ゼミの目指すもの

2015-04-30
卒論で何をテーマとするか?
そして教員採用試験に如何に挑むか
ゼミという場で養う力とは?

休日ながら、ゼミの新3年生を歓迎する宴を催した。大学至近の僕が懇意にする焼肉店で、食べ放題コースを選択。時間内で最初の一杯飲物を注文すれば、あとは持ち込み可というお得なコースである。新3年生は5名、上級生たる4年生4名が宴の設定や進行を担った。研究室の机ではなく、焼肉の網を囲むというのは自ずと親睦が生まれるものである。実に和やかな時間が進行し、家庭的な雰囲気が醸し出されて来た。

抑も、ゼミで養う力とは何であろうか?もちろん、卒論へ向かっての指導が第一義ではあろう。だが、それだけでよろしい訳はない。教員採用試験や就職へ向けて、社会人としての資質を養成するのも、この場での大きな使命であろう。採用二次試験で立派に面接や討論に臨める人間的な魅力を育み、果ては立派な教員として教育界に送り出すというのが、教員養成系学部でゼミを担当する「教育者」としての責務であろう。それだけにこうした宴の場を持ち、その設定から宴の最中の四方山話に至るまでの「経験」も、ゼミ課外の重要な要素と心得ている。

学生とどう関わるか
指導担当としてこちらもどれほど露わになるかということ
「痛いところ」を確実に厳しく指摘できてこそ、家庭的たる本来の意味となるはずである。
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値段と真価を見極めて

2015-04-29
セールで山積みされた98円のりんご
冷蔵され産地と品種の解説付158円のりんご
さてどちらを買いましょうか?

最近、物の真価を考えるようになった。以前は買物をするときに一番気になるのが値段であったが、最近は自分にとってどれほどの価値があるかという点が基準になってきた。「自分にとって」というのは単なる利害関係ではなく、食品なら安全安心であるとか、身につける物でも自分の身体にとって不利益がないかということである。先月、ある農家の方と話しをして、無農薬栽培がどれほど大変な労力がかかるかということを思い知った。雑草の除去だけでも甚大な手間がかかるのである。それがそのまま値段に跳ね返るわけであるから、「無農薬」に価値を見出さない者にとっては、意味なく高価な値段と判断されてしまう。企業が利益を上げる為には、非効率的な栽培は適さないということだろう。

そんな発想で、冒頭に記したようなケースに遭遇した。僕がどちらの値段のリンゴを買ったかは、みなさんの判断にお任せする。元来がこの時季のりんごは季節外れであり、産直市場などでは商品として扱いもしなくなっている。そんな商品を、スーパーが大量に保有している意味を考えた末の結果である。要するに安価は「なぜ安価」なのかということ。靴等も僕は足をスキャナーしてサイズ測定したショップで、適切なサイズのやや高価な一品を愛用している。一般的な見地からしたら高価な靴かもしれないが、既に一番古い物は8年も履いている。(途中で踵部分の修理を2度ほど施しているが)値段を年割にしてその納得した履き心地ならば、安価な靴が1〜2年で履けなくなるよりもむしろ安いとさえ思うのである。食品同様に、自分の足にとってどのような点が重要かという問題である。

価格競争など市場経済の多様化
賢い消費者とは何だろうか?
真に価値ある商品とは何かという点を、個人が個人の眼で判断するしかないのかもしれない。
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小さな勇気から始まる

2015-04-28
「どう思われるか?」
と他者の眼を気にする心理
それ以上に自らが「どう生きるか」である

様々な局面で、他者の支持を得るというのは容易なことではない。研究発表に論文、その延長上にある著書に至るまで、如何に説得力があり巧妙な内容であるかという上で研究者の評価は厳しい。ある仮説を論じようとしても、どのような角度から誰に批評されるだろうかといった、他者の視線がどうしても気になるものである。だが、それを気にして臆していては何も始まらない。自分がどれだけの信念と自信をもって、日常から研究に打ち込むかである。評価は他者が決めるものであり、自分の中の憶測で身動きが取れないことの方が問題である。現に採用人事などというのは、どういう方向にどのように動くかはまったくわからない。まずは臆することなく挑戦しなければ何も始まらないのである。僕自身も数え切れないほどの「敗北」を喫した経験によって「今」があるのだ。

