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「長い階段」という「境界領域」がもたらすもの

2014-12-31
階段を登りながらこう考えた
その先の明るく拓けた光景が眩しいと
夕陽に惜別を感じない1日を・・・

住んでいる地域を散歩する心の余裕が尊い。ふと思い立って、日の入り30分前に家を出た。特段目的も定めず、歩みに任せた闊歩を続けてみた。いつの間にか、長い階段のもとまで来ていた。一瞬登るや否やという心理が掠めたが、こうした時は迷わず「Go!」が己の信条でもあった。段数を数えることもしなかったが、大腿筋にやや負荷が掛かり、心拍数を適度に上昇させるには十分な数であった。登り切った先に広がる公園に到達するという、”意味”もない小さな達成感にこそ、自己を見直すという「意義」があった。

小説の構造の如く、「内」なる世界から「境界領域」を超えて「外」なる世界に一旦は出てみることが必要であることを、物理的に「現実世界」で叶えるという「意義」である。「境界領域」を超える際には、ある種の「葛藤」や「困難」が用意され、「外」たる「異空間」には、「内」からは見えなかった「光景」が必要である。その「階段」と「公園」には、そんな「装置」が見事に備えられていた。「異空間」では、住んでいる地域や大学が眼下に見渡せて、遠く山際にやや”大きくなった”夕陽が沈もうとしていた。自宅や大学にいるのではわからない、自然の壮大な光景に心が慰められる思いであった。そして、紛れもなく「自己」の「外側に出たのだ」という気付きがあった。

朝一番から、洗車・家の外回り清掃・台所清掃などと午前中を過ごし、いくつかの郵便物をしたためて、好きなLIVE番組を観るなどと、”長い”1日を過ごしていた。その果ての散歩である。「仕事」という枠内からも、一旦は「外」に出ることから見えて来たことも多い。ときにこのような「異質」な日々が必要になるのだろう。年末年始というのは、こうした構造が上手く機能するようにできているかのようである。「変革」を求めるということは、決して前のめりでは成し得ないものだ。階段を一段一段、焦らず登るような「待つ」時間が必要だ。それでこそ、立体的複眼的な視野を獲得することができる。いくつかの手紙や親友との対話が、あらたな「自己」を創造しているのである。

「休日の顔をしているね!」
親友の言葉が物語っていた
「自己を外側から観た」という確証を其処に得た。
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2014生活習慣トレーニングを振り返る

2014-12-30
通算168回
昨年より+11回
確固たる生活習慣の一つが身体を築く

2014年身体トレーニング頻度が、冒頭の数値である。昨年も小欄に記録したが、その数値に上乗せがあった。こうして通算した数値で計ると、よくもこれだけ通ったものかと我ながら感心する。もちろん量のみならず、質も充実し一定の目標を達成した思いがある。コアの強化・腕周りのシェイプ・体脂肪率の減少(14%台)等が、その主な成果として確認できる。何事も日々の積み上げでしか、何も築き上げられないのは自明だが、これを実に意識的に可視化して継続することができるという意味で、フィットネスに取り組むこと自体に大きな意義を感じる。

恒例により月別頻度を記す。
1月=17回・2月=17回・3月=13回
4月=16回・5月=14回・6月=13回
7月=14回・8月=15回・9月=10回
10月=13回・11月=11回・12月=15回
という具合となる。

9月の10回が最小となるが、各月2桁回数を維持。中には出張中に現地のジムに出向いた回数も含まれる。一番自分でも印象的であったのは、出張先で2時間という限られた時間でもジムに行ったことであろうか。いずれにしても、「行くのが億劫だ」と思ったことはただの一度もない。せいぜい3日〜4日も身体を動かさないと、どこか気持ちが悪い感じを持ってしまう。常に目的に適った部位が、軽い筋肉痛を伴うといった感覚が心地ちよい。また、毎度のように記しているが、これだけ身体を錬磨することは、脳の働きにも効果が大きい。

