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表現者の逆説

2014-04-30
心の中にあることば
外に向けて解き放つ
訴えたいことは歌いたいこと

懇意にするギタリストが、ある歌い手さんのサポートで出演するライブがあると聞いた。両親との食事をランチとして、宵のうちの時間を作った。彼は、加藤登紀子さんや下地勇さんなど、実力派歌手のバックも務めた経験がある秀逸な演奏者だ。朗読関係の僕の講義でも、数回バックをお願いしたことがある。

彼のギターが奏でる音色は多彩だ。ジャズ・フラメンコ、そして表面的には出さないがロックの魂も潜めている。朗読作品や眼の前にいる人の名前をイメージして、絃で表現してしまう。この日の演奏でも、絃を捻じって捻り出す音や、ギター本体を打楽器のように使う技を始め、しまいには自らの頬を叩き口蓋内を共鳴させるコミカルな演奏も魅せた。

更に彼が表現者として秀逸なのは、主役の音を最大限に引き立ててくれることだ。まさに"バック"として逆説的な主役かと思わせる如き姿勢がある。朗読でも読み手は表現者であるに違いないが、同時に享受者でもあり作品や他者が聴くこととの対称性の中で、反転が生じた際にこの上ない創造的意味づけが立ち上がる。音の共鳴には、このような構造があると彼の演奏が気づかせてくれた。

表現してこその理解
理解してこその表現
その双方向性の中から創造は生まれる
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音楽と仲間なくして人生何かあらむ

2014-04-29
ギターの音で涙あふれる
身体に染み込んだ曲を口ずさむ
そして仲間との再会

音楽も朗読もライブ性なくして語ること勿れ。そんな共通項を発見した。音源を通して聞く日常的な音楽を、ライブ会場で聴くということ。アーティストと観衆の対話的興奮の中から、聞き慣れた曲にも新たな発見がもたらされる。特に演奏者に近い場所で、生の音と演奏する身体を実感すると、熱い思いが背筋に湧き起こるものだ。

アーティストの音楽に対する熟練さが他の追随を許さないレベルを感じる。往々にして過去の栄光のみを翳して来日し、「金稼ぎ」と揶揄されるごとき"幻滅演奏者"も少なくない。その中で更なる進化と熟達した演奏技術を魅せるアーティストの存在は貴重だ。どんな年齢になっても、進化形を崩さない存在でありたいものだ。

ライブの感激を倍増させたのは、当該アーティストのカバーバンドをやっていた経験があるからだ。音楽に関しては素人であった僕を、バンド活動に導いてくれたかけがえのない親友たちがいる。この日は、ライブ公演を機に彼らと再会した。米国にいる親友は、飲み屋でのSkype中継という手段で参加した。まさに心の友との再会に、やや閉塞的に陥っていた己の思考が開放的に蘇った。

音楽も文学も、聞くだけ読むだけでは本質的な理解には至らない。ともに表現者の立場になって、演奏や朗読をして人に伝えようとする。次第にその曲目や小説のどこがどのように素晴らしいから、受け取る側の心を動かすことができるかが実感できてくる。受け身にならない主体的な芸術享受の方法は、曲の「カバー(コピー)」や自己の"読み"を活かした朗読をすることである。更にはそれを集団で組織的に成し遂げることで、音楽や朗読は人と人とを繋ぐのである。


距離を超えて繋がる仲間
音を磨き続けるアーティスト
音楽と文学、そして酒と仲間なくして人生何かあらむ!
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「異邦人」であること

2014-04-28
「ちょっと振り向いてみただけの・・・」
かつて大ヒットした『異邦人』という曲の一節。
シルクロード的な雰囲気を醸し出すものであったが・・・

「異質」なものは、どのように見るかによって様々な価値観で捉えられる。冒頭に記した楽曲がヒットしたのは、エキゾチックな要素への憧憬を刺激するが如く、シルクロードが欧州から亜細亜へと続き多様な文化が交流したという歴史的な背景があったからであろう。「同質」なものの殻を破り、「異質」なものに触れることで、文化はまさに耕されて興隆するものである。東端に位置するこの列島に住む人々は、古来からその東西交流を糧に育てられて来たという事実がある。

