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人間の「倨傲」を戒める

2014-08-20
なんでもわかる、しっている
そんな態度に辟易することも多い
実は自分のことさえわからないのに・・・

自身で心の内を理解しようとしても、どうしてもわからないことがある。他の方面に心を向けようとしても、こだわってしまう理由がわからない。そんな曖昧な領域を右往左往しながらも、人は時の流れに乗じて生きている。著名な高村光太郎の詩「道程」は、「僕の前に道はない 僕の後に道はできる」と語る。ある一文への理解が不十分でも先を読み進めるのが読書の鉄則であるように、先に進んでみれば見え始める光景があるものだ。当惑して立ち止まったら、角度を変えて眺めてみることである。

天声人語を読んでいると先頃鬼籍に入られた哲学者・木田元氏のことばが紹介されていた。「技術を制御できると考えているのは、人間の「倨傲」でしかない。技術は人間の思惑を超えて自己運動していく。畏敬しながら警戒せよ。」と。人はいつしかこうした「倨傲」の中で、わかった気になっていることへの警鐘である。航空機などをはじめ原子力利用然り、またウイルス対策や遺伝子の問題まで、生命の如何に関わることも同様だろう。「安全」「平和」「倫理」などという崇高に”見える”理屈を掲げて、わかったような”ふり”をしているに過ぎないということだろう。

だが「心」と「技術」で決定的に違うのは、先に進んだ際に回復する望みが保てるか、それとも取り返しがつかない事態に陥るのかということではないのか。とりわけ技術偏重の肥大化した「倨傲」は、人類そのものを滅ぼす可能性を十分に保有している。「技術」の過信は、「心」を排斥してしまう悪意を秘めていることさえもある。情報の氾濫が、個々人の「心」を今までになかった振幅で揺さぶり、許容範囲を超えてしまうこともあるだろう。換言すれば、決して「技術」では人の「心」は制御できず、己とそして他者との素朴で泥臭い対面でしか、先へ進む道は見つからないということである。「心」の礎石無き上で「技術」のみで前進すれば、自ずから危うい事態に陥るのは必定。ある意味で二種類の「倨傲」を、見極めつつ常に戒める必要があるのだろう。

「何のために生まれて 何をして生きる」
簡単にはわからない、いやわかるはずはない。
まず「倨傲」を戒めよ、そこに道が見え始める。
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