「Time goes round」5年間を・・・
2014-09-30
また月末になった小欄を書き始めて5年の月日が廻る
「時を駆けるよ」いや、歩いていても・・・
何かに突き動かされて、一直線に走るかのように数ヶ月が過ぎた。あまりにも直線的過ぎて、視野を狭めてしまい、着実な一歩という姿勢を欠く結果も表面化した。変えようと努めて来たことが、なかなか簡単ではなく、寄せては返す波のように心の浜辺に去来する。舟を出して見知らぬ浜辺に辿り着けば、まったく波動の速度が違い戸惑う己がいた。
焦っては何も見えてこない。今を着実に歩いてこそ、果てしなく遠い道を踏破できる。たしか小欄を書き始めた当初も、このような趣旨のことを語っている。そして着実に歩くことで、5年前と今では違う場所で生きている。それでも尚、同じようなことを思い自戒することで、更なる歩みの糧を得ようとしている。いつの日か見たことのある光景だとか、夢で出会った光景であると、眼前の景色を思うことがある。まさに「Space goes round」であり、同じ空や同じ太陽を見つめているのが人間だ。(だが実際に、空や太陽も同じではない筈だ。)
既に2015年の手帳を購入した。気が早いと思う向きもあろうが、人気商品ゆえに11月も過ぎると売り切れの経験をしたことがあるからだ。いま書棚には5冊の手帳バックナンバーが保管されている。ちょうどその文庫本サイズの手帳を使用している期間と、小欄を書いている年数が合致する。今日この1日を大切にする趣旨から、日々の欄に書き込むスペースが十分に確保されている。大切なスケジュール管理を始め、小欄のネタなども気がつけば書きなぐる。まさに己の日記的な歩みが、その手帳の厚みそのものなのである。来年版の手帳を配送して来た箱の蓋を開けて驚いた。そこに記されていた言葉に、一瞬たじろいだからだ。
「いくらでも追い越されるがいい。
時にも、人にも、祝いのことばにも。
飽きずにしっかり歩いていたら、
道のずっと先で、きっと出会うものなのだから。」
(「セフティ・マッチ氏の焚火話」より)
新しい手帳を開封するまで、あと3カ月。
「飽きずにしっかり歩いていたら、」
今は気付けない光景に出会う筈である。
*「Time goes round」「時を駆けるよ」「Space goes round」は、いま日々聴き込んでいるサザンの新譜「東京VICTORY」の一節です。
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「時間切れ」では済まされない現代史
2014-09-29
「教科書は現代史をやる前に時間切れ」
(サザンオールスターズ「ピースとハイライト」より)
僕自身が高校時代、日本史を受験科目にしていたが、授業は殆ど当てにできなかった。自分でサブノートを作り、教科書を先読みして流れを掴み、個々の年代や項目を機能的に覚えようと努力した。その甲斐あってか、歴史そのものは好きになり、司馬遼太郎の小説に嵌り込んだりもした。まさに自学自習で歴史を学んだわけである。だが今思えば、歴史の要点を他者と議論する機会があれば、どんなにか認識が深まっただろうかという後悔の念がある。
教員になってから、勤務校での”その”ような歴史の授業に疑問を抱き、通史的に教師主導で項目を纏めることで知識を鵜呑みにさせる授業に対して、何度か疑義を呈したことがある。だが歴史の教員は、”こう”して「知識を効率よく纏めないと生徒は覚えられない」と鼻高々で、手前味噌な歴史講釈こそが最良の授業であると言わんばかりに、むしろ反論された経験がある。このように”流し込まれた”歴史知識は、受験という目的を果たすと、生徒の記憶から瞬く間に去り行くことが自明であるにもかかわらず。
この日、小森陽一氏の講演「平和憲法が輝く国 日本を取り戻す もう隷従はしないと決意して」 を聴いて、あらためて現代史の大切さを痛感した。僕たちの生きる「今」はなぜこのような社会なのか?集団的自衛権の閣議決定はなぜ問題なのか?現在の政権与党の性質は歴史的にどのような流れにあるのか?「PKO」「PKF」「NSC」そして「TPP」とは何の略称で、どのような歴史的意味があるか?等々・・・語彙と歴史的日付を組み合わせつつ、まさに「今」に連なる現代史を鮮やかに言説化する講演であった。小森氏は、漱石研究の第一人者でもある。文学研究に対する批評的精査という意味でも、その思考は実に参考になるものであった。同時に、今の若者たち、学生に対してどのように語り掛ければ伝わるかということを、端的に示していたようにも思われた。
己の生きる「現代史」を知らな過ぎる
この10年20年で何が起きているのか?
