飛行機をどのように使うのか?

2014-08-31
人類が発明した文明の利器
それをどのように使うかで世界は変わる
戦争に使うのか?それとも平和のために・・・

連ドラ「花子とアン」の時代背景が、第二次世界大戦へと向かう暗澹たる世相になっている。ラジオ出演している花子の読み上げる原稿は、「逓信省」の検閲が強化され「軍部礼讃」の色彩を帯びたニュースばかりとなる。ラジオ局長は、「放送局は国策への協力を促す立場にある。」と原稿を自分なりに改めて読んだ花子に吐き捨てるように告げる次第。何とも怖い世相があったものだと、様々なことを考えさせられる。

そんな時代背景にあっても、花子の親友である蓮子は、「世の中がどのような状態になっても、この子どもたちの夢は護りたい。」と心に誓う。その反面、花子が編集者時代に担当していた女性作家が、従軍記者として「軍人さんたちの栄誉を記事にする」と意気込んで戦地に赴く。「ペン」に関わる人間が、こうした時代の中でどのように動くべきかと、対照的な花子の周囲も描かれる。

花子の自宅で飼われていた犬が、「軍用犬」として収奪される。娘はその犬の帰りを日々待っている。こんな小さな少女の夢も、戦争は剥奪する。子どもが、個人が尊重されない世相が、どれほどに悲惨であるか、僕たちは常に反芻しなければならない。ドラマでこうした時代背景が描かれることを、僕たちは真摯に受け止めておくべきだろう。花子の恩師である外国人教師が云ったことば、「飛行機をどのように使うのか?戦争?それとも平和に」が心に響く。人類が軍用機を開発し投資する意味は何であろうか?連ドラの後の番組では、地球温暖化を一つの原因として指摘する、人類を襲う感染症の特集が組まれていた。

戦争か平和かの二項対立のみにあらず
「平和」利用といっても「罠」がある場合も。
果たして人類の叡智とは何か?ペンを持つ僕たちこそが主張すべきだろう。
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沈静・柔軟・黙考

2014-08-30
涼風に秋を・・・
熱き身体を沈静させ
柔軟な心身で黙考したい

久し振りにジムでヨガのクラスに参加した。ヨガの要素を応用したクラスには定期的に参加していたが、やはりヨガに専念すると思考も変化するようだ。クラス開始前に、担当トレーナーの方に「久し振り(の参加)です」と声を掛けると、「いつもガンガンなトレーニングをされていますよね」と声を返してくれた。確かに日頃は、筋力アップやシェイプといった数値的にも眼に見えた効果を求めて、「ガンガン」取り組んでいた自分を内省した。

ヨガは、「内から今の自分を見つめる」視点が求められるという。穏やかな薄暗い空間に香を薫きしめ、音楽もなく彼女(トレーナー)の声だけが心身を内省世界に誘う。自分自身に納得がいかない部分を発見しても、そのまま受け容れる。誤摩化すことはしない己との対話が継続して行く。「柔軟性」とは多様に「個人的なものであり、人によって効果的な方法が違う」ということも彼女に教わった。

雨に翻弄された暑き夏は、いつしか歩を先に進め、穏やかな風の薫りが心を落ち着かせる。「ガンガン」進むことも必要だが、時に心身を沈静させて見えて来るものがある。60分のヨガ空間を出た後には、心が柔軟性を取り戻していた。肩甲骨や股関節の可動域が拡がり、筋肉の硬直を解きほぐし、同時に凝固した脳内も溶解させてくれた。レッスンスタジオを出る際に、彼女は「時にはヨガにも来て下さい」と微笑んだ。

沈思黙考に柔軟性を
研究への思考も同様だろう
秋に研究発表2本。原稿2本へと進む頭を解きほぐそう
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ミュージカルで育まれるもの

2014-08-29
幼児たちのコミカルな動き
18歳の熟練した歌と踊り
子どもたちの躍動が眩しい舞台

縁あって、地域に根ざした子どもたちを団員とするミュージカル劇団の公演を観た。年齢を超えて幼児から高校3年生までが、週に1回の練習を通してミュージカルの舞台を創る。まさに「幼保小中高一貫芸術表現教育」の実践である。幼い子どもたちは、先輩たちに憧れて歌舞を学ぶ。心の躍動が、そのまま身体表現になったような活き活きとした動きが印象的だった。

彼女たちの舞台を観ていると、みんなが「表現したい」という根源的な願望を持ち、それを素直に叶えているようであった。生育する段階で人は、己というものを動かし声を発し表情を創ることで、他者に訴えたいという本性があるのだろう。現に僕の数列前の観客席では、幼い子どもたちが抑え切れない衝動に駆られ、舞台上の振り付けの真似をして動き始めた。その「表現」を「行儀が悪い」などと抑制するのは、いかにナンセンスかは自明である。

