濃密な2年間にするために
2015-02-28
大学学部3・4年生確実にそれまでと違う成長があるとき
その後の伸長が期待できる「苗」に育てるには・・・
研究室ゼミから初の卒業生を輩出する今春。俗にいう「追い出しコンパ」(追いコン)が下級生の主導により開催された。授業期間は終わっているが、3年生で1名がするべき発表を時間の関係で終えられていなかったので、「ラストゼミ」としてまずはいつものように研究室で議論を行なった。その発表の中で、「現状の国語教育は、批評性のない従順な物言わぬ子どもを育てているのではないか。」といった内容が提起された。その発表の詳細をここに記すことはしないが(重要な問題として今後は話題にしていきたいが)、僕がゼミで学生たちに告げたのは、そのような「物言わぬ子ども」となるべく、自分たちも当該の「国語教育」を受けて来た当事者ではないのかということだ。ゼミの場では、なるべく学生同士が議論できるような雰囲気に配慮してきたつもりである。他者の発表に対して批評できてこそ、ゼミの価値があるというものだ。だが未だ僕自身が納得できるような議論には及んでいないのが正直なところである。
あくまで経験則にはなるが、僕自身が大学学部のときには、指導教授の考え方にも批評的な意見を述べるべきだという雰囲気があった。古代和歌を解釈し批評する内容であったが、権威的な先行研究に依存し迎合したような発表や意見を述べると、先生は怒りを露わにした。「唯一無二の自分自身の眼で和歌を読め。」というようなことを、ゼミ(研究会)を通して教わった。どんな次元であれ、「こんなことが言える」という主張を各個人が持つべきであると、日常を通じて学んだのである。むしろそこに至るまでの研究発表過程は、自分自身で先行論文を読んだり、先輩の調べ方を真似したりして、自ら学んで行った。よって研究発表や論文の書き方などは、教えてもらうものではないと思っていた。
「物言わぬ」に戻ろう。その従順さは、発表や論文の手段に対して「指示待ち」な姿勢として現れる。僕らの時代には考えられないような、「発表・論文」に対する「入門セミナー」といった授業科目も設定されている。それもまた「教育」する側の責任であるから、僕自身もそうした科目で有効な内容を提供しているが、肝心なのは提供した先にある。「方法」「型」を学んだのちに、どのように活用するかということだ。野球でいえば、指導者が思い通りの理想型フォームに固める。それで果たして試合で効果的な投球や打撃へと活用できるか否かという点が、何より重要であろう。こうした「型」は、日本における長短背中合わせの”文化”であるようにも思う。一定の水準までを誰でも引き上げることに効果は発揮するが、「白紙から物事を描く」創造性は育たない。MLBの選手が理に適わないフォームで魅力的なプレーを実行するのを観ると、僕の中ではこの”文化”に対するアンチテーゼが作動する。やはり「批評性のない従順な物言わぬ」方向へ育てている教育にこそ、改革を施すべきではないかと痛切に感じるのである。
ゼミ(ドイツ語)の語源はラテン語(セミナリウム)で「苗床」の意味
僕が敬慕してきた今は亡き英語の先生のことば
卒業後にすくすく成長するか否か、今後にこそ2年間の僕の責任が映し出される。
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「けれどもそれもうそかしら。」認識と世の中
2015-02-27
「海は青いとおもってた。かもめは白いとおもってた。
だのに、今見る、この海も
かもめの翅も、ねずみ色。」
(金子みすゞ「海とかもめ」より)
再び金子みすゞの詩から。僕たちは概ね、世間で通例となっていることを信じて生きている。空は青く、太陽は赤く、雲は白い等々・・・・。だがしかし、果たしてそうなのであろうか?こうした自然の色彩の捉え方にしても、個々の人間の認識からその「公約数」的な部分を採取して、典型化し誇張して表現しているということだろう。ゆえに実際よくよく見てみると「海」も「かもめ」も「ねずみ色」だとみすゞの詩は語り掛ける。自分ではこうだと思い込んでいることに、実は「うそ」があるということだ。
