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潔癖主義でいいのだろうか?

2015-06-30
除菌・抗菌・駆除に殲滅
潔癖主義な商品が溢れる
いつしか自らを排斥しなければいよいが・・・

いつの頃からか、巷間には「除菌・抗菌」といった商品が氾濫している。もちろん流行性感冒対策などで、僕自身もお世話になりがちだ。だが「乳酸菌」に代表されるように、菌のすべてが悪玉とは限らず、ヒトが生きる為に必要不可欠な菌もある。よく野菜を買って来た際に、虫がついていればむしろ農薬使用率が低く、安心できる野菜だという判断もできる。虫や菌が化学薬品によって根こそぎ殲滅されているのは、むしろヒトの存在自体を危うくするのではないだろうか。こうした日常での「抗菌=排除」の心性が巷間で一般的になるにつけ、無自覚に「異質な他者排斥」という発想となり、自らの高潔さを虚偽的に言葉で捏造する独裁的な立場となることは、歴史を振り返れば容易にわかることだ。

長雨の時季につき湿度が高く、家の内部でもカビ菌に有利な環境ができあがる。昨夏、詰め込み過ぎたクローゼットの衣類にカビが発生し、様々な対策が必要であることを知った。それまで都会のマンションの日当りの良い上層階に住んでいた僕は、カビ(及び害虫)とはほぼ無縁であった。そんな都会的潔癖主義な己の心性が、いかにも脆弱で狭量であることに気付かされた。以来、今年はクローゼット対策は万全に期していたところ、他の部屋の家具の裏側にカビが発生していることに気付いた。クローゼットのある寝室と風呂場・洗面所に人為的対策が施されているゆえ、其処を避けてカビが存在感を示した形となった。更なる発見として、カビが寄生した家具のすぐ隣にある漆塗りの家具には、まったくカビは寄生していなかった。考えてみれば極当たり前のことだが、こうした自然の摂理(もちろん家具製作は人為的なのではあるが)でカビと上手に付き合っていたことが、まさに「文化」というものであろう。自然との共生体験なき都会的清廉さは、ヒトが捏造した虚無に過ぎないのではないか。もちろん、カビにまみれて生活しようと言っているのではない。自然の摂理を受け容れて、抗うのではなく共生するための知性が必要なのではないかと思うのである。潔癖主義の成れの果てに大きな過ちを犯したことを、僕たちは語り継ぐべきなのである。

知人の登山家は旅をともにしてこう言った
「俺は(手を拭く除菌シートなど)要らない!」
「除菌・抗菌」の発想は、ヒトが自らを排斥する結果になりかねないのである。

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穏やかな梅雨の晴間に鳥たちは歌い

2015-06-29
太陽の恵みありがたき
梅雨に山あり渓ありと知りながら
己を立て直すとき

数えたくもなかったが、何日間雨が続いていたのだろう?起床してカーテンを開けると、陽光が眩しかった。もはや諦めの気持ちで湿度の高さによる様々な不快感に耐えていたのだが、やはり爽やかな空気に再会すると心が穏やかになるものだ。室内の空気を入れ換え、雨が滴り落ちてできた筋のある車のボディを洗車し、傘や湿気を吸った洗濯物を屋外に干す。除湿器などの人工物では得られない実に快適な空気が、あらたなる気分を醸成する。

そういえば今回、あらためてその境地を学んだ若山牧水の短歌には、鳥たちを詠んだものも多いと云う。山間の自然豊かな村で生まれ育ったという牧水の感性は、鳥たちの思いに自ずと共鳴したのであろう。やはり自然との共生というのは、日本文学に通底する大きなテーマとなっていることを思わせる。かくいう僕もまさにこの文章を書き付けている際に、鳥の囀りを耳にしている。早起き鳥がなぜ鳴くか、などと詮索するほど野暮なことはないだろう。鳥たちは”歌う”と捉えて、人間として豊かなことばを紡ぎ出すのである。

穏やかに豊かな感性を大切に
裸のままの自然な自分を受け容れて
今年も折返点が近づいている
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「心の鉦をうち鳴らし」のち「この酒の味」

2015-06-28
「けふもまたこころの鉦をうち鳴らし
 うち鳴らしつつあくがれて行く」
(若山牧水の短歌より)

