時の流れと早割と

2014-06-30
今年も半分が過ぎ去りつつある
何ができて何ができなかったか
まことに時の流れは止まらない

1月から3月までは、毎年のように早く感じていたが、最近は4月から6月までもかなりの速度に感じられる。合算すれば「半年」というものが、実に早く過ぎ去って行くということだ。一日一日を大切にし、その「意味」を見出すために小欄にとりとめもなく文章を綴っているが、本日で本年「181回目」の更新となる。

航空券などの予約を中心に、「早割」の制度も定着した。地方在住になってから研究学会の出張を中心としてその予約も日常化した。日程がわかり次第計画的に予約をすれば、かなり「お得」な料金となる。その「先取り」時期も一層「前倒し」傾向が強いように思う。ともかくまずは「予約」を入れておいて、調整できる範囲で調整するのが得策のようだ。(航空券の場合は、「購入」が求められ、キャンセルの場合は「半額」ほどかかるのでより慎重であるべきなのだが。)

ともかく今年の後半も頑張ろう!
という決意を胸に既にいくつかの予約を入れた。
それもまずは「今日」の充実から始まると心得つつ。
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カードに込められたあの時

2014-06-29
ほとんど使用しないカード
年会費だけが浪費される
やはりこれは整理に踏み切る

クレジットカード社会も、かなり定着した感がある。昔は「月賦」という呼称で利子が必要な買物という感覚であったが、今や「1回払い」で現金を使用せずに買物ができる便利な精算方法である。携帯通話料を始め、光熱費などの料金も毎月カード払いにすれば、当該のポイントも増加し、いつしかそれ相当な額のバックが期待できるものだ。

それでも目的別にカードを厳選する必要性も感じる。個々の存在価値を確かめて、過剰と考えるならば整理をしておくべきであろう。作成したときの「意味」が時とともに失われるならば、必要性の賞味期限も切れたということだ。放置しておけば、自然と当該口座から次年の会費が引き落とされるので、やはり十分に検討していくべきだろう。

カードには作成時の、
「あの時」が込められているものだ。
少なくとも、衝動的に軽薄にカードを作成すべきではないと思っている。
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こどもの利点おとなの欠点

2014-06-28
好奇心旺盛
前後見境なく
まずは行動してみる心

学校現場に行くことが多いので、小学生・中学生を見るとある種の憧憬を抱く。たぶん嘗ては自分もそうであったという回帰願望とともに、その「利点」だけを忘れないでいたいと思ったりもする。あの何事にも興味をもって輝く眼と、条件・状況に阻害されない邁進力、さらには躊躇なき行動力。おとなの階段を上ると、そんな純粋な感情のあり様を、いつしか忘れてしまっているのである。

だがしかし、他者の気持ちを慮ることなく自己中心的行動をとり、己の「過去・現在・未来」に盲目的であることには、決して回帰したくはないと切に思う。とりわけ「ことば」にこだわり、「文学」を研究してきた身として、人との「こころ」のコミュニケーションこそが、「生きる」ことだと思うがゆえである。いわば自分が積み上げて来た「おとな」の積木が、あるということだろう。

あれは中学生のときだった。敢えて装丁が豪華で高価なノートを購入し、日記を書き続けていたことがある。学校でのこと部活動のこと、はてまた通学路で毎朝会う可愛い女の子への恋心等々、日常で感じたことを毎晩寝る前に文章にしていた。読み手は、唯一「自分」一人きりであった。だがその文章を読み返すことで、一歩間違えば崩れそうな中学生の頃の感情が、実に健全に保てたような気がしている。己の「こころ」を「かたち」にすることで、顕然とした自律が作用したのだ。

だが気をつけたいのは、こうした自己の客観視が過剰になったり偏ったりすることである。すると自分らしい行動を抑制し、負の我慢と忍耐の領域に至る。「控えめ」「無口」による停滞は、ときに逆説的に他者を苦しめる場合もある。たぶん僕自身が、大学生になってからというもの、これ以上ないほどの行動力をもって諸活動に取り組んでいたのは、「変におとなになる」ことを忌避したからであろう。

「己」が見えているか?
適切な思いやりこそ、「おとな」のコミュニケーション。
なおかつ、「こども」のように眼を輝かせながら。

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ラジオ番組収録

2014-06-27
【訂正】7月20日(日)17:00〜17:59 MRTラジオ「サンデーラジオ大学」
以前に小欄でお報せした、放送時間が間違っていました。
その収録を無事に終えました。