明治維新以後の欧州文化からの、そして第二次大戦以後の米国文化からの”吸収力”は他国に類例を見出せないほどのものがあった。「青は藍より出でて藍より青し」の故事成語をそのまま実践したといってもよいだろう。個々の緻密で真摯な態度と「集団的意識と行動」が相俟って飛躍的な進歩を遂げて今に至るのである。個々人の取り組む姿勢に支えられながら、「集団的」になることで組織的に力を倍増させてきたという「精神史」を忘れてはならないだろう。

「忘れてはならない」といったのは他でもない。その「集団的意識と行動」が正の面で発揮されることもあれば、負の面に作用してしまうことがあるからだ。スポーツを例に語るならば、欧米選手に身体的には劣りながらも、組織力で守勢を貫徹したった1度の好機を逃さない試合運びをすることで勝機が得られる。これは特定の競技というわけではなく、多くに当てはまる勝利の図式である。団体競技であればこそ、個人技頼りの欧米チームにはこうした対抗手段が見出せる場合もあるということだ。だがしかし、その組織力が固着し動揺し均衡を崩した際には、徹底的なダメージを受けてしまうことも多い。「一丸となる」ことで多様な視野を失い、いつしか偏向をきたし全体が硬直し柔軟に受け容れる”遊び”を失う。組織力を発揮しようと思えばこそ、多様な思考の「個人」が大変重要な構成要素になるということを忘れてはならない。

ある方の記事を読んで思う。
「日本にいて異邦人であること。」ということばから、
「個」、そして冷静に現況を見つめる「現場主義」を貫くことの大切さを悟る。
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静止・内向・無言

2014-04-27
じっと動かず、
外と交わらず、
ことばも発せず。

意識・無意識にかかわらず、本当に「静止」するというのは難儀なことだ。身体バランスを整えるヨガ・ピラティス等のエクササイズを受けると実感できる。元来、人間は「動(く)物」なのであろう。「静止・内向・無言」を続けることは甚だ不自然であると思う。ゆえに意図的にそれに反した状態を作り出し、自己の内面を見つめるのがこうしたエクササイズの真髄である。

1週間の中でも週末になると、自ずと「静止」のときを持つ。心を内側に向け、他者とも必要以上に話さず、現状の己を見つめる時間だ。このように文章化すれば、誠に穏やかな時間のように受け取れるが、実は次第に息苦しくなる時間でもある。エクササイズであれば一定時間で解放されるが、生活であると現状からの離脱は難しい。次第に固着し籠居し飽和した身体が、均衡を崩し倒れ込むことになりかねない。その寸でのところを自己で察知し、外界からの栄養を与える必要がある。

凝り固まった物は弱く、柔かく筋のある物が強い。その境地に至るには、他者との刺激的な交流が必要だ。その「痛み」を避けてしまうと、どこにも動けず堂々巡りを繰り返すのみとなる。躍動し交渉し表現することで初めて、内なる自分が発見できる。久し振りに話した親友の言葉から、このような旨を読み取ることができた。固着が沈殿し腐敗に向かうような道は避けるべきである。

限界まで動き、
広く天空を見つめ、
今ある己を表現しよう。
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島影を背景に思うこと

2014-04-26
闇夜に浮かぶ島影
穏やかな波音のBGM
向き合うは素直な心

関東在住のときは、江ノ島の島影が好きだった。湘南海岸から見える島の灯りには、いつも痺れていた。独りで車を飛ばして、ただただその島影と語り合いに行ったこともある。はてまた、重大な岐路に立たされているのを島影に見守ってもらったこともある。幼少の頃は、両親と出向き””おでん”を食べて、イルカショーを観たという強烈な記憶が未だに健在だ。

島を東側から見るか、西側から見るかで表情が違う。陸地と島とを結ぶ橋桁を眺めると、「境界」や「接点」といった感覚が心の底に浮かぶ。「島」でありながら陸地からの微妙な距離感が、他では味わえない異世界への入口を摸造的に可視化するからであろう。海に閉ざされ、海に抱かれる。そんな心の揺れ具合が、何とも言えない感情を誘発させる。

江ノ島には簡単に行けなくなった今、精神的に相似形だと感じさせる島が身近にある。島影は地形的に北側から見る場合が殆どであるが、1度だけ南側から見たことがある。島の大きさ・橋桁の長さ・島にある建造物などは江ノ島と違いは大きいのだが、僕自身の心の風景として確かに”姉妹”関係にあるかのような好感が持てる島影だ。今宵もまた、その島影にひそかに語り掛けた。

