生が「空気を読んでいては、空気は変わらないんです」と発言したと、天声人語に教えられた。この「空気」なる語彙は、ここ10年ほどの間に粛々と社会で醸成されてきてしまった悪意ある罠のように思えてならない。多くの人が気付かぬうちに、事態は着々と蔓延している。まさに悪性腫瘍の恐怖のごとく、社会の奥深くに病巣を張り巡らしている。それが1940年前後の雰囲気と似通っている、という指摘も随所でされている。あまりにわれわれにとって無自覚に、「空気」は汚染され続けている。「公害病」の歴史を見れば、僕たちはこの社会が如何に悪辣な病いに侵されているかを明白に知ることができる。罪なき常人がある日突然、耐え難き症状に身を屈めるという惨状なのだ。いずれの「空気」にしても僕たちは、その汚染に対して無自覚であってはならないだろう。

空気や水を美味しいと思える感性
汚れた空気を無理に読んで迎合していないか
生理的にそして市民として健全な空気を吸って生きていきたいものである。
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感覚が違う人と対話できる力

2015-10-26
なぜその教科を学ばなければならないのか?
生きる上での学びとは何であろう
時代とともに教員の役割はどう変質しているのか・・・

均質性・横並び・平等な社会を形成することが自明であった時代は、既に過去のものとなったのであろうか?多様性・能力効率主義・格差があることに大義ある時代が到来して既に久しい。自由に競争しある特定の枠組みの能力に長けた者が、一部で大きな力を握る社会ともいえるであろう。そこで注意したいのは、多様性を認めることを表面に掲げることで、無自覚に格差が助長されてしまう傾向である。誰しもが知らぬ間に足元に忍び寄る抑圧的な力が、やがて多様性の仮面を剥ぎ取り、重石で上から抑え込まれたような横塊を構成する。僕たちはこの嵌まり込んではいけない二項対立の圧力から、自由になる道を選ぶべく同調圧力を注意深く拒む必要があるのだろう。

冒頭に掲げたテーマを記そうと筆を進めるうちに、やや趣旨が反れてしまった感がある。だがしかし、教育・学校・教員という存在を考えるとき、こんな社会のあり様に対して常に自覚的でありたいと思う。それは教育そのものが、将来の社会を構成する要素を種のように子どもたちの内部に蒔くという行為に他ならないからである。それでは「国語」という教科の中で、子どもたちに提供する「夢の種」とは何か?2日間の研究学会に出席しながら、いつもこんな疑問が脳裏を逡巡していた。「教材内容」「教科内容」「教育内容」を意識して授業を構想して行く教師の養成。理論と実践の狭間で均衡をもった対応のできる感覚。新たに喧伝されている「アクティブラーニング」なる方法に潜む危うい罠への自覚。何より大学という教育の場で教える教師自身が、時代に即応し過去・現在・未来において批判的な視点をもった教授法を採り得ているか。異質なる他者に出逢い続けて、自らの感覚を研ぎ澄ましているかが問われるのではないか。等々という自問自答が永遠に続くのである。その上で「夢の種」と共通する理念は、「感覚が違う人と対話できる力」という点に、とりあえずは漂着するのである。

研究学会を終えて寄席へ向かう
友人である噺家師匠の晴れ姿
彼を介して、また僕自身が異質な他者に出逢い続けることができるのである。
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「アクティブラーニング」を考える

2015-10-25
「正解と納得解」
個別から班別へ更に発展的な問いへ
多様な解釈を自分で価値判断を下すこと

昨今、教育政策によって「アクティブラーニング」なるものが推進されている。教師が教え込むことから、学び手が自ら活動し学習することへ焦点が移動したということである。これほどまでにインターネットの普及した世の中では、情報獲得だけならば学校空間に行かなくとも可能である。それゆえに、学校で対面する意味があらためて問われているともいえるであろう。こうした議論は、嘗てからないわけではなく、常に「網羅主義」と「活動主義」の対立の中で振り子がいずれかに傾き、"詰め込み教育"だの"ゆとり教育"だのといって相互に欠点のみを露出して、結論の出ない不毛な議論が続いてきたともいえよう。知識も確実に身につけつつ活動を行い実用に資する教育方法が模索されて然るべき時が来ている。

こうした議論の中で、学力観も大いに変わった。1「主体性・多様性・協働性」2「思考力・判断力・表現力」3「基礎となる知識・技能」といった優先順位で学力が措定されるようになった。換言すれば、「やらされる学習」から「自ら学ぶ学習」への転換である。そこで学びの深さと能力に「階層性」があることを意識せねばならず、活動が優位になるほどに、緻密な教授戦略も必要になってくるわけである。以上のような内容を、全国大学国語教育学会西東京大会のシンポジウムで学んだ。主として、京都大学で教育方法を専攻として研究されている松下佳代氏の基調発表での覚書を元としている。懇親会の折に松下氏とお話する機会を得た。この後期から「協働型活動講義」を展開している僕の現状をお伝えした。

「学生の授業レビューが簡素で浅いものになってしまいました。」
「私の講義でもそれは感じております。そこからどう深めるかを模索して行くべきかと。」
更なる工夫が求められるが、活動型にした明らかな兆候は出ているという納得解が得られた。
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圧力鍋では真に煮込めないか

