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技術と空想のあいだ

2014-05-31
現場に還元する
役に立つ技術とは?
知的空想力こそ可能性を拡げる契機になるはずだが・・・

教職大学院は、現場で活きる授業力や、リーダーシップを養う場であるということになっている。複雑かつ多様な問題に直面している現場に対応する、教員の再研修の場でもある。また同時に教員の卵たる若い学生が、夢を抱きながら学ぶ場でもある。学校現場から、アカデミックな場に”還った”先生方が学ぶべきことは何だろう?と常に僕自身も兼任担当者として自問自答している。また「教員」という「希望」を胸に抱く学生たちが学び、苦悶しながらも明るい未来を感じられる学びとは何であろうか?

ある意味で「技術」大国である日本では、その優秀さが評価されることも多い。「ものつくり」の上で「技術」は不可欠な要素であろう。だが、その一方で「技術」最優先の社会は、これまでにも様々な弊害を生み出して来た事実がある。人としての空想力を欠いた「技術」は、いつしかその人間性を削ぎ落とすことに力を発揮し始める。究極のところ、その「技術」によって人間そのものが危機に曝されることもあるだろう。果たして「技術」はそれほどに崇高なのだろうか?

授業を始めとする「学校」における、人と人との対応も同じように思うことがある。法則とか何とかの「技術」偏重となれば、人としての対応が失われることもある。閉鎖的な学力観、「学校文法」「教室談話」などといった形骸化した言葉のあり様が、教育を歪めて来た側面は否めない。言葉そのものが「生きている」のであれば、学ぶ者も「生きている」。その「生」と「生」とが対峙するところに「話す 聞く」「書く」「読む」が存在する。作家や論者の書いた「生きた」文章を、「生きた」学び手がどう受け取るかという問題である。その為にも、指導者たる”人”に知的空想力の奥行が求められるのではないだろうか。

知的苦悶から生み出されるもの
僕自身が現職教員として大学院で学んだこと
実利より文学的空想がいかに偉大であるかを悟るべきだろう
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歩調とバランス

2014-05-30
潮風に吹かれてランニング
黄昏に染まる海岸線
自らの歩調を見失うことも・・・

時折、その海岸線でランニングを楽しむ。速く走るとか、距離のノルマも課さずに気楽に歩みを進めるのがいい。いつしか潮風に乗って、何とも言えない芳香に包まれる。走るという行為以上に気分的な解放感を求めるのが、このランニングの魅力となっている。

走っていると、いつしか己の歩調を見失うことがある。これ以上の速度になると脚に負担がかかるということは、実際に聊かの「痛み」を感じるまでわからない。その安易な自己制御の曖昧さこそが、己自身の「今」に他ならない。「よかれ」と思ったことが、実はバランスを失っていることもあるということだ。

車のハンドルやアクセル・ブレーキには、「遊び」がある。その機械的「発見」は、実に人間の深層を捉えたものだとあらためて感心する。「運転」とは、まさに機械と人間とが正確かつ曖昧な関係性を保つことであろう。ランニングや人生の諸相にも「遊び」が必要である。だがしかし、いつしか窮屈な力業に及んでしまっていることがあるものだ。

景色を楽しむ余裕を
気持ちは表現してこそ己に返る
歩調とバランスを見失うこと勿れ
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「音読・朗読」への誤解

2014-05-29
如何なる方法で
如何なる教材を扱い
如何なる「力」をつけるのか

「活動あって学びなし」、昨今の言語活動を中心とした学習に対する警鐘として、よく囁かれる言葉である。活動の典型は、例えば「実験」など。「実験」はしたものの、学習者がどんな「力」を付けたのかがわからない場合が多いという指摘である。確かに学習者が「目的」を見出せない形骸化した活動となっては、授業そのものの意味が失われかねない。

「音読・朗読」という活動ほど、こうした指摘の槍玉にあげられることが多い事項もないだろう。〈教室〉での「目的」なき「音読」活動は、誰しも体験があるからかもしれない。「音読」をした結果、どんな意味がありどんな力を学習者が獲得したのかを見定め難いからである。ましてや発達年齢が上がり、批評的視点を持てるようになった学齢になると形骸化が顕著であることも、この指摘を、どんな分野の専門家でも行えるという安易さの遠因であるように思う。