幼少の頃から、小さな勇気を持つよう親に教えられた。例えば、レストランなどに行った際に、店員に「水をください」と声を掛けるような些細なこと。子どもの頃の僕は結構な引っ込み思案で、なかなかこうした小さな勇気がなかった記憶がある。買物をする際も、店員に尋ねれば即座にわかるはずであるが、まずは自力で商品を探したりその種類を見極めようとする癖が今でもある。(もっとも最近の場合は、店員の商品に対する専門性に疑問を抱くケースも多いことが要因なのだが)なぜ小さな勇気がなかったのかと考えてみると、それはやはり他者の眼を気にするからに他ならない。「こんな商品をこんな風に探しているのか?」と思われることに気を回し過ぎて、「尋ねる」という行為に及ばなかったのではないかと今にして思う。

行動しない後悔より行動した後悔
後者の方が遥かに爽快な清々しさを伴う
自分自身で「こうかもしれない」と閉じ籠るのは、何事でもマイナスにしか働かないのだ。
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温かきは家族

2015-04-27
家族のように喜びが湧く親友の晴れ姿
ある人の挑戦を支える家族の温かさ
そして自らの両親と語って思うこと

親友の落語家・金原亭馬治さんが、真打昇進と相成ったことは先月の小欄でお伝えした。披露宴に出席させていただき、お祝いの意は添えていたがまだ高座での姿を見ていなかった。ということで寄席で開催される真打お披露目興行へと足を運んだ。前売り券が完売していたこともあって、当日券購入者は、たとえ空席があっても「立ち見」と定められ、約4時間にわたって足腰の鍛錬のおまけまでいただいた。しかし「お目当て」「お後がよろしいようで」のことばに示されるように、とりをとる「真打」の出番があってこそ、寄席は引き締まりその出番のために大勢の落語家や色物役者が芸を繰り広げる。お披露目口上もあったからか、落語業界の人間的な繋がりが実感できて、やはり人が人を支え支えられといったことの素晴らしさを存分に感じられる高座であった。まさに落語には人情が見え隠れするのである。

その合間か、どちらが本筋かわからないが、両親とじっかりと話す時間も取れた。息子として何ができるのか?長きにわたって今も精神的に支えられている父母と言葉を交わすということは、実に豊かで掛け替えのない時間だ。やや大仰だが、自分がこの世に生きている根源と存在意味をあらためて問い直すときとなる。宵の口には、ある情熱を持った挑戦に踏み出した友人を訪ねる。彼の前向きな生き方はもとより、彼を支援するある家族の個々の優しいおもやりが尊い。そのご家族の娘さん2人と短時間ながら密度の濃い話ができて、現代に生きる意味をあらためて教えられた思いである。やはり温かい家族は、豊かな心を育てるものである。

しばし様々な思いやりに触れた
人と繋がることこそ人生の宝である
とりわけ家族の温かさを再考する数日となった。
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「心に温もる」友のことば

2015-04-26
「この曲は俺のためにあるようだ」
若い頃から長きに渡りサザンを愛好してきた親友
普遍的な一曲が個人の心を励まし支える

若き青春時代からお互いの人生を見つめ合い、サザンの曲を背景に様々な経験をともにしてきた親友がいる。異業種でありながら出逢った当時から、妙に馬が合った。まだ経験の浅い修行時代、次第に独り立ちし様々な紆余曲折もあり、荒波を乗り越えて今がある。過去には桑田佳祐さんのLIVEをともに観にいったこともある。桑田さんとの年齢的な距離感とか、受け止める感覚だとか、そんな感性が尽く一致するのである。

サザンの新譜『葡萄』の冒頭を飾る「アロエ」が、今彼の心を支えているという。「だから勝負、勝負、勝負出ろ!勝負に行こう!やまない風はないさ」といったサビの部分に代表されるように、混迷の時代を生きる僕たちへの応援歌である。世間や時代は、容赦なく僕たちの生活に襲い掛かってくる。だがその予期せぬ攻撃にも怯まず身を支えて、今一度上昇すべく持ち上げる心身の強度が、今の時代を生き抜くには必要なのかもしれない。

いつも人生は新たな局面に遭遇する
だがその時に前進する勇気を持てるかどうか
親友の「心に温もる」言葉がまた大きく僕の中で共鳴するのである
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空間の違う今

2015-04-25
日常空間で過ぎるとき
移動した先で過ぎるとき
同じ「とき」でも捉え方が変わる

自分自身のことであるのに、日常生活に埋没していると見えないものがあるものである。一定の型に従い、同じ光景を見て、同じ時間に同じ仕事をこなす。だが少しでもその空間から離れると、違う角度で物事が見えてくるものだ。

「見えないものを見えるようにする」のが言語芸術であるといった論があるが、「旅」ならずとも空間を移動することにも、同じような作用があるものだ。それゆえに古来から詩人は旅をし、自己の「今」から解放されて新たな境地を開拓してきたのであろう。

「今」をはかる定点観測点
偶然に出逢う人々
精神的な旅はいつもいつまでも続けよう
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今年も公開講座はじめます

