心を込めて花束を

2015-03-31
生活を支えてくれる人
当人は認識せずとも
心身を錬磨してくれたことに感謝

自身の生活は如何にして成り立っているかなどと、一歩引いて考えることがある。とりわけこの年度末という時期において様々な人々に「異動」が生じると、生活の中にあった自己の「日常」も連動的に変化する。飲食店等の営業も然り、生活の中で「習慣」(ルーチン)にしている事の場合は、とても影響が大きいと僕は感じてしまう。スポーツジムの週間プログラムなどは、その最たるものだ。担当者・時間帯の変更によって食事時間や就寝時間まで左右されるほどであるから。

この2年間月曜日夜には、必ずスタジオでの「筋トレプログラム」に参加していた。週の始めに筋肉を刺激し身体各部の調子に伺いを立てるような感覚。翌日になり各部位に緩やかな筋肉痛が生じているのを、爽快で安心と感じるほどだ。その担当者が今月末でスポーツジムを退職するという。筋トレでバーベル等を挙げている「行為」は、確実に精神的な負荷を跳ね退けることの象徴的な「動作」だと僕は認識している。彼女がレッスン中に掛ける「自分に厳しく!」という声に、何度となく僕は仕事上の精神までもが鍛えられた思いがある。人は仕事をしていると、自覚できない「使命」が他者の中に芽生えている場合がある。人との繋がり・機縁、そして思い入れを大切にした日常を送りたいものである。

レッスンへの感謝を込めて
心を込めて花束を
どうも地域の方々には派手なサプライズであったようだが、僕の心は僕のものである。

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花見の情緒は穏やかに

2015-03-30
ひととせにここだけ
他にない週末のとき
花見の情緒は穏やかに

桜がほぼ満開に近くなった。職場である大学や自宅近辺もさることながら、どこか特別な場所で桜を味わいたいと思うのが、花見の情緒である。されど人ごみの喧騒の中にまで行って花を見たいとは思わない。訪れる人も少なく、閑静な佇まいのうちに花を味わいたいと思うのである。落語に「長屋の花見」の演目があるように、「花見」といえば酒や料理をしつらえての宴会というのが、一般的な意味合いであろう。だがしかし、酒や料理がなくとも穏やかな「花見」があってもよい。

1年365日のうちに、ほんの1週間ほどしか咲き誇らない桜花。その刹那な性質が、古来から日本人の情緒を揺さぶって来た。その稀少さや風雨に曝されて儚く散る脆弱さが、人の心を捉えて離さない。それは儚さそのものが人の世の常でもあるからだろう。「儚」の文字は元来、「儚儚(ボウボウ)」といった漢語として、「夢うつつでわけがわからなくなっているさま」(『漢字源』)といった意味である。国字として「はかない」の訓が与えられ、「夢のように頼りない。期待してもむだなさま。」(同前)と辞書にある。だがしかし、むしろ「儚い」ゆえに「夢」に「希望」を見出すこともでき、「夢」を見続けることを願うのが人生だ。それだけに桜が際立った華麗さを見せる限定された日に「花見」をして、そこに漂う「夢」に酔い続けたいと願うのである。

落ち着いた平常心
花見の情緒に見出す「希望」
穏やかな風を受けた心地よさがいい
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海・希望そして夢の中へ

2015-03-29
「夢の中へ僕を連れてって
 明日へ羽ばたく旅へと」
 (サザンオールスターズ「彩ーAjaー」より)

こころがつかれたらどこへ行く?僕は迷うことなく「海」と答えるだろう。何が作用するのかはわからないが、海を見ればこころが次第に癒されて来る。そればかりでなく、何処からかとてつもない「希望」が湧いて来るのだ。希望はやがて「夢」となり、再び羽ばたく力となる。嘗て関東に住んでいた頃は、サザンの”本拠地”である湘南海岸まで出掛けた。「江ノ島」の島影を背後に前述のような作用があって、僕は大きく羽ばたき始めたことがあった。そこで生じた希望と夢なくして、今の僕はないといっても過言ではない。

湘南海岸は、水平線までの雄大な海というよりも、陸地と「江ノ島」「烏帽子岩(茅ヶ崎)」などの近影との配合の妙が心憎い。だが、今現在僕が居住している地域では、遥か彼方の水平線を存分に意識できる広大な海が東向きに広がっている。やや高台に登れば尚更雄大さが増す。その水平線と僕のいる場所との間には、雲が流れ性急にも明るいうちに”若い月”が出ていたりする。しばし時間を忘れて、風に吹かれたそぞろ歩きが心地よい。夜の海も尚、海面は見えずとも燈台の灯と寄せては返す波音だけがあれば、希望と夢の中へ羽ばたけそうなこころになってくる。

「夢の中へだけどそばにいて
 今でも逢いたくなるから」
 (サザンオールスターズ「彩ーAjaー」より)
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言の葉を摘め!

