よき先輩との一献・報恩
2015-07-31
酒なくして文学は語れず学生時代からの僕たちの流儀
研究室にこだまする大きな声のうちに
僕がちょうど学部生だった頃、専攻は2年生から「日本文学」へと進んだ。特にゼミなどが用意されていない課程編成であり、まさに学びたい者は自らという風潮があった。そんな中で『万葉集』や『古今集』を読む学生研究班という集まりの門戸を叩いた。そこには先生を筆頭に実に個性的な方々が集まっていて、前向きで批評的な和歌の読み方が議論されていた。自らの知識の無さをを痛感し、様々な書物を読み漁った。時に和歌の舞台である関西方面を中心に、先生らとともに旅行に出かけた思い出もある。そんな活動の中で、恩師である先生に次いで様々な学びを授けてくれたのが、当時は助手であったある先輩であった。博識で酒好きで声が大きく、日頃から何かと和歌を口ずさみ駄洒落を連発する。駄洒落は「掛詞」であるといいながら、場合によると下ネタに走ったりもする。その先輩なくして、僕が和歌研究へこんなに深く入り込むことはなかったかもしれない。
先輩は、僕が学部卒業後に中高現職教員になっても、常に何かと気にかけてくれた。暫らくして大学院へ復帰するとなった際も、いつも「論文を書け」と励まし続けてくれた。ようやく大学非常勤講師となり一緒に呑みに行くと、店の人に「教育学部の先生」と僕を紹介してくれた。僕自身はまだその不安定な身分ゆえ社会的に”脅えて”いたので、その何気ない紹介に、心から勇気付けられた。そして大学専任教員への就職が決まるまでの苦闘の間も、「地道に実績を重ねれば必ずどこかに決まる」と大きな声で励まし続けてくれた。その先輩と久しぶりに杯を傾けた。研究学会に関連した件で、打ち合わせたいこともあった。これまでの恩恵に報いるためにも、その学会に関する案件に応えることを僕は決めた。そのような重要な案件を任せてくれる信頼に、再び頭が下がる思いだ。
研究者として大学専任教員としての僕に
何ができるだろうか?
先輩に恩師にそして学会への恩に報いる時が来ているのだ。
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「馬鹿」のようで「バカ」じゃない
2015-07-30
それは何かと尋ねたら己を省みられる柔軟性
自己に不利な意見にも耳を傾けるということ
講義もようやく最終15週となった。大学FD委員会が設定した「授業評価アンケート」を時間内に実施した。併せて、最終授業レビューは「(担当者である)私へのメッセージ」を書いてもらうことにしている。しかも「思ったことは忌憚なく批判的に書いて欲しい。」といった趣旨を学生に伝える。70名ほどの受講者がいると、講義の受け止め方も様々である。「テキストをもっと使用した方がいい」とか「スライドの送りが速過ぎる」などという意見は、毎回の定番となっている。「テキストは、講義前後の”反転学習”(講義外で自学自習すること)存分に使用した方がいい」とか「スライドは写す姿勢ではなく、要点を思考してメモした方がいい」などという反論が浮かぶ。とはいえやはりこうした意見に耳を傾け、テキスト内容の咀嚼やスライド表示する内容は精選されているかなど、「自己批判」をしてみることが必要であろう。
もちろん「批判的に」とはいっても、好意的な意見もないわけではない。「話しの調子が良い」とか「声がよく通る」といった僕の声による伝達に対する意見には、思わず微笑んでしまう。人間とはやはりいくつになっても”褒められたい”動物なのである。だがしかし、そうした意見にも「話は上手いが長い時がある」といった意見もあった。やはりそうか!落語の修行をした際に、一番の欠点として指摘されたのは、「説明し過ぎる」ということであった。聴衆の想像力を信じていれば、表現は最低限が望ましい。更にその上で、随所に”笑い”があって聴衆の集中度を高めるのが落語の語法である。穏やかな波音を聴いていると眠気を催すように、あまりに調子がよい上に思考レベルがやや高い話に対しては、睡魔が襲い掛かるという生理的必然性を勘案すべきだと思い知らされた。何事もそうであるが、「上手い」といった批評には、その背後に必ず欠点が潜んでいることに思いを致すべきであろう。
後期の講義は装いもあらたに改築する予定
移動式机椅子の導入された図書館ラーニングコモンズで実施
「バカ」な教師になってはいけないと学生に告げる「馬鹿」がいる・・・
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大学で「実学」を教えるべきか?