郷土の歌人・若山牧水は、僕にとっては大学の先輩にもあたる。「国語・国文学」の道を僕が選択した大きな理由として、短歌を中心とする詩歌の存在は欠かせない。中学高校時代に読んだ短歌の調べや抒情に、何とも言えない良さを深く感じ取ったものだ。今年は若山牧水生誕130年目という節目の年である。そこで牧水生誕の地である日向市において、「牧水を旅する」と題して朗読オペラの公演が開催された。この企画そのものにも、僕としてはただならぬ興味があった。何しろ好きな短歌を歌詞として、朗読オペラという形式で言葉と韻律が交響するわけであるから。期待通りにその公演は、牧水の旅情を存分に表現するとともに音楽と声の芸術としての可能性を十分に感じさせるものであった。最近殊に、短歌(和歌)の韻律と拍の関係などに興味を持っていたので、実に貴重な機会となった。公演後に作曲家や声楽家の方々と懇談する機会も得て、「短歌が歌詞であるのはオペラとして歌い易いのでしょうか?」といった質問で、様々なご意見をいただくことができた。

公演後は、「第13回日本ほろよい学会」に出席。会長の佐佐木幸綱先生には、学部時代に大変お世話になった。学生研究班の代表を務めていた僕は、秩父の山間部で行なわれた合宿の際に、先生を最寄駅まで車でお迎えに上がったことがある。「最寄駅」と書いたがそこから合宿先までは車で40分から50分ほどはかかったと記憶している。その車内の個人教授は、まさに短歌が好きな僕にとってはこの上ない至福の時間であった。(その後、どうも創作に対しては尻込みしてばかりであるのだが)幸綱先生とは何年ぶりの再会になるか指折り数えてみると、どうやら2004年の和歌文学会、ちょうど中越地震が起きた10月23日(土)夕刻で、懇親会が始まる寸前に早稲田大学のカフェテリアのガラスに聊かの震動が走り、先生とともに「地震だ」と言ったとき以来であった。(この間にも、先生の最終講義は受講してはいるが)それにしても、早稲田で短歌に関係する先生方は例外なく酒好きであった。幸綱先生もこの「ほろよい学会」の会長であるが、酒の歌で牧水の歌数を抜こうという意気込みであるということ。どうやら酒と短歌は相性がいいのかもしれない。現在の貧困なる世相の感性は、人文学を「役立たず」と排斥に及んでいるようだが、人間が人間を語るには、言葉が必須なのである。同じように、人間が人間と出逢い、そして和し心を交わすには酒が必要なのかもしれない。そして何より「本音」を語り合えるのは「酒場」なのではあるまいか。酒を題材にした短歌に酔い痴れる宵の内であった。

「それほどにうまきかとひとの問ひたれば
 なにとこたへむこの酒のあぢ」
(若山牧水の短歌より)
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横暴に抗うためのしたたかさ

2015-06-27
「箍が外れる」とはいうが
奴らの日常ではこうした横暴な感覚が日常茶飯事なのだろう
「陳謝」「遺憾」で幕引きにあらず、その体質こそが・・・

「正しい」とは何か?この語彙が無作為に使用されて来たこの国の学習環境で育った私たちは、どうも「正しい」という語に対して従属する傾向が否めない。日常言語でも「的確」「適切」といった趣旨で「正解!」などと気軽に使用する場合も見られる。だがよく考えてみたい。「公正」という語彙があるように、ある考えの個人が「正しい」と云うのは、その者の独断と偏見に満ちた恣意に過ぎないのである。そんなことを痛切に考えさせられる状況が、昨今日々更新されている。「我々の主張は正しい」のであるから、「間違っている」のは「憲法」や「学者」だと公言する状況。ましてや「我々の主張は正しい」のであるから、その意に沿わない「新聞はつぶさないと」といった発言が、権力者に近い立場から発せられる横暴ぶりである。この状況を招く体質そのものからも、「正しい」という主張が、決して「公正」なものではないことは明白である。