〈教室〉とは違って聴衆はいない。聞き手である女性アナウンサーお一方、それにガラス越しにプロデューサーらしき男性がいる。ライブ的「対話」を日常の生業とする僕の、新たなる体験であった。あれこれ話す内容を構想しながら、聊かの不安はあったが、さすがは対話のプロである。女性アナウンサーの語り掛けで、一気に「僕自身」を語ることができるような雰囲気となった。「聞き上手の極意」に出逢った思いである。

これまでの研究の経緯、そしてその成果をわかりやすく語る。さながら著書の内容を、「声で演じて」行くような感覚であった。著書を書いた「私主体」を反芻し、その核心を誰にでもわかりやすく口頭のみで表現するということ。表情や身振り手振りといった、言語外の手段は使用できない。あくまで口頭表現の中で全てを言い尽くさなければならない。などと難しく考えると逼迫しそうだが、正直なところ聞き手のアナウンサーとの対話が、とても楽しく進んだと言ったほうが適切かもしれない。

嘗て高校生のとき、「大学受験ラジオ講座」なるもので勉強していたことがある。その著名な英文法講師の先生の語り口に、いたく感銘を受けたことがある。その後、今に至るまでその講師の先生とは長きにわたりお付き合いをさせていただいている。はてまた大学の時には、少々アナウンサーを志したこともあった。そんな「夢のかけら」が、このような形で現実になった。マイクの前に座って語る内容が、電波に乗って配信される。そんなことを考えつつ、無事に収録を終えた。何とも言えない爽快な風が、僕の胸の草原を吹き抜けていた。

内容については、放送をお楽しみに。
地域が違いましても、スマホアプリで聴取可能です!

アナウンサーの方に声を褒められて、
朗読そのものを様々な機会でなどと、
おだてられて「木に登り」そうな気分である。

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「起動教材」という考え方

2014-06-26
教材を意欲的に読む
それで更なる意欲が湧く
能動的な活用発信型の学習へ

附属中学校での研究授業の日となった。4月に要請されて以来、僕にとって一つの「課題」となってきた日付である。”偶々”、朝からW杯日本代表の試合があった。結果は周知の通りだが、僕にとっては、研究授業に向けての気持ちの高ぶりの方が重要に感じられた。更には大好きな「”サザンオールスターズ”デビュー記念日」でもあり、今年の活動計画が公表された日でもあった。

中学校1年生の授業内容については、詳細な分析を加えて国語教育系の研究学会で発表をしようと考えているので、小欄での内容公表は差し控えておきたい。よって中学生を前に久し振りに教壇に立った感想を中心に記しておきたい。まず何よりも感じることは、中学生(特に1年生のこの時季)における好奇心旺盛な意欲である。教科書には掲載されていない詩を、新たな教材として開発したのだが、その題材への”喰い付き”が抜群であった。裏を返せば、教材とは、このように心を動かすものであるべきだと思う。

「音読」への意欲も上々である。「何のために声を出すのか」ということを活動前に明示して複数の音読方法で進行させたが、それぞれに対してキラキラした眼差しで、詩を読んでくれた。加えて、「黙読」の時間も確保した。「音読」と対照的な差を感じることで、個々人が心の中で出している声を、己自身が聴く意識が生まれる。詩を読んだことで、生徒の内部において何かが確実に動き出しているのを実感した。

後半、読みの深まりを音読に活かしていくための班別活動。やや僕自身の発問が、大局的で具体性を欠いたという反省はあるが、むしろそれが生徒の自力学習を促したという”気休め”を感じてもいる。詩の内容を、自己の体験や思いに寄り添わせる。個々に様々な疑問を、詩の語句に付箋で貼り付けて行く。それを班内で共有し話し合う。詩を「読ませる」のではなく、学習者自らが「読もう」とする活動となったのは、まさに「〈教室〉の奇跡」のような感慨を抱いた。学び手は刺激次第で、キラキラと光を放つものである。

1時間のみの「投げ込み授業」であるため、最終的な「音読」発表には、いくつかの課題も残った。だが発表者の中には、個性を発揮して詩の世界観を”自分のもの”にしていると見受けられる者も現れた。教材をまったく自己との関係なきものとして読んでいる以上、「国語」は面白くならないだろう。教材を”読む”中に己の姿を投影してみることで、「理解しよう」「表現しよう」という意欲が生まれる。ゆえにある意味で、刺激的とも挑発的とも思えるような教材も必要であると考えている。