「時間切れ」では済まされないゆえ、語り合いの場を創るのが急務である。
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曲がり角の先に・・・
2014-09-28
迷わず直進は楽かろうだが曲がり角の先を見る決断・・・
そこに「一番いいものが待っている」という
小欄でもかなり入れ込んだ「花子とアン」が最終回となった。『赤毛のアン』の出版記念会で花子が「自分を絶えず励ましてくれる」という「本のちから」を主張し、ドラマはフィナーレを迎えた。そしてまた最終週のテーマとなっていた「曲がり角の先に」は、「優しい心・幸福・友情」がきっと待っていると花子は生涯を回想した。これまでに何度「曲がり角」を曲がったのだろうかと・・・
そんな「花子さん」の生き方に、己を照らし合わせてみた。僕がいまの職にあるのも、大きな「曲がり角」を曲がった先であるから。時運や社会の流れにも翻弄されながら、どちらかというと「曲がり角」を曲がることで活力を得て、ここまで歩んでこられたのだと回顧できる。ときにそれは「無謀」と批評され、ときにそれは「逸脱」と揶揄された。だがやはりそこには「花子さん」の言うように、「優しい心・幸福・友情」が待っていたと自信をもって断言できる。
それでも尚、危険な「曲がり角」が世間には無い訳ではない。「花子とアン」の中でいうならば「日本が曲がってしまった」先には、暗澹たる悲劇が待っていたのであるから。「曲がる」というのは、ある意味では大変恐ろしい。「曲がり角」の性質を慎重に精査すべきであるかもしれない。ゆえに世間には恐ろしくて「曲がれない」という人がいることも、理解すべきであろう。歩む速度も違い、前進さえも厭い、ひと処で淀んでしまう人がいる。そんな人を「臆病」と揶揄すべきではない。ただ「優しい心」で、安心できる「曲がり角」に導きたいと思う。たぶん『赤毛のアン』の物語そのものが、今でも尚、そんな先達の役目を果たしている筈であるから・・・。
夏の間に考えていたことが
秋の風によって方角を決しようとしている
曲がり角は曲がっても大切にしたいものもある。
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一般名詞より固有名詞
2014-09-27
個人情報は秘匿の時代一方で匿名で何でも語れる環境
だが文学作品には固有名詞の力が・・・
「花子とアン」が最終週でまさに大詰め。ドラマタイトルにもある「アン」たる「赤毛の・・」がいよいよ出版されて物語を終えようとしている。出版社社長役の茂木健一郎さんの演技はともかく(脳科学者がどんな演じ方をするのか興味はあるのだが)置いておいて、出版に至るまでの書名の付け方の経緯に僕の関心が傾いた。花子自身は、読者の想像力を狭めないためにも「窓辺の少女」といった一般名詞を主張したが、出版社の若手社員が「赤毛のアン」という固有名詞による名称を提案したというわけだ。
物語主人公の「欠点+固有名詞」という構成のこの名称。まさに僕たちは、これこそが名作になったことを知っている。「戦後」という時代の中で、「赤」という髪の色への注目度、「毛」が連濁で「ゲ」と読むこと、更には「アン」という「母音」+「ん」という発音上の両極端(口を大きく開けるのと、閉じるに等しい状態にするということ)といった、たぶん花子も出版社も意図しなかった要因も鑑みるに、書名とヒットの相関関係をついつい考えたくなる。
僕ら研究者も、様々な場面で題名を思案する。それが目的に即しており、効果的かどうかを考えつつも、研究となるとお硬い名称にならざるを得ない場合も多い。だが、タイトルというものは、それを見ただけで、即座にその内容が推測され、読む者・聴く者の興味を惹くものであるべきだと改めて考えた。タイトルは最小の要約であると同時に、表看板であるということだ。奇しくもこの日「天声人語」を読むと、漱石の『吾輩は猫である』が「猫伝」、『三四郎』が「青年」「東西」「平々地」といった一般名詞のタイトルが候補であったことを教えられた。「吾輩」という一人称や「三四郎」という実名をタイトルにしたことで、漱石作品は今でも大変身近に感じられるわけである。
小欄の題名やいかに?