ジムでのトレーニング納め(年内営業最終日であった)
来年の目標は、更なるコア鍛錬と下半身筋力の強化である。
ジムの会費が高いと思ったことは一度とてない。
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物理的資料整理の不思議

2014-12-29
大掃除の時季
まずは自宅書斎から手をつける
折り重なった紙資料から見えたものは・・・

年末を迎え大掃除の時季となった。比較的幼少の頃から、大掃除は嫌いではない。徹底的に行なおうとする小学生の頃の僕を、祖母が「もういいのにしたら」と宥めてくれた記憶があるほどだ。綺麗になった部屋は実に気持ちがいい。大学の研究室は、年度替りまで整理しない方が機能的なので、年末はもっぱら自宅が対象となる。まずは、書斎から手をつけたというわけである。

日々の慌ただしさに追われ、紙資料が山積している棚がある。郵便物や訪れた場所のパンフなどが、その主な内容である。それでもクレジットカードの利用明細などはWeb閲覧にしたり(この方が僅かながら割引もある)、必要以上のパンフ類は収集しない主義にしている。紙資料という意味では、これも「ECO」への配慮ということになろう。それでも尚、一定量の資料類が折り重なっている。

その整理が、なかなか楽しい。必要なしと判断し個人情報が記載された物は、シュレッダー行きとなる。だが、何となく保存しておきたい物も必ずある。それが年間を通した時系列で、その棚に折り重なっているのだ。まだ肌寒い春先に行った「お花見狂言会」、暑さを感じ始めた梅雨の時季に鑑賞した「宵語りの会」、真夏の暑い盛りに子どもたちの熱い躍動を受け取った「王様と魔法のドレス」という子どもミュージカル、等々といくつかのパンフレットに再び眼を通すと、その時の感性が蘇って来るものだ。それに、映画の入場券なども顔を覗かせる。「永遠の0」「アナと雪の女王」決してたくさんの映画を観られたわけではないが、いずれも「今年の感性」を語るには欠かせない映画であった。

綺麗に整えられた書斎
来年はどんな時系列が棚に積み重なるのだろうか
デジタルではなく、物理的資料が感性を揺さぶる不思議。
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授業力は人間性から

2014-12-28
「授業力とは何か」
昨日に引き続き教育フォーラムでの課題
日常から人間性を養ってこそ・・・


「授業力」とは、教師にとっての永遠のテーマである。それは、「分からないことを分かるように教え、できないことをできるようにする」という使命を担い、命題を背負う。「教師は授業で勝負する」という言葉が示すように、教壇に立つ存在である以上、「授業スペシャリスト」であるべきだろう。「技術と手法」が大切なのはもちろんだが、「総合的な人間力=社会性や人間関係構築力」があってこそ、この使命を遂行し命題を解き明かすことができる。まさしく「授業力=子どもの人間形成や人格形成に深く関わる重要な資質・能力」であると位置付けることができる。

前項のような主旨の基調講演の後、出席者全員が参加してワークショップ。県内の現職の先生方や院生・学部生の参加者も多く、それぞれの立場から忌憚のない声が提出された。「自分が楽しめる授業を目指す」「子どもたちの日常と結びつけるために、様々な物を演じて考えさせる」「日常生活の意識からして、教材研究に向ける」「対話が対話を呼び込むようにして、思考を子どもたち自らが練り上げて行ける授業が理想」等々と懇談は進んだ。そんな中で、現場教員の多様な模索と努力があることを僕自身も再確認し、同時に教員養成を支えている大学の授業こそが、「授業力」を存分に持つべきだという考えに至った。

後半の「若手教員と語る授業作り」では、教職大学院を修了して教員になって5年以内の方々から、現状の報告があった。そこで多くの方々から提出されたのは、「教材研究の大切さ」である。同時に学校業務全体の忙しさの中で、「教材研究の時間の確保」が課題だという。その均衡を保ち「努力」するのが「優秀な教師」というわけであるが、僕たち大学で教員養成に関わる立場の者が、「教材研究を存分にできる現場環境整備」に対して、もっと多方面に働きかけるべきだという思いも新たにした。「教育大国」ともいえる北欧では、ともかく教師が尊敬されて教材研究を奥深くできる時間が確保されている。教育を高水準にするには何が必要か?という視点を、「人間性」から見直すべきであろう。特に政治・行政関係の方々には、予算配分を含めてこうした点を強く訴えたい。

