星は何でも知っている
2013-11-30
満天の星空。地球が丸いと感じられるところ。
無数の星に僕たちは見守られている。
初冬を迎え澄んだ大気圏。
星は何でも知っている。
宇宙が好きだ。科学的な分析というよりも、そこに物語があるような気がするから。果てしなく広がり、その限界もわからない。探れば探るだけ奥深い次元のストーリー。SF的でもあり古代的でもある、矛盾に満ちた存在。その要素の多くが人間の想像力に依拠しており、決して真実ではないかもしれない。だが宇宙界全体を見極めるべく、人間という生命体は”猿知恵”を駆使してそれに挑もうとしている。
360度満天の星空に出逢った。今までにも何度か星空に感激したことはある。小学校3年生で、英会話セミナーの林間合宿に行き初めて天の河を見た。カナダの湖畔にある友人宅で、誰にも邪魔されない環境のうち地球と宇宙の相対性を感じた。そんな僕の人生史に新たな星空が加わった。この地の置かれた地理的条件が為せる技なのか。更には実に焦点化したその丘が、とりわけ特異な地球上の地点であったのか。そんな大仰なことを、感じさせるほどの光景であった。
無数の星を見ている僕。”見ている”という意識自体が自惚れであり、実は星たちに見られているのかもしれない。人生日々歩んでいると、不安や不確定ことだらけである。だが、こうして「宇宙」を感じる時間を持てば、その混乱も実に些細なことであると自覚できる。星は何んでも知っている。ゆえに幸福と平和への祈りを込めて星空を見上げよう。
都会では得られなかった時間。
誰にも教えたくないあの丘の上。
この地に来てからの時間の堆積が報われる思いだ。
この場所に出逢う偶然と必然。
繰り返すが、星は何でも知っている。
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「国語教育」と「日本語教育」の交流
2013-11-29
一般の方からすれば、「国語」と「日本語」の何が違うのかと思うだろう。
だが、日本の学校現場での教科名は「国語」である。
「日本語教育」と言えば第二言語としての日本語習得を指す。
壺のような「国語」の深度は甚だしく、多様な交流は未だ十分ではない。
大学院授業で、言語学を専門とする先生との複数教員担当科目がある。後期となってから「国語」を専攻する大学院生にも「日本語教育」における言語学的な分析を考察した研究内容を知ってもらう為の機会を模索していた。そこで、「日本語教育支援」を専攻とする外国人留学生の修士論文中間発表を授業内で実施する計画を進めて来た。その上、言語学研究分野で他大学の先生も招いてという、実に多様な参加者によるコラボな空間が出来上がった。
発表内容の詳細を小欄に記すことは避けるが、「動詞」や「助詞」の問題について外国人留学生なりの視点により、日本語の一側面が分析された発表であった。特に「談話」分析となると、「国語」という教科の中で意識すらされないのではないかという反応が、院生からの質問・感想・意見の中に顕然としていた。
国語教育の領域として〈話す 聞く〉がある。様々な内容を発表したり話し合ったりする学習活動が行われている。その多くは「内容」の交流に重点が置かれ、「談話」レベルで適切な表現か否かという子細までは問題にしない場合も多い。誤解を招かないように述べておくが、むしろ「国語教育」では、「書き言葉」に近いレベルで〈話す 聞く〉が行われているということである。特に「自然談話」という学習者の日常性に根ざした表現に関しては問題にされない。となると〈教室〉では、まさに「学校談話」とでも云うような形式的に自然でない建前に依拠した〈話す 聞く〉が行われているということだ。このあたりに、多様な表現力を養い得ない「国語教育」の限界が垣間見える。
僕自身も、まだまだ「日本語教育」に関しては勉強不足であるが、「国語教育」の改革にあたって大変重要な示唆を得られる時間であった。大学院時代に、海外へ行って日本語教育に携わりたいという願望を抱き、その基本的な理念や授業実践を学んだ頃のことが思い返された。少なくとも、「日本語教育」のあり方そのものが、「国語」という教科教育の閉塞感に風穴を開けるのは確かであろう。もうそろそろ、「国語」という思想の呪縛から解き放たれる方向を目指すべきではないか。
週末にかけて数日間、
このような交流機会が続く。
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携帯着信は不安ですか?
