Facebookの教え子たち

2015-09-30
1枚の卒業式写真
FBで繋がっていることで
蘇るあの頃そしていまの人生・・・

Facebookとは誠に便利なもので、日常的に連絡を取り合わなくとも、相互の近況を常時知ることができる。1年いや数年ぶりに会った友人でも「あまり久し振りには思わないね」と言って、近況を話題にした会話に興じることができるほどだ。これが以前であれば、何らかの「名簿」を引っ張り出して、せいぜい「年賀状」を出し合い「年1回」の交流を続けるだけとなっていたはずだ。連絡先はわかるのだが、実に形骸化した付き合いとなっていたのである。(現に年賀状のみで、こうした付き合いの知人・友人も多い)それに引き替え、前述したFacebookの効用は誠に大きいと賞讃に値する。

この日は、僕の初任校の教え子が「卒業式」での写真をメッセージに載せて送ってくれた。遥か20年以上も前の1ショットである。当人のことは大変印象深い生徒として記憶に保存されていたが、最近Facebookで繋がったことで、その記憶が更に覚醒された感がある。当時、どんな進路面談をしていたかとか、どんな部活でどのような嗜好を持っていたかなど、あらためて僕の脳裏に浮上して来た。人間の記憶というのは誠に「お調子者」である。否、こうした回想で活性化すればするほど、隠れたハードディスクに格納された記憶が蘇るということ。さすればFacebookによって、人生の記憶はより複層性をもったものとして彩られるということだ。

あの日あの頃
回想の中の青臭い自分自身
教え子もまた人生の一端に、僕との写真を置いてくれている。
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もう始まってやしないか

2015-09-29
「交通戦争」に「受験戦争」
嘗ての語彙が形を変えて
もう我々のすぐ傍まで忍び寄って来ている

暗澹たる報道を多く眼に耳にする。まったくもってこの世間はどうなってしまったのか、などと思うことが多い。自動車が暴走し店舗や信号機などに激突し、死傷者が出る惨事。通学中の未来ある子どもたちが、犠牲になることも稀ではない。また親族間や恋人同士の諍いに起因する、殺害殺傷事件の多いこと。個々の事例に個別の事情があるはずで、一括りにすること自体が乱暴ではあるのだろうが、それにしても荒んでしまった世相が反映されていると実感するのは、僕だけではあるまい。更にはWeb上での「殺害予告」等となると、まったく陰湿で自らは顔を見せず、堂々と世間に自己の考えを訴えた者を陰から攻撃し、果ては犯罪行為としての「脅迫」に及ぶという許し難い行為が起きているのである。

あらためて考える、本当に僕たちは「護られて」いるのだろうか?社会保障の後退、自然災害への懸念、競争過剰社会での身を削る生存競争、非正規労働の方々への悪辣な待遇、そして教育システムそのものが競争の渦中に呑み込まれ、人間が人間に向き合う余裕さえ奪うのである。したがって巷間から人々の笑顔が消え、相互に監視する陰険な社会が構成される。そのストレスから逃れるためにと、自分たちを苦しめている外敵がいると仮想することで批判の鉾先を変えて、その潮流に乗らずに疑問を呈する者を排除する動きを強める。あらゆる場で、このような陰湿な視線が跳梁跋扈する社会になって来ているのではないだろうか。このように規定することそのものが、陰鬱だと批判する輩がいるやもしれない。だが個々人が自らを批判する真摯な態度を持たない社会に対して、何らかの「行動」をしていかねばならないという思いを強くするのだ。

「戦争」とは兵器を使うのみならず
其処に生きる人々の心を惨憺たる方向に導く悪徳だ
もう始まってやしないか、まだ間に合うと信じつつ・・・・・
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雨に向かひて月を恋ひ

2015-09-28
旧暦八月十五夜
残念ながら雨模様
想像の中での名月や

家でゆっくりする日曜日には、夕刻に『サザエさん』を観ることが多い。その3本の話題には、季節感たっぷりのものが含まれている。この日も「お月見」をする光景で、磯野家の縁側で波平・マスオに、ノリスケくんが日本酒持参で加わり「月見酒」に興じていると、近所のアナゴさんが夫婦喧嘩をした流れで加わるといった風景が描かれていた。ススキを飾りお団子を作り、名月に思いを馳せる。男は酒に女は給仕とやや日本的なジェンダーに基づく風景であるが、昭和の時代はこのように家庭で季節感を享受することが行なわれていた点は、賞讃すべきことかもしれない。