あくまで個々人が自分の世界観から推測して認識を決める。その個々人とは人間に限らない。動物や昆虫や植物など命あるものをはじめ、この地球や宇宙といった大きな範囲において、それぞれの立場の認識があるはずだ。それを特に人間という動物は、一個体の自分に都合のよいように改変して、「わかった」ような気になっているのではないか。範囲を縮小し身の回りにいる人々などはどうだろう。理想的典型的な像で捉えていても、その内実は「うそ」で塗り固められているのかもしれない。ゆえに時には自分自身の「認識」を疑ってみる必要もある。「こういう人だ」という認識に凝り固まっていると、現実との落差による怒りや哀しみで苦痛が増幅するばかり。他者への認識も「青」や「白」だと認識していると、実は「ねずみ色」な場合があるということだ。
それでは何事も疑い深ければいいのだろうか、といえばそうではないだろう。卒業ソングとして著名な海援隊『贈る言葉』に「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい。」という一節がある。確かに「人情」こそ貴重で、まずは「信頼」することが何よりも重要であるともいえる。この曲が流行した80年代初頭には、そんな「人情」と「信頼」がまだ世間の至るところに見えた。だが今の世相はどうだろうか?僕たちは「青」色の信号機を見て「安全」だと確信して道路を渡れる世の中に生きて来た。海外に行くと痛感するのは、多くの国の人々がその「青」を信じていないということだ。その”公共機械”が示す「ルール」よりも、自分の眼で物事を認識して、「車が来ないで安全である。」と確認して道路を渡る。最近でも日本においては、スマホを操作しながら信号待ちをし、他者が渡り始めるとそれにつられて横断し始める輩を見掛ける。時代は変わってしまったのだ。「安全」は自分自身で確かめなければなるまい。決して「青」が「安全」を保証しているわけではないと最近殊に思う。
「みな知ってると思ってた、
だけどもそれはうそでした。」
(金子みすゞ「海とかもめ」より)
弱者にも常に優しい眼差を向ける金子みすゞの詩
それは自己の認識を疑うゆえの優しさなのだろう
これからの時代、更に深刻にこうした見方が求められている気がしてならない。
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大学受験の朝
2015-02-26
これを置いて「特別」はなし人生の扉を開く1日
大学受験の朝に感じたこと
今年度の受験シーズンも大詰めである。校種を問わず、僕が入試を”実施する側”に立ってから、かなりの年数になる。それでも尚、現職教員として大学院の”一般”入試を受験した経験があるので、途中で「修士」「後期課程」と2回ほど「受験生」になったことがある。いずれもいずれも、受験の日の朝の空気感というのは特別である。脳の回転を考慮して早朝から起床し、その準備の過程においても、「緊張」ともいえない「野望」とか「集中」というかのような鬼気迫る状況で、尚且つ「大胆で細心たれ」といった警句を心に念じて、受験会場まで足を運んだ記憶がある。
「大学院」受験はともかく、18歳の大学学部受験時には母親の大きなサポートがあったと、今にして感謝の気持ちが甦る。当日に起床すると居間では「TV予備校」にチャンネルが合わされ、台所では大好物の「ハンバーグ弁当」が作られていた。受験票は書留葉書で届いたその日に「合格祈願」が施されたといい、そんな「期待」と「支援」の心を一身に背負って受験会場へと向うことができた。その際に「独り」で自宅玄関を出た時の「気負い」ようというのは、今思い出しても「興奮」するほど、熱い感情が心身にたぎっていたと、昨日のように思い出される。
これは単なる「思い出」ではなく、その後の僕自身を常に支える「記憶」である。要は「独り」で自宅玄関を出て、大学受験会場に向うこと自体に大きな「意味」を感じたからだ。経済的・物理的・心理的な支援は受けているものの、人生で初めて「自分の力」で次の扉を開ける、いや開けられる1日の体験なのである。「あの日」の入試への集中度というのは、今考えても自分自信で驚くほどのものがあった。そこに「自ら身を立てる一歩」を踏み出したということである。そうした経験を以て最近の受験会場での光景を見ると、聊か違和感を覚えることが多い。かなり多くの受験生が、保護者の方々とともに会場にやって来るからである。これ以上の記述は不要であろう。
