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長くも短き哉 野球シーズン

2014-10-31
日米ともに野球シーズンが終わった
キャンプからの9カ月
今季ほど僕が無頓着であった年もあるまい

青木宣親が所属するカンザスシティ・ロイヤルズが、ワールドシリーズ最終第7戦で2対3で惜敗。それが決定する瞬間をスマホアプリで捉えていた。カンザスシティのボールパークは、現地に2度ほど訪れたこともあり、青木宣親の出身地にも愛着があるので、29年ぶりというワールドチャンピオンを期待していた僕は、やや残念な心境となった。

夜は、日本シリーズ中継に集中した。緊迫する投手戦、1球と守りの1プレーに興奮を覚える攻防。まさに玄人好みな試合となったが、その決まり方には大きな不満を覚えた。これほどの後味の悪い優勝の瞬間も過去に例が少ない。守備妨害の宣告は妥当でもあり、その上で事後の抗議ももっともであると思うが、それを踏まえても日本一決定という頂点を象徴するように、「守備妨害」を招かない守備の精度を最後は見せて欲しかった。

昼間のうちに、居住地域でお世話になる不動産屋さんに顔を出した。銀行に行ったという条件もあったが、社長がこの上ないホークスファンであるからだ。店に入るなり、前日のサヨナラホームランを打った打者が「中村」であることもあって、同性のよしみか甚だ大歓迎を受けた。しばしホークス談義に花が咲いた。この地域で春季キャンプを1ヵ月張り、この地方の選手を積極的にスカウトしているという、地域愛着の方針もこうした地元ファンを惹き付けている。僕自身も2月には、その試合を観戦し今季を占ったりもしていた。

あの2月から僕自身は、どんなシーズンを過ごしたろう?
停滞もあり邁進もあり、新たな模索の中で充実した日々であったのは確かだ。
それゆえ野球には聊か失礼をしていたが、既に来季への心が起動した1日でもあった。
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「旅を続けよう」・・・三行書が表現するもの

2014-10-30
「どうせ生まれたからにゃ
 生命の限り
 旅を続けよう」(サザンオールスターズ「東京VICTORY」より)

歌詞カードには二行で書かれた冒頭の歌詞。曲を聞いていると、僕は「三行」のようにことばを噛み締めて読み唱っている。たぶん自分の感性の中で、「生命の限り」の部分の意味合いが甚だ重いと受け止めているからであろう。ある東京在住の親友が、SNS上にこの歌詞を書き込んでいた。お店の経営が変革期であり、様々な模索をしているのが伺えるのだが、まさに「経営も旅みたいなものだ」という感慨から、この歌詞に共鳴したようである。「旅」とは「喜怒哀楽」様々なことと遭遇するものである。

「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」(石川啄木)

三行書の名手といえば啄木である。「五・七・五・七・七」というある意味で連綿性のある短歌の韻律に対し、敢えて「改行」を二度加える。この歌のように「五・七・五」「七」「七」というように改行されると、歌意に沿った読み方が必然的にできる。その上で、「われ泣きぬれて」と「蟹とたはむる」の同列が強調されることで、孤独感と共生者を発見した喜びが微妙に共鳴し合う。啄木歌の中には、「五七」「五」「七七」といった形式で改行が施された歌もある。元来、日本語の言語的韻律において膠着性の強い「七・五」を敢えて分断する。やはり真ん中となる「五」の部分に深い抒情を読むことができる。詩歌が「改行」そのものも「作品」であるという、一つの証左であろう。

「ふるさとの山に向かひて
 言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな」(石川啄木)