こんな経験がある。小学校低学年の頃まで僕は、実に気弱な子どもであった。学級に威勢を張った奴がいると、必然的にその横暴な行為に曝された。そういう奴には必ず媚び諂う連中が寄生しており、奴の傘下で学級での居心地を確保しようとする。僕自身は気弱でありながらも、どうもその「媚び諂い」ができなかった。その為に奴は僕を攻撃した。靴(上履き)に唾を吐きかけたり、場合によるとスコップで頭を叩かれたこともある。「俺に従わないお前は正しくない」という主張を、奴は暴力で僕に振り翳した。もちろん気弱な僕は、それに暴力で抗える筈もなかった。(心の中では奴を殴り倒す妄想を常に抱きながら)その時僕は幼いながらも、「奴よりも自分は頭がいい」という感覚を悟った。その時から僕は、その横暴に対して「道化」で対応するようになった。するといとも簡単に、僕は奴をコントロールできるようになった。決して奴に媚び諂うわけでもなく寄生するわけでもない”一匹道化師”になった感覚であった。たぶん子どもながらも、僕はその時から「知性」を信じるようになったのであろう。この経験はその後、僕の学ぶ意欲を刺激して、まさに今現在に連なる。奴のその後の人生については知る由もない。

独裁者に心からの”笑い”はない
僕たちは、横暴に抗うためのしたたかさを具えたい
「笑いとはすなわち反抗精神である」(チャップリンの名言より)
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己を騙せば己が壊れる

2015-06-26
もう大丈夫!
その気の緩みが危うい
己を騙したり過信すること勿れ

こうも降雨が続くと、心身ともに弱い点に負担が掛かるのだろう。それに加えて出張続きの週末で全うな休日がないことも相俟って、10日前に筋肉に張りの出た背部が、再び聊かの痛みを伴った。前日にはだいぶ調子がよかったので、ジムで格闘技系の有酸素運動に「復帰」した。それでも動きは6割ぐらいに抑制していたのだが、1晩するとこの始末である。「もう大丈夫だ」という安易な判断や、「自身は健康体である」という過信が、こうした結果を招く。まさに後悔先に立たず。信頼できる鍼灸院で治療を受けたが、やはり「繰り返す」前に今一度診療に来ればよかった、といった趣旨のことを先生は冷静かつ穏やかに語った。

鎌倉時代の随筆『徒然草』の「高名の木登り」は、教科書にもよく採録もされる著名な段である。木登りの名人が木に登っている弟子に対して、木の高い所では何も言わないが、低くて安易な高さになってから「あやまちすな、心して降りよ」と語ったという内容だ。何事も「大丈夫」と思ったときが「危うい」という古典の教えである。その「低くて安易な高さ」であるときに、どれほどに謙虚であるかが身を護る秘訣ということになろう。人は健康である状態が常に続いていると思い込みがちだ。例えば、計器で測定された客観的数字に対しても、自己の中でそれを受け容れず誤摩化してしまうことがある。現在の技術では計器が安易に壊れることは稀で、人間が己を騙すことの方が遥かに危うい。冷静で知的な判断とは「自分が変化しているそのものを受け容れられる度量」ということになろうか。この「己を騙す」精神性は、どこか70年前の悲劇を生み出した、この国に蔓延した病に通ずるものがある。その病たる「空気」を繰り返してはならない。

自戒を込めて、ありのままの自己を受け容れる
あれほどに「ありのままの♬」と流行ったではないか
己を騙さず過信せず日々を謙虚に生きたいものである。
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「声で語り聞く」ことが危うい

2015-06-25
音読すれば理解が促進
意識化しないとむしろ音だけが空虚に
声に出して読んでいる己を読むとういこと

大学生ともなれば、小中高の段階を経て「音読」する力が定着しているかと思いきや、なかなか実態はあやしいものがある。特に中学校の中頃からは、授業では行うものの「音読」が形骸化し機能的に作用していないケースも多く、仕方なく音声化してきてしまった経験によって理解を置き去りにした空洞化が促進されてしまうようだ。この日の講義では実験的に、グループを作り順番に『ごんぎつね』を教師役となって音読する際に、最初の1回は手元の教科書の文字を追わず、他者の声のみを聞いて、どれほどに内容を想像し理解できるかを体験してもらった。するとやはり読み手本人も含めて、その「空洞化」した「音読」となってしまう傾向が否めなかった。もちろん、テキストを事前に読んでいるわけではないので、内容を探り探り(思い出し思い出し、とも)という条件がそうさせる面もある。だが、「音声化」のみを目的にしてしまったり、また音を聞くだけで内容を想像するという力に関しては、大変不十分であることがわかった。