「独り」で立ち上がるような「興奮」
頼れるのは「自分自身」だけなのである
あの朝の記憶はいつも僕を支え続けている。
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迷ったら行動を採る
2015-02-25
心に浮かぶ「こうしてみたら」脳内に留めておけば何も起こらない
迷ったら「行動」してみて先の風景を見る
どこからともなく心の中で「こうしよう」と思うことがないだろうか?一方でその「こうしよう」は、「やめたほうがよい」という心の声によってかき消されようとする。この状態を俗に「葛藤」と呼んでいる。「葛藤」という文字は、元来「カズラとフジ」で植物のこと。”複雑に絡み合う”という状況で繁茂するゆえ、こうした精神状態の比喩となった。例によって「葛藤」を『新明解国語辞典』で繰ると、「対蹠(タイショ)的な心理状態が、その時々にしのぎを削って表面に出ようとしてせめぎ合うこと。」とある。
「こうしよう」という内容にもよるが、あくまで「理性」の範囲内で「よかれ」と思ったことは「行動」してみるべきだと夙に思う。小説を読んでいると、その箇所でいくら繰り返し読んでも、理解できない表現に出会うことがある。その場で「わからない」といって読むことを停滞させれば、いつまでも「わからない」ままである。しかし、先まで読み進めると必ず「わかった」という要所に出会う。”文学的”文章であれば、そうした構造が知的に構築されている。これは生きる上でも同じではないだろうか。「先に読み進める」と、小説では登場人物が何らかの「行動」を伴っているのが必然だ。「やってみて」こそ、小説の時間は先に進むのである。
現実と虚構は違う
だがしかし、虚構こそ現実以上の真実なのである
文学が実生活に活きるためにも「迷ったら行動を採る」べきだと己に言い聞かせる。
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「信管」を揺すぶられる思い
2015-02-24
己を根幹から揺さぶるような今まで体験したことがないような談話
「信管」とは比喩ではあるが、そんな思いが・・・
朝起きると膝が痛かった。先週のトレーニングのツケが回って来たかと考えてみたが、どうやらそうではないらしい。階段を降りる際が特に痛い。ふと思い出すと一昨日から昨日の朝に掛けて、夜中に珍しく起きてお手洗いに行った。その際に寝ぼけていて、寝室のドアに右膝を打ち付けた朧げな記憶が甦った。眠いのでその場では痛みをこらえて、そのまま寝込んでいた訳だ。しばらくするとその膝が赤くなっているのが確認できた。特に関節痛ではなく、打ち身であるから時間が解決してくれるだろうと、安易な考えに落ち着いた。
問題は、その深夜に覚醒したという、僕としては「特異」な行動にあった。思い返せば、その前の晩の夕食を異業種の友人とともにして、色々と考えさせられたことが脳裏から離れなかったことに起因している。彼が宿泊しているホテルから街までの移動に際し、僕の車には奇遇にも彼を媒介として想像し難い方々が同乗した。そして食事の際に聴く話は、どれも僕が今まで体験し得ない範疇のことばかりであった。「その世界」を如何に外野から観てわかった気になっていたことか。僕は、コミュニケーション上手を心掛けているし、比較的社交的だとは自認していたが、それでも彼の発言に対して、適切な反応をすることには最後まで及ばなかった。
そして特筆すべきは、彼の話題には直接には関係のない僕自身の「感覚」みたいのものが、変化の兆しを見せたことだ。「仕事」に関しても、「私生活」に関しても、その行動の根幹に関わる「感覚」に変革が与えられたような思いである。どうも言葉にはし難いものがあるが、何か自分の中で「起爆」するような「行動」の元素があって、それが揺すぶられたような「感覚」なのである。「窮地にこそ実績を上げてこそプロだ。」といった発言をはじめ、成功するのに脇道はなく「誠実に取り組み、思ったことは必ず行動せよ」ということだと、彼は妙な説得力をもって語ったのであった。