そんな短歌を考えた後、「ふるさと」からの電話
「ふるさとの声はありがたきかな」
「みんな頑張って!それ行け Get the chance!!!」

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急がず間を楽しもう

2014-10-29
「返信遅くなりました」
メールによくある文面だが
果たして「遅く」とは何か・・・

返信が希求されるメールを先方に送ると、その返信が待ち遠しいのが人情だ。その間には、どのような趣旨の返信が来るかという想像が脳裏に去来し、ともするといらぬ詮索までしてしまうこともある。その「いらぬ・・」を避ける為には、なるべく即時の返信が求められようが、果たして早いだけがいいことなのかと考えてしまった。「いらぬ・・」を含めて、多様な角度から先方のことを想像するのは、悪くないと思ったからだ。「結果・事実」だけを重視する世相。人としての豊かな感性が退化しかねない。

幼少の頃、小学生向け雑誌の懸賞に応募したりすると、その見返りが送られてこないかと、毎日のように郵便受けを覗き込んだものだ。「来ない」「今日も来ない」という連続が、その懸賞の内容について深く考える契機にもなった。和歌披講の際の声は、句ごとにいたって緩徐に和歌を伝える。句ごとの間において、次はどんな「言の葉」が出現するかという期待と意外性に遊ぶ。平安朝女流日記文学などは、男を「待つ間」によって成立したと言っても過言ではないだろう。鷲田清一の著名な論説に示唆されたように、我々は過剰に「待ち切れない」社会を構築してしまったのだ。

「待った」挙げ句に、「笑顔」が感じられる返信が来ると実に嬉しくも豊かな気持ちになる。「待つ間」に想像した「先方はきっと忙しいのだろう。」という想像内容が、予想以上の切迫した状況であったりすると、むしろそんな中でも返信をしてくれたことへ感謝の気持ちが湧き出す。あれこれと考えに考えて紡ぎ出した文面も、Webの手に掛かれば「送信1秒」にて電送される。せめて自己の内部では、「間」を楽しみ想像力を豊かに「待つ」ことも大切ではないのだろうか。

書式・段落・語彙選び
そこに表情を読むのも想像力のうち
急がす間を楽しんでこそ邂逅の価値が見える
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35人でさえも・・・実効性・対費用効果が基準か?

2014-10-28
ただでさえOECDでも低い教育予算
実効性が無いのを理由にまた削減されるのか?
30人以上で5人ずつの増加を体験してみればこそ・・・

財務省の勧告により、1学級あたりの児童数が35人から40人に引き戻されようとしている。35人になった際には、長年の悲願がようやく達成されたような思いがあり、更なる少人数学級への願いが高まったはずだ。集団一斉教授方式への反省、個々の理解や表現を尊重し、児童の生活の変化などに敏感に対応するには、35人でもまだ多いという感覚が現場の良識であろう。実効性という語彙によって、数字上の対費用効果を基準にして再び歴史を逆戻りさせてしまうような判断は、まさにこの国を護り発展継続させていこうという意志に反したものと言っても過言ではない。

少子高齢化の加速と自然災害による無常観に満ちたこの数年間の日本の状況下で、経済最優先社会に一層の拍車がかかるような発想に対しては、誠に憂いが深い。米国をよく訪問していた頃、ある女性と議論したことがある。「日本の教育で一番の問題は何か?」と問われ、「1学級の定員の過剰さ」と僕は答えた。するとその人は、「教育のプロが5人10人の差で対応できないのは、能力とやる気の問題だ。」といった趣旨の反論を豪語した。彼女はまさに新自由主義的発想に偏向した米国社会の坩堝のような場において、第一線で金を儲けていた。「これか!」と僕は思った。「金」のみを基準としか考えない人間には、教育で1人が対応できる人数に対する繊細な感覚が、甚だ欠如する。飲食店で利益を上げる為に人件費を削減し、効率よい振舞で切り盛りするのと同等の感覚なのだ。

