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「語ること」と「書くこと」

2014-08-19
「おい!お前!」には
即効性があった。
「語ること」と「書くこと」は別物や否や・・・

昨日の小欄に記事内容を、早速意識的に実行してみた。すると心なしか行動が、次々と前に進む実感があった。業者への依頼発注とか何やら後回しにしていたものが、1日にして解決した。時間とは、かくも創作すべきものなのであろう。また新たな扉を開こうと思っていたことも、いくつか行動に・・・こうした展開が、気分そのものを浄化してくれた印象だ。

己への「二人称的語り掛け」は、心内で呟くのと筆記するのでは、どちらがよいかは定かではないと昨日の引用記事は云う。僕なりの見解を述べるならば、それはどちらも有効であり、相互作用をもたらすものだということができる。心内の声を聴くという意識が高まれば、それはそれで十分に効果を発揮する。もちろん紙でもデジタル画面上にでも筆記すれば、より自己の客観視が高いレベルで実現する。例えば、今書いているこの文章そのものも、前日の生活の中でいくつかのフレーズが心内に綴られることも多い。脳科学の研究成果を信じるならば、そうした日々の記憶が寝ている間に取捨選択され、自分に必要と思われる情報のみを朝は残しているという。それゆえに、小欄の文章も不特定多数の読者もありながら、実は自分の「二人称的存在」を読者とした筆記であるともいえる。

朝の連ドラ「花子とアン」を視ていると、息子を亡くして6年後に、より創作意欲が増した村岡花子が描かれている。翻訳の仕事もさることながら、近所の子どもたちが「お話を聞きたい」と庭先に集まり、「王子と乞食」など翻訳した作品を口頭で語り掛けている場面がある。それと主人公の創作意欲との関連性はドラマとしては描かれてはいないが、僕などが「解釈」するに、その語り掛けが、彼女の筆を旺盛に動かしているのではないかと考えてしまう。元来、「語ること」と「書くこと」は、同じ脳内作用の為せる技なのである。それを学習課程の中で、分断して考えることそもののが、学びを歪めていると思えることも多い。換言すれば、いかに現代は「声」を軽視し、「文字」に過剰な権威を持たせてしまっているかである。対人コミュニケーション能力を人材採用時などに重視するという世相は、むしろ「声」を軽んじて来た裏返しの現象であろう。

日常から心内の「声」を、折に触れて「文字」にする。
手帳にスマホのメモアプリに、そしてWeb上に可能なものは。
もちろん人と肉声で語り合うことを、決して忘れないことである。
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