実績と魅力と信頼こそが「プロ」の行動
2年前に彼と偶然に出会った意味が少しわかった
その奇縁は09年・06年にも連なり、僕の向こう10年間ぐらいを物語るのであった。
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海を見ていた午後
2015-02-23
ただ海が見たかった果てしなく広がる水平線
この広い世界で小さな存在の自分
休日ながら午前中は通常通りの「没我没頭」のとき。午後になって少々心身を休めたくなった。しかも日常性から脱した空間に浸りたくなった。自宅から車で至近の距離に海がある。そうだ!ただ何の意味もなく海が見たい、といった感情が自然に湧いて来た。そこで海がよく見える場所に向かって車を走らせた。
確か「海を見ていた午後」という松任谷由実の曲があった。そこでは、横浜山手の「ドルフィン」という小洒落たレストランで、本牧埠頭越しに海を見ているという設定であったと思う。若かりし頃、その真似をして数回かそのレストランに足を運んだことがある。小高い丘の上から東側の海を見るといった現実を眼前にして、曲が描く世界観との落差も感じたものだった。こんなことを思い出しつつ・・・。
話は戻り、同じく東側の海を一面に見られる温泉がある。浴場のガラス越し、またはテラスから太平洋が見える。身体を温め心の疲労を癒し、しばし何もかも忘れる時間。水平線まで見えるその広い海に比して、どれほどに自分が小さな存在であるかを実感する。海の果てには、僕自身がまったく未だ知り得ない世界が、無数に存在しているのであろう。人一人というのは、何も知らず何もできず何にも影響を与えられない、誠に卑小な存在なのかもしれない。僕たち人間の意志など無関係に、波はひたすら海岸線の岩に打ち寄せている。自然の摂理の中で、如何に人は生かされているのか。
温泉から上がって電話が鳴った
かの異業種の友人からだった
「プロとは何か?」夕餉をともにしながら海のように雄大な話を聴いた。
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没我没頭の午前中
2015-02-22
うずまく水中に身を沈める呼吸も忘れるかの如き集中
いつしか時間を征するようになる
時間に従うのか、時間を従えるのか、その差は大きいように思う。何事でも時間に囚われ、追われ、制せられると、行動を進行させた結果、主体性を欠いたような気分になる。ところが思い通りの行動ができれば、時間を征したような気分になる。社会生活をする上で、時間に囚われざるを得ないのは必然である。だがしかし、その中にあって「没我没頭」の境地を見つければ、自ずと時間は自分のものにすることができる。「時間」が大切なのか、「生きる」ことが大切なのかということである。
「没」という漢字は、国字(中国での原義から異動が生じ、日本での解釈に基づき醸成された意味)では、聊か「正(プラス)」な意味で使用されている文字であろう。例えば「没頭」とは、中国の原義ではあまりここでは書きたくないような「処刑」を意味する。「没入」もまた然り、「罪人を強制的に奴隷として使用する。」(『漢字源』)ことである。ところが日本では、「一心にその事に熱中する。」(同前)とあり、「没我」なども「物事に熱中して我を忘れる。」(同前)という意味である。
論文書きなどに集中していると、いつしか時間を忘れる。平日で校務があったり、同僚の先生や学生が研究室に訪れると、なかなかそうはいかないのだが、休日の研究室はまさに「没我没頭」の空間となる。まさに「余念」がなく、その内容だけに脳内容量を最大限に向けられる。デスク正面の壁に掲げられたアナログ時計を見ることもなく、ひたすら自己の論述を推し進める。それを通り越せば「寝食を忘れる」という境地になるのだろうが、そこまでいかずとも「修行」のような「没我没頭」の時間が得られている。
僕をこの境地に押し上げてくれたものは何だろう?