2015-07-29
社会で”役立つ”こととは?いつどのように機能するかということも
「実学」とは何かを考えて・・・
朝日新聞日曜版be(2015年7月26日付)に掲載されていた、標記の特集記事を元にしてゼミで同様の命題を議論してみた。3・4年生で9名のゼミ生のうち8名までが「実学を教えるべき」に「はい」と回答した。特に教員養成学部ということもあり、「教育実習」を始めとして教師として現場に立つ為に必要な知識・技能・経験を存分に学ぶべきという意見が大勢であった。それでも僕ともう1名の学生は、「実学のみにあらず」という意見を提出した。最初はこうした勢力図であったが、次第に深く広い「教養」も学び、どのような社会の変化にも対応できる力を養うべきという流れの意見も出るようになった。次第に大学への進路選択といった話題にもなり、議論しているゼミの集団母体そのものが、「教師」という方向性にほぼ固まっているのだという自覚も炙り出された。
当該記事で述べられた読者の意見の多くが50〜60歳代以上であり、偏っているというメディアリテラシーを適切に思考した意見も出て、前期最終としては活性化した議論となった。概ね最終的には、どのような変化にも対応できる「基礎的教養」と「教師としての実践力」との均衡をとった教育であるべきではないか、というあたりに議論は落ち着いた。僕自身も「国語教育」担当であると同時に、古典文学研究者であるという中立的な立場であるゆえ、ゼミで議論された学生たちの求める均衡に、存分に応じる存在であることを再認識した。著書(『声で思考する国語教育』ひつじ書房2012)の「あとがき」冒頭に書いたことだが、「文学こそ実学である。」という理念は、この均衡を保つ境界線上で自律するのだと思う。文学さらには人文学全般が「社会で役立たない」と偏見視されるのは、政治家・官僚たちが接して来た「国語」の授業にも問題があるのではないだろうか。「文学」の意義を社会に広く伝えるには、まずは「国語教育」の充実が必須である。
「実学」を否定もせず、「文学」を機能させるために
その深層構造を理解している研究者が社会に訴えるしかない
ゼミでの議論から学ぶのは、まず僕自身であるという姿勢を学生に示すということも。
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「一般」「当然」という語法
2015-07-28
「一般には・・・ことであります。」「・・・は当然のことであります。」
どちらも発話者の恣意的解釈だと心得た方が・・・
文学教材を読む際に、その表現を「一般化して捉える」などという場合がある。元来が固有の発想で書き込まれたテクストであるものを、「一般」という尺度に押し込めるのは、やはりある特定な解釈者の恣意に拠るもの以外の何物でもないように思う。その「恣意」を包み隠すために、「一般」という誰しもが納得しているように”見える”語彙を使用しているに過ぎない。その「恣意」を更に突き詰めると、実は「例外」が限りなく広がる余地を示唆しているのであり、敢えていうなれば「例外」を「一般」化する意図が透けて見えて来る。某新聞社の「国会答弁」に対する分析記事を読んで、国語の授業にもこうした強引な手法が潜んでいて、その語法の先にこそ、国語に対する不信感や嫌悪感が垣間見えてしまう。
内田樹『ためらいの倫理学』(角川文庫2003)に次のような記述がある。
「私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。」(p42)
前述の「一般」を語る場合が「公正無私」を、「当然」という語法の場合は「正義」を、「無謬の前提」にものを考えていると露呈しているわけであり、そうした発言者を内田氏は、「「バカ」と呼んでいい」としている。少なくとも「学校」という場では、「論理的思考力」などを育めと云っているのであるから、「バカ」と規定される範疇でものを考えるのは避けるべきであろう。ところが「国語」の授業一つをとってみても、教師は「博識」と見せ掛け、「公正無私」という実は個別で恣意的な尺度を押し付け、偏向した「正義」を翳して反論を押さえ込んでしまっているのではないか。まさに「バカ」を育む授業になってはいないか、ということを授業者がその「無知」「偏見」「イデオロギー」「邪悪」だと「自己批判」していなければ、「論理」や「思考」の前提となる「知性」は育まれないのではないだろうか。
「丁寧に説明する」のが最良の手段なのか?