私立学校に勤務していた経験から、僕は最大48人という信じ難い人数から、30人までと多様な人数の学級を担任したことがある。経験の無い方からすれば、「5人」の差はあまり感じられないのかもしれない。だが確実にその差によって、一人一人への対応の繊細さに開きがあるのが実感である。単純に同じ授業時間であれば、個々の表現に与えられる時間に大きな差が生じる。国語授業などにおける理解と表現の問題は、確実に個々の多様性が求められる方向にある。それが再び横並び傾向を強めることになるのだ。全体で一つの理解や表現でよいとなれば、まさに児童の思考そのものが貧困になってしまうだろう。

学力のみならず「人」を育てる
「人」が個々の「人」に向き合うということ
いまだ経済しか重視できないこの国を、世界は嘲笑っているとしか思えない。
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酒縁・学縁・地縁の短詩型鼎談

2014-10-27
酒で人は繋がる
同窓で学んだありがたさ
そして此の地で引き継がれた短詩型文学

地元放送局の開局60周年記念鼎談を拝聴。登壇したのは、吉田類さん・俵万智さん・伊藤一彦さんのお三方である。この企画にはぜひとも足を運びたかった。というのは、三者三様な縁が僕にはあるからだ。「酒場放浪記」で有名な吉田類さんとは、ある著名な方を介して、以前に1度お会いしたことがある。その折は、僕が懇意にするオーナーが経営する神保町のBarで酒をともにした。俵万智さんは、大学日本文学専修の1年先輩である。学部当時は話したこともなかったが、昨年此の地で1度会う機会があり、彼女の同級生は僕もよく知っている方々であるなどと話し、記憶に刻んでいただいていた。伊藤一彦さんは、若山牧水の研究者で歌人である。此の地に僕が赴任して以来、講演や学会などで何度かお会いし、郷土の文学を興隆させるべくといった趣旨で懇意にしていた。

この日の鼎談では、「酒縁」という造語が類さんから提案されていた。「酒場放浪記」のようにいきなり居酒屋を訪れても(店にはアポをとっているらしいが)、5分か10分で常連さんと意気投合するのは、「店の雰囲気」+「酒の力」であるという。精神を解放し初対面の人とも仲良くなれる。酒で乱れる人というのは、その人格に問題があるらしい。一期一会であっても、その刹那の時間を大切にする。カウンターを囲むコミュニケーションは、日本独自な”公共文化”であると自負できるそうだ。そしてまた俳句にその心を刻み込む。酒には文化の薫りが漂うものだ。

俵万智さんは、現在沖縄地方の石垣島で生活をしているという。都会生活では見られない虫が沢山いて、空には天然記念物の鷲が飛ぶ。窓からは真っ青な海が見えて、夕闇の中で風に吹かれているような生活。『サラダ記念日』から20年以上の時を経て至った境地ということだろう。1年の差はあれど、同じ環境で学んだ身として、短詩型文学への思いで共通する点を彼女の言葉の端々に感じる。僕自身は古典和歌の研究をしているが、その意義を再考させてもらうようなお話を伺えた。更には僕自身も、学部時代からその思いを持ちながら「本気」になっていない短歌創作への意欲も湧き上がった。

伊藤一彦さんには、今回も事前にお手紙を出し、鼎談後に類さん・万智さんらと話せる機会を仲介していただいた。やはり僕と同窓の大先輩である。郷土の歌人・若山牧水をこよなく愛し、俳優・堺雅人さんの高校恩師でもある。高齢者短歌を全国から募り、100歳以上の投稿も数多いという。その秀作を鼎談で何首か紹介されていたが、何とも微笑ましい歌が多い。これから更なる高齢化社会となる日本には、短歌コミュニケーションが好ましいと語っていた。一般紙に毎週のように短歌や俳句が投稿される国など、そう他にはないという。地域創生・高齢化社会への対応は、短詩型からということであろう。

