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「問い続ける」ことに意味がある

2015-01-20
「最終解決が見えないまま、それでも問い続けるという哲学の作法、
 つまり「知を愛する」という哲学に・・・」
(『哲学の作法』鷲田清一2014 岩波新書)

センター試験も終了した。現在約55万人が受験するこの試験は、ご存知のように選択マークシート回答式である。「国語」であれば文章の該当部分等に対する問いに、「最も適切な」と考えられる選択肢を選びマークする。僕も高校教員時代には、このセンター試験問題を教科書にして、その解法を講ずる高校3年生の授業を担当”させられた”。「選択肢を選んだ根拠」を説明するのは、当該文章を如何に読むかを論理的に解き明かせばよい。しかも「ある方向性」に向かって「最も適切」な規準を判断することになる。ある意味で、「機械的」な判断で「問い」を潔く終熄させるのが、その「解法」としては”得策”であるかのような傾向がある。入試という「制度」の中において、ある意味でセンター試験は、「問い続けてはいけない」試験なのかもしれない。

学生に文学を読む為の「理論的」な話をすると、「哲学のようで難しい。」という感想を漏らす者が多くなる。その「難しい」の内実を考えてみた。それはたぶん、「最も適切な」”安心する解”が短絡的には求められず、「自己」から離れることなく「問い続ける」必要性ということにでもなろうか。深く「思索」するという知的活動を、学生は苦手としているようだ。その「問い続ける」という行為が、まさに「センター試験」の”効率的な解法”には、矛盾する行為であるからではないかとふと考えた。ところが人生を歩むには、この「問い続ける」ことが不可欠である。「自己存在とは何か」「人生の目的は何か」「恋愛の意義とは何か」と「問い続けて」こそ、人生に彩りが添えられるはずだ。

冒頭に記した鷲田の最新刊では、C・カストリアディス(『迷宮の岐路』1978年 字京頼三訳)を引いて「迷宮に入ること、もっと正確には迷宮を存在させ、かつ現出させることである。」と思考・探究について示している。また(日々の暮らしの中で)「思考するというのは、みずから編んできた過去のテクスト(引用の織物)にみずからが紡ぎ出すテクストを絡めつつ、未知のテクストを編んでゆくということだ。」(p141)と鷲田は記している。そして「問いの中に飛び込む」という「知的耐性」の重要性を説いている。まさに簡単には「正解」などには至らない、思考プロセスを持つことが、「知的」であることで、延いては人として「生きる」ことそのものなのではないだろうか。人生も社会も、絶えず「問い続ける」ほどに「難しい」ものであり、それだけの価値あるものなのである。

レッテル貼りなど「思考停止」が横行する社会
◯か×かと問いにもならぬ価値観しかもてぬ単細胞
あまりにもそうした発想の発言が氾濫しているのは、選択回答の影響がありやなしやと・・・
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