2013-11-28
携帯に着信あり。友人・知人・親族の場合。
相手が予想できない番号の場合。
それぞれに思い抱くことがあるのだが、
どうしても「不安」の方が大きいのはなぜか。
人一倍想像力が旺盛であると自認する。読み物全般に於いて、様々な行間に入り込む癖があるからだろう。物語・小説などは構造上「事件の発生」が準備されている。その領域を通過する主人公が、異界を体験し再び現実に戻るか、あるいはその逆という展開となるのが典型的である。これは映画やドラマの構造も同じである。それゆえに、携帯着信を契機に「事件の発生」を様々に想像してしまうのである。もちろん楽天的な性格でもあるから、希望を見出すことがないわけでもない。だが過去の多様な体験から負の方向性を想像してしまう自分を発見することが多い。
自動車運転中であれば、すぐに受話できない。着信しつつ信号待ちに相手を確かめる程度となる。するとどのような相手でも不安が増幅する。これは一種の現代的”携帯”症候群のような症状だと自己診断できる。昨日も運転を挟んで、このような不安な時間を過ごした。車内に流すサザンの曲の種類さえ左右した。(僕にとって大きなことだ)だが、自宅に着いて友人に電話すると前向きな相談内容であった。それまでの不安は一掃され、穏やかな気持ちになった。
では、その不安は無益なものなのか?否、友人との関係を様々に考える為の材料になったという意味では、有益な時間であったかもしれない。こうして小欄に記すことで、無益を有益に変換することばの作用が働いているともいえよう。表現するということは、自己を”創作的”に意味付けるということでもある。
いつでもどこでも携帯できる。
その利便性が、様々に人間の心理を揺さぶっている。
先進の機器に支配されないようにするためにも、
自己の多面的な想像力が必要とされるであろう。
友人の希望を語る電話に感謝し、のちに安眠が用意されていた。
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「動静」の隙間
2013-11-27
「停止」・「静止」・「沈黙」が怖い場合がある。例えば、〈授業〉などがその好例だ。
素人落語を習得した際もそうだった。
だが決して何もない空白の時間が悪い訳ではない。
濃淡が付けば動いているときを映えたものにする。
数日間、やや「静止」したかのように小欄のことばを刻んだ。時間的余裕がなかったのもその一因だが、日頃から無配慮に冗長なことばを垂れ流していないかという省察をする意味で、よい機会となった。どんなに余裕がなく身辺環境に喧騒が訪れていても、ことばを刻まない訳にはいかなかった。
冒頭に記したように、ひとたび歩み出すと「立ち止まる」ことにも勇気がいる。「停止」という語彙にはまだ「動き」が含有されるが、「静止」となると微弱な「動き」さえ封じられた感がある。いわゆる「立ち行かない」という事態を迎え、不安と恐怖に身を曝すことになる。
それゆえに微量でも動き続けることは、不安を消し去るには好都合である。その際に、少々引き返してみるとか、左右上下を見回す心の余裕が欲しい。自分の位置を確かめつつ、動き続ける。次第に不安は解消しまた再び希望の光が見えて来ることが多い。「静止」したとしても、ストレッチをするかのように動かさずに刺激を与え続け、生命の種火はどんなものなのかを見極めるのもよい。
数日間、両親と時間を共有して考えたこと。
未だ一歩一歩着実に歩もうとしている二人のことば。
そこから僕自身の人生を感じ取る時間。
大きな変化を恐れずに歩んで来た今がある。
「静止」にも刺激があり、再び大きな前進をする力が宿っているものだ。
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喧騒の先の安住
2013-11-26
落ち着いていた場所からの移動。尻が重く、なかなかという場合も多い。
だが、歩調も軽やかに動く先には新たな縁がある。
その関係性が次第に熟成し、己を育んでいく。
1年前に契機となった日々を、回顧する彷徨。
動けば喧騒の中に、身を落とし込むことになるのだが、
その先に、穏やかな安住があると信じることこそ希望なのだ。
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両親との時間
2013-11-25
その縁(えにし)あってこそ、存在する自分。いま、あらためて幼少の頃からのことを思い返す。
年齢が進むに連れて、疎んだり怒って対応してしまうことも・・・
だがいつになっても、親は親なのである。
子に対する思いやりが、様々な形で表出して来る。
真の「孝行」とは何かを、最近は考えるようになった。
かけがえのない存在であることを、噛み締める時間があってもよい。
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家に対する感性
2013-11-24
家とは何であろうか?日々の生活に追われ考えることも少ないが・・・
その至って私的な空間は自己に何を提供してくれるのか?