だがしかし、「音読・朗読」には常に誤解が伴っているように思われる。一般的に思われている以上に、その深度と多様性は幅広く様々な可能性を秘めているものなのだ。黙読と「音読」を並行して実施すれば、文章への理解が構造的に立ち上がる。黙読では見過ごしてしまう微妙なニュアンスは、発声やアクセントに載せることで発見される。元来、文章そのものが持っている「伝える」という目的を、作り手(書き手・語り手)の立場になって立体的に再現するのが「朗読」でもある。〈教室〉で行われる形骸化した「音読・朗読」は、指導者がその意図を持っていないだけなのである。それでは「活動あって学びなし」の指摘そのものであり、時間の浪費に過ぎないであろう。

文章から「伝える」意志を受け取るには、
自らが「伝えよう」として足掻き苦しむ必要がある。
そうして初めて「読む力」が養えるのではないだろうか。
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「語彙」で考える「日本野球」

2014-05-28
なぜ日本の「国技」として
野球が名を連ねているのか?
留学生用「日本事情」講義から

雑談・余談の類は別として、本題として初めて講義で「野球」をテーマにした。僕なりに独自の話題はいくつも持っていたが、「日本語中級」程度の留学生にもわかるように話すということが、大きな課題となる。なぜ「日本事情」に「野球」が登場して来るのか?まずはそこに適切に応えなければならない。

「野球」以外で日本の国技と称するものは、「相撲」「柔道」「剣道」など武道の類である。これらはいずれも「一対一」の対戦が試合の基本形態となる。もちろん「団体戦」という形式がないわけではないが、対戦そのものは「一対一」である。その境地は、野球における「打者対投手」の図式に相当する。この「一対一」要素が試合の中心に据えられているのは、野球の大きな特徴であるといえる。更に団体で行う競技であるゆえの要素に日本人の「文化」が呼応したわけである。

「野球」が、これほどまでに日本人の心性を揺さぶり惹き付けて来たのは、「和」を尊ぶ競技として捉えられたからである。「協力」「協調」を旨とする「和」の精神とは、「勤勉」「忠誠」「服従」「犠牲」などといった語彙で説明することができる。徹底した練習を積み、監督の指示には絶対に従い、バントなどの自己犠牲を喜んで受け容れ、自己の身体がキツくとも「苦しい痛い」とは言わずに奉仕するのが、野球(道)のあるべき姿であると思い込んでいる。これが日本で、「野球」が人気を博して来た根本的な要素ともいえる。

語彙を理解してもらうことが、留学生に「文化」」を理解してもらう方法と考えて、いくつかの日本人が好む言葉を紹介した。「忍耐」「感謝」「誠実」「根性」「信頼」などがランキング上位に連ねられる。これらはいずれも、「野球」に取り組む際に重要な姿勢と尽く一致する。昨今は事情がやや異なる面も多々あるものの、未だ「野球」に根深く定着した「精神」は、このような点ではないだろうか。

特に韓国・台湾からの留学生も多く、
彼らとは共通して理解できる「文化」としての「野球」があった。
「語彙で考える日本野球」更に深く僕なりの考察を進めたいものだ。
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螺旋状円還の今を見定める

2014-05-27
この風景を見たことがある
夢か現か確かに此処に来たことがある
この道はいつか来た道・・・

「時」は、直線上なのではなく円状に流れているのかもしれない。いつしか同じ地点に還ってきたように思うときがある。だが「還る」とはいうものの、まったく同じ地点というわけではないようだ。その立ち位置の高度が聊か変化していたりする。上昇に転じたいと願いながらも、下降を余儀なくされることもある。そんなほの暗い闇の中にある螺旋状の道を、人は孤独に歩んでいるのかもしれない。

執拗なほどにやや異常とも思える記憶力がある。大きな「行事的」記憶ばかりではなく日常生活上、その時にどのような言動をし相手がどのように反応したかを、繊細に覚えていることが多い。時折、妄想的にその場面が「物語」のように脳裏に再演されて、その意味を問いたくなることがある。まるで「昔話」が、繰り返しを伴いその「意味」を執拗に訴えて来るかのように。

1年前と同じ機会に同じ言葉で同じ行動を試みる。その円還上の道を素朴に歩いてみる。するとやはり昨年とは違う「物語」が螺旋上に浮上する。「化学反応」を起こしたかのように、予想だにしない新たな状況が提起されたりもする。繰り返しているかのようで、その「物語」は、確実にページを先に進めていたのである。その当たり前のような不思議を、単純に喜び受け容れる己に酔い痴れる。

「1日1歩3日で3歩 3歩進んで2歩下がる
 百日百歩千日千歩 ままになる日もならぬ日も
 1年365日 1歩違いで逃しても・・・」

名曲はそれを語っていた。  
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不可解なる「主体」

2014-05-26
実に不可解な「主体」
「主体的に」などという連呼
学習者は本当に「主体」なのか?