スマホなどの個的通信手段及びメディアの存在は、声での伝達よりも文字での伝達を主とする。一般的に巷間に伝わる話題として、傍にいるにも関わらずSNSなどを介して相互伝達をする若者の存在が囁かれることがある。それは家庭内でも同様で、食事を知らせるのに声で呼ばずにスマホを媒介とするということが話題になることもある。確かに電車内での大衆の過ごし方を見れば、ほぼ9割方の人々がスマホ画面に没入し、周囲との関係性は疎かだ。またTV番組などでも、バラエティなどであればあるほど、出演者の発した言葉がテロップ文字で画面に表示される。たぶん多くの視聴者が、その文字を追うことになるだろう。出演者の声を、そのニュアンスを含めて微細に捉える感性は、自ずと衰えていると予測できる。所謂”中1・小1ギャップ”という問題は、その多くが「他者の話を聞き取ることができない」ことに起因するのではないかと思えるのである。

声で伝え声から想像し意味を受け取る
この人として根源的な伝達が危ういのかもしれない
それだけに「声で語り聞く」ことを意識化する学習機会の設置が急務なのであろう。
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語り継ぐべき沖縄の現実

2015-06-24
体験なき世代が多くを占める
70年という歳月が流れたいま
だからこそことばで語り継ごうと・・・

70年目の沖縄慰霊の日を迎えた。この節目に当たり、未だに負担を強いられようとしている沖縄の現実が何を訴えるのであろうか?そんな関心から、慰霊の日式典を見て黙祷を捧げるべきという思いも募り、昼の時間帯に大学研究室から一時帰宅した。正午の黙祷を生中継すると思いきや、「全国のニュースが終わって20分から中継します。」と11時台までは生中継で沖縄の様子を伝えていた映像は切り替わった。「全国のニュース」としてこの「慰霊の日式典」の黙祷以上に、何がニュースたり得るのであろうか?誠に懐疑的な放送方針に、未だ変わらぬ「沖縄」ー「本土(全国)」という図式が見えてしまい、憤りを禁じ得なかった。

20分からの式典中継では、翁長沖縄県知事の県民による民意を代弁した毅然たる平和宣言。それに引き続き、高校3年生ちねんまさるさんによる「みるくゅがゃゆら」という詩の朗読が行なわれた。祖母の話としてその悲惨な体験をもとに、真の「平和」を希求する切実なる声の表現であった。詩には沖縄方言を随所に交え、また歌唱も加えて「沖縄(琉球)」が抱え込んで来た悲惨な現実を声で炙り出した。決して”教科書読み”的な、空洞化した朗読ではなかったことが、僕の心に響いた。それに引き替え、「哀悼の誠」や「御霊」といった語彙を用いて”読み上げ”られる聞くに耐えない声は、親身に沖縄の現実に思いを致すことからは程遠く、「押しつけ強行」を尊敬語のオブラートによって真意を包み隠す陰険さに満ちていた。

高校3年の修学旅行以来
戦争も沖縄の現実も知らない僕の中で、語り継ぐべきことがある
中継後に大学に戻り、ゼミ生たちに「この日」の意味を語る。
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相手が息を吸う刹那に

2015-06-23
武道で攻勢を仕掛ける間
投手が打者に投げ込む間
相手の呼吸にシンクロできれば成果があるとか・・・

朗読において「声が創造するライブ性」が大変重要であることは、これまでも体験的に身に染みている。その境地については、小欄にも様々な表現で叙述してきたつもりである。「聞き手に届く声」にするにはどうしたらよいか?単に声の大きさや質ではなく、ましてや小手先の技術ではない。朗読に限らず音楽のライブも然り、また運動競技で対戦相手を凌駕する「間」とは、理論的にどのようなものなのかを考えるヒントに出会った。先日の研究学会で参加した「絵本読み聞かせワークショップ」で、「聞き手と呼吸のシンクロ」という点が大変重要であることを学んだ。たぶん僕などは、中学高校を含めた長年の教壇経験において、生徒・学生・受講者との呼吸をシンクロさせることを、既に無意識の領域で行なっているのだということが腑に落ちた。