否、「繊細に緻密に自己批判」できてこそ信頼たる語法となる
などと書き連ねつつ、己が「バカ」かどうかと自問自答し続けている。
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夏が来れば思い出す・・・
2015-07-27
忘れ難き7月の記憶今年もまた僕の中で蘇る
その重みをいつまでも大切に・・・
大学院でお世話になった恩師が他界して、早8回目の夏が来た。8年前の僕は、それまでの研究を纏める上で重要な時期を迎えていた。そんな折しも、あまりにも突然な恩師の逝去であった。その7月以降秋風を感じるあたりまで、暫くは朦朧とした状態が続いた。だが、本当に師の恩に報いるためには、どんなに困難があろうとも、研究を前進させて一定の達成を為すべきと思い直し、再び前進する日々を取り戻した。その屈折と蘇生の思考は、僕自身を更に鍛え抜き今の位置にまで至る原動力となった。恩師はあらゆる行為で、今も僕を奮起させ続けてくれているのだと思う。
恩師とともに僕をいつも励ましてくれるのは、奥様と当時の学部ゼミ生である。7月が来るたび、ゼミ生とともに恩師宅にお邪魔し、奥様の美味しい手料理とともに、この1年間の歩みや社会情勢について懇談している。ゼミ生も早社会人8年生となり、それぞれの仕事に信念を持って取り組んでいる。学生時分からそうであったが、このゼミ生たちは自ら存分に忌憚のない意見を述べ合う雰囲気があった。恩師の代講として卒論ゼミを担当した不慣れな僕を、彼らの雰囲気はいつも救ってくれた。それは今でも変わらない。社会人として年ごとに立派になる彼らに、今年もまた僕が大きな力をもらった。
大学での師弟関係とは、かくあるべきか?
どんな時代だろうと、人の目指す生き方は同じだ
夏が来れば思い出すことども・・・
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響くのは誰の胸にーあなたとわたしー
2015-07-26
あなたの声をわたしの内にわたしの声であなたの内を
心の鉦を打ち鳴らすということ・・・
今年で第8回目となる「朗読実践への提案IN早稲田2015」が開催された。2008年度の立ち上げから6年間、いやそれ以前に行われた「ことばの力GP」からすると8年間ほど、この企画に携わって来たが、僕が地方に赴任してからもあらたな担当者により継続されている。今年も「ミニ授業」を実践させてもらう機会もいただき、いま模索している試案を15分ほどの内容で披瀝した。韻律にことばが重なり、声により表出される。その際に韻律(リズム)に先導され声にすることばかりに意識を向けると、ことばの内容を捕捉し理解する働きが十分でなくなる。音声化するということは、他者のことばを自己のことばのように発してみる、ある意味で相対化・対象化のための行為であるのだが、この域まで達するには自己の内なる思考により内容理解・分析を施す働きを意識する必要がある。要は音読の際に、自己の声を他者のものとして聴こう意識し、黙読の際も他者のことばを自己の心の声として聴こうとする意識が必要になるということだ。特に短歌(和歌)は、元来が1人称の上に立って創作されているので、「あなたとわたし」を相対的に意識して読むことが求められるだろう。そして一首の歌の中に、幾重もの声の響きが織り重なっていることを朗読・群読で実感するのが、今回の実践の構想趣旨であった。
世相からして今こそ「竹内浩三」の詩を蘇らせたい。一連の朗読実践への研究をともに歩んできた教授の強い思い入れから、折あるごとに朗読をしてきた無名の「戦没詩人・竹内浩三」。23歳という若さで戦争の悲劇により命を落とすまで、メモ書きその他で多くの心に響く詩を遺している。今回は、詩や手紙・日記・関連年表に至るまでその生き様を、学生から年配の方に至るまで多くの方々の声で蘇らせた。僕自身も「ぼくもいくさに征くのだけれど」を、パートナーの教授とともに朗読した。リハーサル段階では、まったく納得いく出来映えではなかったが、本番になって他の方々の声を聞くうちに、浩三という「あなた」が「わたし」の内に降りてくるという不思議な感覚になった。