2015-10-24
手早く煮込めるのが利点
だが圧力鍋では本当に美味しい煮物はできないのか?
一気に事を決しないことの尊さを考える

時間に追われている現代人にとって、安らぎの場所が一つや二つ欲しいものだ。僕の場合は、1、2ヶ月に1回はそうした場所を訪れる。身を預けて髪を整えてくれる処、そしてすこぶる足元の安定するカウンターのある隠れ家である。そうした場所での話は、なぜかとても哲学的な色彩を帯びる。この日も偶然に会った方と話していると、「圧力鍋よりじっくり時間をかけて目をかけて煮込む方が美味しい料理ができる」といった話題となった。実際に比較したことがあるわけでもなく、圧力鍋そのものを使用したことも殆どないが、妙に納得してしまった。

昨今、何事も早く効率的な方が良いとされる世の中となった。遅滞したり迂遠であるのは忌避されるのが必定である。だが、じっくり時間をかけた行動にこそ、核心的なものが成立する要素があるのではないだろうか。じっくり行うには、それなりの忍耐と繊細さが必要となる。具材がどれほど煮詰まったかと、常に配慮する優しき心掛けが求められる。遠回りをした道で、掛け替えのない人に出逢うこともあるかもしれない。あまりにも早かったりする行為には疑いの目を向けるべきだろう。きっと心なく対象に背き、暴力的に事を解決しようとする思想が潜んでいるに違いない。

「自己への懐疑と疎隔化」
じっくり行う尊さを思い出そう
脈々と丹念に・・・・・
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ビブリオバトル地区予選会

2015-10-23
どの本が一番読みたくなるか
出場者の口演を聴いて質問し投票する
大学図書館で開催された地区予選会

今年度から附属図書館運営委員を拝命しており、大学図書館の活性化について考える機会が多い。学生が専攻する学びをいかに支援するかをはじめ、学生たちの読書推進についても様々な議論に加わっている。図書館企画の中に「ビブリオバトル」が以前から開催されており、僕自身も興味を惹かれていた。内容は冒頭に簡潔に記した如くであるが、5分間で自分が推薦したい本についてプレゼンテーションをするわけである。その本の魅力を如何に聴衆に伝えるか、まさに国語教員養成の上では必須の内容であろう。今回は学内各学部から5名の出場者があったが、僕のゼミからも1名の女子学生が、代表して出場することになった。

僕が学校図書館司書講習を担当すると、その演習として「ブックトーク」を実施している。受講者複数人で推薦本を持ち寄り、関連するテーマを模索し一つの流れを作り、子どもたちが本に興味関心を深められるようなトークを創作する。特に小中学校の児童生徒を対象とした場合、単なる紹介のみならず、格好な部分の朗読や劇仕立ての演ずる行為なども求められる。推薦者が押し付けではなく、自身も楽しくなるような内容が適しているわけである。今回のビブリオもまた、同様な基準での深浅を感じることができた。技巧や当てつけではなく、本人がどれだけその本に愛情を持っているかということである。その基準において、僕のゼミ生が5人の出場者中、一番本への愛情が深かったという結果となった。

ゼミ生は、南九州ブロック決勝へ進出
来月、鹿児島で開催される
教師の卵として、あらゆる経験を積んでもらいたいと思う。
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身体ワークでコミュニケーションを考える

2015-10-22
エアーキャッチボール
喜怒哀楽超幸せおはよう
背中に声を届けよう

後期から図書館ラーニングコモンズに場所を移動しての講義2回目。演劇的身体ワークを随所に取り入れながら、初等教育「国語」での「話す 聞く」分野について考える内容構成で実施した。冒頭にあらためて今期シラバスの確認を5分、次回から授業冒頭に各班内で1人ずつ絵本1冊の読み語りを実演することを告げること5分。その後、まずは準備運動で「エアーキャッチボール」、「空気の球」を班内で投げ合い受け合う動作を1分間演じ続ける。声で投げる臨場感を出したり、どのような形状の球であるかを動作で表現し共有する。その後、9月の教育実習で「自分の声が子どもたちに届かなかったケース」について班内で話し合い、要点をまとめて全体へ発表する。教師として教場での「届く声」について何が問題であるかを炙り出す。

中間点で再び身体ワーク。2班相互に向き合い、「おはよう」の挨拶に「喜怒哀楽超幸せ」という5つの感情を載せて相手に届ける。「喜びのおはよう」や「怒りのおはよう」を演じてみるわけであるが、サンプル班に実演してもらうとまだまだ遠慮がちである。実際に各班ワークになると、打ち解けてなかなか豊かな「超幸せおはよう」などが飛び交うようになる。教師には「演技力」も求められるであろう。次は有名な「背中に声を届けよう」ワーク。後ろ向きの5人ほどの中で1人を指定し、相手の背中に向けて「こんにちは!」などと声を投げ掛ける。投げ掛けられたと感じ取った者は、振り向いて意志表示する。これがなかなか難しい。教室では個別の子どもたちと的確にコミュニケーションをとる必要がある。僕はこれを「教室コミュニケーション」と呼んでいるが、それに対して自覚のない教師が現場にも多い。講義の最後には再び「何が原因で子どもたちに声が届かないか」を班内で討議し、最終的に個人思考で授業レポートとしてまとめる。

動いて体感する
学生の討議で講義が構成される
あらたなる能動的な教授内容を模索中である。
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