この日が「十五夜」であると意識はしていたが、なかなか縁側でススキを飾ろうとまでには至らなかった。ましてやお団子をや、である。夏の間、ある事情があって和室で寝ることがあったが、その窓から見える月は実に綺麗であった。障子を開けると穏やかな月影、そんな風景を脳裏に刻みながら深い睡眠に入ったのを思い出した。その頃から「十五夜」のこの日を待望していたのだが、残念ながら雨模様となってしまった。名月が曇りや雨で見えないとなると、思い出すのが兼好法師『徒然草』の「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは。」の段である。「(桜の)満開」や「満月」だけを鑑賞すべきだろうか(いやそうではない)と主張する兼好法師は、「雨に向かひて月を恋ひ」と語る。何事も眼前の事実のみが大切なわけではなく、想像を巡らすことで「事実以上の真実」が見えて来るといった趣旨であろうか。何事も考えを空過させずに、意識して見ようとする眼が求められるということ。

季節は春から夏を経て秋本番へ
時間の経過とともに湧く諸々の思い
これまでの充電を活かすのはこれからの己次第である。
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旅の疲れを癒す週末

2015-09-27
約1週間の非日常
そこで経験したことども
聊かの疲労を伴い身体化されて・・・

通常とは違う週末を迎えた。それは「土曜日」そのものには何ら変わりはないのだが、約1週間と旅に出歩いて来た自分自身が変化したのだと気がついた。考えてみれば富士山周辺などの関東圏を旅するのは、実に久し振りだった。過去の思い出はこの間の小欄に記して来たが、僕が幼少の頃は富士・伊豆・湘南方面への「お出掛け」が観光の王道であった気がする。世界遺産にもなった富士山であるが、「既に行ったことがある」という理由で、特に行くこともなかった日々が続いていたのである。そんな懐旧の思いが、僕自身を変化させたようにも思われる。

家で寝ない日々というのは、どうしれも疲労を伴う。それが数日してから露出してくるものである。旅先から送りつけた洗濯物の入った宅配便が届く。洗濯機を回しながら、この旅で蓄積された疲労を癒す。この精神的作用は、何か新しいものをもたらすように感じられた。今までの日常がことばにならない何らかに昇華するような感覚である。旅好きで知られる若山牧水の愛した沼津千本松原の地は、様々な要素を兼ね備えた穏やかな空気が流れていた。「何ゆえに旅に出るか」とか「あくがれてゆく」といった牧水短歌の一節を噛み締めながら、旅から日常へと復帰する作業を進めるのである。

9月の雨
本格的な秋がそこまで来ている
来るべき10月に希望を抱いて
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万歩計と脳の回転

2015-09-26
あなたは日常生活で
一日何歩歩いていますか?
都会と地方とを比べてみると・・・

東京在住時は、極力歩くようにしていた。特に3.11以後、3駅〜5駅ぐらいで時間に余裕があれば、必ず「徒歩」を選択していた。ジムに行くまでの道程も、アップを兼ねて歩いていたし、呑んで終電がなくなっても、「徒歩」があると思っていた頃もあった。それは単に身体の為のみにあらず、精神的にも実に解放される感覚があった。歩みを進めることで、脳の回転も潤滑になることが実感できていたのである。人間ドッグなどで、ややコレスレロール値などが高かった際にも、まずは朝の30分以上の歩きが改善策の第一歩であった。年毎に値は改善し、今や大学の健康診断での数値評価は、すべてが「A」となるに至った。まさに「生活習慣」そのものが病巣であるということだ。