波音に揺さぶられる心
潮の流れに翻弄されているのだろうか
島影には確かな光が見えると信じたい
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ジャム瓶に込められたこころ

2014-04-25
小さな瓶に詰め込まれたジャム。
レストランお手製の逸品を手に、
そこに込められたこころを噛み締める。

何軒かある懇意にする飲食店の1軒にて。帰りがけに思いがけず自家製のジャムをいただいた。
砂糖のみ使用の”無添加自然食品”である。帰宅してその瓶を見つめて、何ともいえない温かみを感じた。このレストランのデミグラスソースの味も、どこか郷愁を抱かせる懐かしい味なのであった。

3月は何かと喧騒の中で落ち着かないこともあり、なかなかこのレストランに足を運べなかった。文学的な店名とグルメガイドにも掲載されるデミグラスの味に惹かれて、この地に来て以来の馴染みである。その郷愁と響き合うのであろう、時折訪れる両親も大変このレストランの味を気に入っている。

昨年末のXmasにも、実に味わい深いビーフシチューコースをいただいたが、これまた逸品であった。ゼミ会も開催し、全員が読み聞かせをするという(店内に声が響くという)誠に勝手な要望にも応えてくれた。店長の温かみのある人柄から、常に心の安らぎが得られるのだ。

こんなによくしてくれるお店に、状況はともあれ少々足が遠のいていたことに聊かの羞恥心を覚えた。僕の公開講座パンフレットも、「おやすい御用で。」といって笑顔で入口脇に並べてくれた。デミグラスソースの優しい美味しさは、この店主の温かいこころが作り上げているのだ。

ジャム瓶を大切に自宅冷蔵庫へ。
「(無添加ゆえ)早く食べて下さい」の店主の言葉に、
週末に紅茶とトーストを食べる楽しみを思い浮かべた。
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交流してこそ強くなる

2014-04-24
混合・共生・ハイブリッド。
相互に高め合う関係から生み出されるもの。
枠を飛び越えて強くなれ!

今年度も附属小中学校と大学の共同研究が始まった。昨年度は初めてのことで、流れに任せて助言などを行って来たが、今年度からはより主体的に関わりたいという思いがある。そのような”意志”を反映し提案されたのは、大学教員である僕が附属学校で授業を実施するというものであった。中学生対象の授業担当は何年ぶりであろうか?などと回想しながらも、1本勝負の投げ込み授業として何をしようかとあれこれ思案が起動し始めた。

「授業」をよいものにするにはどうすべきか?という命題に答えるべく、日常では教員を目指す学生たちに講義している。時折、その「講義」そのものは「よいもの」かどうかと検証する視点が働く。研究上の理論を語るだけなら容易であるが、教員を目指す学生にとって「講義」そのものが、「授業」の見本でなくてはならないという客観視的立場が大切だ。そしてまさに小学生・中学生を対象にして、僕自身がどのような授業を実践できるかという点も「”有言実行”」といった意味で大変重要であると認識する。

このような決定がなされた共同研究のあとは、ゼミの新人歓迎会。新たに4名の3年生が加わり9名の所帯となって、まさに”ゼミらしく”なってきた。教員志望を基本とするが、学生たちの出身地や個性は様々である。1年間僕と歩みを共にして来た4年生との交流が、また新たな雰囲気を醸成する。しばし焼肉に舌鼓を打ちながら、その混合の妙に酔い痴れた。人と人とが顔を付き合わせて生きる意味がここにある。視点・思考が多種多様であれば、学びも高まるというものである。

蛸壺の如き巣窟に安住すること勿れ。
広い視点から批判を浴びろ。
そこに新しい己の”自律”がある。
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俺流地域連携のゆくえ

2014-04-23
公開講座の広報。
大学の産学・地域連携センターが管轄であるが、
担当者なりの方法でも実施せよとのこと、そこで・・・

在住1年間を経て、「地域連携」の名の下に何ができるだろうか?それを考えた際に、1年間をどう生きて来たかが問われる気がした。職場環境に順応することと並行して、地域でどのように生きるかも僕なりに重要な課題であった。ただ単に自らの日常を成り立たせればいいという訳ではない。