『注文の多い料理店』にある「色」の隠喩を「想像すること(教材研究が)が楽しい」
と、ある現場教員の報告にあった。
教員が想像を楽しまなくして、なぜ子どもたちの想像力が育てられようか、ということである。
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授業が日常を超えるとき

2014-12-27
「アートが誘う非日常世界」
こんな副題で「芸術家の知を生かした教育」を語る
授業は日常を超えられるのか?

今年度かかわってきたプロジェクトの報告会シンポジウムが開催された。僕は「演劇(国語)」担当であるが、他にも「ダンス(体育)」と「音楽(声楽)」で展開された「授業」が、映像を駆使して報告された。ダンスでは、自由自在に身体で表現を展開する子どもたちの個々の多様な表情が印象的であった。音楽(声楽家)では、「芯のある声」に導き「声を張る」という比喩的動作を仕掛けると、子どもたちが歌う合唱の高音に豊かな伸びが現れた。いずれもいずれも、日常の学校空間には存在しない超越的魅力をもった芸術家が授業に参入し、子どもたちを一時「夢」の世界に誘うことで、その能力に火を点けるといった展開であった。

この報告会には様々な分野の方々に参加していただいたので、疑問もまた提出された。学校現場は「授業」の上で、どのように位置付けたらよいのか?芸術家と出逢った後に、子どもたちにはどんな力が身に付くのか?あくまで「授業」だとすると、その評価はどのようにしたらよいか?学校と文化施設と大学や行政が、どのように連携してこの事業を展開したらよいか?等々と、多様な議論からあらためて実施の意義を問い直した。このように考えて来ると、いったい「授業」とは何であろうか?といった根源的な疑問に到達する。敷衍して、子どもたちは成長過程で何を身に付けたらよいのか?そして、どれほどの邂逅があれば「生きる力」は身に付くというのか?

「授業」には、技術的に学力を積み上げる戦略と過程が必要なのは自明である。そこを外さないからこそ、学力水準を高く維持することが可能になる。あくまで「授業」とは、「基礎的・基本的な知識技能を育む」ということである。だがしかし、それだけに偏重していては、決して「豊かな教育」と言えないのではないだろうか。同時に「情操」面や「社会的コミュニケーション」を育んでこそ、均衡のとれた成長を促す教育になるはずだ。こうした意味で芸術鑑賞は重要な訳だが、従来は劇場などの校外において受身で観るのみという場合が殆どであった。もちろん、学校外の異空間に足を踏み入れる体験も必要であろう。だが、その異空間性が子どもたちの現実と甚だ乖離し過ぎていると、あくまで自分たちとは「別世界」の人々が、「別次元」のパフォーマンスを見せるという、やや冷めた受け止め方にもなりかねない。僕の現場経験からしても、子どもたちが能動的に芸術に出逢った、ということへの期待よりも、静かに公演を聞いて欲しいという、消極的な面への不安の方が、遥かに大きな教員としての心の持ち様であった。

「学校」には、子どもたちの「日常」がある。「教室」「体育館」という慣れた場所に、圧倒的な表現をもった芸術家が訪れる。見慣れた黒板・床の板目・チャイムの音等々が存在する空間において、甚だギャップのある超越的存在が現れる。今まで見たこともない身体の動き、決して耳にしたことのない声の張り、絵本世界そのものを眼前に起ち上げる声、古典的人情味溢れる対話のことば、などの「非日常性」が「侵入」して来るからこそ、子どもたちは恐れることなく「境界領域」を超えるのではないだろうか。そこに十人十色の享受があり、魅せられた子どもたち自身が自由に創造的表現をしてこそ、初めて「鑑賞した」ということになるのではないだろうか。その経験によって彼ら自身の欲望で、いつかは劇場へ寄席へ行こうという心が起動することが肝要であるのではないか。

