兵器は捨てて命をつなごう
2013-08-31
シリアでのアサド政権による化学兵器使用は事実か否か。Web上にはその状況証拠とも思えるものも多数。
これに対して米国が軍事介入を検討。
一方で、英国は下院で介入決議が否決された。
化学兵器の使用はもちろん許される筈もない行為なのであるが・・・。
一部報道に拠れば、少なくとも1429人の市民が化学兵器で殺害され、そのうち426人もが子どもであるという。その悲惨な様子の一部を映像で見たが、何とも心を引き裂かれるごとき惨劇といわざるを得ない。だがそこで自分自身の心に問い掛けてみた。この憤りをどのような方向に向けたらよいのか?と。非人道的行為に対して「懲罰」と「再発防止策」が加えられなければならないのは、国際的世論として常道なのかどうか。今回特に欧州を中心に慎重論が囁かれているのは、何事かを考える時期に来ているのではないかと思わせる。
だが慎重論の陰には、「証拠の有無」を焦点にしている背景もある。確実な「大義」を証明できるか否かということだ。それにしても戦争はいつでも「大義」により正当化され多くの尊い命を奪って来た20世紀の歴史は、どこで反芻され行動として自覚されるのであろうか。誤解を招かない為に繰り返すが、化学兵器使用に憤りを持たないわけではない。だがしかし、兵器を使用し戦争をすることに「人道的なもの」などあるのだろうか?化学兵器使用が「非人道的」とされるならば、他の兵器使用は「人道的」なのか?否、人の命を奪う可能性がある兵器使用そのものが、「人道的」であるはずはない。
『永遠の0』(百田尚樹著・講談社文庫)の中で、回想的主人公の0戦操縦士・宮部が、「0戦などを開発したから悲惨な戦闘が繰り返されるのだ」といった趣旨のことを述べていたという一節がある。彼は「生きて帰る」ことを念頭に0戦を操縦し戦闘していたため、「臆病者」のレッテルを貼られていた存在であった。だが、0戦の操縦技術に関しては右に出るものはいないほどの凄腕。長大な航続距離、極めて機敏な旋回性能と機動力。それに比して被弾防御機能は極端に手薄であったという日本人が開発した名機。これを芸術的工業製品として賞讃することは可能であるが、それならば人間が命をつなぐ為に使用できる工業製品を開発できたらよかったとつくづく思う。20世紀の一時代は、盲目的な「大義」によってすべての優秀な命や技術が、失われたのだ。
僕も幼少の頃に、戦闘機のプラモデル製作に興じたことがある。実に”かっこいい”とその頃は思っていた。だが、それ以上に好きだったプラモデルは、「サンダーバード」であった。英国発の操り人形劇であるこの”物語”では、最新技術を駆使して人命を危機から救出する「国際救助隊」の奮闘ぶりが描かれている。航空指令機・輸送機・ロケット・ 潜水艦 ・宇宙ステーションや地底探査車などが、国際的な救難に全力を尽くす。最新”機器”の使用の理想は、こんな方向に向かうべきではないのであろうか。英国のこれまでの国際舞台での軍事的あり方を考えるに、この「サンダーバード」はある意味で、国内から批判的な意味をもって制作されたのではないかとも思えて来る。そうした意味から、今回の英国下院の決議を、より理性的な判断である、と捉えておきたいとも思う。
兵器を兵器で叩く。
それが戦争である。
僕たちは戦争のない世の中を求めているのではないのか?
折しも日本では、「防衛費概算要求2.9%増額」の報道。
高価な「水陸両用車」や、先頃まで危険が懸念されていた「オスプレイ」の自国導入。
この動きには、「防衛」が「大義」になる恐ろしさが潜んでいる。
お金の使い道は、果たしてここなのであろうか?
