柔軟性の回復
2013-10-31
加齢とともに失うものは?筋力と柔軟性の均衡。
だがそれはトレーニング次第で回復可能だ。
怠慢は退化を生み出す。
脳も同様にパワーと柔らかさが欲しい。
夜間の時間帯に他の欲求がない環境で生活しているせいか、トレーニング頻度と充実度が大変高い。身体鍛錬の成果としては、今までかつてなほどのレベルにあると自認する。しかも筋力やシェイプ感のみならず、柔軟性や身体バランスも磨かれて来ているように思う。この5年間ほどのトレーニング習慣は、今後の生活にとっても財産となりそうだ。
この日も恒例のスタジオクラスに参加した。普段は見掛けない方が隣の位置に居座った。開始前のストレッチを見ていると、開脚状態でお腹までが床に着くほど柔軟性が高い。しかも腕の太さを始め、筋力パワーも優れていそうな印象だった。自惚れに過ぎないが、このクラスにおいて僕は、かなり動ける部類の一人であったと自覚していただけに、この方の存在は、トレーニングに新たな緊張感をもたらした。何事も「自分より少し上」の存在が、発達する為の指標と励みになるものだ。
トレーニングというと往々にして、筋力アップやシェイプに執着しがちであるが、柔軟性の回復を忘れてはならない。かつて大学院修士時代には、激しい肩凝りに悩まされていた。教員時代も無理がたたると腰痛を起こしたこともあった。だが、今はその双方ともにまったく起こらない。先週末の研究学会出張で4日間ほどトレーニングをしなかったら、やや肩凝り傾向が見られたが、月曜日にストレッチ・筋トレを再開すると回復した。快適な身体維持は鍛錬の中にあり、である。
昨今、スポーツ選手の現役年齢が高くなって来た。
クルム伊達選手を見れば明らかだろう。
自己を鍛え続けるということは尊い。
もちろん身体を動かすことで脳も活性化する。
そして、何より柔軟性の回復をあきらめるべきではない。
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「書くことの意義」再考
2013-10-30
なぜ小欄を書き続けるのか?ふと毎朝の己を再考してみる。
期間にして4年と1ヵ月が経過した。
ほぼ毎朝書いている。
その意義とは?
昨日紹介した宮城教育大学・相澤秀夫先生が講演において、「書くことの意義」を6項目挙げていた。その項目を見るに、学校教育のみならず我々にも該当すると思いつき、小欄のようなブログを書くことの意義について再考してみようと考えた。
「1、立ち止まって、自分と向き合うこと。」
毎日毎日の時間は、流れるように進む。年齢とともにその速度が早くなった、などと感じる方も多いであろう。時間の潮流の乗っていると、己が見えなくなることがある。そこで1日に1回ぐらい、自分と向き合う為に立ち止まる必要性を感じる。小欄のテーマとして「心を空にして先入観をなくしていけば、・・・」としたのは、自己観察の意味合いが大きい。
「2、自分を確かめること。」
昨日1日で、自分は何をしただろう?何も成果主義に陥るわけではないが、己の命を燃焼させた尊い1日を確かめてみたくなる。感じること考えることは次々と顕然とするが、すぐに去来していくのも世の定め。『方丈記』冒頭にあるように、「1日」(人の生)=「よどみにうかぶうたかた」なのであるから、その「泡」のごとき己を確かめたい。
「3、優れて考えること。」
小欄を書こうという意志があると、日常から様々なアンテナが張り巡らされる。たとえば些細なことばでも辞書を引き調べたくなる。友人と会えば、その関係性について客観的に分析したくなる。「文学」「教育」を始めとして「生きる」ことから「野球」まで、己のアンテナで受信した物事を、一段高級なところから思考することができる。
「4、感性を豊かにする。」
季節の移ろいに敏感になる。小説の一文に徹底的にこだわる。巷間で人々の行動のあり様と自己の感性を比較するようになる。発せられた「ことば」をテキスト分析するかの如く解釈するようになる。日常で発生した感情は、すぐにことばとして切り取りメモ帳やスマホに記録する。豊かな知的生活となる。
「5、一過性の体験を一生の財産にして、経験に高める力がある。」
小欄でいえば、「生きる」や「邂逅」の項目が特に該当する。そこに記した喜怒哀楽は「一過性」に過ぎない。だがしかし、「書くこと」で一生の財産になる。現に僕自身は、1年前の今日は?などと考えて小欄を遡って自分で読むことがある。そこから教わって未来への道が拓けたことは幾度もある。もちろんその1日の「余滴」を、研究や授業の”ネタ”にすることも多い。
