「言語力・思考力」って何?

2015-01-31
「言葉と言葉の巧みな繋がりを
自分の言葉で表してみる。」
「人と言葉で関わることの楽しさ」が学びである

地元地域で開催されている国語教育の研究会では、提案授業・パネルディスカッション・講演を通した展開の中で、「言語力・思考力」が大きなテーマであった。講演者である恩師のお言葉に拠れば、このテーマこそが次世代の指導要領の核になる発想であるという。現行指導要領においても「言語活動」を通して各領域の学習を進めるという方向性が明確に打ち出されているが、更に充実した「言語」と「思考」の関係が求められる方向にあるということだ。冒頭に記したのは、提案授業者である、授業力で著名な先生の言葉であるが、学びの中において「巧みな繋がり」に、どのように注視するかという点が、大変重要であるということだろう。

我々は、日常生活の中でどれほどにその「巧みな繋がり」を精査し、「自分の言葉」で表現しているであろうか。何らかの言葉に出逢った際に、性急に短絡的にわかったような気になってはいないだろうか。すぐに気がつかなくとも、何日もぐるぐると考えて、「あっ!そうなのか」と思うような、柔和で穏やかな思考があってもよいだろう。「スピード感」とか「効率化」といった標語に踊らされ、強引に答えともならない不安定な結論へと急いでいないだろうか。

国語の学びというものは、特にそうした”長期熟成”が求められる筈である。7歳の、12歳の、18歳の、30歳の文学作品の「読み方」は自ずと違うものである。あらゆる年齢で「再読」した時に、新たな「自己」が見えてくる。幼少の頃に味わった絵本を、中高年になって今一度紐解くとよい。そこには自らの人生を起ち上げた「物語」を読むことができるだろう。それでこそ人としての、「言語力・思考力」ではないだろうか。

技術に溺れ固着しては何も見えてこない
言葉を通して物事が見えるには、穏やかな「待つ」が必要だ
「言葉」を通した繋がりに、僕たちは生かされているのである。
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すべての意味は相対の上に

2015-01-30
「右」あるいは「左」という語彙
辞書で引いてみたことはありますか?
そんな問い掛けを耳にしてあらためて感じたこと・・・

ある国語教育関係の研究会が地元地域で開催され、そのレセプションにお誘いいただき出席した。嘗て母校で大学院時代にお世話になった国語教育の恩師が講演者としていらっしゃっており、久し振りの再会を果たすことができたのも、大変嬉しい機会となった。その席上、ある方のご挨拶に冒頭のような一節があった。確かに「右」や「左」という、意味が自明と思っている語彙を辞書で引くことは稀だ。そのご挨拶の中でも紹介されたが、今現に手元の『広辞苑』を引いてみると、「右」の項目には、「南を向いた時、西にあたる方。」と一番目の意味項目にあった。

「意味」とはあくまで相対的なものである、とあらためて感じる事例である。もしその項目の状況から反対を向いたらどうなるか。もちろん北を向けば、「西にあたる方」は「左」となる。自らの基準をどう定めるかによって、呼称やものの見方は反転するということである。これは単に物理的な事例のように見えるが、実はこの世の様々な事例においても言えることではないだろうか。時に基準を反転して、その「問い」の中に飛び込む。そうすることで、双方の立ち位置を実感することができる。人は誰しも意固地な面があるもので、自らが「南を向いた」ことの正当性を疑えないことが多い。他者が思いやりを持って「北を向いて」考えてくれていることを。尊重する心が必要な場合もある筈だ。

「アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。」(『新明解』)
更に「「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致」ともあった。
どんな姿勢で何を見るか、という上において固着しない柔軟な思考を持ち続けたい。
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「やさしい心の持ち主は」詩心がもたらす日常

2015-01-29
「いつでもどこでも
 われにあらず受難者となる。
 何故って
 やさしい心の持ち主は
 他人のつらさを自分のつらさのように
 感じるから。」
「夕焼け」(『吉野弘詩集』ハルキ文庫1999より)

詩歌を読むとはどういうことだろう?単にその文字面から何かを想像するだけのものだろうか。「読みを深める」といった用語が、国語教育に頻繁に使用されるが、その「深まる」とは何か。まさしく「自己」を起ち上げて、その詩歌から読み取れたことと重ね合わせて、共感や反発を覚えるということになるだろうか。日常生活には、様々な人の「こころ」が往来するものだが、その機微を、誰にも気付かない的確なことばで捉えたものが詩歌ということになろう。ふとメールなどに「詩心」ある内容が刻まれていたりすると、深い共感と穏やかさを感得できるものである。