福島第一原発の汚染水漏れは、今後国際的海洋汚染への懸念が高まる中で・・・。
人の命を奪う兵器は捨てて、
人の命をつなぐものを考えられないのか。
「日本版サンダーバード創設予算」を要求する政治家はいないものだろうか。
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”話せるCafe”のありがたさ
2013-08-30
仕事中のコーヒーブレイク。何とも重要であると思うことがある。
硬直し圧力の掛かり切った脳に対しては、
適度なポリフェノールと会話が必要になる。
この”話せる”という点が、僕にとっての最重要点でもある。
3月まで居住していた家の近所に、僕との相性の上で理想的なCafeがあった。小欄にもしばしば登場し、「地域社会創成」の拠点になるのではといった理念を僕の中で抱いていた。現に店主もそうした考えに基づき、スポーツや様々な社会的意識を通して地域に貢献しようと奮闘していた。そこでは食事やコーヒーはもとより、店主夫妻との会話を僕の中では楽しみにしていた。ランチの忙しい時間帯を敢えて避けて、僕は”話せる”時間を選んで足を運んでいた。
大学学部時代は、母親のような”おばちゃん”のいるCafeの常連であった。いつのまにか僕には”おばちゃん”の思い込みによるあだ名が付けられ、学業はどうだ、彼女とは上手くいっているのか等々、日々様々な心配をしてくれていた。僕はそのCafeを住処(すみか)のようにして、授業の空き時間を過ごし、場合によると試験勉強やレポート作成も行っていたのを思い出す。あの”話せる”おばちゃん、今はどうしたであろうか。
現在の職場や住居近くには、残念ながら”話せる”Cafeは発見していない。もちろん何軒かの”やや話せる”食事処はある。いずこでも個人経営の「喫茶店」というものが衰退し、巨大チェーン展開によるCafeが氾濫する世相。こうした社会構図には否定的感情を抱きながらも、米国シアトル発のコーヒーショップには惹かれてしまう。この日は、車で10分を費やしコーヒーブレイクに向かった。
店員と会話できるはずもないコーヒーショップでは、むしろ読書に没頭できる。店内のBGM・隣席のカップルの会話・逆隣の女性がPCに打ち込むキーボードタッチの音などが、むしろ適度な刺激となり「小説」を読むには適した環境であると感じる。アイスコーヒーが注がれたカップのロゴを見るにつけ、今夏は行けなかった米国の同店舗が思い出される。店舗の造り、そして香りも米国と同仕様であり、尚一層旅心をくすぐるのである。
「小説」と”話せる”ことで、
脳に十分な血液が送り込まれた。
それにつけても”話せる”Cafeはないものか?
地方ならばその可能性があってもいいはずではないか。
連ドラ「あまちゃん」で三陸にある駅内Cafe兼飲み屋は、
まさに人々の”話せる”居場所である。
そんなCafeが、日本から少なくなったのは嘆かわしい。
米国のコーヒーは、米国で飲めばいい。
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腕を組んでいてはなりませぬ
2013-08-29
授業・講習で自分が”当たる”か否か。座席選択の心理には、これが大きく影響するであろう。
すっぽりと半円を描くように教壇前は空席となるものだ。
だが、無条件に全員が当たるとしたらどうか。
しかも予告もせず、突然に・・・。
教員免許更新講習を”お手伝い”した。今年度は初任であるため正式な担当であるわけではない。同僚の先生が「古典」を扱う講習を実施するので、その「朗読」分野について、講習の一部を担当することになった。扱った教材は『平家物語』であり、僕の講習となれば講義調ではなく、必然的にワークショップを行うことにした。
昼食後の午後1番の時間帯。まずは僕が過去に指導した学生の「平家物語群読」の映像を見ていただいた。その後、10分間で「教材の特徴」「意義と方法」「群読の効用」の3点を簡潔にお話した。そしていよいよ「即興!」のワークショップへ。6〜7人のグループに分かれ、協議が開始された。以前の経験では、こうした「講習」で参加型ワークショップを実施すると、やや毛嫌いする方がいないわけでもない。特に”学校の先生方”というのは、自らは〈教室〉で生徒を指名し発表”させる”のだが、己が発表となると尻込みする傾向が見られることもあった。ただ”腕を組んで”、「講習を”聞きにきました”」という表情を浮かべて腰が重いことも・・・。
