地域とプロ野球と

2014-02-28
プロ野球キャンプも大詰め。
月が変われば各地を転戦し始める。
その前に”練習試合”が、地域に根ざして開催された。

全試合入場無料。6チームによる全3カードの試合が、3日間にわたって組まれていた。残念ながら26日は雨のため試合が中止となったが、最終日である27日は好天に恵まれ春の暖かさの中、熱戦が展開された。これを「球春みやざきベースボールゲームズ」と呼ぶ。

参加チームは、宮崎をキャンプの拠点とする福岡ソフトバンクホークスと埼玉西武ライオンズを始めとして、沖縄地方でキャンプを張っていた東北楽天ゴールデンイーグルス・千葉ロッテマーリンズが参戦。それに加えて、現在宮崎では二軍のみがキャンプを張っている東京ヤクルトスワローズが加わり、韓国プロ野球の斗山ベアーズ(やはり宮崎でキャンプを行っている。)という6チームの総当り練習試合である。

現在はより気候が温暖である沖縄でのキャンプが、盛んに行われるようになった。観光客誘致という意味でも沖縄地方にとっては大切なイベントとなっているだろう。だがその分、南九州でのキャンプが旧来より寂しい様相を呈している。そこで地域活性化の方策としても、この”練習試合”が開催されていると云う。観光協会を始めとして県知事・市長などが積極的な姿勢を見せており、行政による地域振興政策の一環と位置付けられているようだ。

MLBキャンプと比較すると、NPBキャンプは一局中心主義な発想になりがちな気がする。沖縄がよしとなれば、多勢が沖縄キャンプへと傾いていく。MLBの場合は、フロリダ・アリゾナという二つの拠点に、うまく分散して”スプリングトレーニングが行われている。双方ともに各地域にフィールド等の施設は充実しており、オープン戦も効率よく開幕直前まで組まれている。(移動距離を考慮し開幕前の転戦は限られた数試合である。)さながら日本でのキャンプ拠点は、沖縄と宮崎として、双方に地域ぐるみの活性化が図られてもいいのではないかと思うのである。

前述したパリーグ4チームとスワローズにベアーズの6リームは、その名に必ず地域名を冠している。「東北」が昨季日本一に輝いて、復興への精神的支援に一役買ったことは記憶に新しい。「福岡」も、入団選手に「九州」出身者を多く選択しているという配慮がある。また、今や「東京」のプロ野球チームとは、スワローズなのであるが。いずれにしてもパ・リーグには現在、「北海道」「東北」「九州」が出揃うということになる。(ちなみにMLBの場合、フロリダには「タンパベイレイズ」、アリゾナには「ダイヤモンドバックス」という、シーズン中もキャンプ地を本拠とするチームがある。)

野球愛好者の僕が、この地に来た縁を深く実感する1ヵ月であった。
プロ野球のみならず、9月には「女子野球W杯」も開催されるという。
「地域」と「野球」という新たな”趣味的”命題をいただいた思いである。
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疲労は運動で克服する

2014-02-27
2日間にわたり疲労が蓄積した。
さて、トレーニングはどうするか。
何も動かずに休息に入るべきか。
はてまた動いて発散をさせるか。
後者の選択をした結果はいかに?


高い集中度が求められる仕事を継続していると、知らぬ間に疲労が蓄積していることがある。眼精疲労から首・肩に波及し、果ては精神的な沈滞を呼び起こす。そこで凝り固まってしまうか、それとも解放させるかということが、後に大きな差になって現れて来る。

運動は決して「疲れる」ものではないというのが、ここ何年かで抱いて来た僕の持論である。筋力・柔軟性・心肺機能をバランスよくトレーニングすれば、自ずと「疲労」ではなく「解放」が得られるということを体感しているからだ。他者にほぐされるのではなく、蓄積された疲労は自律的に回復させるべきだと思う。

この日もジムへ。早目の夕食を摂ってから2時間は胃腸を休ませる。だがその消化段階で、疲労に拠る眠さに襲われる。そこで後退してしまうか、それとも自らを奮い立たせるか、そんな瀬戸際を味わいながら、後者の方向へ動くことができた。有効だったのは一つに、ジムに早目に入り休憩室で食休みをとったこと。今ひとつは、ジムで親しくなった会員さんからの励ましの言葉であった。