暫く装着していなかったが、万歩計を再び購入した。ここのところ両親は、毎日のように8000歩以上も歩くようにしていると聞いた。それがこの連休で車で旅に出ると、極端に歩数が下がったと表示を見せてもらった。「車」という文明装置は、人間から「歩み」を奪ったのだ。となると「車」中心に生活をしている地方では、尚更「歩み」が少ないことが容易に予想された。東京で新しい万歩計を購入し、1日都内を歩いてみるとやはり10000歩は裕に超えた。ところが居住する地方に帰って1日を過ごすと、信じ難い数値が表示された。特に講義もせずに1日中研究室で過ごしていると、殆どトイレにぐらいしか歩むことはない。これではまったく脳も回転していないのだと、あらためて自覚した1日となった。「自然」に恵まれていること即ち「健康」と短絡的に結びつけていたが、其処で心身を解放し活動してはじめて健全となるのであろう。蛸壺の如く閉鎖的な環境に籠り、化石燃料を浪費する贅沢装置に乗り自らの身体を動かさなければ、革新的な発想も生まれないであろう。

世に「人生を歩む」と云う
それも緻密な一歩一歩が大切だ
あらためて「歩み」を増やし脳内を活性化しようと思う。
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春画展と母なる高田馬場

2015-09-25
18歳以下入場禁止の春画展
そして母校の校歌鳴り響く杜
この地の母と自称する洋食屋の女将さん

東京(関東)滞在も最終日となった。研究者仲間の方々の間でも話題となっていた、永青文庫「春画展」に足を運んだ。大胆に誇張した性的描写で知られる「春画」であるゆえ、入口には「18歳以下入場禁止」の立札が。いま稿者は、「大胆に誇張した・・・」と書いたが、果たしてそれでいいものだろうか?などとも考える。性の領域というものは実際のところ、そのぐらいに描写されているのが「実感」ではないかと考えたくもなる。それはどこか文学的虚構の絵画的展開ともいえるようで、「真実以上の真実」が形象化されているようでもある。元来「真実」とは、誠に当てにならない幻想に過ぎないとも思う。換言すれば「実感」とは解釈を伴う享受なのであり、「解釈」の妥当性には様々な正負の尺度があるようにも思う。特に「性」というものを隠蔽し密室化するこのくにの文化において、春画(同様に文学)に表現された「真実」には、人間存在そのものを考えさせる要素がある。などと近世という時代の妙について様々に思いを巡らしながら、その芸術を鑑賞するひと時であった。

その後、母校方面へ。大学合格の報を両親に伝えた公衆電話ボックスも未だ健在。既に後期が始まっているキャンパスでは、応援団のデモンストレーションが行なわれており実に活気があった。必然的に、僕の現在の勤務校との雰囲気の違いに敏感になる。僕自身はこの活気の中で学生生活を送り、そして騒然とするほどに多くの学生たちが往来するキャンパス内で心身ともに揉まれながら、大学院での生存競争を泳ぎきって来たわけである。応援団がリードする校歌が始まると「進取の精神」の一節があらためて心に滲みてくる。これまでも、そしてこれからも「進取」でいられるか否か?常に自己を更新する活力こそが、この母校で僕が学んだ根幹なのではないか。いつもこのキャンパスと校歌は、僕にあらたなる道を示唆してくれる。その後は、馴染みの洋食屋さんへ。女将さんは自ら「高田馬場の母」と自称し、僕のことを気に掛けてくれている。同様に旦那さんや息子さんともども、いつ何時でも温かく僕を迎えてくれる。美味しい料理とともに、此処でもまた僕の背中を押してくれる方々がいるのだ。だからこの街が、限りなく好きである。

約1週間にわたる遅い夏休み
様々な場所とそして人と出逢い
再び僕の中に力強く歩めという声が掛かったようである。
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谷根千から上野・浅草

2015-09-24
寺と賑わう商店街
あんみつに西郷隆盛銅像
仲見世と馴染みの西洋料理店まで

東京の戻り、実家周辺を久しぶりに散策した。通称・「谷根千」と云われている寺街に、我家の墓もある。お彼岸で多くの人がこの街を訪れており、「谷中銀座」は結構な賑わいである。もっとも年末年始などには、観光客はいなくとも未だに賑わう貴重な商店街である。「下町」のあり方や人々の人情ある生き方というのは、次第に忘れ去られてしまうようでもあるが、これからの日本が生き抜くためには、実はこうした老若男女紛れた「街作り」が欠かせないのかもしれない。その後、都バスで不忍池を眺めながら上野へ。父の好きな老舗あんみつ屋で歩いた疲れを癒し、その後、普段は立ち寄りもしない西郷さんを見上げてみた。明治維新を経て江戸から東京へ。考えてみれば、江戸文化を始め文豪や芸術家が牽引した西洋文化の輸入、そして戦後復興といった近代日本の足跡を、この街は部分的に表象しているようだ。その街で僕は何を感じ自己の学びに還元してきたのであろうか。