ところがこの日のワークショップでは、班を構成しお互いの自己紹介も儘ならぬにもかかわらず、積極的に協議を開始してくれた。しかも講習全体の時間の関係で、協議時間は20分強。班を構成し活動をするには、お互いの素性を知り、加減を知り、年代や性別等にも考慮しながら、誰かがリーダーシップを発揮して纏めていくしかない。こうした関係作りに当てる時間は、ほぼ皆無である。やや「乱暴なワークショップ」」と自らの企画を自虐的に揶揄し、理解を促した。しかし予想以上に参加した先生方の姿勢は前向きであり安心できた。
20分のちに発表へ。「即興」とは思えないほどの個性的な群読が展開された。今回の教材は那須与一が活躍する「扇の的」の場面。弓を射る前の与一が唱える”台詞”は、ソロの見せ場ともなる。各班では、まずその与一役を誰にするかということを、協議の端緒としてスタートすることを僕から提案したことが、個性の発揮に繋がったようにも思えた。
少人数班別学習活動は、今後の教育では必須の授業方法であろう。「集団一斉教授」型の利点も活かすべき分野では活かしつつ、個の思考を相互に表現することで撹拌する活動が必須であると考えている。受身一辺倒で1日6時間の「免許更新講習」は、たぶん僕自身でも耐える自信はない。「理解」したことを「表現」する場面が求められるであろう。
発表を見終えて、余韻に浸る間もなく附属校へと出張。
その道すがら、こんなことも考えた。
教員・学生・院生・一般の方々を問わない「朗読ワークショップ」の開催である。
「免許更新」といった制度に囚われない、自由で時間に制約のない「声」のひととき。
「朗読は人を繋ぐ」という理念を、まさに実践する場を創成すべきであると、
この日参加した先生方に教えられた。
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“The last straw”にご用心
2013-08-28
「最後の藁」その時に自覚はない。
蓄積されて来た大量の荷物の上に加わる僅かな加重。
その「藁」が悪い訳ではない。
It’s the last straw that breaks the camel’s back.
猛暑で疲れた身体は、涼しくなった頃に疲弊が露見してくることも多い。飲み物の摂取過剰で疲れた胃腸。バランスを欠いた食生活。寝苦しい夜の連続による睡眠不足。様々な要素が身体に疲労を蓄積させているはずだ。
冒頭に記した英語の諺は、よく同僚の英語教員が生徒に話していたものだ。これがとても気になり、僕なりに色々と考えることもあった。問題は「最後の藁」なのではなく、それまでに駱駝の背中の上に蓄積された過剰な積載物なのである。裏を返せば「最後の藁」となることは当事者にとって、事が起こらない限りわからない恐怖があるということだ。「背骨を折る」ということは、まさしく”致命傷”に他ならない。
「まだいいだろう」と考えてしまうことは日常に山積している。口座振替日、予約開始などの実利を伴うことも、いつしか当日になってしまっていることは多い。僕は日頃から洗面所・浴室には常に除湿器を稼働させている。蓄積された水を「まだ大丈夫だろう」と確かめもせずタイマーを掛けて外出し、帰宅した時に満水となっていて除湿効果が十分でないこともある。水は気付いた時に廃棄すべきなのである。
日常で蓄積させてはいけない最たるものがストレス。
その場、その場で適切な解放をしておくべきだ。
「まだいいだろう」という後回しの発想で、
取り返しのつかないことになることも。
決して駱駝の背骨を、折ってはいけないのである。
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夏を見送る頃
2013-08-27
暑い暑いと繰り返す日々。猛暑と大雨の報道ばかりが目についた。
しかし、駆け足を急にやめたかのように、
夏が早々に退散したような1日。
いつしか、夏を見送る頃に・・・。
涼風・虫の音・月の色。ふと夜道を帰宅の道すがら、そんな三拍子に出逢った。頬に触れる風は確実に涼感を伴い、叢に限らず合唱が喧しく、月は穏やかな色彩を放つように感じられた。もう既に秋が確実に目覚めている。
10年以上前になるであろうか。夏の終わりが来ると、喩えようのない”やるせなさ”を全身で感じ取り、己の行くべき道の当否を真剣に悩み苦しんでいた時季があった。果たしてこの夏に何をしたのであろうか?そんな疑問に答えようにも答えられない自分がもどかしかった。
やがて夏の終わり頃に設定されている論文〆切に向けて原稿に向かう日々となり、一夏が”カタチ”になる苦しさと(自己)満足感に浸るようになった。その流れの中で、ある年の夏を見送る頃、生き方が劇的な変化を遂げた。