Twitterの情報によると、「NHKクローズアップ現代」で詩人・吉野弘の特集が放映されたという。かねてから吉野弘の詩には大変共感を覚えており、ここ最近、授業や講座で読むことも多かった。冒頭に記したのは「夕焼け」という詩の一節だが、電車の中で幾度となく老人に席を譲る「娘」の「受難者」としての悲哀を語るものである。「やさしい心の持ち主」とは、どういう人だろう。それは「他人のつらさを自分のつらさのように」感じる人であると言説化されている。日常でも僕たちは、様々な「やさしい心」に触れ合う。だが、その他者の「やさしい心」を、粗末にしてしまうことがないわけでもない。翻って、その「やさしい心」を受け止めたり受け止められたりすれば、実に平和な気持ちでこころ穏やかな日常になるということだ。

詩歌のことばこそ人生に必要なのだ
それは生きる活路が満載されているのである
嘗ては、為政者が詩歌を愛好した時代もあったのだが・・・
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ことばの力・演劇の力

2015-01-28
「おはよう」という文字は「文字」
だが、「声」にすれば多様な表現になる
何を言うかより、「どう」言うかが大切だ

子どもたちが円環を作り、ボールを受け渡しする。ただし「声」を使ってはいけない、所謂「アイコンタクト」のみでコミュニケーションを図る。ボールが一つのみならばまだしも、2つ・3つと加えられると、様々な混乱も生じるのと同時に、工夫も創造される。怪我をしている友人がいれば、投げずに手渡すなど、子どもたちの配慮が初々しい。この「ボール」は、日常生活では「声」として子どもたちの間を行き交っているわけである。今年度、僕もコーディネートして来た芸術家派遣事業の「現代劇」ワークショップを、ある小学校に参観に行った際の光景である。地元地域で活躍する劇団主宰者と役者さんによる展開に、大いなる興味を持った。

声の高低、ことばを交わす間、態度、両者間の距離等々の諸条件が、単なる「おはよう」の挨拶を多様にする。また、「買って」「ダメ!」といった、子どもと母親の単純なやりとりを場面を想像して発話する。演劇の「声」とは元来、こうした虚構の内に醸成される。だが、その虚構にこそ、真実以上の真実が含まれていると考えられる。「国語」授業で扱われる物語・小説教材にも、こうした演じる要素が多々ある筈なのだが、〈教室〉での声はなかなかこうした「生きた声」にはならない。それは、教師が「指導言葉」で「(模範的として)音読」することにも起因しているかもしれないが、日常生活にはない同調圧力の掛かった、「教科書読み」が横行する。

「演劇(Play)」には「あそび」の意味もあると演出家の方が告げる
「学び」が「楽しい」と感じられる〈教室〉空間の創造を進めたい
「すべての道化は戦争を否定する。」(仏・劇作家・ラブレー)
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休養は悪にあらずして

2015-01-27
自分の体力への過信
できると思ったが勇気を持って撤退
休養も鍛錬のうちにして・・・

東京での研究学会から戻り、再び日常が始まった。授業と学生対応、様々な事務処理などを滞りなく進める。そして夜となれば、ジムへと向かう。その前に夕食を済ませようと、馴染みのうどん屋に立ち寄った。すると店主がインフルエンザで暫く休業という貼紙があった。日常から誠意ある対応と、こだわりのある食材で調理されたうどんの質の高さに信頼があるので、この事態にも何ら腹立たしい気持ちにもならない。むしろ店主の回復を願う気持ちが湧き上がった。世間では「・・叩き」といった行為が横行するが、実行している者こそ「怒り」で自滅する精神に追い込まれていることが多い。日常から至って他人を許せる穏やかさを以て生きていたい。

ジムでは、月曜日に予定しているスタジオプログラムを2本こなす予定であった。しかし、1本目のプログラムで、身体が思うように動かないことを自覚。確実に週末の疲れがあると強く感じた。それでも1本には集中し、トレーニングを終えた。問題はそこからである。2本目を実行するや否や・・・。筋肉鍛錬は、疲労を伴ったまま行なえば効果は半減。それならば最良の行為は、早々に帰って寝床に就くことだと思い直した。何事も忍耐や負けじとする心も必要な場合がある。だが、穏やかに自己分析し最良の方法を選択することも重要だ。日本社会はどうやら、未だ「休養」への眼差しに偏見がある。「皆勤」を賞讃する文化があるということ。だが、精神的な余裕を生み出す行為を、自信をもって堂々と実行してこそ、明日への光が見えることを知るべきだ。