2015-03-28
詩とは何か?
「”言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”」
(吉野弘『詩の楽しみー作詩教室ー』(岩波ジュニア新書1982))

詩を読んでいると、これは「まさに自分のことだ」と感じる瞬間がある。もちろん詩人が「自分」の状況を知る術もないゆえに、決して「自分」のはずはあり得ないのだが。されどこのような作用が起きるのはなぜか?それが「言葉」の面白さであり偉大さであろう。詩人・吉野弘は若者向けに詩を冒頭に記したように定義した。既に存在していたのかもしれないが、「新しくとらえた」ものであり、「一面」でもあるという。「対象(意識と事物)」を言の葉で摘むという、誠に人間らしい行為ということだろう。

音楽の歌詞もまた似たような性質がある。季節や生活状況に合わせて、歌詞は「自分の今」を語り出してくれることがある。「自分」に最も適合するアーティストを発見すると、それを「ファンになる」と呼ぶ。僕の場合、サザンの桑田佳祐さんの詞に何度も救われている。生きていれば「自分の今」がわからないことも多い。その混沌を「新しくとらえ」まさに「(意識と事物)」を対象化して、見えなかった「一面」を見せてくれるのである。「自分」のみならず、他者の言の葉もまた同じ。話しでも書いたものでも、どんな語彙・語法を使用し、どんな「一面」を「新しくとらえた」かで、伝達内容が左右される。更にいうならばそこにそこだけに、他者の心を知る糸口があるということだろう。

単純かつ難しい
空疎なのか繊細なのか
自他ともに言の葉を摘め!
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朝陽はいつも素直

2015-03-27
「空のおくには何がある。
 空のおくには星がある。」
(金子みすゞ「みえない星」より)

個々人の生活に何があったとしても、朝になれば陽はまた昇る。たとえば雨雲に隠れていたとしても、その背後で常に素直に朝陽は輝いている。ちょうど小欄を書いている書斎の窓の真っ正面から朝陽が差し込む。その姿を見てこう考えた。朝陽を見れば、自分が地球という星に生きていることを知覚し、多様な「引力」に影響を受けながら生かされているのだとも悟る。「太陽」を「星」だと認識することは稀であるが、その空には太陽以外にも無数の見えない星がある。むしろ見えるものがほんの一部なのであり、宇宙はたくさんの星があってこそ成り立っているのだろう。

このように天体のことを考えると、どうやら人間世界もその縮図のような気もする。出逢えることができる人は、地球上のほんの一握りでしかない。その出逢った個々の人の中にも「宇宙」が存在し、その構図は簡単にはわからない。それなのに、その人の一部分を見て「こうだ」と決め付けてしまう傲慢を平気で実行しているのが我々人間だ。更には自分自身とて、その感情の「宇宙」がどのように赴くかは一向にわからない時がある。不意な言葉に思いもよらぬ感情が再燃したり、あれやこれやと心は彷徨することも多い。まさに人生は「旅」であり、「冒険」でもある。出逢った場所を通り過ぎるのは簡単だが、混沌と繋がることでその行程は魅力が倍増する。

「星のおくにも星がある。
 眼には見えない星がある。」
(金子みすゞ「みえない星」より)

言葉を大切に、空過せず「冒険」の如く歩みたいと思う。
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段取りと唐突と

2015-03-26
段取りを迅速につける
偶然に任せ唐突に動く
どちらも爽快な風の中で

研究学会に関係する話を、学生時代からの先輩である大学教授から依頼された。その段取りをすべく、関係各方面で情報を収集している。未知であった地元の然るべき方面に電話を入れると、実に丁重かつ即座に対応してくれて、頭が下がる思いであった。また地元図書館関係の方から講演依頼を受けて題目など検討していた。しばし時間を要してしまい、こちらがもっと迅速に動けばよかったと反省しきり。されどこの間、東京に赴いた際にも地方図書館の未来について、然るべき方から情報収集に動いていた。こうした段取りの縦軸・横軸が交流し、講演内容も次第に熟成して来るものだ。