2015-04-24
全6回
うち4回はゲスト講師招聘
今年も公開講座はじめます

昨年度、初めて公開講座「朗読で味わいを深める日本文学」を開講し全8回を実施し、受講者からは好評の声をいただいた。1月の最終回には「次年度はよりパワーアップしたラインナップでお送りします」といった趣旨のことを公言したので、様々な模索の末に今年度は冒頭に記したような内容となった。名言集を手がける著述家による偉人たちの解説。女優さんとギタリストのコンビによる読み語り。落語家による入門編と古典落語。語りに定評のあるアナウンサーによる詩の朗読。以上のように多彩なゲストをお迎えして、6回の講座を展開することになった。

パンフレットやチラシも完成し、居住地周辺で懇意にする方々に依頼し、パンフの配布を始めている。お世話になっている銀行、洋食屋さん、焼肉店、小料理屋、地元産直市場、パン屋さん等々に僕の公開講座パンフを置かせてもらっている。みなさん「喜んで」といった風に扱っていただき、誠に感謝の念が絶えない。ぜひともこれが功を奏し、昨年度の受講生に加えて多くの方々に受講いただきたいと思っている。ちなみに第1回は、連休明けの5月9日に開講となり、人物研究家で著述家の真山知幸氏(小欄リンクからブログに行けます)をお迎えすることになっている。

さて今年度も地元市民の方々と
声の魅力を存分に味わおう
本年度の副題は「ことばの力・声の力」である

詳細は大学HP平成27年度公開講座「朗読で味わいを深める日本文学」にあります。
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「平和の鐘が鳴る」響くのは・・・

2015-04-23
「ここにいるのは
 私独りじゃない
 過去と未来が
 繋いだこの命」(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より」

国語の教師として、「古典」をなぜ学ぶのかという生徒たちの疑問に対して、明確な答えを持つべきだと常々考えて来た。それは大学の学生たちに対しても同じで、年度始めの授業で「国語の嫌いな点」をアンケート調査すると、「古典が嫌いだった」という答えがかなり多くの学生たちの回答に見られる。「今は使用しない昔の言葉・文章なんかいらない(役に立たない)」という考えを如何に説得するかである。その際に僕はよく「君たちの命を考えてみよう」と問い掛ける。

「君には父と母がいて、その双方にもまた父(祖父)と母(祖母)がいて、そのまた・・・」と永遠に続いて行く。もちろん時代が変われば人も変わるのだが、過去の命があってこそ今現在「ここにいるのは」と自覚できる己が存在できる。そしてまた同じ図式で、未来へ命を繋ぐ。その個々の「ここにいる」人々が、言語を使用しその文化を継承して来たのだ。だから「古典」を学ぶのは、「今の自分」の存在する意味を学ぶことなのである。概ね、このような説明を試みるのである。

この「古典」は、そのまま「平和」に置き換えられるのではないだろうか。どんなに欲に眼が眩んだ人間でも、「平和」を願わない者はいないはずだ(と性善説を考えたい)。むしろこう言った方が適切だろうか、自分だけの「平和」を願うからこそ、戦乱に陥るという矛盾があるのかもしれない。自己の弱さを護るがために、武力を誇示するという保身な発想が「平和」の均衡を崩すのである。記憶ができるからこそ忘却もする人間という動物は、「平和」が「いまここ」にあると、その価値の重要性が過去からの蓄積により構築されていることを愚かにも忘れ去ってしまう。過去には「平和」を願いたくても願えない時代があり、訴えられない悲痛を味わいながら生きていた人々がいる。それは僕たちにとって決して他者なのではなく、僕たちのDNAの中に確実に引き継がれている筈なのだ。それゆえに過去の反省を、忘れることなく引き継ぐ必要があり、そのためにも「ことば」を絶やさずに語ることが求められるのである。

戦後70年
消えない過去に向き合うのは「繋いだこの命」を考えること
サザンの曲が柔らかくも声高に「平和」を希求してくれているのであるが・・・
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「繰り返す」ことが「引き継ぐ」ことだ

2015-04-22
子どもは同じ絵本を「また読んで」とせがむ
「昨日読んだでしょ」といっても聞き入れることはない
物語が同じでも結末を知っていても「繰り返す」意味があるからだ