いつ語り始めるか?講義の冒頭、あるいは重要な問いや要点を述べるに際して。そこで聴衆を”前のめり”にさせられるか否かが、語り手としての成否に関わっているのだと思われる。剣道では、相手が息を吸った瞬間に打ち込むのだと云う。(たぶん他の多くの武道も同様だろう)また野球で投手が打者に投げ込む間として適しているのは、息を吸う”直前の”刹那ではないかと思われる。よくプロ野球などでも、「打つ意欲もなく見逃し三振」という場面を眼にするが、あれは「意欲がない」訳ではなく、打者としては「息を吸ってしまった瞬間に球が来てしまった」という感覚ではないだろうか。投手はただ速く重い球を投げればよい訳ではなく、この打者が「抜ける」瞬間にシンクロするのである。打者もまたこまめな動きを繰り返し、その「抜ける間」に投球が手元に来ないようにシンクロする。(打席で微動を繰り返し、落ち着かないフォームである打者を見掛けるのはその為である)こうした境地の投球に最も優れていたのが、桑田真澄投手であると僕は思っている。(僕の好みもあるのだが)

沈黙もメッセージである
換言すればこんな点にも首肯ける
剣道・野球・落語などなど僕自身が体験的に学んだ「間」がそこにある。
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音から文字へー幼児から児童のことば

2015-06-22
音で読む子どもたち
次第に視覚化して安心するようにも
幼小連携のことばの教育を考える・・・

前回の東京出張で幼稚園を訪れて、子どもたちがどのように人の話を聞けるようになるのか、そして未就園児に対しての読み語りの効用などを実地調査した。絵を中心に物語を理解する子どもたちが、次第に大人が話す声に意味があり「眼をみてしっかり聞けば」通じ合えることを悟り始める。さすればその先では、どのような発達段階があるのだろうか。特に幼稚園や保育園から小学校へと入学した後のギャップが問題化していることもあり、その適応を考えるとき自ずとことばを聞く上での理解や反応が重要であるというのは自明であろう。だがしかし、この点に指導者側がどれほど自覚的であるかは、甚だあやしいという思いを以前から抱いていた。

今回、日本国語教育学会西日本集会では、意識して(小学校)入門期の分科会に参加し、音から文字への子どもたちの理解がどのように発達するか、そこにどのような指導が実践されているかを看取したいと試みたのであった。入学間もない児童たちは、”ことばあそび”の要素を持つ題材がを大変好むという。その後、ささやかな物語を、そして簡潔な説明文などにも進んでいく。こうした段階では、児童たちの経験と題材を繋がることが肝要であるという現場の先生方の実践報告であった。そこで僕が考えたのは、説明文に出てくることばの響きについても興味を持ち、音から文字への、更には意味や語彙へといった指導が効果的なのではないのかということであった。絵本の読み語りでは、声と絵の「ひみつ」によって、幼児に限らず大人でも様々な意識・無意識が覚醒されるという。(これもまた今回、ワークショップに参加して学んだことであるが、また日を改めて詳述する)そんな効果も含めて、今まで以上に音と文字の関係に、指導者は自覚的になるべきではないだろうか。

大人の方が音を疎かに捉えている
幼児期の豊かな五感活用を更に伸ばすべきでは
幼小連携には、教育で考えねばならない重要な鍵があるように痛感した。
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見知らぬ街の夕食ひとり歩き

2015-06-21
偶然歩いた道に
佇む飲食店の店構え
妙に引き込まれる店を発見するのはなぜか?

見知らぬ街を訪れた際の楽しみは、やはり美味しい料理であろう。現在の居住地や東京には何軒かの馴染みの店があるが、偶有性の海のなかで出逢う飲食店というのも実に面白い。場合によるとまさに一期一会であるかもしれない、などという思いを巡らせながらも、再度訪れたいと思うかどうかを自らの舌の感覚に託す。この日も、駅から宿泊するホテルまでの道すがら、古い佇まいの串揚げ居酒屋を発見してしまった。

宿に荷物を置いて早速向かうと、昭和の雰囲気漂う1本100円の表示に戸惑いながらも、1人前は3本からの注文であることを周囲の客の具合から知った。串カツ・ねぎま・うずらに加えて白菜漬けを注文し瓶ビールを手酌でやる。眼の前にはソースが流し込まれたトレイ、そして味噌が満載された大きめのボールがある。もちろん?焼き物を扱う女性は無愛想だ。そして串揚げ鍋の前には、会計を一手に引き受ける女将さんが、長年の年輪を表情に浮かべるように座り込んでいる。追加でつくねとイカ団子を注文し、しめて2600円也であった。

ご飯ものがなかったので
ちょっと梯子で珍しく中華料理店へ
見知らぬ街の夕食ひとり歩き
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