子どもたちの豊かな笑顔
「勉」めて「強」いるを超越すること
僕の大好きな「文学」を再生するためにも。
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Xmas焼肉・・・酒が導く饒舌

2014-12-26
Xmasだからじゃない
なぜイルミネーションや気取ったレストランなのか
焼肉と焼酎もいいじゃないか

「聖夜」という本来の概念からしたら、大きくかけ離れた日本のXmas。いつからイルミネーションを仰ぎ、高級レストランで食事をといった演出が”作り出された”のであろうか。いや、そう思い込んでいること自体が、何かに毒されているのかもしれない。過去に2度ほど、海外でXmasを迎えたことがある。1度目はフランスの田舎町、そこは知人宅で親類が集まって来て暖炉の火を囲み、各々が決して高級品ではない心のこもったプレゼントを提供し合うという、実に穏やかな時間であった。2度目はアメリカのロス、街中では店の多くが休業し暗く、多くの人々が大切な家族とともに聖夜を閑かに迎えていて、日本人として持っていた絢爛なイメージを尽く覆させられた経験であった。

欧米の「聖夜」は、まさに日本の「お正月」なのであり、親類などと語り合い「自己存在」を確認するような機会であろう。80年代頃から「日本的Xmas」概念を、メディアが創り出し、民はそれに乗じてイルミネーションやケーキに対して躍起になっている印象である。などと言うと、皮肉を述べているようにも聞こえるので、あくまで自分流のXmasとして穏やかな時間であったことを享受すればよいのである。ということで、親類のもとにも帰らないXmasは、閑かに自己の今を語ればよいということである。

と考えて、指導担当になっている韓国からの留学生を焼肉に誘った。彼も年末年始は祖国に帰らず、大学の寮で過ごすと云う。1年の留学期間の約四分の一が過ぎ去ったことを受け、栄養補給をしながら、様々な話題を語り合った。言葉のこと、食文化のこと、野球のこと等においては、いずれも日韓比較の視点から、興味深い発見に至る。特に相互に大好きな野球に関しては、どのような姿勢で観戦するかという上で考え方が合致し、話は「東アジア野球文化論」といった域に及んだ。更に焼酎が舌を滑らかにしてくれると、「生き方」そのものに対する深淵に至る語り合いとなった。その内容はご想像にお任せして、ここでは”公表”を控えておくことにする。

とてもいい時間だ!
これぞ今年しかできないXmas
留学生の存在が、僕自身の「存在」を投影し深く自覚を促してくれた。
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「脱皮」「転石」・・・別れを重ねてこそ

2014-12-25
今月限りというジムのトレーナーさん
Xmasレッスンに臨み涙のフィナーレ
サヨナラだけが人生だ!

ジムで好みのスタジオプログラムを担当するトレーナーさんが、今月限りで退社するという。そのレッスンの軽快さに幾度となく励まされていただけに、惜しまれる報せであった。だが、「惜別」の気持ちが生じる反面、彼にとっては新たな人生が始まるのだという希望への期待も抱く。ひと処で、同じ地域で、長く同じことを変わらず続けることも勿論尊いが、自己を更新して行く道を選択した者には、温かい拍手を送りたい。

「僕は何度となく、ジムのトレーナーさんとの別れを繰り返して来た。」と彼に告げた。僕が今居住する地域に仕事で移り住んだ時、後ろ髪引かれる要素の一つは、ジムとそこのトレーナーさんたちの存在であった。それほどに自己の生活の一部になっていたのかと、その時自覚した。それゆえに帰京して時間が許せば、大抵はジムに出向き、今でも特定のトレーナーさんのレッスンを受けている。今回退社する彼にも、僕のそんな「生き方」を伝えておいた。