端的に言えば、地域の人々とどれほど繋がれるかということだ。その”繋がり”を頼りにして、公開講座のパンフレットを提供してもらう場所を選定している。まずは懇意にする飲食店・不動産・電気店に置いてもらうことに。更には申請1週間を経て、地元の銀行に置いてもらうことが叶った。ここに僕なりの人間的”繋がり”のあり方が見えて来る。

しかし、まだまだ物足りない部分も否めない。居住地の自治会館であるとか、郵便局などにも”顔馴染み”の方がいるのであれば、更に窓口は広がると感じている。民営化をはじめ様々な世相の波が、こうした人間関係を破壊してきた社会の中で、「朗読講座」を媒介にどんな「地域貢献」ができるかは、一つの挑戦でもある。しかもあくまで「俺流」で・・・

さて、果たして受講者は集まるのだろうか?
聊かの不安も抱えながら、僕が足で届けたパンフレットたちは、
個々にどんな奮闘をしているであろうか。
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季節と身体

2014-04-22
今が旬の野菜と魚。
これから暑くなる時季の鍛え方。
人間の身体も季節の逡巡に適合すべきなのだろう。

一昨日の夕餉を、近所の馴染みの料理店でいただいた。魚に詳しい店主が、「カマス」のいいのが入ったと言って、特別に大きな逸品を焼いてくれた。この時季からが旬で、5月になれば更に美味しいそうだ。(それも季節は地域性との関連があり、南九州での話である。)同時にこの時季には、刺身に苦心するという話も聞いた。当然ながら、魚料理は明らかに季節の逡巡に左右されるのである。更に言えば、海の時化(シケ)具合によっても大きな影響を受ける。

野菜を買う際も、季節を意識するようになった。この時季にはこんなものが旬であると思いつつ、地元の生産者の名前が表示された品を買い求める。何より輸送費がかかってないので、安い上に新鮮である。日常で”見える”範囲の田畑で栽培されている野菜を食するという生活が、何とも貴重であると思えるようになってきた。

トレーニングにも旬があると意識するようになった。寒い時季は、必然的に体脂肪を身体が溜め込みやすい。筋肉を増大するには好都合であるが、体脂肪減少には不向きである。これから暖かく、そして暑くなれば、発汗も多くなりシェイプアップに好都合である。冬の間に鍛錬しておいた筋肉を、脂肪を更に削ぎ落とすことにより形を整える。次第に薄着になる時季でもあるので、お洒落は身体のデザインからであると心得る。

日の出・日の入りへの意識も相俟って、
自然の中で生きているこころが目覚めた。
「無為」には程遠いが、まずははじめの一歩として。
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「待てる」ということ

2014-04-21
「待つ」ということ
著名な鷲田清一の書名から。
「待ち切れなくて」から「待てる」こころへ。

何事も速度が重視される世相である。「スピード感ある」”改革”であるとか、「繋がるのが」”超速”であるとか、社会の「待ち切れなさ」は過剰なほどに進行しているように見える。かくいう僕自身も1年以上前までは、その「速さ」を身に纏っていた。問題はそれに対して、無自覚であったということである。

都会生活に距離を置いてみると、「駆け込み乗車」のような行為が、如何に馬鹿げているかがはっきりとわかる。東京ではわからなかったが、渡米した際にNYを訪れたとき、その都会的喧騒がいかに邪悪なものかをはっきりと察知した。人々は経済最優先で動き回り、過剰に密集した環境に居住し、信じ難き速度と接触寸前な動態で走る自動車の多いこと。運転をしていた僕は過度の疲労に襲われて、NY市からようやく離脱した道路のコンビニで、異常な甘さのアイスクリーム”ダブルを珍しく”簡単に平らげたという思い出がある。

「速度」は明らかに人間のストレスになるのだ。元来、ヒトは決して”速く”もない動物であろう。むしろ遅くとも精緻な思考ができるところが、長所であるのではないだろうか。「拙速」という語彙が存在するように、”駆け足”では見えず拙い結果に終わるものも、じっくりと取り組めば「熟達」するはずである。ようやく最近、その境地が見えるようになってきた。休日のひとときに、「待てる」幸せを感じ取ったからである。

「待つ」には忍耐と信頼が必要だ。
「不安」との対話から創り出されるもの。
ゆっくりと今日の一歩を見つめるこころを失わないように。
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