安らぎ・落ち着き・はてまた葛藤・欲望。
人生を旅に喩えた詩人は多い。
となると「家」にはいないことが人生なのか?
家に対しては様々な感性があることを改めて知る今日この頃。
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日数換算で意欲喚起
2013-11-23
あと39日。あと234日。
年内残日数。
次年度教員採用試験勉強残日数。
いわゆるカウントダウンという方法。
大学3年生ゼミでのこと。指導する5名全員が公立教員志望なので、そろそろ採用試験対策に本腰であれと話した。大学受験であればセンターは1月、2次試験は2月であるから、3年生になってからでもそれなりに受験勉強時間は確保できる。だが大学生の教員採用試験となると1次試験は7月である。もはや半年前という意識を持つべきであるということだ。自明のことであるのだが、現時点での意識が大変重要であると思うがゆえである。
それも漠然とあと半年というのではなく、あと234日と具体的に日数を示すことが有効である。勉強できるのはあとどれほどか?更に時間に換算すれば234日×24時間=5616時間。そのうち1日に6時間睡眠をしたとすると、1404時間がマイナスとなるので、4214時間が勉強のできる持ち時間。もちろん大学の講義もある、食事もすると考えると、勉強時間というのは自ずと限定される。
合否という「差」はどこから生まれるのか?もちろん時間量だけではないはずだ。2次試験までを考えれば、本人の資質・日頃の知的生活・志望への意欲等々様々な観点が問われるだろう。だが少なくとも1次試験の突破に向けては、総勉強時間量が左右するのは確実ではないだろうか。それは単に知識を蓄積する能力というよりも、時間をどのように自己管理できるかという、基礎能力を問うていると考えた方がよい。
自営業で今でも現役で頑張っている僕の父がよく話すこと。「人間は誰でも持ち時間は24時間、それをどう使うかで生き方が変わる」と。他のライバル業者と比較してどれほど質の高い仕事をするかは、やはり時間管理による基本的な数量がそれを保証するのだという実感から出たことばであろう。幼少の頃から僕は、このことばを聞いて部活動と勉強の両立や受験勉強に励むことができた。
ゼミで話したことにやや補足して小欄にことばを刻んだ。ここまで記してふと己を省みることに。現在の環境であればまだまだ、まだまだやれることがあるはずだと。まずは残日39日である、公私ともに2013年で成すべきこと、成したいことを現実にしよう。
ゼミ生たちに話すことでも、
自己の問題に照らして考えてみる。
あらためて〈2013〉年頭の手帳ページを見た。
まだまだやれる!!!やることがある!!!
そんな思いで〈2013年〉327日目の朝を迎えた。
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「自分なりの考え」を持つべきなのに
2013-11-22
読んだり意見を聴いたりして、情報などを読み取った上で、
「自分なりの考え」を持とう、
という学習目標がある。
果たして「自分なり」とは何か?