「6、自分の存在を他に示すことである。」
日記帳なら自己と対話するだけであるが、小欄のような場所なら多くの方々と対話できる可能性がある。決して「アクセス数」にこだわる必要もない。(こだわっていたら物事が歪んで見えるかもしれない。)一人でも数人でも読んでくれる方がいれば、ぞれは己を「他に示す」ことになるだろう。生きている限り自己披瀝したいというのは、人間の根本的な欲望であろう。
6項目に対して、小欄を書く意義に照応させ、
思いつくままに今日も「書いた」。
自分自身を「書くこと」は、
僕にとってはもはや、
「洗顔・歯磨き」に匹敵する日常習慣だ。
ぜひともこれを、研究論文や著書にもいえることにしたい。
また「書くこと」の欲求が高まった。
「生きる」ことは、「書くこと」である。
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すべては「対話」の実践から
2013-10-29
「対話」をどのように〈教室〉で実践するか。理論をいくら構築しても現場でどうするかが重要だ。
幾多の研究者と接しているが、自ら実践できる力を持つことは尊い。
現場からまさに「叩き上げ」で歩んで来た経験が大きいだろう。
僕自身が目指す一つの方向性であるとも感じ取れた。
附属中学校に宮城教育大学の相澤秀夫先生がいらした。教員研修として講演のみならず、中学2年生の道徳授業を実践された。その生の授業から学ぶことは、”豊作”とも比喩したくなるほど実り多きものであった。研究者であり授業実践者であるということ。「自らできる」という妥協なき立場こそ、教育系研究者として必須の素養ではないだろうか。
授業前から担当クラスの生徒たちとの”出会い”を楽しむ。相澤先生はそこから始めていた。一人一人のファーストネームを呼びつつ、返事の「声」を誉め称え握手を交わして行く。「これから「対話」の時間を持ちます」ということを相互が心身ともに起動するための扉を開くのである。初対面の子どもたちと”出会う”ということ。それが「対話」の入口である。
子どもたちの「声」を褒める語彙を多様に持つことも大切だ。「大きさが大切なのではない」とした上で、「切れ味」「響き」「力強さ」「信頼される声」「気負いのない声」「安心できる声」「声のモデル」等々を個々の子どもたちの返事に対して褒めて行く。「(中学生は)自分の声に責任を持つ。」ということばも有効に作用する。そして「声が届くということは、学び合うということ。」という理念を提示しておく。
その理念は、その後の授業内で実践される。前置きも少なく教師からの「道徳教材文」の音読が始まる。抑揚あり強調表現あり。その音読そのものが〈教室〉の緊張感を醸し出し、子どもたちを自ずと内容理解へと誘う。指名読みのあり方も巧妙だ。「いい読みだね〜」と褒めながら、「・・・がわかる読みだったね」といって内容理解の注意点を加える。しかもその授業で扱う要点となる部分を繰り返し読ませて行く。一斉読みと個別読みを縦横に配置する。次第に最重要な一文に焦点化し、”執拗”と思えるほどに「音読」を繰り返して行く。
教材内容から生徒たちに考えて欲しい内容は、行数を指定してノートに書かせる。すぐに机間巡視を始めてはならない。まずは個別生徒に対応しておく。生徒が一定量書き上げたら、机間に入りその書いている内容について自ら座席表にメモしながら、「◯△さんは、・・・ということを書いている。一番考えて欲しい内容だね」などと全員に紹介して行く。子どもたちは褒められながら自分の書いた内容が紹介されるので、一向に嫌悪感も示さない。書いている時にも情報を次々と入れて行く。それが学び合いの場である〈教室〉のあり方なのだ。もちろんこうした間に、後の発表順番を意図的に構築しておくことも要点である。
子どもたちは席が隣の者と意見交流をする。そして他者から得られた意見は「赤ペン」でノートに書き加える。交流の中でわからなければ「もう一度聞き返す」ことを指示し、受け止めることの大切さを明示し「聴く力」に配慮する。「友達のことばをもらうということは悪いことではないよ」という投げ掛けも印象的であった。その後、全体に向けて先ほどの座席表メモに基づき個別発表となる。
