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”ピンポン”と”ブ”ーの間

2013-09-04
「”ピンポン”正解です。
 ”ブー”間違いです。」
二者択一の安易さが世に氾濫する。
では果たして「正解」とは何か?
実は情報に対してその時点で一番妥当な線というに過ぎないのでは・・・。


かなり改善はされてきた感はあるが、「正解主義」はいまだ学校に溢れている。「◯か×か」で判定され、「◯」の多さが求められる。もちろん基礎的知識や絶対値など動かし難い客観的事実であれば、「正解」として扱うべきことも多いであろう。

だが国語の場合はどうであろうか?読解には絶対はあり得る筈もなく、語彙的知識であっても時代や背景によって多様な場合もある。ある書物から学んだことであるが、漱石の原稿を見ると、かなりの量の(現代学校規範上)誤字が発見できるそうだ。

「その時点で一番妥当な線」を「正解」と呼ぶのであれば、国語の読解でも「先生が一番妥当だと思っている線」が〈教室〉での「正解」となる。この”社会構造”に気付いた学習者であれば、自分の考えに反したいかにも学校道徳的な「正解」を答えることになる。それこそが高評価に直結するからである。

ジムのスタジオプログラムなどでも同様の「正解主義」を感じることもある。トレーナーの動きが規範であるとするならば、そこから外れた動きは排斥される。もちろんまったく鍛える方法として間違いであれば修正する必要はある。だが運動の動きにも個性があるので、その許容範囲内であれば多様な動きが認められてもよいのではないだろうか。マスゲームの如き、一糸乱れぬ動きの統一を求めるのも、ある種の「正解主義」の顕現であろう。

揃うことより個を浮き彫りにすること。
個々に声が違うように、思考や発想も多様でよい。
「正解」でなくてはならないという”強迫観念”から自由になるべきである。

そういえば先日、英語関係の講演会に参加した際、ある先生が曰く、
「学校で憎たらしい子どもたちを育てるようにしよう」と。

留学意欲の減少を始めとする内向き志向は、
「正解主義」に一因があるかもしれない。
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