大学院講義で行われた小学校の「模擬授業」で話題になった。物語を読んで「自分なりの考えを持とう」とはどういうことかと。誤読のない範囲で物語を読み取り、そこから自己の体験や思考に即した考えを持つことであると、理屈の上で語るのはある意味で容易だ。だが、指導者はたいてい一定の読み方・考え方を目指して授業を行っているのでは、という素朴な疑問が受講者から提出された。
個々の多様な思考を大切にし、判断力や想像力も育むというのが「国語」という教科の目標でもある。物語の情報を如何様にも捉える自由は束縛されず、「答え」は一つではないという個の重視こそが重要であるというのが、長年の国語教育改革の流れである。一定の情報に対して個別な意見を持つことこそ、急速に垣根が撤廃されつつある国際社会に生きる市民としての適切な立ち位置である。
「理解」と「表現」を伴ってこそ、「思考力・判断力・想像力」が涵養される。市民は個々に「理解」し「表現」する基本的な権利がある。何が「真実」であるかを知り、深層まで理解し、「自分なり」の考えを「表現」してこそ熟成した社会が構成される。例えば、読むべき「物語」が一定の恣意的な都合のいい解釈で、選別されてしまうことは国際競争力を高めようとする教育にまったく適さないものであることは容易に判断できる。
この2年と8カ月の間、何が「真実」なのかという情報の信憑性が大きく揺らいだ。懐疑的に「自分なり」の考え方を持つ人間が、「異常」だと忌避され非難されることも多くなった。情報公開に対して真摯だと思われた政権は、公約を実行は愚か頓挫し、その傷口が化膿するかのように、今や情報公開に対して否定的な流れが跳梁跋扈している。「裸の王様」の物語を、「王が裸であるかは公開できない」と王宮内に閉じ込め、「裸ではない」という解釈をする者のみで国の方向性を決定して行く”流れ”とでも言ったらいいだろうか。これは、「自分なりの思考力・判断力・想像力」を育むはずの教育そのものの否定にもなりかねない。いつの時代も「王様は裸だ」と言える子どもがいてこそ、健全な社会が保たれるはずだ。
国際的に豊かな視野を持つ市民による成熟した社会。
経済的な優位よりもこの国が目指すべきところ。
市民として、適切な「ことば」による「自分なり」の考えを持つべきである。
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あの犬よ無事でな!
2013-11-21
犬が道路の中央を走る。正面から車が近づく。
対向車線の運転席から見えた光景。
通り過ぎねばならずあとはバックミラーで状況を追う。
近づいた車は停止したが・・・。
都会では放し飼いの犬を見なくなった。野良犬はもちろん、首輪をしている飼い犬でも”自分勝手”に散歩している犬が、過去には多く見られた。猫に比べると比較的状況察知を心得ていて、車が来ると停止して待機したりもする。犬ならずとも、車社会の犠牲になる人間も多い。僕たちは歩く立場でも、運転する立場でも、道路での理性をあらためて考えるべきかもしれない。
犬好きのせいか、路上で犬を見掛けるとその眼に意志を感じることがある。「あなたは犬が好きですね」といった訴えかけをしてくれている奴は多い。物心つくころには家に犬がいた。スピッツ犬で名前は「シロ」といったが、既に老齢で僕が幼稚園に行く前に天に召された。その後は雑種犬の「チビ」が来た。しかし都会の環境では、次第にこうした室外犬が飼いづらくなったのだろう。郊外の知人に託されたらしい。僕は「チビは迷子になってしまった」と犬自身の責任でいなくなったと教えられ、悲しまないように「大人の嘘」を伝えられていた。
その後は、祖父母が住む郊外宅で雑種犬が飼われていた。 確か「アポロ・・号」の打ち上げの日に生まれたので、「ポロ」と命名された。週末に郊外まで行くと犬とふれあう時間があった。その後は、暫く自分の家で犬を飼うことはなかったが、大学を卒業する頃に室内犬のチワワを両親が飼った。名は僕の思いつきで「チビ丸」となった。ところが飼って2カ月ほど経つと風邪を引いて肺炎で危篤状態となった。その日が、何と僕の大学卒業式の日であった。犬を心配しながら大学卒業式へ向かったのだが、どうやら「シロ」時代に世話になった町医者である獣医さんの息子である二代目の先生が、家の近所で開業しており、手際の良い治療を施してくれて「チビ丸」は回復した。そんな犬の思い出がある。
冒頭で書いた犬はどうしただろう?
帰りに同じ道を通るのが正直怖い思いがした。
だが状況からしてたぶん、車を回避して飼い主のもとに戻ったであろう。
この地では、田んぼの畦道を犬が闊歩する姿を春先にも見た。
他愛もない犬の思い出話、だが無性に犬が好きである。
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