慌てずに今できる最良を選択する
何事も心の余裕が安定を生む
休養は悪にあらずして・・・
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対話が生む和やかさ

2015-01-26
心の奥まで語るのは難しい
だからといって話さなければ何も生まない
個々の思いを披瀝してこそ和に至るものだ

故郷を訪れると、なるべく多くの人と会って話すようにしている。両親はもちろんであるが、なるべく予定の合う友人たちと語り合う。今回も通算すれば、10人ぐらいの友人たちと会うことができた。その会話の端々に、いま現在の己の置かれた状況が映し出される。自らを語り合い、相互の反応を否定することなく受け入れる。思惑というのは、親族といえども個々に多様なものである。忌憚なく思いを表出してこそ、和やかさに至るものだ。

食事の機会というのは、腹を満たすのみにあらず。どれだけ思いを語り合い、自らの心を満たすことが重要だ。最近、敢えて食後にゆっくりと両親と語る時間を設けるように心掛けている。以前は相互の思惑を、「察し合う」ことで齟齬が生じることがないわけでもなかった。だが、「思っていること」を表出し合えば、どれほどに和やかな気分になれるかを発見した。友人とも然り、また社会や国際関係でもそうだろう。相手の立場を尊重し、対話の道を閉ざさないことだ。相互に敬意を払うことこそが、「平和」を生む唯一の手段であろう。

「憎悪」は何も生み出さない
今日会う人と丁寧に対話しよう
心の平安を誰もが求めたいはずだから。
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人文科学の「複数性」こそが窮地を救う

2015-01-25
「立ち位置(ポジション)の多様性」
「視点(パースペクティヴ)の多様性」
(アンナ・アーレント『人間の条件』1958 より)

研究学会に出席する。その意味は何か?と自問自答する。東京在住時は、移動手段に何ら負担のない環境であったゆえ、そうした自問そのものを怠っていた気がする。むしろ中高現職教員として、こうした場に足を運んでいるという聊かの自負と矛盾に満ちた気持ちで、混沌とした状態が続いていた。それが今や懇親会でスピーチに指名される場面でも、「本日、一番遠くから来た方」といった部類で紹介される。もちろん「比較文学」という学会の性質からして、隣国から出席(留学も含めて)している方々もいるわけで、学問とは距離ではないということを再認識する機会となる。特に留学生の流暢な日本語による緻密な発表を聞けば、母国語研究者として、更に奮起すべきと意欲を新たにする。

学問とは、ものごとをより緻密に深淵まで見つめることであろう。ただ「緻密」「深淵まで」だけでは自己満足に陥る危険性もある。鷲田清一『哲学の使い方』(2014岩波新書)を読了したが、そこに示された哲学の生きる道は、人文科学全般に敷衍して考えるべき示唆が豊富だ。「よく見るためには多くの目をもつことが必要だ。他の視線との摺りあわせをするなかで、複数の目でものを見られるようになること、そのことでまなざしが立体化し、押し拡げることが重要だ。」(p188)といった指摘ののちに、冒頭に記した引用が示される。いわば「複数性」を確保せよということである。まさに比較文学とは、こうした発想による研究方法である。

「人文科学」とは、まさに「人」と「文」との関係性を論理的に追究するものであろう。成果・効率主義の世情は、どうやらその重要性を捕捉する眼が持てないようである。「結果」「正解」など簡単には導けないのが、「市民」の考えるべき人の世の常である。胸に手を当てて「あなたの人生の正解は何か?」と考えてみるがいい。決して「正解」など得られないはずだ。もし「正解」があると思い込む輩がいるとしたら、それは限りない自己欺瞞に他ならない。よって「未整理の過去と手さぐりの未来との間に点描でしか描けない現在がある。」(鷲田前掲書p206)ことに身を浸すしかないのである。そのためにも、「かなりの肺活量と集中力が要る。」(鷲田前掲書p240)ことになろう。いま世情が、この「肺活量と集中力」を軽視し、その必要性に眼が向かなくなっている。このことは明らかに、社会や国家という枠組に脆弱性をもたらす。「複数性」のない単眼的な言葉は、誠にもって頼りない。

熟慮なき単眼的「非難」
「暴挙」「卑劣」と呼べば解決になるのか。
人文科学的な「複数性」の発想こそが窮地を救うはずなのだが・・・。
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故郷・厚情・気分上々