教材を能動的に読む、といっても果たしてどうすればいいのだろうか?「学習者主体」が叫ばれてから久しいが、現場の〈教室〉は変様したのか?未だに読む主体は教師であり、学習者は意欲を欠いて受動的となり、そこに存在しているのではないか。安易に使用しつつ、大変難しい「主体」の問題を考えた。

昨日の小欄に記したように、表現者たる作家などは己の人生を賭して苦悶の末に一作品を世に問う。それに「教材」という看板をかけて教科書という「檻」に閉じ込め、付属資料の「指導書」が仮に主張する読み方を「規範」だと勘違いし、その「ある一つ」の型を提示することが「学習」だと思い込まれている。

表現者が「苦悶」するならば、それを主体的に受け容れる際にも「苦悶」が必須であろう。ただその「苦悶」は、避けて通りたい性質のものではなく、その場では学習者自身には見えない価値がありそうだという香りを漂わせるように、〈教室〉で展開するべきものであろう。その「もがき苦しむ」ことの快楽を知り得た時、ことばによって己の存在価値を発見した学習者の人生は、格段に豊かになるのではないだろうか。

意欲的に「もがき苦しむ」
学習者がことばを投げ出す過程
「学び」を創るには「研究」が不可欠である。
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生誕105年「太宰治」を考える

2014-05-25
県立神奈川近代文学館
「太宰治展」における
気になることば覚書から



「物語」に並行して「物語がどのように作られていくか」という舞台裏を
読者に解説して行く点に太宰の文学の大きな特色があり、・・・

原典をもとに、それをいかに作り替えていくかを並行して解き明かしていくかパロディの手法は、
ストーリーテラーとしての彼の資質にもっとも見合ったものであったわけである。(安藤宏)

「美談を書くのが小説家の使命なんだ」
小さな出来事を、作者の幻想により、嘘みたいなまことの話

ほんとうの事さえ
嘘みたいに語るようになってしまった。
けれども君を欺かない。
きょうもまた
嘘みたいな、まことの話を君に語ろう。
(「善蔵を思う」創作メモから)

こたつで「盃を含みながら全文、蚕が糸を吐くように」口述するのを、美知子が筆記した。
太宰の口述はよどみも言い直しもなく、美知子は筆記しながら「畏れを感じた」という。
(「駆け込み訴え」)

太宰が試みて来たのは客観的に「描くこと」よりも
常に具体的な聞き手を想定して「語ること」なのであった。



以上、特に大宰の「語ること」そのものに、
作品の深淵が潜んでいることを悟った。
そうして午後は研究学会のシンポジウムへ。



基調講演では、大宰の娘さんである
作家・太田治子氏のお話が聞けた。
1時間を遥かに超えるその口述は、
メモ書きに目を落とすこともなく、
常に個々の聴衆へ向けられており、
伝えようという意志が看守できた。

「自分は弱い」という通常の人々が言えないことを、
太宰は言っている。

「信じることに現実があって、
現実は決して人を信じさせることはできない。」
(『津軽』の一節から。「口述筆記」ゆえ正確ではない・中村注)

人ができないドラマチックな生き方
言行一致のひと
不良少年の魅力
あのように死んだことで大宰作品は今に生きている。

(以上、基調講演の覚書から)


太宰治
何とも奥深く魅力的な人間なんだ!