今現在はこの時季になっても、さしたる焦燥感や後悔の念は湧き上がることもない。こうして毎日を小欄に記すことで、一つの”カタチ”にしていることも大きいであろう。何事も”本気”かつ”冷静”に自己を見つめながら、日々を歩むようになったからでもあろう。
決して先を焦ってはいけない。秋が来て収穫の時季となれば、きっと何らかの”カタチ”が見えて来るに違いない。独りよがりでは進まないことも人の道には多い。結果と効率主義の世相に楔を打ち込もうとしているのは己である。
眼に見えない”カタチ”を大切にしよう。
それは日々の中に存在している。
焦らず不貞腐らず独りよがりにならず。
毎日の今を輝かせよう。
10年以上の時を超えて、真に夏を見送る骨太さが自らの中に見える。
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「このオッチョコチョイ」と
2013-08-26
「満月が都会のビルの谷間から
「このオッチョコチョイ」と
俺を睨んでいた」
(サザンオールスターズ「栄光の男」より)
サザンの新曲を聴くとたいていはある気に入ったフレーズが、脳裏に絡み付いて来る。そのフレーズになると声に出して歌いたくなる。先日は「蛍」の一節を紹介したが、この数日間は冒頭に記した「栄光の男」を声を大にして歌い、自分自身に言い聞かせている。それは現在の自分に対してでもあり、過去の自分に対してでもある。
昨日の小欄に記したように、物品整理に追われた週末だった。さながら”3度の食事も忘れて”といった趣であった。以前に住んでいた部屋にあった物が、新たな部屋にあるというのは、現在と過去の記憶を倒錯的に混在させる悪戯をすることも多々ある。そんな時間の隙間に親友にメールなど。僕自身が気付かなかった「約束」を文章にして伝えた。表現してあらためて自らを睨んでみる。「このオッチョコチョイ」
本棚などの部品がどこかに紛れてしまう。作業が先に進まない。様々な工具を駆使しても解決しない。後回しにする哀切。「このオッチョコチョイ」
親友からの返信を半ば期待して、スマホのメールを更新(全受信)させてみる。予想以上に感情の高まりが書き込まれた文面。感謝のことば。いつも心を豊かに揺さぶってくれる情緒豊かな交信。それを読み返すに付けてもまた。「このオッチョコチョイ」
時間を忘れて作業はすっかり宵のうち。疲労と孤独から誰かと話したくなる。気の合う夫妻が経営する店まで足を運ぶが、既に閉店後。ふと東京では、親しい店主主催の屋形船ライブが開催されていることを思い出した。大空を見上げれば月も夜更かし。月齢は「臥(寝)待月(十九日月)」かな。小声で「このオッチョコチョイ」と、僕を覗き見ている。
ファミレスで無味乾燥な食事を済ませて帰宅。友人に電話一本。もう寝てしまったか、果てまた忙しいか。声を聞くこともなく消灯。「このオッチョコチョイ」
このサザンの曲「栄光の男」。
まだまだ個人的に語りたい箇所多数。
そのうち機が熟したら記すことにしよう。
こんな日もあるよね。
「このオッチョコチョイ」!!!
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物品に宿る力
2013-08-25
物品にはある力が宿っている。久し振りに見てみると、
それまでには考えようもない記憶が蘇ることがある。
特に書籍は尚更のこと。
大規模な整理を敢行している夏に感じたこと。
トイレが詰まってしまったらどうするか?柄のついた巨大な吸盤のような道具で、圧力を掛けるのが一般的であろう。だが、その道具が家になかったらどうするか。そういえば、深夜まで営業しているスーパーに、その道具を買いに行ったことがある。スーパーへの道すがら、そして売場にどのように置いてあったか等々、なぜか克明に記憶が蘇って来る。だいたいにして僕の場合は、こうした大勢には影響のない付随した記憶が鮮明に脳に刻まれていることが多い。
そんな性癖ゆえに物品整理をしていると、予想以上に時間を要してしまうことがある。”発掘”された品々に宿った記憶が、一々浮上して来るからである。ある意味で、これまでの生きて来た道を大切にしているようでもあるが、過去の柵(しがらみ)に囚われてしまい身動きが取れなくなることもある。それでも自分が思い出したくない負の歴史においては、綺麗サッパリ”データ消去”している己に気付くこともある。まったく要領よくできているものだと我ながら感心してしまう。
