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「自律的」に活動するとは?

2015-05-31
考えている己を考えること
自分を外側から見つめ直す
話したこと書いたものを受け止めて・・・

結果より過程が大切、などとよく云われる。その割に世間は、依然として「結果」(成果)を評価することに偏りがちだ。経済でも諸々の業績でも、求められるのは「結果」である。眼に見えてわかるものが、他には代え難く説得力があるのも確かであろう。また日本では「陰での努力」が賞賛されることも多い。人知れず積み上げたもので成果を上げる、その最終的な結果を見せて過程は見せないのを良しとする傾向もある。だが今や、「できない」ことが「できる」ようになった過程について自覚的になることも必要であるという方向性が提起されている時代だ。

あることが「できる」ようになるとは如何なることか?場面・状況が一変したとしても「できる」状態を保てるのが、真に「できる」ということ。その場限りではなく、広く敷衍しても発揮できる力が求められるということ。そのためにも、自分がどんな過程を経てどんなことが「わかって」、どんな「表現」「行動」をしたかを捉えておくことが肝要のようだ。「陰での」に対して自らは大きく眼を見開いておく必要があるということだろう。そうした意味では、「表現」「行動」の記録を残しておくことが重要である。

小欄のネタ帳となる1日1頁の手帳
そしてこの文章そのもの
自己表現したものは自らの為でもあると外側から知る
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かけがえのない親友

2015-05-30
学生時代の邂逅
あれから幾歳月
忌憚なき会話に
限りなき力が湧く
それぞれに歩んで来た道
見た風景は違いながらも
「俺たちは違う」などと
根拠なき自信を悠然と語る
18歳の己から定点観測
かけがえのない親友よ!ありがとう!
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不遜な態度そのものが危うい

2015-05-29
人の話しは最後まで聞く
まさに「学校時代に習わなかったのでしょうか?」
「不遜」とは「思い上がって、相手を見下した態度をとること」そのもの・・・

相手が話しているのに、自らのことばを差し挟むのは何よりもあってはならず、実に野卑な行為であると思う。往々にして「差し挟む」傾向のある人物に限って、他者に同様の行為をされると、それに対して立腹することが多い。元来、「差し挟む」ことそのものが相手を軽視しているに他ならず、相手は間違っているが自らは正しいという利己的な発想の表れであろう。より適切な発想をもつ人物は、他者の意見の可能性を否定せず柔和に受け止める素地がある。換言すれば、多様性を受容してこそ、自らの立ち位置が普遍化しより適切であると判断されるわけである。意見・主張というのはあくまで押し付けるものではなく、多様な他者たちに理解されて初めて妥当だと評価を受ける。あらゆる危険な可能性に対して考えを巡らし、耕された議論があってこそ認められるものである。ところが実に「不遜」そのものな態度、それ自体が誠に危ういのである。

子どもたちは生育過程で「大人」社会を見本としている、などと月並みによく云われる。かくいう僕自身も自説を主張せんがために、「差し挟む」傾向があった。だが忌憚のない評価をしてくれる親友がその点をしばしば指摘してくれてから、一転して「聞き上手」を目指すようになった。そうした過去を振り返るに、やはり他者が自己の話しの最中に「それは違う!」などと介入してくることに対して、並々ならぬ嫌悪感を覚えた。「聞き上手」を心得てからは、母親が話しを遮って来ることに対しても「まずは最後まで聞いて」と嗜めるようになった。このように考えると「差し挟む」感情の根本に、「私は正しい」という不遜な態度が頑にあるのだと痛感する。よって他者の同様の行為に対して、尋常でない拒絶感が生じるのだ。議論をする相手に対して、「お前はわかっていないね」と言わんばかりの笑みを浮かべるのも、起因するのはその傲慢なる精神に他ならない。ここまで記したことは、僕が小学校などの「学校現場」で見聞したことではない。この国の行く末を議論する場を観て感じたことだ。議論内容以前に、その不遜な態度が跳梁跋扈していることそのものが、誠に危うき前兆であるとしか思えない。否、「しか思えない。」は「不遜」であった。「・・・と僕は考えてます。」であった。

久し振りに心底から怒りが込み上げた
だからこそ冷静なしたたかさを持ち続けたい
それが知的であることだと信じているのであるが・・・
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「かかわる力」をあらためて探そう