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金曜日のフライトから

2014-05-24
研究学会への出張
週末がまるまる出先となるのだが
その学びは刺激的だ

金曜日の夜に、出張先へのフライトという状況が2週続いた。夕刻に大学での授業を終えて、自宅で荷物を最小限に纏めて空港へと向かう。空港近くの民間パーキングが、消費税増税後に一斉に値上げしたので、今までは使わなかったなるべく安い会社を選んだりと、そこで既に模索が始まる。フライトが「定刻」という掲示を見て、まずは一安心。

次の日の研究学会に備えつつ滞在先でどのような晩を過ごすかも、大変重要だと心得る。友人・知人に会う場合もあれば、ご当地のグルメを楽しむこともある。はてまた日常化したトレーニングを、行いたくなる衝動に駆られることも。出先の見知らぬジムで「道場破り」のような気分でレッスンに参加するのもまた、たいそうな刺激になる。

この日は、若かりし頃によく足を運んだ港町に滞在。宿に着いて夜の港まで一人で散策する。諸々の変化はあるものの、変わらぬ基本枠の風景に心が様々に彷徨する。青臭くも上だけを見て歩んでいた頃、ただそのハーバービューが限りなくお洒落に見えたっけ。時折、こんな小さな時間旅行が、今あるべき自己の本質を映し出すこともある。

再び刺激的な週末
研究との対話から何が創造されるか
何より己が前に進む力を得たい
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自ら感激できる味を

2014-05-23
料理を作り客に奉仕する
文章を書き読み手に提供する
客や読み手の立場で感激できるかどうかということ。

仕事柄、様々な局面で様々な種類の文章を書く。読み手が限定されている場合もあれば、不特定多数という場合もある。事務的な文章から個人的な書簡やメールに至るまで、多彩に内容を使い分ける術が、いつの間にか身についている。もとより、それが僕のプロとしての重要な仕事であると自覚する。

近所の懇意にする料理屋さんで、店主と語る。自分で作った味噌汁の出来が、大変上々であったという話題になった。魚だけを出汁にして、丹誠込めて繊細な感覚を働かせて作った一品だという。店主自らも僕と席を並べ、その味噌汁を味わった。調理場で「味見」をするのとは、まったく違った「舌」で味わえると云う。料理の基礎ともいえる素朴な味噌汁であるからこそ、自らが感激するほどの味を出すのが、料理人としての「信念」であると彼は語った。

そういえば時折ではあるが、僕も自らが書いた文章に感激し涙腺が緩むことがある。繊細に生活の中で感じたことや、文学に関わることで生じた心の襞を、文章として書き付けておくこと。それは、まさにどのような出汁で、どの程度煮込んで、どのように味噌を配合するかという過程と同じような感覚が問われる。活字化されるような場合は、吟味に吟味を重ねて文章を書く。はてまた日常生活の中で、素朴な「味噌汁」に該当する文章を記すこともまた自らを鍛えるものだ。

単なる「生業」ではない
「信念」「こだわり」のある仕事
自ら「美味しい」と感激できる味を出したい
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個の活動主体を尊重する

2014-05-22
なぜ〈教室〉に集うのか?
なぜスポーツジムで汗を流すのか?
他者なくして自己はわからないゆえ

毎週水曜日は、朝一番から授業である。約60名の学生が、ほぼ遅刻することもなく〈教室〉に集う。「知識」は教科書を読めば知ることはできる。だがそれは、ただ「知った」に過ぎない。場合によると、「字面を(空過して)読んだ。」に過ぎないかもしれない。その「知識」を本当に「わかり」(理解)、その上で「できる」(実践)できるようになるには、〈教室〉というライブ空間が必要になる。

われわれは、「個の言語活動主体」である。言語により思考し、理解し、表現し、社会と繋がっている。まさに「言語を操る」ということは、「生きる」ということでもある。ゆえに言語を疎かに扱ってはならない。〈教室〉の学びから、言語活動主体となる健全な社会を構成する人間を育てなければならない。それだけに〈教室〉に集う意味が十分に伝わる講義をしなければならないはずだ。

スポーツジムでも、同様の構図を感じることがある。お金をかけてまで、運動をしに同じ場所に集う意味は何か?自分で自宅周辺を走れば済むことではないのか?この日の、スタジオレッスンでも痛感したが、他者が躍動する姿を見るということは、限りなく己を奮起させてくれるものだ。心肺機能・筋力・柔軟性などを高めるには、苦痛を伴うのが必定である。そこで己に勝てるかどうかで、身体トレーニングのレベルが決まる。他者の取り組む姿勢や激励の言葉によってこそ、独りでは成し得ない域にまで己を高めることができる。

社会生活とは言語を介して集うことだ。
その一期一会のライブ空間に、「学び」が生まれる。
日々の大切な「生きる」の為に、言語で今をここに記すのである。
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