無事に60分の激しいエクササイズを完遂。
終わるとチーフトレーナーさんから「よくやった」の合図。
トレーニング前よりも格段に気分は解放されていた。
この日々の小さな達成感が、物事を先に進める原動力になる。
帰宅して即就寝、成長ホルモンの分泌時間帯を逃すまい!
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文脈化・個人化した外国語活用を

2014-02-26
使用する場面に臨むということ。
自分自身の気持ちの発露とすること。
外国語習得段階での心掛け。

久し振りに早朝の語学番組を視るようにしている。2年ほど前に1年間継続して、なかなか成果があったことを反芻してのことだ。起床したらまずは脳内を外国語モードにしてみる。同時に毎日の習慣とすることで、継続されていくことが何よりも大きい。

その番組の中で次のようなことを言っていた。「このフレーズを使える場面で、まずは使用してみて下さい。」と。単語・イディオムは丸暗記するにあらず。知識として学んだら場面設定と使用すべき気持ちになって、活用するのが定着の第一歩である。

そうはいっても、なかなか英語や中国語を使用する機会が多いわけではない。せめて虚構の場面を設定したり、自己の置かれた状況を外国語で描写したりする”妄想的演習”が必要になる。文脈化・個人化したフレーズは、そのリズムとともに身体的にも精神的にも自己の内部に定着するものだ。

やはり語学は筋トレのようなもの。
演習がなければ衰えるばかり。
日常生活にそれをどう取り込むかである。
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「どうしようか」よりも「どうしたか」

2014-02-25
「選び疲れて眠るより、歩き疲れて眠りたい。」
(砂漠の民の言葉)
『人生の地図』(高橋歩編著・サンクチュアリ・パブリッシング 2003)より

誰しも時にあれこれと選択に迷うことがあるだろう。今日の食事にしても、夕食後の行動でも。はてまたそんな些細と思われることではなく、人生の分水嶺ともいえる領域で「選び疲れ」ることもある。進学先や就職先をどうしようか等々・・・。人生とは旅であるがゆえに、その途を「選ぶ」ことの連続であるかもしれない。そこで冒頭の言葉である。どうせ疲れるなら、「歩き疲れ」た方がいいとつくづく思うことがある。

「選ぶ」と「動き」は停滞する。高速道路の岐路(特に首都高のランプ等)の真ん中で、停車してしまっている車を何度か見たことがある。(かくいう僕も、米国のハイウェイで”やった”ことがある。)その「悲哀さ」は、何とも言葉にならない感覚だ。横目に「馬鹿だね〜」と声を上げながら、実はその「停滞」を誰しもが恐れているに違いない。もっとも最近は、ナビという強い味方があるのだが。

「停滞」すると不安が増大する。それが長く続けば、自分を信じられなくなる。その喪失感が更なる「停滞」を生み、先へ進めなくなる。負の連鎖が連鎖を生み出し疲弊していく。「選び疲れる」というのは、こうした原理に則ったものではないだろうか。「歩き」続ければ、自ずと見える風景は変化し、たとえそれが負の方向であったとしても自信を喪失することはない。「歩き疲れ」た眠りは、実に爽快なものである。

ふと、トレーニングをしながらこう考えた。
筋トレに無心に挑むことで、また心が「動き」始めた。
その先に、心地よい「眠り」が用意されていた。
僕自身の1日に「歩き疲れた」からだ。
「どうしよう」よりも「どうしたか」が、
遥かに爽快な眠りへと誘ってくれるものだ。
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1年の黎明期たる今を

2014-02-24
1月が始動期ならば、
2月は黎明期とでも云おうか。
何事も光明が見え始める頃・・・。

野球の「1シーズン」は、実に季節の逡巡と合致している。未だ寒い1月の「自主トレ」で選手は基礎的な身体作りを行い、2月の「キャンプイン」でより実践的な技術を磨く。その成果に光明を見出すべく、オープン戦が始まる。約1ヵ月後の春爛漫の頃を見据えて、野球選手たちの黎明期が進行中である。日本に野球文化が独特な色彩を持って根付いたのは、きっと季節感を大切にする文化性と合致しているからに違いない。プロ野球を観戦する全ての人々が、自己の”1シーズン”を投影できる装置であるといえるのではないだろうか。

記憶にないぐらい久し振りに、日本プロ野球のオープン戦を観戦した。試合の勝敗などよりも、各選手が今の時季にどのようなプレイを見せてくれるかに興味が尽きなかった。調整不足が否めないベテラン投手もいれば、新人ながら小気味のよい投球をする投手もいる。いやむしろ新人ゆえに、この場でアピールしないとメンバーに残れないということになるのだろう。打撃面でも様々な工夫や挑戦が見える選手と、闇雲に結果のみを求めて消極性を感じざるを得ない選手など、見応えは多彩であった。