実名的な語り手が、実は夢多き”物語”作者なのかもしれない。
生きることそのものが、豊かな物語でありたい。
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一旦は絃を緩めて
2014-09-26
買ってはみたもののお蔵入りそんなギターの絃は張り詰めていないか
ON OFF緩急が必要である
張り詰めて緊張した状態の絃から、美しい音色が奏でられる。とはいえまったくといっていいほど”物”にならず、僕が所有するギターはあまりにも可哀想ではある。それでも尚、絃のことを知人に指摘された時、ギターの休息時は緩めておいてあげないとネックの反り具合などに影響を与えると教示されて、甚だ気になった。こうしていま文章を書いていても、「お蔵」に眠るギターの状態が心配になってきた。
アコギの音は何とも言えない。大好きな桑田佳祐さんも、曲によってはアコギを抱えて歌うが、今回の新曲もその一つである。音源を聞きながらほとんど自分で弾いた気になっているが、そこには繊細な音への配慮が必要なのだろう。と考えながら、この日は自分の心身を緩めた。3カ月もの間、ほとんど緩めることなく張り詰めた状態が続いたと自覚したからだ。その果てに、チューニングがだいぶ錯綜してしまったようだ。睡眠・栄養・休息を施してこそ、また新たな音色が奏でられる筈だ。
木は呼吸し張った絃の音を共鳴させる
身体は閑適を経て再び思考の声を表現する
多様なジャンルの曲を弾くことも、自分の意志で決めた道ゆえに。
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説明できない相性へのこだわり
2014-09-25
単なる営業やサービスにあらずこの店員さんでなければのこだわり
心の機微が通じ合うということ
飲食店のみならず、馴染みの店が何軒かある。衣服や眼鏡など、日常生活を支えるアイテムの購入先だ。その各々に、「この人でなければ」という相性のよい店員さんがいる。「いる」というより、僕自身が見出したという方が適切かもしれない。衣服に関しては、ほぼ僕の好みを多様に理解してくれている。眼鏡に関しては、フレームの歪みの矯正を施しつつ、ほぼ間違いなく好みの掛け具合に調整してくれる。
まさに「センス」という領域で、実に相性が抜群に合致しているということだ。店舗を訪れて、その方が欠勤で、代替の担当者であると、どうも自分の感覚との”ズレ”を感じてしまう。些細な会話の話題でも、その”ツボ”が大きくズレていて話に乗れない。説明のできない相性というものに、実に深いこだわりがある。更には”彼ら”が、僕の生活環境などのことを覚えていたりしてくれると、誠に嬉しいものだ。
考えてみれば、”彼ら”は僕を「客」ではなく「人」として接している
至極、当然のことではあるが、昨今の巷間では相互に「客」振舞が氾濫する
要は相手の気持ちに寄り添えるか否かという、素朴なことなのであるが・・・
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当事者にしかわからないこと
2014-09-24
当事者であるとは何かその状況に置かれてみないとわからないこと
他者と隙間を埋めるために言葉を駆使する
友人が緊急入院して数週間、この機にようやく見舞いに伺えた。予想以上の回復ぶりで顔色も良く、聊か安心はできた。多くの人々を対象にして、様々な事象を伝えることが生業ゆえ、自らの発症から現在に至る経緯を、懇切丁寧に説明してくれた。だが、その折々にはきっと当事者でなければわからないことがたくさんあるのだろうと、想像しながら話を辿った。同時に堅調な快復を祈りながら。
僕が東京を離れてから、初めて会うことになる友人と食事をともにした。この1年半の間に、様々なことがあったと振り返り、時間の隔たりを深く感じた。その経験に僕自身の経験を重ね合わせると、奇しくも様々な相似形が浮かび上がった。僕の経験談が友人の経験を更に深く掘り返すように。たぶん、ここにも当事者でなければわからにことも多々あるのだろうが、その域に至る以前で、「一般の人々にはわからないことがある」といった領域で話が合致した。これぞ、友人ということなのであろう。
当事者にしかわからない
されど、言葉とコミュニケーションでその溝を埋める
わかった気にならないためにも、知性は不可欠である。
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それぞれの「自分を追い越して」
2014-09-23
人の前進には励まされるものだその一歩を見て自分を相対化する
みんな!「自分を追い越して」!