「脱皮しない蛇は死ぬ」(ニーチェ)の格言通り、固着した場所に「安住」してしまっては、自己の内外に新鮮さが失われる。公立学校に転勤があるように、「生々流転」してこそ命は輝きを放ち続けるのであろう。彼はまだ若い。様々な場所で様々な仕事と人間に接し、まだ見ぬ自己を開拓してもらいたいと願う。Xmasイブにもかかわらず集まった多くの会員さんたちが、格闘系のレッスンゆえに、彼の門出に向けて祝福のパンチを連打し続けた。

そんな流転の潮流に
ふと己のいまを写してもみる
まさに正の意味で「転がる石」なのであると、様々な意味で自覚する。
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イチローの「我慢」は「準備」に通ず

2014-12-24
「大人になると我慢の連続です。
 我慢して自分の気持ちを抑えて、前に進んで行く。」
 (少年野球大会での挨拶にて、イチローの言葉)

久し振りにイチローの言葉を、映像で聞いた。「イチロー杯」と名を冠した少年野球大会での、挨拶の映像であった。イチロー語録には、様々な成功への秘訣があるので、年末年始特番などでインタビュー番組があると必ず観ていたが、最近はそうした番組も制作されることが少なくなった。それは彼の言葉に聊かの変化があることにも、反映されているようにも思う。今季の安打数は自己最低、彼がスーパーサブの如く扱われ続けて来たというチームの方針への対応も然り。また越年近くなる現時点で来季の所属チームが不透明であるのも、彼にとっては初体験であろう。

少年に語った「我慢」は、まさに現時点でのイチロー自身への言葉であると解せる。同時に僕ら「プロ」の世界で生きる意識ある者たちへの、贈る言葉であるとも思う。「大人」いわば「社会」に接する以上、自らの力だけではどうにもならないことも多い。他者との関係性の中でだけ、はじめて自己の位置が決まるともいえる。そうかといって、他者に迎合したり従順であるだけが「大人」ではない。社会性の中にあって、自らができることを最大限に「準備」しておいてこそ、「大人」であり「プロ」であるということだろう。出場できない試合があっても、まさに「我慢」して、全試合出場できるコンディションと実力を錬磨するということである。それがイチローのいう「我慢」なのではないか。

日常では仕事以外でも、「我慢」を強いられることが多い。折目正しく前進しようとすれば、齟齬が生じることもあり、思い通りには運ばないことが大半であろう。眼に見えた結果を性急に求めれば、大概が錯誤した方向に歩んでしまうこともある。そこで「準備」を怠らず、多角的複眼的な視野を求める言動を惜しまず、慌てずに自らの命題に向き合えるかどうかが肝心ということになるだろう。自身ではよかれと思い込んでいることが感情的な呪縛となって、実はそれが大きな誤謬であるのかもしれない。翻って考えれば、自身では適合しないと思い込んでいることが性急な”誤診”であって、実はそこに求めるべき核心が眠っているのかもしれない。そんな境地でも、やはり「我慢」が重要であると、つくづく感じられるのである。

イチローならずとも、
近所の親友の言葉は、いつも心を反転させ視野を全方角に向けさせてくれる。
いかに人間が「思い過ごしの動物」であるかと、あらためて悟るのである。
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サンタさんへの手紙

2014-12-23
「そうだ!私は子どもですって、
 手紙を貼って寝ればいいんだよ!」
 子どもの豊かな想像力に敬服。

今年もXmasが近づいた。サンタクロースを信じるや否や、という子どもたちへの調査結果などをWeb上で見た。ここでは、その結果を問題にするのではない。肝心なのは年齢を問わず、「夢」をどう考えるかということである。昨年も小欄で紹介したXmasのベストセラー『サンタクロースって、いるんでしょうか?』(1977偕成社・2013改訂114刷)には、こんな記述がある。「ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしくて、かがやかしいものを、みせてくれるのです。」と。

冒頭の子どもの発言は、ある保育園での出来事の記事。子どもが「先生は大人だから、サンタさんからプレゼントもらえないの?かわいそう〜。」先生は答えて「じゃあ、子どもみたいなパジャマで寝れば、もらえるかな?」子ども「でもからだが大きいからわかっちゃうよ」先生「じゃあシャツに足まで入れて小さくなれば大丈夫かな」子ども「シャツがのびちゃうからダメだよ。」などというやり取りの後、冒頭のように「手紙」という手段を子どもが発案したという内容であった。まさに「信頼と想像力と詩と愛とロマンス」に満ちた話である。