個別発表では、最重要な点を書いている複数の者から始める。一つの鍵となる単語が出て来たら、「・・・の中身が問題だね」などと価値付け・評価しながら、深いことを書いている子どもたちへの発表へと移行して行く。どういったことばを投げ掛ければ、子どもたちの考えが深まるか、という観点で多様な表現力を持つことが教員として大変重要であると認識できる。そしてまた子どもたちの発表内容を、「驚きの眼」をもって見ることも大切であるという。決して子どもたちを「見下さず」「決め付けず」「固着しない」姿勢で受け止めていくことが大切だということだ。
授業の最後は、この内容は「君たちの普段の生活にも起こりうることだね」という提起をする。そんな場面で、「どのように考え、判断し、行動するかが大切になる。」といって、教材文で学んだことが机上のことではなく、自らの身上の問題であることを述べる。決して教訓的内容をまとめとして押し付けないことも重要だ。往々にして教師は、道徳授業などというと、説諭的姿勢で上から規範を押し付けるという悪弊に陥りやすいということへの警鐘であるとも解せた。
記憶の鮮明なうちに、覚書のように書き連ねた。敢えて小欄では教材文の内容を示さず、授業進行方法に注目してその要点を記したつもりである。この受け止め方そのものが、僕自身において授業が「見えているか」、ということが問われる解釈ということになる。授業後の講演では、そんな視点から相澤先生の多様なことばが我々に提供された。更には、3.11震災での先生御自身の厳しい体験も語られ、「学び合うことは生きること」といった教育の原点が再認識できる深い講演内容となったことを言い添えておこう。
「話し合いは、考え合い」
「学び合いも、考え合い」
考えるということ。
いつしか日本の教育が忘れていることでもある。
研究する実践者として僕自身の「考え合い」を大切にしたい。
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「対話」について”対話”をし続ける
2013-10-28
学びとは、教育とは何か?普遍的な問いであるが、
常にこれを自問自答し続ける必要がある。
研究学会の随所で語られた「対話」ということば。
そこから「自分」の中のテーマを語る創造が求められる。
全国大学国語教育学会広島大会に2日間参加した。キャンパス内の樹木も紅葉が始まりつつあり秋の気配が漂う中、多数の自由研究発表、そしてシンポジウム・課題研究・テーブルラウンドからの収穫は大きかった。即座に授業で紹介し応用したい内容から、今後じっくり自分自身の研究課題として探究を深めたいものまで多様であった。
その様々に発信された内容を通底する鍵となる語彙は、「対話」である。課題研究として今回の大会から継続的に検討される「国語科カリキュラムの再検討」においても、コーディネーターである広島大学・山元隆春氏より提起された趣旨説明には出発点として次のような考え方が示されていた。
「教育というものは、子どもたちに、自分たちの生活と生きている世界についての文化的な対話への入口を提供するものだ。」(Applebee,1996,p39)
NY州立大・教科教育学者Arthur Applebee氏による、カリキュラムの現状を扱う文章の一節であるという。「カリキュラムには「対話領域」が必要であり、その領域での様々な対話こそがカリキュラムを生きたものにする。」(山元氏趣旨説明資料より引用)のであり、「対話としてのカリキュラム(curriculum as conversation)」をApplebee氏は提唱しているという。よってカリキュラムを作成し生きた学びを創り上げるには、「相互関係性(interconnectedness)」が不可欠であるという考え方が重要となる。この趣旨に基づき登壇者からは、「自立・恊働による学び」「対話によって修正される学び」「文章を理解するために必要な能力の系統化」などが提起された。