かつて僕が苦境のどん底にいるとき、助けてくれた人々のいるところ。
吸い寄せられるように、朝から夜更けまで、そんな処を訪ね歩いた。
ジムに行ってストレッチをしていると、遠目から髪の長い女性が会員さんらしき年配の女性とともに僕に近づいてくる。「他人を見る眼」で眺めていると、僕の眼前で急に髪の長い女性が表情を変えた。そう!その女性は僕が一番慕っていた、そのジムのインストラクターであった。その後、彼女のスタジオレッスンを受けて僕はこう彼女に告げた。「髪が長くなってわからなくて、先ほどは反応出来ずじまいでした」と。変わらず丁寧で活力あるレッスンであったが、彼女の雰囲気は確実に前進していた。
住んでいた地域で馴染みのCafeに行くと、入口扉の硝子越しに見知らぬ人が僕に反応している。誰かと思いきや、研修中のバイトの方であった。聞けば、それまで人は雇わずに営業していたのだが、来月から新たな体制で営業をするという。此処にもまた、新たなステージへの前進があった。「歩む」とは、新たな形態で新たな景色を見ることでもある。
夕刻には英会話教室近くにあった洋食屋さんへ。ニュース番組の取材を受けて、家族・親子で奮闘して営業をする姿が、映像レポート化されたという。店主夫妻に話を聞くと、息子さんたちも新たな展開を、その街で始めるという。鉄板に乗ったハンバーグの伝統の味が、更なる発展を芽生えさせていた。
そして心閑まるBarのカウンターへ。其処を媒に知り合った方々が参集して下さり、来月に僕が大学の地域で実施予定のプロジェクトの打合せなどもできた。その話に乗じて、この「不安に満ちた」世相を語り合った。されどみんなが「頑張って」いる。このカウンターを支え続けている店主は、己の信条を護りつつ、前進の歩みを見据えている。そして、洗練された蓄積あるこのカウンターからは、訪れてその信条に共感できる人々にとって、"明日を見つめられる地平"を覗くことができる。
そうだ!そうなんだ!
焦らず腰を据えて「自分を追い越して」行こう!
「脱皮しない蛇は死ぬ」(ニーチェ)
*「自分を追い越して」はサザンの新譜「東京VICTORY」の一節です。
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再起は基礎基本から
2014-09-22
好機に打席に立つされど凡退という野球の経験
ベンチへ帰る虚しさ
中学校で野球部だった頃、決して打撃が得意とは言えなかった。むしろ守備力と犠牲バントなどで評価されていたタイプだった。ただし、走力は学校の中で誰にも負けない自信はあった。高校で器械体操に挑戦したとき、基礎基本である倒立姿勢に難があった。顧問の先生からは、肩が固いと原因を指摘されていた。たぶん野球からの転向も一要因となっていただろう。それでも尚、あまり倒立姿勢を要さない鞍馬だけは、レギュラークラスのレベルまで到達したと自負できる。
野球の試合で好機の打席に凡退してしまう。また器械体操の試合で、倒立姿勢が演技の大勢を左右する平行棒や鉄棒で惨めな落下をする。そんな際の試合会場では、まさに"いたたまれない"心境になる。自分に何が不足しているのか?常に考えたのが、基礎基本の力であると思うようにしていた。プロ野球の華々しい打撃を観たり、体操五輪選手の堅実な演技を観ると、一足飛びにそんな境地に至れるのではないかと、妄想することもあった。だが、それは明らかな勘違いで、千里の道は常に一歩からなのである。
いまあらためて基礎基本を見つめ直す
何事もそこからが再起への道だ
立ち上がれもう一度その足で!
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学問のちから
2014-09-21
世に役に立つとは?自然科学が人を解析するなら
人文科学はその核心を追究することでもある
なぜ「国語・国文学」を研究しているのか?歴史や外国語ではなく、日本文学を相対化する「和漢比較」という分野を追究している理由とは。人は言語文化によって心を動かされ、その感激を自ら表現することで、己の生き方を知るのかもしれない。概ね僕が、この分野を専攻してきた端緒がそこに見える。
研究学会に参加して、他の先生方の講演を拝聴したり、懇親会で多様な話を聴くに、そんな自己の研究への姿勢を重ねて検証することになる。講演資料に刻まれた文学に向き合うと、実に面白く更なる探究心が刺激される。文字からして大陸文化の恩恵の中で成長してきた日本文学や日本文化。どの時代でも「和漢」の相対化の中でしか、その意義を説明できないことがあるものだ。
しばし熟考し学問追究している己自身を"追究"するとき
何事も比較と相対化を施して初めて見える域がある
恩師が創設時から関わった学会で研究発表する自己をみつめる
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