2015-01-24
ハーモニカにギターの音色
ハッピーバースデーのメロディ
心に沁みる宵闇のひととき

「ふるさとは遠きにありて・・・」と、著名な室生犀星の詩の一節がある。高校生ぐらいの頃からその言葉と響きに惹かれていたが、なかなかその抒情を実感することはなかった。ということ自体に、ようやく気付いた。空港に降り立ち移動するモノレールの車内から、大都会を眺める。そこがまさに、僕のふるさとであり、代え難いものがそこに顕然としている。「みえてはいるが誰もみていないものをみえるようにするのが、詩だ」(詩人・長田弘の言葉より)

懇意にする店に赴く。すると親しい常連さんたちが、何人も顔を揃えていた。店主の計らいでスパークリングワインを開栓。常に楽器を携帯しているお二方が、誕生日を祝うメロディを奏でてくれた。「厚情」と言葉にあるが、まさにこういう温かい気持ちが伝わってくることをいうのだろう。人とは、つながりの中でしか生きていけないことを、あらためて実感する。言葉・語彙一つでも、日常生活で空虚に使用している場合が殆どであるが、その内実を思い知らされた時、自らの中で”生きた言葉”となる。

「故郷」の「故郷」たる所以
「厚情」の「厚い」という意味
気分上々にさせてくれる場所があるということ。
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「3年」単位の更新やいかに

2015-01-23
「3年」の倍数・・・6・9・12・15
「石の上にも・・」といわれる年数
振り返っても様々な更新がある・・・

ある意味で、年齢に無頓着である。先日も親友から「この14年間ぐらい見た目も変わらない」といわれて、単純に気をよくした。考えてみれば、その年数はおおよそ21世紀になってからと同値であるが、その間絶えず物事に対して前向きであり、自己を更新して来たと回想できる。頽廃的に成り行き任せな歩み方をせず、積極的に自分の人生を開拓した結果が、外見にも表れているのかもしれない。

意識せずとも「3年」の意味は、とても大きいように思う。1年や2年では動き出したと意識できないことが、なぜか「3年」経つと変化が生じて来る。「機が熟す」という成句があるように、植物などと同様「円熟」する期間が必要だということかもしれない。学校教育の期間が「3」の倍数であるのも、まんざら偶然ではあるまい。人の成長には、その程度の時間が必要なのだ。

「3」を基準に振り返れば様々な風景が見える
そしてまた、まだ見ぬ景色に出逢う
人生という旅は実に面白い。
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理性と寛容を以て対応すべし

2015-01-22
感情的な憤慨は何も生まない
すべての思いをいったん受容する
理性を以て対応すべし

「雨の日は視界も悪く運転に注意。」などと、ハンドルを握る前に自分に言い聞かせる。「(自分の予定を優先するがため)慌ててはいけない」「見通しのよい道路を選択する」といったことも念頭に。自動車運転時の「理性」を具体的に述べればこんなことになるだろうか。勘が働いたのか、一瞬「冷やっ」とする場に、この日は遭遇した。交差点直進の信号は既に赤となり、右折可矢印が点灯。僕の車が右折をするとその道路の横断歩道を、(既に横断歩道の信号は赤だが)傘を片手に高校生らしき男子の乗った自転車が、急に”侵入”して来た。慌てて急ブレーキを踏み抜き、タイヤ音を上げて僕の車は停車し、事なきを得た。

「赤信号の横断歩道へ、しかも傘を片手に自転車で横断するなどけしからん」と憤慨するのは簡単だ。だがその時の僕は、車を止めることができた自己の「理性」に感謝した心境だった。そして誠に寛容にも、焦って止まった高校生に早く横断歩道を渡るよう手で指示を出した。無法者を許せば社会秩序が失われるのは常道だ。”強く”非難し我が主張をすべきことも求められるかもしれない。だがしかし、自動車という凶器を運用する「大人」として、無限の「理性」が必要であるとも思う。欧米に住む知人の話として、(欧米は)自動車優先社会であるから、道路で跳ねられた歩行者が(負傷しているにも関わらず)、(車で跳ねた)運転者から罵声的な説教を受けている場面があった、ということを聞いたことがある。だが、少なくとも日本では、それは通用しない。いや、しなかった。この国では、生身の一歩行者が「優先」である、寛容な社会を築いてきたのではないのか。

多様なそれぞれの”思い”が社会には存在する
文明社会で共生するには何が必要であろうか?
縺れかけた糸なら、”強く”引けば切れてしまう。
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