段取りも重要であるが、唐突が爽快なときもある。研究室で仕事をしていると、指導担当の留学生が訪れた。彼は1年間の留学期間で、ちょうど折り返し地点まできた。野球好きなため、2月にはプロ野球キャンプへなどと話していたが、相互に繁忙な時期となってしまい、そのチャンスは逃してしまった。されど彼は趣味以上に誠実かつ真摯に自分の生き方に向き合っている。そんな思いから、唐突に食事に誘うことにした。すると日本語・日本文化の話題以上に、これから如何様に生きて行くかといった話になった。社会とどう繋がるか、そして収入と生き方の関係などなど。正直なところ、最近の日本の学生が問い掛けてくることのない、人間的な境地で奥深い話ができた。誠に貴重な時間となった。

そんな最中にも、ある相談の電話が唐突に
どうもやはり春風は「気まぐれ」なようである
段取りだらけでも唐突だらけでも偏っていては人生は面白くないのだろう。
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卒業式そして人と「絡む」ということ

2015-03-25
卒業式に思うこと
人と人との「絡み」度合
あらたに胸に刻むとき

現在の職場で2度目の卒業式を迎えた。昨年は授業で知る一部の学生しか面識がなかったが、今年はゼミ生をはじめとして、多くの授業履修者が卒業証書を手にする日であった。本学では3年生から各研究室ゼミに所属する制度となっているが、この初代ゼミ生は僕が赴任前で顔も知らないにも関わらず、専攻内容等で選択をしてくれた学生たちであった。もとよりゼミを担当するのは、過去に恩師の代講で担当した「緊急登板」という経験が一度あるのみ。その方法も暗中模索なことが多かった。果たしてゼミ生にとって有効な研鑽の場であったかどうか?あらためて自問自答するのが、この卒業式という機会でもあった。

そうはいうものの、僕が担当する公開講座や芸術家派遣事業の補助員として休日などにも関わってくれたこともあり、ゼミ生にとっても教育現場で貴重な経験をする機会ともなったはずだ。そのような開かれた場で、初対面の一般の方々や児童生徒とどのような関係を築くかは、教員志望の学生にとって大きな学びの機会であろう。先日の水俣での僕自身の体験から、人と「絡む」とはどういうことか、などと考えている。ゼミ生が学外の他者と如何様に「絡む」経験を積むか。そしてまたゼミ担当大学教員として、僕自身が学生たちと如何様に「絡む」かということである。

一般的に「絡む」といえば、「しつこくいろんな事を言うなどして、人を困らせる」(『新明解国語辞典第六版』三省堂)という語感が響く。まさに「酒に酔って絡む」という語彙使用の状況である。だが表面的な関係ではなく、「人と人とが深部で共鳴し合う」といった趣旨で、肯定的に「絡む」という語彙を敢えて特別に使用してもという感覚が、僕の中で生じているのである。建前を通し表面的に人と関わるのは、ある意味で簡単である。だが相手の弱点を指摘すべく批評し、「痛いところを突く」ことなくして人は真に成長しないであろう。その深部での対話があってこそ、何事においても道の先の風景が見えるのである。過去の「緊急登板」時のゼミ生たちは、彼らの方から僕を「絡め捕って」くれた。それゆえに年数が経った現在でも、彼らとの親交は深い。「絡め」ば、事態は複雑になる。だがしかし、その混沌とした中で人と人との関係の糸を解きほぐす過程なくして、個々人が育つということはあり得ないだろう。

「絡む」ことを忌避する世情
だが、綺麗ごとだらけの世の中じゃ
卒業式で旅立った学生たちへの祝意とともに、自問して己に「絡む」1日となった。
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ドキュメンタリー映画「天に栄える村」との邂逅

2015-03-24
米作りへの熱意
そして震災と放射能汚染
諦めるわけにはいかないと立ち上がる人々

ドキュメンタリー映画「天に栄える村」上映会が、熊本県は水俣市で開催された。水俣を僕が訪れるのは3回目となるが、いずれも昭和から現在に至る長きにわたり当地で問題となって来た水俣病に直接関わっている方々との出逢いの機会となった。今回もまた同じ。更にはこの50年以上にわたる環境汚染問題の教訓を、福島の現在と繋ぐことができないかというのが、今回の企画の意図である。福島県天栄村で米作りに奮闘する2名の方が、上映に際して水俣を訪れていた。

無農薬による最高の米を作るべく、天栄村では役場職員の方と農家の方々が恊働で、熱心な研究会が組織されていた。その成果は、全国の米作り品評会でもトップに輝くほどの成果を上げていた。そこへ、2011年3月11日以後の原発爆発による放射能汚染という悲劇が襲った。最高に美味しい米作りは、一転して放射能除去との闘いに変容した。だが村の方々は諦めなかった。あらゆる可能性に挑戦し、味へのこだわりを捨てる葛藤とも向き合いながら、様々な努力と模索を繰り返した。映画は、その一部始終を伝える長編ドキュメンタリーである。