午後のテーブルラウンド「言語教育と生きること」は、実に刺激的な内容に満ちた議論が為された。国語教育のみならず、英語教育・特別支援教育・日本語教育・教育人類学など多様な討論者による発表と議論は、まさに「対話」ライブであり、僕自身のテーマと共鳴し新たなる意味・価値付けが為された。「対話」とは換言すれば、「自己と他者との関係性に気付くこと」である。その気付きから新たな価値観を創出する。どのような「社会」に接しても「関係性」は必ず生じ、「誤解」も発生する。それゆえに「ことば」がある、というわけだ。この議論の中でも、僕自身が大学院時代に「日本語教育入門」という履修科目担当であった細川英雄氏(言語文化教育研究所代表・早稲田大学名誉教授)の提唱する「ことばの市民という概念の構築」には実に刺激的な示唆を受けた。覚書として細川氏の資料からその概念に関する説明部分を引用しておこう。
「行為者一人一人が、一個の言語活動主体として、それぞれの社会をどのように構成で
きるのかという課題と向き合うこと。」
「人はことばで考え、ことばによって他者との対話し、ことばによって社会を形成ーこ
とばの活動なくして、市民にはなり得ない。」
「ことばは、言語学で区切られた境界だけではないー60億のことばがあると考えるべ
き。」
「「語るべき」何かを持つことー「語るべき何か」とは、自分にしかないもの、自分の
過去・現在・未来を結ぶ「何か」ーその何かこそ、自分のテーマ誌となる」
このテーブルラウンドに参加して、こうした専門領域の越境を常識として遂行していく必要性を強く感じる。自己の小さな殻に閉じこもり閉鎖的自己完結をしていては、研究も、ましてや教育は成立しない時代となった。研究者自身が”蛸壺”から積極的に大海に飛び出して、多様な「対話」という波から刺激を受け、自己を創造し続ける必要があるだろう。僕自身は、帰りの交通機関の接続を考慮し、議論の最終段階でテーブルラウンドの席を一足先に立たねばならなかったのが惜しまれる。
この研究学会に参加して、改めて考えた。
僕自身の研究の立ち位置そのものが「対話」である。
「国語教育・音声表現・和漢比較文学」
まさにハイブリッドであるかもしれないが、
それを通常のこととして邁進することに意義がある、
今回の「対話」から生じた創造的意識である。
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時系列と因果律
2013-10-27
日本語母語話者と英語母語話者。日本語母語話者の児童は出来事の説明において「時系列」。
英語母語話者は、幼児も児童も「因果律」。
以前から漠然と思っていたことだが、
研究学会のシンポジウムで提起された話題。
小学校時代の作文を思い出していただきたい。あるいは身近に小学生がいれば、試してみてもよいであろう。日本語母語話者は、時系列で文章を書くはずだ。小学校の「行事作文」を考えればそれは明白で、低学年であるほどその傾向は強い。どうやらこれは教育や環境の問題もあるようだが、日本語の言語的特徴が作用していることも考えてみるべきだという。
例えば、絵本のあるページを文章化し説明するとしよう。
日本語母語話者の説明。
「男の子と犬がベットで眠っていた。
そしてカエルがこっそり逃げ出した。」
英語母語話者の説明。
「カエルがこっそり逃げ出した。
どうしてかというと、男の子と犬が眠りこけていて、
音に気付かなかったから。」
という例が資料として紹介されていた。
これは「歴史授業」の進め方の日米相違にも顕著であるという。
これも思い出していただけば明白であろう。
日本:事実を時系列で説明し、覚えさせてテストで確認する。
米国:事実を時系列で講じた後、因果律でなぜかを説明させディベートに持ち込む。
従来の「与える教育」は、「収束的思考」を育て「暗記能力」を醸成して来た。学校現場で、「勉強」=「暗記」であるとして、「覚えられない」と呟きながら試験勉強をする生徒の姿を僕自身も数多く見てきた。その度毎に、「因果律」的思考になれば自ずと覚えられる、といった趣旨のことを諭して来た。時系列を全否定するわけではないが、想像的思考や批評的思考を持つためには、「因果律」で捉えて描写する作文の習慣が求められるのではないだろうか。
敷衍して考えることが許されるならば、
日本人の政治への関心や社会的意識の希薄さは、
こんな点が大きく作用しているのではないかと考えた。
まずは身近なところから思考から点検してみよう。
時系列と因果律。
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駐車のこだわり
2013-10-26
駐車しようと頭を左に振った瞬間、白い軽トラが視界に入った。
急ブレーキをかけて接触は逃れた。
車を頭から白線内にいれておけばよかったのか?