自己の内部に潜在する力や交流したことばの力を感じつつ、
「没我没頭」とはいいながら、「我」と「頭」が最高に活性化する時間でもある。
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異業種の友人と対面で語ろう
2015-02-21
知ったような気になっているWebで情報を得ることの危険性
世間は実に広いのであるが・・・
なるべく様々な方との出逢いを大切にしたいと、常々思っている。それは僕が、「教師」を目指すときからの変わらぬ信念である。「先生は世間を知らない。」というのは、よく僕の両親が口にしていたことだ。そんな生育環境であったから、僕自身も「先生」になるのだけはやめようと思っていた。だがいつの間にか、教えるのが好きな自分を発見し「先生」を目指すようになった。確か中学生の頃であったと記憶する。その際に心に誓ったのは、「世間も知った先生になろう!」ということだった。それ以来「学校」という空間で、「世間を知らない教師」を何人見て来たことであろうか。自ずと「教師」に対する見方が、己の中で厳しくなった。同時進行でいつの間にか教壇に立ち、中学・高校・大学と変遷し今に至る。結局は母方の親戚に多数存在する(「教師」という)DNAを引き継いだ結果となっている。されどあくまで「世間は知り」つつである。
ちょうど2年前、第3回WBC(ワールドベースボールクラシック)1次・2次ラウンドが日本で開催された際に、東京ドームの席の後ろに座っていた方と親しくなった。内野席ながら周囲では闇雲に外野席に呼応し、マスコットバットなどで他者の視線を塞ぎ、あまり野球を詳細には観ていない観客もいる中で僕はスコアブックを記し、投手の球種や球数、そして打者のコース別打撃可能性などを予測しながら独り野球を楽しんでいた。するとその彼が、「今の(この投手の)球数は?」とか、「この打者前打席では?」といったことを質問して来た。まさに「野球」そのものの機微を楽しむファンであったことで、僕らは数試合のうちに意気投合した。
その後、SNSを使用し彼との交流は続いていた。そして2年の月日を経て彼は、僕が現在仕事に従事する土地を訪れた。再会の歓喜とともに、彼と野球以外で「リアル」に対面するのは初めてであり興味深い一面もあった。するとやはりその会話や行動に、僕が知り得ない「世間」が次々と披瀝された。そこで感じたのは、やはり人とは「ライブ性」をもって対面すべきだということだ。Web上で様々に公表されている情報でも、実際にその業界の方から話を聴かなければわからないことが山積していることを知った。我々はWebを閲覧することで、「何でも知っている」という誤った全能感に支配されてはいないだろうか?やはり現実に対面してこそ、「世間」は初めてわかるのである。
双方の業種の方と会う機会は稀少であると感嘆しつつ
彼と僕を繋ぐ「野球」が存在している。
こうして「世間」を教えてくれる「先生」と
ライブで対面する機会を持ち続けなければならない。
それが僕の信条を頑に守る唯一の手段でもある。
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「こだまでしょうか」を今こそ「こだます」
2015-02-20
「「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。」
(金子みすゞ「こだまでしょうか」より)
4年前東日本大震災直後の民放TVからCMが暫く消えたのは、みなさんの記憶にも確実に刻まれているであろう。その際にCMの入る番組余白を埋めていたのが、冒頭に一部を記した金子みすゞの詩であった。中にはあまりに繰り返し流されるので、暗記してしまった方もいるであろうし、挙げ句の果てにもう聞きたくもないと嫌気がさした方もいるだろう。その時にどのように思っていたとしても、多くの国民の感情に入り込んだ詩というのは、これ以外にあるだろうか。今にしてもこの詩を読めば確実に、僕自身も「あの時」の記憶が鮮明に蘇るという効用がある。そうした意味で、詩のことばは実に偉大である。