ある意味で「学校」では、発達段階に並行して「表現」を抑制しているのではないだろうか。「理解」することこそ「学習」であるという頭デッカチな発想が、子どもたちの活き活きとした生育を阻害していないか。この劇団も高校3年生で「卒団」する「掟」があるという。だが卒団生たちのサプライズダンスによる身体表現や、司会進行役の熟練した「声」を聞くに、「表現」がいかに人を育んでいるかが、一目瞭然であった。

演じて踊って声を出す
人間の溢れる躍動を表現する
決して学力テストでは計れない学びが、子どもたちを育んでいた。
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「免許(資格)」とは何か?

2014-08-28
「教員免許更新講習」
この制度の是非や如何に?
相互の負担を超えようと努めて・・・

この夏(8月)の講習担当は通算6日間(+出張講演1日)、4週間のうち丸1週間は講習があった計算になる。それも最終日を迎えた。朝晩の風には涼しさが感じられるようになり、秋物の果物が店頭に並んでいる。もはや前期授業を終えた、8月上旬が懐かしい気持ちにさえなる。たぶん更新講習を受講している方々も、新学期を直前にして様々な思いを抱いていることだろう。

現場で「教える」からには、自らの研鑽が欠かせない。それは僕自身が教員として生きて来た上での、信条でもある。学べる環境を求め、学ぼうとする意欲を持ち続けた。それは今も同じで、自らの研究を邁進させていなければ、学生たちに講ずることは失礼であると思う。それでも、中高教員時代には、部活動や様々な雑事に追われて研究が滞ってしまうこともあった。現場の「忙しさ」の要素の中に、「教科研究」を必ず含み込まなければ、個々の授業は危ういと言えるのではないだろうか。

それだけに更新講習というのも、単に制度としての「免許」を更新するだけのものであってはならないと切に思う。丸1日(朝9時から夕刻5時まで)という時間内で、現場の授業に応用できる”刺激”を提供すべきであろう。その上でもこだわりがあって、即座に授業に「役に立つ」だけではならないとも思う。「授業」をしたことがある者ならば自明のことだが、「知識」や「技術」を理解したからといって、そのまま「授業」に反映されるわけではない。その方法なり内実なりを、自らが創造的理解を経るように体験しなければ、他者には提供できない。

もとより「更新」というのは、そうした要素は含まないものなのだろう。「自動車運転免許更新」を行えば、視力が認定され、場合によっては事故に対する注意喚起は行われたとしても、決して「運転」そのものが上手くなるわけではない。あくまで「資格認定」の要素だけが厳然として行われるということだ。問題なのは、「資格認定」を振り翳しておきながら、「授業力」も増進させようとしていることかもしれない。いや、その考え方そのものが、この「制度」が実施されている発想に反するのかもしれない。「教員免許」においても基本的な「運転条件」の「資格認定」を旨としているのであれば、それはあまりにも時間的精神的負担が、相互に大き過ぎるように思われる。

「役に立つ」という発想?
「免許(資格)」の意味?

子どもたちに「意欲」を求めるならば、
教員こそが「意欲的」になれる環境を創るべきだろう。
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母校が紡ぐ見えない糸

2014-08-27
どうしてこのタイミングで
この人と出逢うのだろうか
母校が紡ぐ見えない糸の不思議

人はその人生で、何人の人と出逢えるのだろうか?なるべく多くの人と出逢いたいと思うと同時に、自分にとってその思考に変革をもたらすような、質の高い出逢いこそが重要であると最近殊に思う。未見の他者との交流は、己を刺激し活性化し発奮させてくれるからである。こうした「対話的」ともいうような出逢いこそが、人生に豊かな彩りを与えてくれるものだ。

母校が人脈組織として、実に貴重であり豊かであり、また不思議でもあると思うことがある。「先輩後輩」という時間的な縦軸のみでは語り切れない何かがある。その縦軸に「地域」という横軸が作用し、更にSNSの援助を受けたことで、また新たなる出逢いがあった。

例えば僕たちの母校がある街では、サークルとか学部とか何らかの関係がある”未見の後輩”に飲食店などで隣席になったりすると、「先輩」は「後輩」に無条件で(飲食代を)奢るような”風習”があった。(どうやら現在でもその”風習”は絶えていないらしい。)ましてや、母校の街から遠く離れた土地で「奇遇にも」となると、ほぼ「母校出身者」という条件のみで、その”風習”は履行されるだろう。