過去の教員経験でも実感していたが、
やはり中学生の授業は、この上なく面白い。
「起動教材」という考え方で、彼らの「意欲」を存分に引き出したいものだ。
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構想は現実に向かう

2014-06-25
授業を創る
教材から構想から
その喜びと一抹の不安と

附属中学校での研究授業が近づいた。中学生を対象とする授業は、10年近い”ブランク”がある。ましてや中1である、などと考えることに大きな喜びと一抹の不安が伴う。こうした感覚を味わうのは、この上なく爽快なものである。やはり僕は、根っから”授業者”なのだろう。

練り上げた学習指導案。板書用掲示物を書くのには、毛筆を執った。字に込められる授業への思い。好きな詩歌の魅力を中学生にどう伝えるか。この構想は、果たして適切なものなのだろうか?その混沌とした中から、創造的な授業が産まれて来る筈だ。あとは教壇に立つだけとなった。

野球をやっていた頃の試合前日の、
はてまたバンドのライブ前日のような、
期待と不安が交錯する気持ちがたまらなくいいね。
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野次への謝罪というのではなく

2014-06-24
「野次」そのものというよりも
そこに見えて透ける「発想」にこそ
問題ありということではないのだろうか

東京都議会における「野次」が、問題視されている。それは、投げ掛けられた議員にとって「セクハラ」であり、野次った議員が名乗り出て、当人および世間に謝罪をしたという一件である。これであたかも「幕引き」かのような様相であるが、果たしてこの問題の本質はどこにあるのだろうか。

議会の公式発言でない「野次」ゆえにこそ、実は発言者の本音を露呈しているのではないか、などと考えてしまう。公式発言であれば、事前に「失言」は修正されるであろうし本音を包み隠し問題なき「文章」を事務的に読み上げるということになるだろう。決してそこに本音は露出し得ず、「体裁」と「思惑」が混在した、主体なき「建前」だけが横行するというだろう。

「野次」には元来、「揶揄」や「非難」の要素があるものだ。如何なる場であるか、相互関係はどのようなものかといった「合意」の均衡に対して、不文律な配慮があってこそ”成り立つ”ものではなかったのか。だが今回の問題は、このような「野次」の”不文律”に対して、配慮が足りなかったことへ謝罪すれば終わりというものではないだろう。都民によって選ばれた議員であるからには、その「発想」や根本的「思考」程度が問われなければならない筈だ。

「失言」もまた同じ。メディアもこぞって「言葉」の揚げ足取りに奔走する。それに対して「謝罪」をすれば済むという問題なのか?その本質を監視するのが、ジャーナリズムの役目ではないのか。「ことば」に「発想」を露呈する人物たちに、僕ら一人一人が政治(いや、僕らの生活を)を委託しているという厳しい眼をもつべきだ。今回の都議会での一件で、名乗り出た「野次」の当該議員が謝罪することで、「幕引き」にしようという「思惑」が見え隠れするようにも思う。その「発想」そのもので現況の日本の政治が動いていることに、大いなる危惧を抱くのである。

「ことば」を根拠に「発想」を読む。
国語教育で学ぶべき「力」の一つである。
僕たちは公正な市民であるために「ことば」を学んでいるのだ。

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旅情豊かであること

2014-06-23
どんな目的であれ
旅をしていると心が躍る
その折、その場にしかない出逢いの面白さ

研究学会に赴く際に思うのは、時間がある時に何をするかである。土産はどうするか?”月並”なものではなく、まずは自分で心から食べたいものであること。更に僕の場合は、賞味期限が「短い」こと。考えられないほどの長期にわたった賞味期限のある菓子類は、たぶんかなりの保存料含有であると考えて(米菓など種類によるが)、避けるようにしている。時間があるかないかで、その条件を満たす土産を購入できる場所に行くか否かを決めたりもする。

その地に友人・知人がいれば、会うか否か?限られた時間であるが、久し振りに会いたい友人がいれば約束を取り付ける。よく「今度行くね!」などと言っていて一向に実現しないというケースが、世間では通例になっていることを忌避したいからだ。「今度」「いつか」は、常に「今」であると心掛けるべきであろう。そういえば今回は長崎に来たので、当地出身で東京在住の友人に電話を入れた。すると新たな展開であるという話が聞けた。電話も「また」と言っていると、いつまでもしないものである。