「いくさに征く」とはどういう気持ちになるか?「ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど」という詩を記しながら、言葉の隙間で浩三は何を思ったのか?「そんなまぬけなぼくなので」と語りながら、「うっかりすると戦死するかしら」という言葉を吐き、追い込まれて自虐的に笑うしかない浩三の心境。今考えればこのように言説化できるのだが、それが理屈ではなく、浩三の言葉を声にすることで「わたしの言葉」と化すことができたような域で、朗読をすることができた。自分の朗読を終えて更に声のリレーは続いたのであるが、席に戻ると暫くは身体の震えが止まらず、涙がとめどなく流れていた。僕という「わたし」は、しばし浩三という「あなた」になっていたような気がする。だから「征く」のは、心底恐怖の極みであることが実感できた。
過去の言葉で未来を実感する
そこに文学が書き記され読み継がれる意義がある
これを無用とする為政者よ、空洞化した声しか出せない愚劣さを思い知れ。
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現場主義ということ
2015-07-25
現場に立たずして何か語れむ机上の空論を超えて行け!!!
ライブ性を体感せずして・・・
幼少の頃から、個人経営の会社を丹念に誠実に営む両親の背中を見て育った。家族団欒の茶の間でTVを観ていると、よく父か母かどちらともなく「理屈屋」という言葉を発するのが耳についた。番組内で机上の空論を語っている人物に対して批判する意図で発せられたこの語彙に、子どもながら深い意味合いを感じ取ったと記憶している。どんなに屁理屈を言おうと、現場社会は厳しいという趣旨であることが次第に分かるようになって、誠に共感するようになった。
それは現在の僕自身の感性に、顕然と息づいている。どんな場合も、直接に「現場に立つ」行動なくして何も語れないという信念がある。それは国語教育や文学の研究では当然ながら、また趣味の野球観戦や音楽鑑賞でも同じことだ。そしてまた今社会で起きていることに対しても、「理屈」ではなく「現場」で体感しなければ何もわからない。あくまで「理屈」は「理屈」、筋道だった「理論」とは一線を画する。「現場」で肌身で感じる行動が、次への心の糧となるのだ。
現場主義を掲げる方の言葉は重い
一人一人が今を実感する
そこに生きる意味がある
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ウミガメが開く郷土の学問
2015-07-24
ウミガメ上陸率全国2位クジラ・イルカの座礁も多し
郷土の自然と環境へ開かれた学問
大学内で学部・教職員の枠を超えたセミナーが開催されることがある。各学部が持ち回りで2名の教員が選出され、各研究テーマについて講じるという機会である。学長をはじめ他学部や職員の方々も聴衆となり、分野を超えた話題が提供される。今回は僕の所属学部が担当ということもあって、予定を確保して出向いてみた。すると会議や事務的場面でしか知らなかった先生方の研究分野や次元がよくわかり、大変興味深かった。理科講座の先生は、郷土の海の生物生態について、様々に実践検証的な研究をしつつ「海洋教育」へとその内容を開こうとしている。その内容に触発されるとともに、自己の研究はどこまで「開かれているか?」などという問題意識が高まった。
大学から至近の海岸で、ウミガメが産卵に上陸する。ウミガメは太平洋を東西に往還し、成長し故郷の浜へと帰還し産卵をする。地磁気を察知する能力があり、ほぼ自己の産まれた浜へとメスは還ってくると云う。単なる生態観察のみならず、ウミガメが棲息し産卵するということは、自然に恵まれているという条件が必要で、環境問題にも通じる問題意識も起動する。理科教育とは一口に言っても、子どもたちがこうした郷土の海を知るということは、大変貴重な学習機会となるだろう。クジラやイルカの座礁も比較的多く発生する土地だともいうが、その生態には哺乳類進化のあり様が克明に刻まれていることも、あらためて認識した次第である。
さて果たして僕の学問は、郷土に「開いた」ものであるか?