どうして此処で出逢えるのか?
己には必ず「未完」な要素があって、
その糸がきっと「補完」してくれるということなのだろう。

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〈教室〉で笑えばいいさ

2014-08-26
面白いのに顰めっ面をしていたり
悲しいのに嬉しいというべきではないのだろう
もっと〈教室〉に笑いがあってもいい

秋に実行計画をしているプロジェクト第2弾は、「落語でコミュニケーション」である。僕が懇意にしている落語家さんを、山間の小さな小学校に連れて行き、「国語」の授業の一環として子どもたちの「コミュニケーション」活性化を図ろうというもの。教員が授業方法として落語の手法を活かすことは、大変有効であることは身を以て証明したつもりだが、「子どもたちのコミュニケーション」を開拓するのは、尚未知な領域も多い。

長閑な田園に囲まれた道をひた走り、実施校である小学校に向かった。人通りの少ない町を通り抜け、子どもたちが成長する学び舎に着いた。温厚な校長先生が笑顔で出迎えてくれる。各学年の先生方も加えて、打合せが始まった。「国語」の授業の一環ということもあり、僕の計画では〈伝統的な言語文化〉教材との関連で、「落語」から学ぶものがあるだろうと関連づけた試案をもっていた。だが先生方と懇談するうちに、より「子どもたちが楽しめる内容」がよいことに気付かされた。

ことばの響きの面白さ。同音語の妙。江戸弁独特の言い回し。そして扇子と手拭で、様々なものを演じられるという素朴な万能さ。そんな「楽しさ」を子どもたちとともに興じればいい。小学校外国語活動が、大変楽しく活き活きと行われているのと同様に、建前や評価を払拭して自己の殻を破るが如き笑顔を、子どもたちに贈りたいと心底思った。かねてから〈教室〉での「同調圧力」が、その場をつまらなくし、学習者の素直な表現を抑制し、評価を気にして建前を述べる環境を醸成してしまうことを懸念していたのは、僕自身であった。

この晩に視た、全国学力テスト順位発表のニュース
「学力」って何だろう?
それ以前に、素直に笑える子どもたちがいる国にこそ希望あり、と学んだ。
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菜食を選ぶ身体

2014-08-25
食事こそ生活
その習慣が身体を築く
自ずと菜食を選ぶように・・・

ブッフェ形式の朝食の際に、どのような選択をしているかで概ねその人の食生活の感覚もわかる。分量もさることながら、選択内容の質が重要だと考えている。野菜がどれほど多いか、必要なタンパク質はあるか、どの程度調味料を付加するか等々・・・。最近は特に野菜を中心に、炭水化物は必要最低限に抑えることを心掛けている。

休日には、始動する1週間の朝食を用意するようにしている。以前はカレーなども煮込むことも多かったが、最近はもっぱら地元産の野菜を出汁で煮込んでいる。大根・人参・ブロッコリー・牛蒡・茄子・アスパラ・南瓜などの根菜を中心として、多彩な色を揃えるのが重要だ。この日も、カレーにするかどうか買物時まで迷ったが、結局は上記のような野菜煮になった。既に身体そのものが、こうした朝食を求めているということだろう。

そえに加えて、豆腐に胡麻と味噌を加えて混ぜ合わせ「ディップ」を作る。誠に簡単な自家製ドレッシングだ。更に炭水化物は、地元産の玄米を選択するようにした。「糖質」へのこだわりは、身体に大きな変化をもたらすということが、一部で話題になっているようだが、まさにその通りであると実感している。最近の炊飯器は優秀で、玄米モードを選択すれば、実に美味しく炊いてくれることもありがたい。

「免疫力アップ」を目指す食事選択
指南書をもとに自らの生活に根付かせてみた
食事・睡眠・運動についてはこだわりを持ち続けたいものである。
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調子のよい言葉には立ち止まれ

2014-08-24
「成長」「保護」「自衛」
いずれも好都合で利が得られるように聞こえる
それだけに立ち止まって考える必要性が・・・

「経済成長」こそが豊かになる唯一の道なのだろうか?この言葉に「高度」が冠されていた時代は、幾多の弊害を国土や国民にもたらせたことを、よもや忘れてはいまい。産業の隆盛が美しい自然を汚染し、人々の価値観が貨幣に一元化することで、肥満で豪奢ゆえに自滅する可能性を内部に孕む精神を醸成した。いわば身体だけが大人になったような幼児が、大量生産されたとも言えよう。