2015-05-28
「活動的」否「能動的」
「独話」のみに終始せず
「対話」と「会話」あるものにするには・・・


「能動」を辞書で引くと「積極的に他に働きかけること」(『新明解国語辞典第6版』三省堂)とある。その「積極的」の意味合いには、相互に「活動」があり「双方向的な関係」が成立しているということになろうか。ある意味で大学講義などは「独話」に分類されそうであるが、それは旧態依然の感覚にして、まさに「能動的」であり、受講者が「主体的」に参加する活動型が必然的に求められる。特に小中高校の教育を「能動的に!」と掛け声を放っている「教育」に関係する担当者自身の講義が、「独話」のみの一方的なものであってはならない筈だ。講義も受講者が「知識を受容した後に、加工し再生産しあらたなる価値観を生成する場」である必要があるということだ。

大学附属小中学校との共同研究全体会が開催され、今年度の各教科の研究方針が提起された。更には次期指導要領改訂に向けて、「かかわる力」ということをテーマに、その内実を詳細に位置付ける必要があるということが提案された。その根本に据えられるべきなのは、やはり教師自身の「かかわる力」ではないかと、個人的な考えを思い浮かべた。教師は往々にして、「独り舞台」に立ちたがる悪い癖がある。例えば、野球の守備練習における「ノック」を考えよう。練習すべきは選手たちで、放たれた打球を如何に処理して守備能力の技術を実践的に磨くかが主眼である筈だ。だが”勘違い”が多いのは、「ノッカー」自身が主役かの如き感覚に陥っているような場合である。講義においても受講者を如何に「能動的」に動かすかが大切である。受講者が「黙読」「黙聞」「黙思」な状態で固着している状態なのに対して、ただ「知識」を”垂れ流し”ても受講者の「価値観」はあらたに「再生産され生成」されることはない。

他者とどのように「かかわる」か?
「21世紀型」と喧伝されるこの「力」を育めということは、
我々が実は真に大切なものを、「20世紀」に置き去りにしてきたのだともいえる。

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映像だけでは育たないもの

2015-05-27
「あの場所だ!」と思う記憶とか夢
想像の中で急に浮上する意味は何か?
映像と言語がどのように繋がるかという無意識下のことか・・・

絵本の読み語りが育児の上で重要な理由は何であろうか?なぜ映像を見せることと、違いがあるのだろう?大人になれば今やWebを介して、実に容易に映像を観ることができる。だが自身の体験で考えて分かるのだが、映像で刻まれた記憶は薄い。それに対して体験はもちろん絵本や小説によって、自らが想像力を起動して得られた記憶は、結構深く刻まれていることがある。僕などは時折脳裏に、「あの場所だ!」と思う記憶が意味も脈絡もなく蘇ることがある。それは体験をして記憶に刻まれているか、小説の舞台として想定した場所であったりする。

右脳は「音楽・映像」に、左脳は「言語・数値」に対応するという、脳科学の一般論として研究成果がある。VTRを観れば右脳に偏り、小説を読めば左脳に偏るということになろうか。だが、年齢を問わず絵本を読むということは、左右脳をバランスよく刺激するということになる。語り掛ける言葉、そして動かないがヒントを与えてくれる絵画、その双方の効果が脳を健全に育てるということだ。更には、人が人に肉声でライブ性をもって語り掛ける必要がある。厳密に脳がどのように聴き分けているかは、脳科学の成果をそこまで調べてはいないが、たぶん音源などの「機械的な音」と「肉声」とは、人の脳の反応に大きな違いがあるはずだ。よって早期教育や語学教材などで、「見せているだけ・聞いているだけ」でよいという謳い文句の代物は、大変胡散臭いものだと僕は考えている。

人と本を繋ぎ共同体を創り出す
肉声による読み語りは人を繋ぐ
豊かで平和な感性はこうして育つ筈なのであるが・・・
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公共図書館の役割再考

2015-05-26
「閲覧する」から「読み語る」へ
情報受信のみならず熟考して発信と表現を
公共図書館は、人と人・人と地域・人と本とを繋ぐ

勤務地県内の公共図書館長が一同に会する連絡会で、「読書の意義」や「国語教育の現状」についての講演をという依頼を数ヶ月前からいただき、この日に実現の運びとなった。Webを介して情報検索の利便性が高まった現代社会において、「読書」とは「図書館」とはどうあるべきなのであろうか?ここ数ヶ月の間、何人かの方々にもご意見を伺いながら自分なりに考えて来た。調べたいことの多くは、スマホや家庭でのPCによりWebで閲覧可能となり、公共図書館まで足を運ぶ必要性も減少したと言わざるを得ないであろう。ならば「図書館」はかくあるべきなのであろうか?