僕が野球少年だった頃、東京ではこの時季のオープン戦をTV観戦するのが実に楽しみだった。映像を通して感じられる一足早い”春の光”に、来るべきシーズンの躍動感を覚えたからであろう。球春は南からやって来るという、日本列島の地理的条件を体感する機会でもあった。まさにこの日は、そんな春の予感をこの一身で味わう絶好の機会であった。

黎明期といえば、大学入試も盛んに行われるこの時季。18歳の頃の僕も、必死に人生の夜明けを見たいがために闘っていたのを思い出す。複雑な心境と信念を抱え込んで挑戦した「1発試験」であったが、どこか妙に「根拠のない自信」に満ちていたのだと回想することができる。今にして思えば「夜明け前の闇は一番暗い」という成句がお似合いな年頃だった。あれから幾歳月が経過したのだろうか。今年もまた夜明けを信じる受験生を、今は迎える側に立っている。

短い2月も最終週。
今年は実に深く考えさせられた。
僕自身の”今”もまた、黎明期に他ならないのだろう。
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講演「日向神話を読みなおす」を聴いて

2014-02-23
居住地域に根付いた「文学」。
あらためてその扉を開いてみたくなる。
講演「日向神話を読みなおす」を聴いて。

大学の創立記念事業により、『古事記』研究の第一人者・三浦佑之氏による上記の公演が開催された。上中古文学を専攻とする者として、大変興味深く拝聴した。大学学部時代に、『古事記』と『万葉集』(僕はこちらに所属)の研究会が合同で宴会などを開いていたせいもあって、その頃『古事記』に関して読む機会は結構あった。同時に、学部時代に講義を受けた『古事記』研究をする先生のキャラクターを慕っていたことも、古代文学への憧憬を深める理由でもあった。

昨年から「日向神話」に関する由緒ある土地を、機会あるごとに訪れた。だがなかなか『古事記』を読みなおす機会を得ないままだった。あらためて三浦氏の「記紀」への考え方や、「神話」の読み方を知り、その深淵に対する好奇心が起動した。「日向神話」の『古事記』の中での位置付けを起点とすることで、僕自身の中でもあらたな「読みなおし」ができるような気がして来た。そんな思いから、講演の帰途に三浦氏の御著書を購入した。

住んでいる地域の文学を知ることは面白い。それは、僕が幼少の頃からの大きな動機付けだ。芥川龍之介や萩原朔太郎が居住していた、所謂「文士村」と呼ばれる土地で僕は生まれ育った。それならば近代文学を専攻としてもよさそうなものだったが、結果的に中古文学を専攻としている。文学研究を和漢比較という方法で考究しているのと同時に、国語教育に関する論考も進めているのは、こうした背景があるからかもしれない。どこか欲張りに、教材論や授業方法論を考えることで、近代文学と関わりたいという欲望を満たしているのかもしれない。

要は、「文学」をどこまでも楽しめばいい、ということに帰結するのだろう。そんな意味でも「日向神話」への興味は、僕が考究する多様な研究分野の中に新たな灯火をつけたような気がしている。「記紀編纂1300年事業」を県で推進しているようだが、この地に住む子どもたちに「神話」への興味付けができているかと言えば、未だおぼつかない印象である。絵本やリライトされた物語なども活用して、生まれ育った土地に根付いている「文学」を子どもたちにも伝えていく方法を考えたい。それこそ僕が、この土地でできることなのだと思う次第である。

三浦氏の批評性に富んだ視野の広い「神話」の読み方。
あらためて「文学」としての『古事記』の面白さを知る。
「国定教科書と神話」という三浦氏の論考を、ここに覚書として記しておこうと思う。
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「自分のペース」こそメダルに値するじゃないか

2014-02-22
ことばでは表現できない感激。
美しさ・精度の高さ・集中度。
片手間な分析を許さない技の高み。
視ることでしか伝わらない究極の演技。
それを彼女は「自分のペースですけど、成長できた。」と語った。