お三方の共通項は、楽しい酒とともに、自然をこよなく愛するということ。類さんは最近、「小さな虫でも殺さない」といったことを心掛けているという。「一番の弱者」が生き延びられる環境であれば、みんなが元気に共生できるといった境地であるそうだ。万智さんも、今後は自然を詠む歌が多くなると語っていた。伊藤さんは、大学時代を東京で過ごしたが、その「勝ち負け社会」に辟易し、故郷へ戻ったという。若山牧水もまた自然を愛し護り続けた精神の持ち主であった。こんな話を聴いていて、ここ最近の自分との共通点を見出した。短詩型を通じた豊かな精神の置き所を自然豊かな地で創生する、それが僕が此の地で生活する意味ではないかと。

「型」があるからことばを深く吟味する。
その韻律の美しさ繊細さに興じる。
詠もうとすれば心の機微を自覚する、何とも豊かな生き方ではないか。
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経験過程の消失

2014-10-26
不愉快や苦痛は誰しも嫌だが
まったくそれが消えてしまってもいいのだろうか
簡便・効率・安楽を追求し尽くせば失うものもある

地方生活を始めて1年半、だいぶ虫などにも慣れた。一部家の中には害虫駆除製品を使用してはいるが、本当に害虫かどうか?という問題意識を持つようになった。少なくとも蜘蛛はダニを減らしてくれる益虫とも考えられ、「朝蜘蛛は殺すな」といった成句が示すように、吉兆や待人の予兆であるという俗信も各地に伝承している。15日付小欄にも記したが、「クモの巣ジェット」なる「殺虫根こそぎ殲滅製品」を使用するような心性というのは、如何なものか?と考えてしまう。

我々は無意識に「不愉快」や「苦痛」を伴う対象を、一掃排除してはいないだろうか?「不快」なものすべてを無差別に一掃するという、野蛮な倨傲を以て行動してしまってはいないか?「恐怖」を感じなくてもよいものとの相互交渉に焦り脅えるがために、過剰な排除行為をいつしか行なっているのではないか。「除菌」「抗菌」を売り物にした製品や公共物の氾濫。「悪臭」「雑音」「辛酸」「塵埃」「醜悪」だと判断すれば、即座に排除したいと願う高慢な欲望。これが対象を間違うと人間関係の中にも持ち込まれてしまい、弱者のみが「苦痛」の底に沈む場合も少なくない。

何かを得たいとか目標に到達したいと願えば、自ずと「不快」や「心痛」を伴った「試練」を通過する必然性があるはず。そのトンネルを抜け出た時、獲得や成就の「喜び」を味わう。それを「経験」と我々は呼んでいた筈だ。だが、この社会はその経験を尽く消失させ、過程なき利便性追求に躍起になっている。「自己克服の喜び」を持たない輩は、いつしか「他者を傷つける喜び」しか持ち得ず、鉾先を反転し利益保護者である組織体に従属し自己防衛を果たす。経験過程の消失が招く、実に恐ろしき感情の倒錯が進行しているのではないだろうか。

藤田省三『全体主義の時代経験』(1995)に学ぶ。
地域の方々とこうした話題での交流会にて。
僕たちは何かを置き去りにして、失われたものに無自覚なのである。
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忙しいから語学と読書

2014-10-25
本も読む時間がないとか
語学に落ち着いて取り組めないとか
本当に時間がないのが理由なのだろうか・・・

「忙しいからこそ読書ができる。」そんな逆説的なことばを、何かで読んだことがある。もとより「読書」など、静かに書斎の机でするのではなくとも、ダイニングとかベッドの上とか、公共交通機関の中(最近の僕はまったくこれは無くなったが)や、心地よいBGMが流れるCafeなどでするのがよい。多少の雑音に曝されていたとしても、意欲的に読み進められるのが読書愛好家ということになろう。むしろそのBGMや振動などが心地よいリズムを醸成し、読む推進力となる場合がある。(時に最近は、この程合を破壊する会話や通話をする輩がいて辟易することもあるが。)