どうも最近、ファンタジーの世界を甘く見ていた自分に気づいた。何事も現実的発想で処理し、世相に対して憤り、効率化に躍起になりノルマを課して自分を責め立てていた。「たとえようもなくうつくしくて、かがやかしいもの」など、見ようとはしていなかったのではないかと気づかされた。それを前段に記した子どもの豊かな想いの話が一掃し、心を洗い清めてくれたようであった。先日もゼミの忘年会で、「ディズニーランドは好きかどうか?」という話題になったとき、「教員として遠足の引率で行った際には、あまり楽しめなかった。」と答え、その上で「所詮は、人造物だから。」と付け加えて、ゼミ生に驚かれた。そう、これは僕がまったく「心が荒んだ大人」になってしまっていた証左であろう。「カーテンをいっときひきのけて、まくのむこう」に存在する「夢」を忘れてしまっていたような気がする。

「文学で想像力を」と標榜するのなら
「詩と愛とロマンス」もお忘れなくである。
こんな子どもの想像力を活かすためにも、豊かな未来社会を創らねばなるまい。
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天下は天下の天下なり

2014-12-22
「天下を治めるのにふさわしい者が上に立つ
 私利私欲のためではなく、争いのない世の中を作る」
 家康が如水に告げた最終回。

大河ドラマ「軍師官兵衛」も最終回。天下分け目の関ヶ原があっけなくも1日で決着がつき、九州から密かに天下を狙っていた黒田如水(官兵衛)の夢は、はかなくも散ることになった。しかもその関ヶ原の早期決着に貢献したのが如水の嫡男・長政という因果。結果的に黑田家は、筑前52万石を所領する大大名となり、現在の福岡に至る街の隆盛の基盤を造り上げた。それにしても破竹の勢いで九州全土を我が手に治めつつあった如水の野望はいかに。ドラマではその後、家康と対面した如水が、「どんな世をお造りになるおつもりか?」と問い掛け、家康が「争いのない世」と応じたというわけである。

「軍師」として戦国の世を生き抜き、信長・秀吉・家康らの天下人らに常に一目置かれていた官兵衛。戦略に長けていたのはもちろんだが、今回の大河ではまた、常に平和な世を願っていたという点が強調されていた。極力争いを避け調略を施し、孫子の兵法を尊重し「戦わずして勝つ」の思想を体現していた武将でもあった。人望厚く生涯にわたり妻は一人、賢臣に恵まれ所領する土地の民の生活を重視し、下の者たちの声に耳を傾けるという姿勢を崩さなかった。こうした人物ゆえに、むしろ陰謀に陥れられる局面もあった。それでも尚、「私利私欲」ではなく「争いのない世」を願い続けた。

福岡の、いや九州に生きる者のある種の人間味は、こんな如水の築き上げた歴史に根ざした部分もあるのかもしれない。為政者たるや、如何にあるべきか?翻って、現在の「世の中」を見回してみれば、誠に尊敬できる「上に立つ者」が見当たらない。全世界の1%の民が、半分の富を所有するというグローバル経済。その「野獣」の如き弱肉強食の流れそのものを、「檻」に封じ込めるべきだという議論もあるという。今やこの国の二極化も加速し、それを実感させる現象が日常で散見されつつある。経済を回せば回すほど、それは形を変えた「争い」が加速するようでもある。時代の枠組が甚だ異なるのは承知の上だが、ドラマ上の如水と家康の対話が産み出した「天下泰平」の思想から、学ぶべきものも多いのではないだろうか。

奇しくも県知事選挙も行なわれたこの日
「県民のみなさまとともに」の言葉を信じ、
自ら「市民」として協力し豊かな特性をもった「藩」を創ることから始めよう。

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