「天才少女」と云われて、浅田真央の闘いは始まっていたのだろう。早期に開花したこの逸材にメディアはこぞって過剰な報道をし、その”伸びしろ”に絶大な期待をかけてきた。その外聞と彼女自身の成長は決して合致せず、特に五輪という日本社会における”特殊な舞台”での結果を求められ続けて来たということになるのだろうか。

”特殊な”と言ったのは、この時季になると「メダル・メダル・メダル」という世間の喧騒を、僕自身も甚だ嫌悪しているからだ。期待が掛けられている選手が「メダル」を取れなければ、罵倒するかのような発言が跳梁跋扈する。その一方で、特に注目もされていなかった選手がメダルを取ると、群がるようにメディアがその足跡等を喧伝する。勿論、選手たちは向上するために、個々の生き様を賭して競技に挑んでいるのだろう。だが世間の論調の多くが、「自分のペース」を尊重するような波長がないことが甚だ残念であると感じるのだ。

個々人の胸に手を当てて、そっと考えてみよう。自己の生活や成長は、何よりも「自分なりのペース」が大切な筈だ。決して他人にはわからない、自分なりの境地を必ず持っているものである。単純にジョギングをしていることを想像してみよう。外野からそのペース配分に五月蝿く注文が付けられたならば、どれほど走りにくいかは自明のことだ。怠惰に陥ることなく、高みを目指すという意味において、外部からの抑圧ほど当人を苦しめるものはないだろう。

「自分なりのペース」をなかなか他者は理解できないものだ。だがしかし、それをわかろうとすることこそが「愛情」なのだろう。そこに自己との差を見出した時、こちら側の「自分なりのペース」を省察し歩調を合わせることができるかどうか。決して妥協ではない前進のベクトルがあることを前提に、精緻な「ペース配分」に配慮できるかどうか。スポーツを真に愛するということは、こうした選手側に立った視点をもてるかどうかではないだろうか。

”下等な注文”を許さない美しさに満ちていた。
本人こそが流した自然に溢れ出る涙。
僕たちはわかった気になるだけで、決してその真実の苦闘を知らない。
メダルよりも大切なもの、
それは「自分のペース」でその競技を愛する選手の姿勢ではないか。

浅田真央さんの滑りは、そんな真を僕に教えてくれた。
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発言が「不適切」なのではなく・・・

2014-02-21
世を騒がせる不適切発言。
その内容も様々ではあるが、
発した言葉が問題というよりは・・・

運動選手にとって五輪という究極の舞台で闘うことは、僕たち素人には計り知れない重圧がある筈だ。それを外野から論評するのは自由である。だがしかし、国家において五輪に関する要職にある人物が、競技の上で選手に成果が出なかったことに対して、見下した発言をすることを僕は許せない。

こうした発言は「不適切」なのではなく、発言した人物の心が投影されたものだと常々思う。世間では「公人か私人か」といった問題として取沙汰されることも多く、またそうした理屈で自ら逃げる輩も多く見掛ける。だが問題はそこではない。その人物の心が問題なのだ。

そうした腐敗した心を持った人物を頭に据えて、日本で再び五輪が開催されることに、あらためて大きな疑問を抱かざるを得ない。あくまで五輪招致や開催が悪いと言っているのではない。(元来「東京」開催に対しては、僕は反対意見を持ってはいたのだが。)開催国として世界から多くの人々を迎える立場として、この未成熟な国家・社会のあり方に対する羞恥心によるものである。

こうした日本社会でいいものか?
疑問を持つことが成熟への道である。
やはり僕たち一人一人が社会を変えていかねばなるまい。
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直感が具現化するとき

2014-02-20
ある本に曰く、
「方角なんて直感でいい。
 まずは一歩を踏み出そう。
 未来は歩きながら考えていくものだ。」
僕は、分析的なことを求めることもあるが比較的直感タイプ。
ではそれを具現化し行動するとはどういうことか。

朝起きた瞬間に、思いを抱いたことがあった。脳科学者などの言葉に拠れば、睡眠中に記憶は整理され取捨選択されていくという。意識無意識の往還を経て存在する”意志”。それこそ自分が求めている直感に依存したものではないだろうか。そんなことを考えつつ起床以後、その”意志”の具現化を考え始めた。

自らが招いた憂鬱や、蜂に刺されたりしたこと。それに加えてこの朝には、台所の蛇口の一部に亀裂が入り、少量の水が吹き出したりもした。取り急ぎ応急処置を施してもらったが、どうも今月は下降気味な運気を感じざるを得ない。特に占いなどを信じるたちではないが、たぶん生きることに”波”があるとしたら、引き潮の状態であるように感じる今日この頃である。