昨日から後期教員用英会話クラスが開講した。前日に留学生歓迎会に出席して刺激を受け、また国際部の方から勧められたこともあって、申し込みをしてなかったが心が動いた。午前中も週末に必要な講演資料などを作成し慌ただしく、時折「この忙しい中で英会話」といった怠惰の虫が蠢いたが、初回に参加するのが”すべて”ではないかと、ファイルを片手に国際連携センターへと歩みを進めた。玄関で昨晩声を掛けてくれた国際部の方にも偶然会い、「早速ですね!」と笑顔。気分よくクラスに入った。

しばし英会話機会がなかったので、発信力が極端に低下していた。嘗て東京で週2回英会話学校に通っていた頃は、ともかく吐き出すほど表現の鍛錬を重ねた。多少間違ってもまずは喋る。そんな前向きな姿勢を今は失いかけている。それがわかっただけでも大変意義があった。幸運なことに、この日の対話テーマは「スポーツ」であった。僕の得意分野であり、流れを「BaseBall」の話に持って行けば、”こちらのもの”!「レフリー」と「アンパイア」の違いをネイティブ講師が問い掛けた時、すかさず僕が答えられたのは爽快だった。

そう!時間がないからではない、やらないのは意志がないのだ。大学授業1コマ分を自己の英会話研鑽に当てられずして、何が研究者だ。いつか学会の懇親会で「優秀な研究者は何をやってもできてしまう。」といった趣旨の話を力説している先生がいた。日常的な時間利用を含めた「生活」の質そのものを我々は問われているのであろう。もちろん正直なところ「無駄に忙しい」を感じないこともない。だがそこに甘えては何も始まらない。筋力同様、更なる力を求め脳を活性化させるのは、時間の使い方次第である。そしてフィットネス同様に多様な脳力の使い方をすべきであろう。

学生曰く「授業が忙しくて読書の時間がありません。」
応えて曰く「よかったね!忙しいから本が読めるのだよ。」
忙しいから闊歩できる、といった境地をいつでも笑って実行していたい。

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国際交流を愉しむ

2014-10-24
様々な留学生が一同に会す
多言語異文化交流
歓迎会に参加して・・・

大学国際部主催の留学生歓迎会に出席した。この後期から韓国からの留学生の指導担当となった縁によるものだ。ゼミで卒論中間発表の下発表があったので、少々遅れて会場に足を運んだ。すると、熱い活力に満ちた留学生たちの力が漲っていた。いきおい、料理もほとんど無くなっていて、聊か空腹な時間を過ごすことになったが、それでも尚、こうした場の雰囲気を大好きな己が居る。

個々の故郷も様々で、前期に担当した「日本事情」の授業を履修していた学生もいて、数ヶ月ぶりの再会を愉しむ場面も。更にはまったく初対面の留学生が積極的に話し掛けてくれて、心が和む一幕もあった。なかでもケニヤから工学部に電子関係を学びに来たという男子学生は、とても人懐っこく、しばし英語で談笑することができた。

現在の勤務地に来てから、僕自身は海外にまだ出ていない。以前のように米国を駆け巡っていた時期と比較すると、やや「内向き」になっていたかもしれない。留学生たちが日本語を一生懸命学び、実用的にこうした歓迎会の場で使用しているの姿に接すると、再び国際交流の衝動が一気に心の中に再燃した。そうだ!また海外で学ぶ機会を創ろう!