その後、浅草雷門。仲見世はいつものように賑わっているが、「自撮り棒」を掲げた外国人観光客が目立つ。僕が幼少の頃は、浅草あたりで「ほら、外国人だよ」などと両親が僕に伝えるほど稀少な光景であったが、時代は大きく変遷したという思いにさせられる。江戸時代に「鎖国」という閉鎖的な「経験」のあるこのくには、文明開化を経て西洋化してきた。同時に混沌としたアジア諸国との関係を続けてきた。その150年間の歴史を顧みるにも、今そしてこれからはどのような方向へ動いて行ったらいいのであろうか?太平洋戦争に至る約70年間、そして戦後70年間、悪戯な懐古主義に陥らず、歩んだ道の過ちから学ぶ未来を築くためにも、大変重要な歴史の転換点に僕たちは立たされたのかもしれない。平和な浅草の光景をみて、その背後に眠る無残な過去の「苦悩」にも思いを馳せながら、浅草寺の観音さまに平和を祈るのであった。そして恒例によって、僕が幼少の頃から訪れている老舗洋食店で平和なディナーをいただいた。こうした幸せを個々人が希求できる世の中を、まさに一人一人が忘れてはならないのであろう。

様々な思いで歩んだお彼岸の下町
街の光景が何を語り掛けてくれるのか
僕自身がなすべき言説を意識しながら、幸せな未来だけを心に誓う。
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烏帽子岩を見つめながら

2015-09-23
陽光が海面に照り映える
いま此処にいる小さな自分
9月の湘南は風も優しく・・・

富士山時計の逆周りツアーも最終日。真鶴半島の付け根に位置する湯河原温泉に宿泊していた。此地は僕がまだ2歳ぐらいの頃に、母方の祖母とともに両親と訪れた温泉である。その時に、大きなヘリコプターの玩具を買ってもらい、それを両手で引き上げるように下げて満面の笑みの写真があった。どうやらその写真に導かれてか、その時の遥かなる記憶が鮮明にあるようだといつも考えていた。今回、宿泊した宿から車で10分ほどの位置に、当時宿泊した温泉宿があるらしい。宿をチェックアウトすると、まずはその写真の中の世界を目指した。其処には赤い橋が掛かっているはずで、当時僕は父に抱き上げられてその欄干の上に座らされた、急流に落下したらどうするのかという恐怖で、泣き出した記憶がある。今回訪れてみると、その橋は宿の敷地内であり宿泊者専用であることがわかった。公道から刹那に見えた欄干が、僕の時間旅行への距離を象徴していた。

湯河原から海沿いを湘南方面へ。小田原までは渋滞を避けられなかったが、西湘バイパスに入ると快調なシーサイドドライブ。大磯から二宮と車を走らせ、茅ヶ崎を通る。サザンの大ファンである僕としては、此処は紛れもなく「聖地」である。サザンビーチの表示のある交差点から横目に海を見ると烏帽子岩が一瞬、僕に頭を擡げてくれた。再び渋滞に巻き込まれながらも、江ノ島に到着。この地も、僕が幼少の頃に両親と訪れたことがある。おでん屋で食事をし水族館でイルカのショーを見た記憶がある。既に水族館周辺は様変わりしファーストフード店ばかりになっており、当時の面影を残す「おでん屋」はないが、江ノ島そのものの雰囲気は今も昔も変わらない。島内の飲食店も大変混雑していたが、上手く海の見えるレストランを見出し、しばし烏帽子岩を遠目に見ながら、両親と様々な会話に興じた。思い出というのは、記憶の中だけにあるわけではないのだろう。きっと新たに今の自分を起ち上げて「思い出のかけら」に接すれば、またその色彩があらたに施されるのかもしれない。