「保護」されること求めたいのは、人間の性であろう。どんなに精神が剛強であろうとも、甘えたくなる心性を、人は完全には払拭できない。むしろ摩擦多き社会で揉まれていれば、尚更幼児のようになりたいと思うのは自然かもしれない。だがしかし、権威や権力の「保護」下に入るということは、拘束や抑圧を受けることを前提とするものだ。まさに法で「保護」された個人情報は、悪徳な利を生むことになるのを、僕たちは眼の当たりにした。

何を「自衛」したいのか?利に他ならず。生命そのものも利と考えらるが、生きることそのものが貨幣的価値のみを尺度にしている如き理性なき猛者にとっては、護るべき対象が違うのだろう。庶民にとっては考えもつかないような感覚で物事が強引に進められてしまう暴挙が平然と実行される。彼らの食生活一つを見ても、それが桁違いに豪奢であることを見れば明らかである。

言葉に騙されず
ことばで訴えよう
己の尊厳と感受性を、成長させ保護し自衛するために。
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どんな状況でも「救助」へ

2014-08-23
自然の前で人間は無力か
災害時にいつも心をよぎる
「平和」とは日常を「護る」こと・・・

広島での土砂災害のニュースを視て、たいそう心を痛めている。幼い子どもたち、そして救助中の消防隊員の方が犠牲になってしまった。更には数多くの行方不明者の方々の安否は・・・。あくまで「日常」を保っていた街で起こった自然による悲劇。地元消防をはじめレスキュー・警察や自衛隊などが懸命の捜索を行っているのは映像を通してわかってはいる。だがしかし・・・。

どのような災害時においても、その状況の如何を問わず更なる迅速な救助能力を組織的に保有できないものかとやるせない思いを抱く。二次災害の危険性があるだろうことも承知の上だ。85年日航ジャンボ機墜落時も、夜で現場には近づけないと報道されていた。東日本大震災の折も、「救助」という意味ではあまりに無力であることを悟った。そして今回も。一夜にしてどんな状況でも自然の「急襲」(という語彙が適切かどうか疑わしいが敢えて)に対して国民を「護る」という救助隊能力を保有できないものかと切に思う。災害発生時から72時間以内が、生存の可能性を高める境界であると誰もが知っているゆえに。

このように考えるのは、あまりにSFチックなのだろうか?僕が幼少時に夢中になった「サンダーバード」のような未来の「国際救助隊」が、今や実現してもよさそうであると考えたい。かの首相は、「国際的な紛争に巻き込まれ可能性のある日本人を救い護るようにする。」と力強く語った。愚かな人為的紛争を前提としたこの発想以前に、この国では自然と共生する為に居住する人々を「護る」必要がある。あらゆる困難な状況が想定される紛争への対策として、機動的な”装備”を拡充するぐらいなら、まずは「国際救助」を前提とした組織を編成すべきではないのか。それこそが「積極的」な「平和」を護る行為ではないか。人一人の「日常」を何としても「護る」のである。

あらためてこの列島での「生きる」を考える
すべての人々において「対岸の火事」ではないと悟り
自己の「日常」を護り、政治に鋭い目を持ちたい。
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初物を喜ぶこころ

2014-08-22
今、その今を満喫しているか
夏、その夏が歩みを速くし始めた
初物をいただいて思うには・・・

季の逡巡を捉える感覚は、時代でまた個人で差があって然りである。夏はいつから始まりいつ終わるのか。暦の上の理屈よりも、人それぞれの”生き方”が、そこに境界線を設けることになるのだろう。いま「境界線」と表現したが、それは明確に引ける線があるわけでもない。日々、何かが変化し続けるゆえに昨日よりも今日、今日よりも明日には新たなる発見があるものだ。

蝉の鳴き声に変化が見え、風の囁きが優しくなった。こうして文章を綴る部屋の網戸に一匹の蝉がしがみついている。鳴きもせず動きもせず。その幼気な姿勢に「夏の進行速度」を感じ取ったりもする。近所の馴染みの店でも、夜に客が出入りすると戸口から灯りを求めて蝉が舞い込んだ。人工的な照明に「夏」の明るさと暑さを求めたのであろうか。電灯周辺を飛び回り、やがては天井に張り付き静止した。

動と静。その刹那の変化のうちに無常あり。季の巡航が人の心を捉えて止まないのは、こうした虫にも擬人的に心を見出そうとするからだろう。そんなことを考えつつ、店では今季初めての「秋刀魚」を食した。その焼かれた香ばしさ、独特の味わい。形状とともにまさに「秋」の「刀」のような「魚」なのだ。今の時季は「北海道で水揚げされた」というが、まさに「秋」が北からやって来た感覚である。こうしてこの夏を惜しみなく見送る準備が整い始める。

夏はいつも早歩きだ
その速度に前向きさをいただき
秋が目覚めようとしている
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