今回の機会からあらためて学んだことは、傍観者であっては何も分からないということだ。天栄村の2名の方々との語らいを通して、映画は僕の前に「真実」として突きつけられた。ともすると長編ゆえに緩慢な意識で鑑賞しがちであるが、水俣で上映を観るべく集まった方々は、農家の方も多いせいか、皆口々にその「真実」を自分の身に降り掛かったことのような反応と囁きを伴って意識の高い鑑賞となった。映画を観た多くの方々が、「傍観者」ではなかったのだ。それは50年以上の苦闘を背負う水俣ならではのことでもあるだろう。苦難に対し「逃避せず向き合う」とは、どういうことか。それを上映会の反応が物語っていた。

そしてまた、僕自身が確実に一皮剥ける機会となった。「地域を創る」とは、どういうことか?水俣で長年その命題に向き合って来た方々とも出逢った。「冗長な話は要らない、冗談と笑いが必要だ。」という生きることから得られた信念を、身を以て伝えてくれた方がそこにいた。そして議論でも押しつけでもない空疎にならない「対話」の大切さ。水俣の苦難は、そうした人と人との繋がりを、むしろ豊かに育てて来た。我々はともすると、何ら「苦難」もないくせに、「困難」だと社会のせいにしたり言い訳をしたりしてはいないだろうか?自然豊かな地を襲った不条理な環境汚染。そこに立ち向かう当事者の生の声を聞くということ。水俣で「生きる」多くの人々と新たな交流ができた。まさに彼らは笑顔で前向きに「今」を生きている。決して「笑い」を忘れはしないのである。仏頂面と冗談にこそ、逆説的な核心が潜むことに気がついたのである。「青年」と僕を呼んでくれた方の言葉が、人との向き合い方を変様させた。

人との出逢いは「生きる」を知ること
その場所で逃げもせず後ろも向かず

「地方創生」などという号令は、
単なる「中央の論理」による似非に過ぎないと知った。


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水俣病資料館のことば

2015-03-23
人は
ボールを投げるために
後ろに
いったんふりかぶる
人は
高く上に飛ぶために
下に
一度かがむ
前や上を未来
後ろや下を過去
だとすれば
人は
未来のために
過去を振り返る
ここに生きる
希望を つくるために
水俣病資料館は
おきたことをあきらかに
しながら
犠牲を無駄にしない
社会づくりに役立て
未来に生きる
希望を作るために
あるのです

(平成18年当時 当館館長であった吉本哲郎氏による「資料館のことば」より)
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桜を愛でれば「春の陽は無邪気」

2015-03-22
「気まぐれな風のように
 春の陽は無邪気」
(サザンオールスターズ「彩〜Aja〜」より)

急激な暖かさが到来した為か、聊か身体が気怠い。健康食品に添付されていた冊子に拠ると、人間も草木と同様に活動期に入り、冬季に蓄積された老廃物の解毒などを肝臓が担い、その負担を自覚するのが、この気怠さらしい。まさに「春眠暁を覚えず」、いくら寝ても眠気が取れないような日々だ。平安朝和歌にも「春の心はのどけからまし」と詠まれたわけだが、それは色男で知られた在原業平歌の下句として著名である。「世の中にたえて桜のなかりせば・・・」という上句であるが、桜の花の存在がもしなければ人の心は「のんびりとしたものだろうに」と、「反実仮想」による語法の名歌である。桜の存在は、春の心を動かす大きな要素であるのは今も変わらない。

休日の大学キャンパスへ行き、午後も早々に引き上げようとして駐車場から車を走らせた。すると不意に桜の蕾が眼に入り、いくつかの花がフライングして開花し始めている。休日ゆえに車も少ないので、構内道路を10mほどバックさせて再び学部玄関前に一旦駐車させた。そしておもむろに桜の枝の写真を撮影した。それに何の意味があるかなどわからない。ただ開花や満開前の姿を写真に留めたくなっただけだ。これぞまさに、前述した業平の和歌の心境であろう。そして再び車でその場を去ろうとした時、「気まぐれな風」が吹いた。まったく「春の陽は無邪気」である。

サザンに春の歌は少ないながら「彩〜Aja〜」は名曲
「ひとり季節はずれの海を見つめて
 時の過ぎゆくままに募る想い出」
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