富士山に千本松原に江ノ島
至る所から元気と勇気をもらった
己の過去が再び明日の己を支えてくれる、のだとあらためて思った。
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富士の高嶺と千本松原

2015-09-22
標高2300mで何を思う
富士をぐるりと時計と反対周り
沼津千本松原に牧水を偲びて・・・

富士スバルラインで5合目を目指す。朝8時と早く宿を出たので、待ち時間も少なく駐車場まで到達、やはり早起きは三文の得である。河口湖町では顔が見えなかった富士山が、登るに連れてその容態を現し始めた。自らがまさにその裾の稜線上を走っているという不思議な感覚に、俯瞰的な想像を働かせながら。東京在住時は、自宅マンションからよくその美しい姿を見たものだ。また母校である小学校の校歌には、「空の向こうに富士山が、綺麗に見えますよい学校」の一節があった。マンション建設のために富士山が見えなくなることに対して反対運動が巻き起こったことで有名な谷中富士見坂は、我家が檀家となっている寺の真ん前だ。関東に在住しているということは遠近様々に、この霊峰に思いを馳せることが多かった。此度、あらためて両親とともに訪れて、この峯の尊さを体感できた。

富士五湖の連なりを抜けて静岡県に入り、富士宮市から沼津へと。その海浜には若山牧水がその晩年に永住を決め込むほどに愛した千本松原がある。当時、静岡県がこの自然豊かな光景を破壊しようとする計画がもたらされた時、牧水は反対運動の先頭に立ち新聞に訴えを書き、苦手だとされた演説を反対集会でぶち上げたそうだ。そのお陰で、今もその地は自然の景観を残した風光明媚な浜としてその姿を僕たちに見せてくれている。文学に携わる者が「自然を不埒な悪徳人間から護った」という誠に美談ではないだろうか。牧水記念館でその生涯をあらためて拝謁し、抒情味溢れる心性が、旅と酒とに彩られながら珠玉の歌と成ったことに思いを馳せた。牧水が眠る菩提寺の御住職にご挨拶できたが、どうやら6月に日向市で宴席をともにしているらしい。早稲田・宮崎・沼津そしてみなかみ(僕の母の親戚の会が30年間ほど開かれていた地)など、牧水と僕とが結びつく縁は複層性をもって起ち上がり、「君のできる仕事をしろ」と牧水先生に言わしめているように聞こえた。

人生は旅と酒と人と
思い深き地を巡り歩く
両親との会話から自らの存在意義をあらためて悟る。
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月見草がよく似合ふ

2015-09-21

「富士山には
月見草がよく似合ふ」
(太宰治『富嶽百景』より)

「富士山に(ちゃんと)行ってみたい」数年前に父がふと呟いた。最近、この列島の至る所で噴火する山が目立つのだが、かなり以前から「噴火する」などと喧伝されつつ、今も控え目にしていながら世界遺産となった霊峰をあらためて眺めてみてもいいかなどと思った。中央自動車道で久しぶりに30Km以上の渋滞に巻き込まれながらも、車内で両親との様々な会話を楽しめると考えると、自ずとその時間も苦痛でなくなる。何事も自分自身の思いを前に向けつつ穏やかに進めるべきだと悟ったのを、すぐに考え方として実行してみるのである。

河口湖に着いても曇り空は晴れず、「目的」にしていた富士山は恥ずかしがり屋なのか顔を覗かせない。昼食をと思って目指したのは、太宰治が滞在し『富嶽百景』を執筆したとされる「峠の茶屋(天下茶屋)」である。幹線道路から細い山道に車を乗り入れ、幾重ものカーブを対向車に注意しながら登ると、何台もの車が路駐をしていた。そのささやかな木造の建物の入口に「40分」という貼紙がある。どうやら名物「ほうとう」を食するのには、しばし景色を眺めている必要があるようだ。「速い」ことがすべてに優先される世の中で、発想を転換して穏やかにしていられてこそ、気づけることも多いのであると感じながら。

太宰は此処で何を思案したか
戦時中も「書き続けられた」稀少な書き手
あらためて冒頭の『富嶽百景』の名言に思いを致し今日の巷間を仰ぎ見るのである。
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