幼児は無条件に絵本が好きだ。読み語ってあげることが習慣となれば、同じ絵本を毎日のように読んでくれと要求する。「大人」は「ネタバレ」という言葉に象徴的なように、既に知っているものには読む価値がないという冷めた見方になっている。なぜ幼児は同じ絵本でも飽きずに毎日読むことを要求するのだろうか?それは物語の結末が「確実にこうなる」ということに、安心感を得たいが為であると云われる。これは幼児の精神年齢が発達していないと斬り捨てるわけにもいかない。「児童」「生徒」ましてや「大人」であっても、「ヒーロー物(ウルトラマン・仮面ライダーの類)」とか「水戸黄門」に見られるように、「繰り返し」であったとしてもその過程を「確認」することを楽しむことができるのであるから。

何かを「引き継ぐ」ということは、「繰り返す」ということだ。例えば、和歌の伝統を見れば明らかなように、過去の和歌(古歌)の発想・歌語・修辞などを「本歌取り」などの技法に代表されるように、「繰り返し」て受容し「引き継ぐ」ことが常道となっていたからこそ、千年以上の長きにわたる伝統が保持されて今に至る。古歌を尊重して「引き継ぐ」意志があるのなら、同じ歌語を「書く(詠む)」のだ。それゆえに我々は、「秋の夕暮れ」に対して概ね共通理解のできる感性で捉えることができる芸術的な領域で、言語を継承し操ることが可能であるという高級な言語感覚を共有できるのである。「和歌伝統を引き継いでいる」と表面上の喧伝をしたならば、「もう一度書く必要がない」わけではない。

「大人」は高等で、「幼児」は劣等かといえば、そうもいえない。むしろ「大人」の方が社会の喧騒の中で欲にまみれ、「大切なもの」をいとも簡単に忘れてしまう。幼児は、「大人」が驚くほど子細な部分まで、よく覚えているものだ。だから「繰り返す」のであり、「書く」のである。巷間では単純に多くの「大人」が、手帳やリマインダーを使用しているではないか。

言葉は「書き付けて」こそ「引き継がれる」のだ
その「繰り返し」を無視すれのは「忘却」の始まり
むしろそこに意図があるとしたら、誠に空恐ろしいことこの上ない。
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幸運の証明写真は真実だろうか?

2015-04-21
免許や職員証に掲載する写真
そして履歴書に貼付する勝負の写真
果たして証明写真に幸運が宿るということはあるのだろうか?

ある雑誌の依頼原稿を執筆し出版社に送るにあたり、執筆者である僕自身の顔写真も送付することになっていた。最近撮影した証明写真もなく、3年前に眼鏡を掛けていないものしか手元になかったので、近所の写真館に出向いた。学生向けに手頃な価格で即座に撮影してくれて、無事に出版社に送ることができた。しかしこの証明写真なるのもは、いくつになっても気になるものである。どの種類の眼鏡を掛けようかとか、口角の上がり具合は如何にとか、出来上がりが妙に気になるのである。

3年前に東京で撮影した写真館は、自宅から遠かったのだが(正確には神奈川県であった)敢えて電車を乗り継いでそこまで行って撮影してもらった。なぜならその店は、「合格する写真館」として話題になっていたからである。大学専任教員としての採用に苦戦していた僕は、藁にもすがる思いでその証明写真撮影に食指を伸ばした。そのとき撮影された僕自身の写真は、実に柔らかな笑顔であり好印象な1枚であった。そして紛れもなくその年の暮れには、現在の勤務校の採用に合格した。誠に不思議な写真館であった。

中学高校教員をしていた頃、特に女子生徒たちは学生証の写真を嫌った。学校でまとめて撮影し生徒たちに渡して学生証に貼付して割印などを事務所でまとめて貰う為に再提出させると、女子生徒は必ず「伏せて回収して下さい」と真剣に担任である僕に求めた。要するに証明写真に写った自分の顔を他の級友には見られたくないという心理なのであった。回収後に担任である僕が枚数確認などをしていると、「先生!あまり見ないで下さい!」という声が飛び交った。職員室の机上には学級顔写真一覧があるとも知らず、ましてや僕は枚数確認をしているだけで、個々の写真を見るなどという意識はないのであるが・・・。

どうやら、自分以外の誰もがその写真の顔は、紛れもなく「その人」だと違和感なく認識するのであるが、当人だけがその写真を「自分」であると認めたくないらしい。それほど人は、自分の顔がどのようであるかを把握していないのである。何せ一生かけても、決して自分の顔を自分で直接に見ることはできないのであるから。これはどこか、自分の声を録音機でとって聞いたときの違和感に似ている。誰もが最初は「自分はこんな声をしていない」と反発する心理になる。だが周囲の誰が聞いても、それはその人の声に他ならないのだ。誠に人とは、自己のことを一番知らないのかもしれない。

証明写真には幸運が宿っているのか
それは自分自身を知るように努めた結果なのかもしれない
それを見る違和感は、「自分だけは・・・ではない」の意識に同じなのだろう

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