だが昨日の小欄に記したように、「「哀」なくして、「楽」はない」のである。引き潮なくして上げ潮はない。要は後退したときにこそ、その人の心根が試されるのではないだろうか。そこで頽廃的に憂えるだけか、進歩的な行動をとるかで、その先の波に乗れるか否かという大きな差が生じるように思う。

仕事を終えた夕刻、起床時に思いを抱いた”直感”を行動に移した。自分が想像もしていなかったことを、実行していこうとする愚直さのようにも感じながら。だが行動することで、次第に元気が回復してくるのが実感できた。かくして朝一番に思いを致したことが具現化する準備が整った。

直感は、直感のままでは機能しない。
そこに自分の意志を載せて色彩を施そう。
すると具現化した行動が見えて来る。
たとえその「方角」が間違っていてもいい。
まずはいじけずに「一歩を踏み出す」ことだ。
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「明日晴れるかな・・・」と囁いて

2014-02-19
毎日のような寒雨、ところにより大雪。
身も縮こまり節々は硬直し気持ちも滅入る。
春の足音が早めに聞ける地と思い込んでいた幻想が、
尚更そんな心を刺激する。
ある曲に合わせて囁いた「明日晴れるかな・・・」

大雪に見舞われた地域の方々からすれば、甘えたことばは吐けない。だがその土地土地の生活実感として、”このようである筈”という思いに違える気候が続くのは、精神的な後退を強いられるようだ。断続的に降り続く雨、そして立春を過ぎても一向に暖かくならない気温。洗濯物もまともに干せず、ただ雨空を憎らしげに見上げるだけだ。

こんなときに僕を救ってくれるのは、たいてい桑田佳祐さんの曲だ。ほぼ運転中は、彼の曲ばかりを繰り返し聞いている。前述した精神状態を救ってくれたのは文字通り「明日晴れるかな」(「I Love you -now & forever」所収)という一曲。ワイパー越しの視にくい路面を凝視しつつ、ついつい声に出して囁いた。

「神より賜えし孤独やトラブル
 泣きたい時は泣きなよ
 これが運命(さだめ)でしょうか?
 あきらめようか?
 季節は巡る魔法のように」

神様はときに気まぐれ。「運命」という名の「孤独」や「トラブル」を人間に強いる。僕たちはそれをどのように「運命」だと解釈するかで、その後の行動も変化して来る。「あきらめようか」という方向に向かうのは簡単だが、そんな彷徨の合間にも「季節は巡る」のである。まるで「魔法」であるかのように。そしてその「巡る」に助けられるときがきっと来るものである。

「Oh, baby, You’re maybe.
「哀」無くして「楽」は無い
 幸せのFeeling
 抱きしめてOne more time」

雨なくして生物は生きられず、その恵みによってこの地球(ほし)で生かされている。人間は自分勝手な都合で、いつも天を恨もうとする。その恩恵をいつしか忘れて。もちろん「恵み」と呼ぶには甚だしい場合もある。だが人間存在というものは、それを「運命」として受け容れなければならない。その受け容れ方の機微が、様々な物語となって僕たちの生き方をまた潤してくれる。

「Oh, baby, You’re maybe.
 もう少しの勝負じゃない!!
 くじけそうなFeeling
 乗り越えて One more chance.」

自分がどこまで登ったのか、定かでなくなる場合がある。1つ1つ重ねて来た積木が些細なことで崩れることも多い。”やけ”を起こして積木を自ら崩したくなることすらある。だがそんな刹那の感情で、「在りし日の己」を憎むほど馬鹿げたことはないだろう。いつしか実は「9合目」まで登っているのかもしれない。人生の坂道は暗闇ばかりゆえ「もう少しの勝負」を大切に。

「Oh, baby, Smile baby.
その生命は永遠じゃない
 誰もがひとりひとり胸の中で
 そっと囁いているよ

 「明日晴れるかな・・・」
             
  遥か空の下
                」

「生命」は有限にして「永遠」などない。今という時を大切にしたいと考えるのは人情だ。だがどのような手段で大切にするかは多様である。それでもなお「誰もがひとりひとり胸の中で」同じように「そっと囁く」ことがある。明日の青空を願って、今をくじけずに生きる。様々な「情」の交錯を胸に秘めて、明日の晴れを信じ続ける。

本日も曇天なり。
それでも・・・
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