講演の主旨は、冒頭に記した如きである。これは過去において、「読書」に対しても同様であったが、書物(Web)から得た知識のみでは偏向した「体験」にしかなり得ない。利用者各人の「生活体験」と融合してこそ生きた情報となるのだ。これまでにもTVの普及があれば、その弊害が(特に生育段階の子どもたちに対して)語られて来た。現在、PCやスマホを介したWeb利用も同様であろう。どの時代も新しいメディアだけが悪い訳ではない。それを適切に利用する主体性を如何に人々が考えるかが問題なのだ。そうでなければ、いつになっても新規なものを「黒船」と見なし脅威を感じる域から脱し得ないだろう。

「図書館」とは、「静粛」に資料を「黙読」で「閲覧」する場であった。その要素は今後も変わらないだろう。だが個々人が、Webを介して得た情報を「生きた」ものにするという、ある意味で逆説的な役割も担ったのではないかと思うのである。江戸時代から明治期を経て、「黙読」ができるということが「近代読者」を誕生させたというのは、前田愛などの論考に詳しいが、そのことでむしろ「人と人とが本を共有する」といった「繋がり」の要素が失われて久しいのではないかという思いがある。今や公共図書館は、地域の「文化センター」としての役割も担っていると、講演後に当該地域の館長の方から個別にお話しいただいた。何らかの企画があれば、それを「聞く」のみならず、利用者自らが「発信・表現」する要素が求められる。これはまさに僕が追究していることであるが、ライブ性ある「声」は「人を繋ぐ」のである。よって公共図書館にも、利用者参加の活動型企画が、より積極的に求められるのではないだろうか。

個々人で「黙読」したものを
「声」で他者に対して表現する
相互に受容し合ってこそ、自己を見つめ直し新たな自分に気付くことができる。
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衝動買いか計画なのか

2015-05-25
旧モデルなら45%OFF
明日月曜日までの価格とか
さて購入するや否や・・・

小欄を書いている際のお供は、一杯の温かい珈琲である。現在の居住地に移り住んだ際に、他の家電品とともに購入した珈琲マシンが、豊かな香りとともにインスタントとも思えないような一杯を容易に作ってくれる。一日が始まる覚醒には最適であり、PC画面越しの東側の窓から注ぐ朝陽とともに、僕を一日の活動へと誘ってくれる。この一杯が昼間にも飲みたいと思い、かねてからこのマシンで抽出した珈琲を魔法瓶に詰め込んで研究室に運ぶこともあった。ところが同型のマシンを、冒頭のような特価で売り出していた場面に偶々巡り会ってしまった。

現在の研究室には電気湯沸式ポットが1台あり、お茶やインスタント珈琲に湯を注ぐことに使用している。それで満足といえばそれまでだが、時折美味しい珈琲を求めたくなる。美味しいかどうかは別として、大学購買部のパン売り場でマシンから抽出される代物を、つい先日も購入してしまった。「1日に珈琲を3〜4杯飲む方が、飲まないよりも長生きする。」といった特に根拠までは確認していない医学的実験結果が報道されていたのも追い風にしつつ、やはり昼食後などに一杯飲むと、午後のデスクワークなどの頭の覚醒に違いがあるように思われる。ただし、夕方6時以降は睡眠への影響もあろうかと、飲むことを控えるのを原則としている。それに都会の大学とも違い、至近に気の利いたCafeがないゆえに、研究室にその機能を持たせるべきかなどと考えない訳でもない。

という訳で冒頭の決断や如何に?
衝動なのか計画なのか、広い販売店内をしばし徘徊し決めた。
この日はある音楽CDも通販で購入、これまた衝動か計画か・・・

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断言の嘘を疑えば

2015-05-24
「断言」するのがリーダーの役割か?
当てにもならぬことを「明確」に語っても
あくまでそれを疑えば、一解釈に過ぎないことがすぐにわかる

拠り所を失った混沌とした社会では、多くの人々が強いリーダーシップを求めるがゆえ、「断言」し「明確」に語ることに靡いて行くようだ。だが、よく考えてみればあくまで想定に過ぎないことを恣意的に語ることが「断言」であり、ましてやその根拠が「砂上の楼閣」であることが露わになれば尚更である。僕たちは、20世紀に「疑うこと」の大切さを学んだのであり、実はあらゆることが「仮説」に過ぎないであろうことも知っている。それだけに「明確」に「断言」されると、むしろ疑念が深まるのは、僕たち研究者だけではない筈だ。