地域特性を活かした学問の方向性をどのように確保するか
若山牧水・短歌・音読・ことばとコミュニケーションなど、自己の更なる模索が起動する。
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傲慢・妄信となれば敗れるー高校スポーツ雑感
2015-07-23
高校スポーツ真っ盛りシード校が敗れるなどという報道
堅実に冷静に対応した者に勝利の女神は微笑む
夏の甲子園地方予選をはじめとして、高校スポーツ大会が真っ盛りな時季である。故郷である東京の状況などを知れば、人並みならぬ想いが起動する。それは教員としての初任校の結果が気になると同時に、当時対戦した相手校などを歴史的にも熟知しているので、その勢力図にも変化が生じたなどという論評的見解を持つからだろう。一方、現在の居住地の状況などを地域のニュースで知らされると、それはそれで興味を覚えるものである。そんな報に接し思うのは、高校生の心理面での強靭さと脆弱さである。緊迫した場面に物怖じもしない集中力を見せる場合もあれば、勝機を尽く逃す散漫な顔を覗かせる場合もある。
前者に感心するのはともかく、後者のような状況に陥るのはなぜかと考えるのは、教育に携わっている者としての性であろうか。初任校で全国大会に出場するレベルの高校生に接していた経験からすると、その要因は明らかに傲慢と妄信と言えるのではないかと考えている。対戦相手を”格下”などと見下す傲慢さが「いつでも打てる、点は取れる」という妄信となり、堅実かつ冷静な相手に知らぬ間に敗れるといった結果になるわけだ。俗に云う「相手を舐めた」心性は、必ずや自らの弱点となり、思い描く勝利への道から遠ざかるわけである。傲慢さは対戦相手のみならず、日常生活で高校教員などにも向けられるわけで、それを僕自身は痛いほど経験した。最終的にプロでも大成する選手は、こうした傲慢や妄信といった心性は持ち合わせていないと断言してよい。誠に高校生はやはりまだ高校生、知的な冷静さを欠く稚拙な面を露呈することも多い。
傲慢な者の足元は脆弱であり
妄信する者は自ら内部崩壊していく
高校生に限らず稚拙な心性はこうした道を歩むはずである。
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和歌を学ぶ意義
2015-07-22
韻律にのったことば五音・七音に嵌り易い
文化的教養のゆくへは・・・
国語教育全般の現状を見渡すと、和歌(短歌)が好まれる教材とは言い難い現状がある。それは学習者のみならず指導者においても同様であり、それゆえに授業そのものが興味深いものにならないという負の螺旋に向いているようでもある。最低限の文字情報しか存在せず(もちろん俳諧・俳句の方が最低限であるのは承知しているが)、多くの情報を補足しなければならないことを難解と感じてしまう者が多いように見受けられる。翻って考えれば、散文であればすべてが押し付けられるが、短詩型の場合は自由に想像して補うことができる。この差を面白いと感じるか、煩わしいと感じるかによって、嗜好が二分するということであろう。
「言わずもがな」という成句は、「言うべきではない。(言うまでもない)」といった意味であるが、それを共通理解できる文化的教養が持てるや否やということが分岐点になるようだ。五音・七音といったことばに、深い意味が載っている。一定の観念があり喚起力のあることばの存在。ことばという媒体に載せて、抒情の典型が保存され共通理解を生む。それが日常のことばとかけ離れたものであるかといえば、そうでもない。交通標語は七五調を有効利用し大衆への定着を意図した例であり、また連続する駅名を音読すると「五七五七七」になるということば遊びなども興じられている。僕などは、春の七草を「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞななくさ」と中学時代の恩師に教わった。
ゼミ生・院生の発表を聴いて
あらためて和歌(短歌)の魅力を考える
今週末には、「うた」を楽しく音読してみる試みを企んでいる。
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