国際部の方から教員英会話クラスのお誘いも
加えて中国語の学び直しと、韓国語への挑戦もしたい
国語教育講座教員であるからこそ、自己の相対化が求められる。
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地球の拒絶反応

2014-10-23
太陽光を有効利用も一時なのか?
感染症の脅威もただ事にあらず
二十世紀が犯して来た罪への警鐘・・・

エボラ出血熱の感染が急速に拡大している。こうした感染症事例が起こると、日本の場合は島国ゆえか最初は必ず「対岸の火事」としか意識しない傾向がある。09年新型インフルエンザの際には、その巷間の意識の低さに甚だ辟易した覚えがある。いざ感染症上陸となると、”黒船”かの如く水際において”にわか防御”に躍起となり、感染者に対する差別的な偏見が横行する。今回の場合も行く末はどうなるのだろうか?欧米での感染拡大を見るに、一定の覚悟は必要であろう。

22日付「天声人語」に引かれたリチャード・ブレンストンの著作のことばに曰く「わがもの顔に増え続ける人類に対して地球が拒絶反応を起こしていることのあらわれではないか。」と。自然の摂理に反する人類の傲倨によって均衡を失ったこの星が、人類に警鐘を鳴らしているという見方である。二十世紀も感染症との格闘の歴史であった筈だが、今回のケースは倨傲に傲慢を重ね続けて已まぬ人類における無頓着が、裏返しに露出しその姿を曝しているような気がしないでもない。

自然エネルギー利用も然り。11年の大震災以後、”自然”への大転換が実行されていたのではないのか?地域ニュースでは、電力会社による太陽光発電力の買い取りが中断されることが示唆され、大規模施設に投資した農家などへの影響が懸念されると報道されていた。その裏で、原発再稼動が何ら躊躇なく進められる。政策決定をする人間どもに、放射能汚染による脅威への想像力は微塵もないのだろう。自らは身を守り経済を回せと旗を振り、危険性を遠隔地に押し付け金を撒き散らす。まさに二十世紀の誤謬を省みない愚かな道を未だに突き進み、それを是と見よと押し付けるのであろうか?

さすがに地球の堪忍袋も緒が切れたのだろう
歴史に学ばない島国には火山の脅威も提言されている
二十一世紀は先進の時代と夢見ていたが、人類の舵取りが愚かなままでは・・・
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過食・変調・失意

2014-10-22
調子の良い目覚め
素材よろしく朝食を食べ過ぎ
昼過ぎから変調をきたし負の思考で夕餉となり・・・

昨日は小欄1800回更新の節目であり、母校の創立記念日でもあり、僕にとっての幸運な日付であったゆえに、目覚めから調子が良いと思い込んでいた。研究室に行けば、ある申請書類が大学事務のチェックを終えて返還され、特に大きな問題もなく申請完了に至った。やはり吉日であると自覚していると、どうも昼過ぎから眠気に襲われ脳の働きが鈍ってしまった。その後の資料読みや授業準備に難渋し、ついつい通常より遅い時間まで研究室で苦戦していた。

夕餉はどうしようと思い、いくつかの選択肢を思案した。ゆっくり馴染みの店で・・・とも考えたが、更に書物を読みたいという欲が出て、短時間で食し帰宅しようとある店に向かった。すると看板の電灯が消えていて、休業であるらしかった。どうも僕の住んでいる地域では「火曜休業」の店が多い。仕方なくその近辺に車を走らせ、今までも認識はしていたが入ったことのない店に”飛び込ん”だ。どうもその店との相性がよくなかったらしい。憂鬱な気分となり、飯もかき込むように食し、帰宅の途についた。

この流れでは、読みたいと希求していた書物を読んでもしっくりこない。こんなことならジムに行けばよかったという後悔までもが頭を擡げ、今頃はあのレッスンをやっているだろうなどと、他愛もないことまでも考え始めてしまった。いつも、このような負の思考となった僕の身体を支えてくれているダイニングテーブルと椅子。項垂れるだらしのない心身は、もはや寝床への道しか残されていなかった。「失意」といえば大袈裟のようでもあるが、とりわけ具体的な原因もなく、時に負の連鎖を来すことがないわけではない。睡眠によって無駄な記憶を整理して、また希望の明日を取り戻すしかない。

こんな日もあるよね
序盤の過食にも聊かの原因があるだろうか
失意からの再起を何度書き込んで来ただろうか・・・1801回目の述懐。
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