また単純に「事実」を語ったとしても、そこに何らかの解釈を施して「心情」を読んでしまう「内面」を持っているのも、僕たちが「市民」であり「一読者」であるからだろうか。世間とは元来が「五月蝿い」ものであり、何事にも「疑いの眼」を向けてこそ「事実」に近づけるに過ぎないのであろう。こう考えると、ある言葉があったときに様々な解釈を許容するという立場で考えることが、如何に大切かが知られる。「明確」にされていればいるほど、見えない思惑をもとにした恣意で塗り固められているだろうことを疑う必要がある。

大学時代の恩師の言葉
「僕の説に簡単に従うな!君はどう読むんだ?」
師であればこそ疑ってみなければ、その解釈の本質に辿り着くことはできないのである。
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南国ゴーヤに魅せられて

2015-05-23
苦瓜(ゴーヤ)を如何にして?
などと考えながら栄養価に惹かれ
その新鮮な味わいを堪能

東京に在住している頃は、ゴーヤを購入して食べるなど思いもよらなかった。せいぜい居酒屋で、「チャンプル」が料理としてあれば食べるという程度であった。ところが現在の居住地で、新鮮な野菜市場に出向き、見事な緑色をした苦瓜(ゴーヤ)を眼にした。果たしてどのように食したらよいかなどの目算も立たないうちに、迷わずカゴの中に入れて購入した。何しろその外見の緑色に漲る力が感じられ、その野性的な外見への抵抗感を和らげるほどの新鮮味が感じられたのだ。

自宅で適当にサラダとして食してみると、これまた抜群な食材だという思いをあらたにした。「苦瓜」の名はあるが、それほどの苦味もなく鰹節とマヨネーズとの相性がこの上ないものがあった。沖縄が長寿県(特に女性)であるのは著名であるが、その一要素としてゴーヤの存在が印象的である。「チャンプル」の取り合わせに見られるように、豚肉や豆腐類と合わせれば、更なる栄養価が期待できる。現在僕が居住する県も南国の要素が豊富で、自ずと食材選択もこうした手合いを最近は特に好むようになった。

何事も実行し味わってみないとわからない
郷に入れば郷に従え
南国に居住する利点を存分に享受したい
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「この世に生かされて」いる想い

2015-05-22
「悪いことも良いことも
 どんな時代だろうと
 人間(ひと)が見る夢は同じさ」
(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より)

「この世に生かされて」いるなどと、考えることはあるだろうか?どんなに傲慢で無知な人間でも、必ずや「生かされている」のが自然の摂理である。その偶有性と奇跡に驚くとともに、今ある「生」に心より感謝する必要があるのではないかと常々思う。小欄には何度も記しているが、戦時中、幼かった僕の父が航空機からの機銃掃射を受けて、向かいの家に逃げ込み辛うじて命をとりとめたという話を聞いたことがある。僕の今の命は、与えられる以前にそんな危機的状況に遭遇していたことになる。

この切実なる具体例が物語るように、戦争とは幼い市民の生身に銃弾が向けられるという狂気なのである。それは、「(当時の)米軍が醜い」という短絡的な問題ではない。そのような狂気の沙汰を現実にしてしまった、内外の社会そのものが問題なのだ。いま「内外の」と書いた。だが、この「内外の」という発想そのものが、貧困なる精神による狂気に繋がる発想なのではないかと思う。「グローバルな時代」と月並みに云われて久しいが、まさに地球規模での発想をせよという時代になったというのに、「内」に籠もり外郭を固めることばかりを考えているこの矮小な島国とは何なのであろうか?僕たちは自身の命に繋がる三世代ほどの具体的に意識できる歴史の中で、何に直面し何を体験して来たのであろう。両親や祖父祖母が「生き抜いて」来たからこそ、自身が「生かされている」ということを、個々人が激しく自覚する必要があるのではないかと思う。

「過ちは二度と繰り返さんと
 堅く誓ったあの夏の日
 未だ癒えない傷を抱えて
 長い道を歩こう」(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より)

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