ある郵便局の駐車場で。
駐車にはこだわりがある。頭から突っ込むことに抵抗があるのだ。お尻を人に向けているようでもあり、第一出庫する際に視界が良好ではない。地方に赴任してから継続的に感じてきたことだが、自動車を頭から駐車をしている人が多いのである。
冒頭に記した危険な状況においても、たぶん軽トラの運転手は、僕の車が頭から突っ込むことを想定していたのであろう。東京では暫く自動車を所有していなかったが、地方にきて運転を再開し慣れてきた時期でもある。やはり運転には常に危険が伴うという意識が必要であろう。
だが駐車の"お行儀よさ"は妥協できない感覚だ。一旦車庫入れを完了してからも、変に曲がっていると修正したくなる。その際も、再び前進することはないだろうという判断から、他の車が前を横切ることがある。お行儀良くしすぎるのも、危険の確率を高くしてしまっているのかもしれない。
小さなこだわりも注意深く。
運転に関しては200%安全でありたい。
今一度、ハンドルを握る際の気持ちを引き締めよう。
そんな一瞬の危険察知が、
教えてくれたこと。
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地域社会での信頼とは
2013-10-25
居住地域を大切にしたい。幼少の頃から思っていたこと。
下町で人々の繋がりが見える街に住んでいたから。
小さなコミュニティゆえ”信頼”を真摯に受け止めていた。
地域社会はこれからどうなってゆくのだろうか?
台風が続いている。東京都大島町の被害は甚大で、自然の猛威に対する人間の無力を痛感する。そうした災害への対策として、気象庁や自治体が「避難勧告」を発するタイミングが問題視されている。以前にも小欄に書いたが気象庁の場合、切迫した状況を知らせる筈の会見のあり方そのものに、緊迫感を見て取ることができない。たぶんデータ解析をもとにした机上の発令なのであって、”現場”を深慮した発想の会見ではないからであろう。となると尚一層、地方自治体の管理体制が問われることになる。
いわゆる”霞ヶ関感覚”がどれほど跋扈しても、現場感覚で迫真な発想にはならないのではないだろうか。要はその度合の問題なのだが、様々な政治改革が唱えられたはずの後に現況を鑑みるに、その変わらない状況が垣間見える。防災相なる人物が「避難勧告が出ない場合でも、自主的な避難をすべきである。」といった趣旨の会見をし、個人の身を守るのは”自己責任”であるということを確認しているように見えた。
では地域社会での連係を強化し、自己の身を守れるのだろうか。また地域社会では、何を信頼し依存したら妥当で適切な判断ができるのであろうか?もはやこれは人間的な繋がりとしか言いようがないように思う。しかもまさに”自主的”に人間関係を築いておく必要性があるのだ。今年4月、東京から地方に赴任した身として、今まで以上に地域社会のことを考えるべきだと痛感している。同時にその居住するコミュニティの中で、どれほど親和的な信頼関係があるかという点に、期待を寄せている。
幸い大学内関係者や購買部などの職場コミュニティ。
食事処をはじめとして自営の方々との関わり。
そんな点では、大変恵まれた地域社会に居住していると実感している。
だが、その先である。
本当にここで生きて行く糧を得るには、まだ日が浅すぎるのかもしれない。
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量より質への転換
2013-10-24
学校で学ぶべきこととは?大量の知識や入試対策なのか。
否、自ら考える力こそ必要なのではないか。
課題量よりも授業で思考すること。
ある高校の授業見学で感じたこと。
公開授業に足を運んだ。3日間、保護者は勿論、県民に門戸を広く開放し授業を公開している。1日で数時間に限定された公開授業を僕自身も勤務先で経験したことがあるが、多くの教員が「公開授業向き」の普段とは違う授業を行っていたように記憶している。だが、3日間フルタイムとなると事情は別のようだ。日常からどんな授業を行っているかが問われる。真の”公開”を意味した学校行事であると受け止められた。
かねてから、入試対策だけの視野狭窄的な授業は、果たして高校学習のあり方としてどうなのかと疑問に思うことが多かった。その大学入試そのものが、十分な思考力を問うものになっていないという問題もある。より技術的に、小手先の解答方法が大手を振って通行する。入試も勿論であるが、その後の生きる糧になるような思考力を養うのが、本来の高校教育のあり方だろう。国語でいえば、ことばへの興味・ことばが含有する文化的背景・物事への批評的思考・文学を通して他者の多様な生き方を知る等々、マークシート式解答方法では判定できない、思考の深度を学べる機会でありたい。