ここのところ金子みすゞの詩に傾倒しているのは理由がある。ある担当授業の学部生のレポートで、金子みすゞの詩教材について取り上げ、なかなか秀逸な読み応えを覚えるものがあったからだ。それは参考文献を含めて、こちらが教えられるが如き内容であった。そこで評価の為にも、その参考文献を入手し該当頁を読んで、更に僕自身が感じ入り来年度の授業で使いたい題材として興味深くなったわけである。このように学生のレポートな中には、こちらの心を躍動させるような内容のものと時折出逢うことがある。「学び」を提供した(評価した)側が「学ぶ」という、まさに〈教室〉の理想がそこにある。(なるべくそうしたレポートとなるよう、題目を工夫したいものである。)
さて冒頭に記した金子みすゞの詩は何を教えてくれたのであろうか。参考文献:矢崎節夫著『金子みすゞ こころの宇宙 21世紀へのまなざしーその生涯と作品ー』(1999年 ニュートンプレス)第1章に「こだましてーみすゞ甦り」がある。そこでは冒頭の詩について、「今、日本中の多くのお父さん、お母さんは、子どもがころんで「痛い」といっても、「痛くない」というようになりました。こだまさなくなったのです。」と現状を指摘する。いわば「こだましてあげることで、痛みや悲しみも半分になっていくことを忘れてしまったのです。」ということである。同じことばで声を返すという単純な行為に、実は重大な意味が潜んでいたということである。更に一部を覚書として引用しておく。「”ことばはこだます”のです。自分の話している相手のことばに腹を立てたり、傷ついたりすることがよくありますが、これもじつは、自分のことばが帰ってきたということなのでしょう。」
まもなく来月11日で4年となる
今こそ”あの時”心に刻まれたことを「こだます」べきではないだろうか
心に染み付いていた金子みすゞの詩が教えてくれたこと。
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通り過ぎていたうどん屋
2015-02-19
いつもよく通る道そこに佇むうどん屋
他の店に執心していたので気付かなかった魅力が
再びうどん屋の話題。それほど麺類へのこだわりは強い。当地はある意味で「うどん大国」である。残念ながら「蕎麦」に関する食文化は低調な浸透度で、特定の店に狙いをつけていかないと、江戸(東京)並の「もり」には出会えない。その偏重によるものか、少し車で走れば「うどん屋」なら容易に発見できる。それゆえに昨日の小欄に記した詩のように「見えぬものでもあるんだよ」の如き店が、多々あるというわけだ。
2日ほど前に店を畳んだ「うどん屋」に向かう道すがら、別の「うどん屋」がある。これまた素朴な店構えで、漢字一文字の店名のみが掲げられている。それ以上の「営利」はまったく見られず、整然とした10台ほど停められる駐車場だけが店の前に控えている。確かこの地に来た当時に、1度ぐらいは入店したことがあるが、先の「うどん屋」の魅力に嵌り、それ以後「浮気」をすることはなかった。しかしこの日は思い立ってその扉を開け、「あんかけうどん」を注文した。その繊細な出汁の味と天ぷらの揚げよう。またまた所望したい「一杯」に出逢うことができた。
人には「見えているが見えないもの」が、如何に多いのだろう。「見えるように」なっても、先の「うどん屋」のように閉店してしまう場合もある。人生という旅の中で、出逢うべき飲食店は何軒あるのだろう。そして相思相愛な関係を、いつまでも保てる店はその中でも限られて来る。閉店してしまうという事情に接し、関係を保てなくなったことから様々なことを考える。僕自身が学生時代を過ごした大学周辺の店などを思い返せば、こうして閉店してしまった店が何軒か思い浮かぶ。その味は、今でも心の中に生き続けている。そんな心の深淵で決して消えない記憶になるべく、また新たな店の扉を開く。
食べ物には十分過ぎるほどにこだわりたい
それなくして「人生の半分は損をする」
食に支えられるということ、単なる栄養の問題ではない。
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