再訪したい処がある場合も。長崎では、尊敬する坂本龍馬ゆかりの「亀山社中」である。長崎を発つまでに時間があったので、どうしようか迷ったものの、今回は「龍馬の意志」に思いを馳せる想像力に委ねて、雨降りであることもあって断念した。ただ確実にこの港町に来ると、「広い世界を見たい」という野心が起動するものだ。これまた昨日の記事ではないが、「実体験以上の体験」として、旅情の味わいの一つであろう。

往復の道すがら様々な人々に出逢うことも。
まさに「一期一会」かと思えるような邂逅。
旅情を豊かにするのは人生を豊かにすることでもある。
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見えないものも見る「体験」

2014-06-22
「君に、今何が見えるか?」
詩歌を前に教師が問う。
イメージは実体験以上のもの。

日本国語教育学会西日本集会に参加。開催地である長崎県の現場で奮闘する先生方の、工夫に工夫を重ねた授業実践を学んだ。また、離島の学校が県全体の20%という状況の中で、複数の学年を同時に進行する「複式学級」公開授業(附属小学校教諭による)にも衝撃を受けた。そして午後は、理事長の田近洵一先生の講演。

僕が大学院生の頃、田近先生には大変お世話になった。朗読の研究会においでいただいた際には、「絵本の読み聞かせ」を自ら実践しながら、その効用について熱く語っていただいたのを、鮮明に記憶している。先生は、国語教育の理論研究で幾多の業績があるが、同時に多分野の研究と現場実践にも優れた先生であると深い感銘を受けたことが、昨日のことのように思い返される。

「菜の花や月は東に日は西に」の句を読んで、「君には、何が見えるのか?」(正確には、長崎弁で問うた)と、授業で問われた経験。田近先生の講演の冒頭で語られたエピソードである。その教室でのささやかな問い掛けによって、田近少年は「一面の菜の花」を脳裡に見ることができ、「見たこともない体験を一瞬にして見ることができた」のだという。これを原点として、「イメージは、実体験以上の「体験」である。」といった趣旨の国語教育理論を、先生は研究者として展開している。

過去に文字で学んだ理論を、肉声で今一度反芻し更なる大きな意味が芽生える。
国語教育とは、こうした触発の伝承や連鎖で支えられているのかもしれない。
まさに「自分自身に目覚める他者との出逢い」なのである。
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休日出張の変遷

2014-06-21
研究学会へ向かう心意気
出逢いと発見のよろこび
休日出張への思いも変遷を重ねて

初任校である中高に勤務した若かりし頃は、休日といえば強豪部活動の応援であった。東京都大会に始まり、関東大会から全国大会に至る。夏は甲子園、冬は国立競技場と比較的メディアが好んで喧伝する競技において強豪であり勝ち進むため、学校の知名度はかなりのものだった。それと引き換えに教員である僕らは、休日も長期休暇も応援三昧だったと記憶する。

次第に休日は、自らが担当する部活動の練習や試合引率に費やされることになった。部活動で少しでも戦績を上げることを目指し、放課後も休日も部活指導をしていてこそ、教員として真っ当であるというような意識を持ち、他校の先生方ともそんな感覚で交流を拡げていた。20代のうちは、まだそんな青春夢物語から冷めやらぬ時季であったと、今にして回想できる。

30代になって、現職教員でありつつ修士課程で研究を再開してからというもの、休日の部活指導が辛くなった。修士課程の課題に雑誌論文執筆、そして修論へと歩むには通常勤務のある平日のみでは時間が足りない。自ずと休日のまとまった時間を利用しなければならない。そこが部活動となると、平日の睡眠を削らざるを得なかった。時に、好きだった部活動指導を反転し、怨むようになった。中には雨で試合が順延し、研究学会発表と重なり、やむなく他の教員に引率を無理にお願いした経験もある程だ。まったく、この時期の生徒たちにとっては、「悪徳な顧問」であったと謝りたい思いでもある。

大学非常勤講師となってからは、ようやく研究学会を最優先する休日が選択できるようになった。何ら憚りもなく「普通に」研究学会に出席できるということが、この上なき幸せに感じられた。もちろん「休日が潰れる」などと感じたことは微塵もない。そこで出逢う研究発表と先生方との会話が、今の僕を支えてくれている。こんな「回り道」をして、ようやく僕は研究者として「普通に」なれた。

今や専任として求めるだけの研究学会へ行くことができる。
まさに、休日に新たな英気を養うが如きである。
「普通に」できる幸せを忘れず、自らも発表や運営で恩返しをすべきと誓う。
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