こうした観点から、この日公開授業を拝見した高校の方針には大変共感できるものが多かった。今後、大学附属中学との連係を一層深め、思考力を養う学習のあり方にいついて、まずは国語の上での実践や研究を推進していきたいと考えている。まずは、どこかがモデルを提示する必要がある。思考力を付ける為に自主的な学習姿勢を身につけることが、入試にも社会に出てからも通用するものであるということを証明するためにも。
センター試験も改革の方向というニュース。
長い間、号令のみで放置されてきた大学入試改革。
大仰に言えば、日本人全体の思考力の問題でもある。
詰め込むのではなく柔軟に思考する。
世界の中で、僕たちの立ち位置を見据えるためにも。
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学徒出陣慰霊碑撤去に思う
2013-10-23
10月21日。母校の創立記念日でもあった。
そしてもう一つ記憶に刻むべきことがあった。
学徒出陣壮行会が行われた日である。
昭和18年10月21日雨の国立競技場にて。
昨日の小欄には、「21日」という日付への僕のこだわりを記した。だが視野を広げてみれば、記憶に刻んでおくべき日付であると聊か後ろめたく思った。それはある記事を読んだからである。昭和18年10月21日に東京国立競技場で行われた、学徒出陣壮行会から70年目の節目の日であった。
現在、国立競技場にはその時に出陣した学徒の慰霊碑があるという。恥ずかしながら、何度も国立競技場に足を運びながら、その慰霊碑に祈りを捧げたことはない。今から20年前、出陣から50年という節目の年に元学徒らが呼びかけて建立したのだと記事は伝えている。だが7年後の東京五輪開催に伴う国立競技場改修計画により、その慰霊碑が撤去されるというのが、その記事の主旨である。
1964年の東京五輪、更にそこから21年前の学徒出陣壮行会。国立競技場は幾多の歴史が刻まれた場所だ。決定した2020東京五輪をとやかく言うつもりは毛頭ないが、歴史そのものが”撤去”されないようにすべきであると強く思う。学業への志半ばで戦場に赴いた学徒は、5万人とも10万人とも云われる。正確な資料がなくその実態が不明であるらしい。それでもなお、各大学に残る学籍資料を調査し、実際の出陣学徒一人一人の名を確認し復元する動きもあると聞く。
90年目の10月21日。90歳になる元学徒や遺族約100人が、現地で追悼会に出席したという。その90歳になった方々の年齢そのものが、あの戦争からの距離を感じさせる。そしてまた、精算されず積み残したものが多い”戦後”が未だに継続しているのだという認識を新たにする。新しい未来への糧として設定された2020東京五輪の陰で、あくまで慰霊碑の撤去は、一時的であり物理的なものであると僕ら一人一人が忘れるべきではない。文化祭に向けて中高生が勉強を疎かにするような感覚で、20年東京五輪を盛り上がりムードだけで捉えることへの抵抗を感じる。
平和な今を享受しながら、
僕らが向かうべき成熟した社会とは?
お祭りに興じている間に、忘却を促す動きがあるとすれば、
それは甚だ危ういことだ。
学徒出陣慰霊碑撤去に思う。
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”生のリズム”を感じているか
2013-10-22
誕生日の日付。誰しも愛着があるだろう。
数字を聞かれれば迷わず使用する。
己が生まれ出る時からの”生のリズム”
そんな鼓動を感じる日付。
僕の場合は、誕生日の日付が「21」。例えばスポーツジムで使用するロッカーなど、覚えるべき場所は空いている限り「21」を選択する。また何らかで日付を選定しなければならない場合も、間違いなく「21」だ。数というのは、様々な確率的要素の根本を支えているような気がする。それゆえに「21」に委ねられたある種の”作用”を、僕は重視しているということであろうか。
毎月21日になると、その前後1ヵ月を振り返る習慣もある。前月から今までを長く感じることも、短く感じることもある。そしてまた1ヵ月後には、”きっとこうなっているだろう”という想像も(妄想?)盛んに行う。自分なりに時間的把握ができると、再び様々な意欲が起動する。まさに”生のリズム”を感じる1日なのである。
この日もまた同じ。月曜日ということもあり、普段以上に”リセット感”に溢れていた。前月から翌月にかけて、私的にも大きな動きの中に身を置いている。そんな3カ月の予習復習をしつつ、精神の安定を図る。夜は恒例のジム。身体的な数値記録を見直し、トレーニング目標も新たに定める。トレーナーの方からの個別で親身なアドバイスがまた、やる気を倍増させてくれる。
数字から受ける影響は大きい。
それだけに他にもいくつか大切にしたい数字がある。
”生のリズム”を感じる一日。
そういえば今日も誰かの誕生日だった。
尊敬する”イチロー・スズキ”である。
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