実家や自宅の整理を通じて、母が関与してくる場合もあった。前述した過去の記憶の鮮明さというのは、母が僕を育てる段階で身に付けさせてくれたことだと改めて思った。僕の現状判断では捨てようと思う物品を、母が傍にいると大抵は「とっておけば」と言う。母自身が育って来た時代の影響も大きいと思うが、家族や周辺との思い出をこの上なく大切にする生活習慣が備わっているということだ。何せ今回も、母は僕が小学校1年生次に描いた、「ぼくのいえ」という題の絵を”発掘”していた。ちょうどその年に新築された家を鮮明に描いていたと、今更ながら感心していた。
されど今回は大幅な整理が敢行できた。
新たなる生活空間に運ばれた物品もそうでないものも。
周辺物品の再編も時には必要な行為である。
「思い出を反芻させる物品は、己を前進させる力がなくてはならない。」
研究室の書棚に並べる新たな書籍を見つめて、こんなことを呟いた。
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「日米通算」を認めさせた男
2013-08-24
4000本の安打を重ねて来た。1本また1本を繰り返す。
彼は3倍ほどの失敗もしていると言った。
その失敗をバネに心身を削る毎日だという。
成功や安楽は数限りない苦難の果てにあるのだ。
イチローが、日米通算4000本安打に到達した。メジャーにおいても彼以上に安打を打った選手は、タイ・カップとピート・ローズしかいない。その到達は、左打者のイチローが見事な流し打ちで、三遊間をゴロで美しく破る左前安打であった。一塁ベースに至ると、味方のベンチからチームメイトが誰からともなく拍手をしてイチローの方向へ歩み出した。彼はこの反応を意外だと表現したが、僕はこの映像を見た瞬間、一つの感慨が湧き出した。それは「日米通算」が初めて、メジャー世界に胸を張って受け入れられた瞬間であったという想いである。
僕が野球少年だった頃、王貞治がメジャー本塁打記録の755本を抜く記録を達成した。ヤクルトスワローズの眼鏡をかけた鈴木投手から、高々と打ち上げた打球が右翼席に吸い込まれた。その瞬間、王貞治は大きく両手を広げ一塁ベースに向かってゆっくり走り出していた。テレビでその一部始終を観ており、立ち上がって「世界一だ!」と叫んだ少年は、両手を握りしめて、その拳が震えていたのを記憶している。
だが、少年は翌日の新聞を読んで、たいそうな疑問を持った。特にメジャー関係者や米国ファンのコメントには、「日本は球場が狭い」「真の本塁打王は・・・だ」などとこの世界記録を認めないものが羅列されていた。裏を返せば、シーズン後に数年おきに行われていた日米野球において、来日するメジャーリーガーが後楽園球場の照明灯の柱を直撃したり場外本塁打を放ったりすれば、やはり「これがメジャーの力だ」という報道がなされていたのだ。新聞報道もメジャーの巨大な力を礼讃し、そのアメリカ的な野球における熱狂を日本に浸透させる意図が、意識的にか、あるいは米国への劣等感による自然発生的にか、蔓延していたように今にして思う。それが昭和という時代であった。
米国追随、それはメジャー礼讃、そして野球文化の浸透。これが日本の高度経済成長に大きな力をもたらしたのは事実であろう。まさに僕自身も、野球の虜となった少年の日から今まで、その文化を享受し生活の一部として楽しんで来た。だが、メジャーに多くの日本人選手が渡るようになった2000年代になってから、その趣は一変した。メジャーそのものが多国籍化し、中南米の選手の割合が高まり、米国の国技としてのBaseballからグローバルなBaseballになったのである。その一つの流儀が、「野球」ではないかと僕は思っている。その「野球」はグローバルベースボールの国別世界一決定戦で2度の優勝を遂げた。その牽引者が、王貞治とイチローであるのは、昭和の野球史を知る者にとって、とてつもなく大きな意味を持っていたのだ。
それだけに今回、イチローへの祝福の姿勢がチームメイトか自然発生的に為されたことは、歴史的記念碑ともいえる事実であると思う。しかも(悔しいが)”ニューヨークヤンキースの選手”たちが、である。まさしくイチローは、「日米通算」のもつ閉鎖的な垣根を破壊し「日本野球」を初めて世界(グローバル)に認めさせた男なのである。現に中南米選手でイチローを尊敬し慕う選手たちは多いと聞く。あとは、日本球界と一部のファンが閉鎖的な眼(まなこ)を開放し、この感覚を享受することを願うばかりである。
野球に興じるとはどういうことか?
「日米通算」という概念の捉え方に象徴される文化的意義。
僕自身の”熱狂”の根源は何か?
ある意味で自分史と歴史の対話でもある。
ここを消化することこそが、真に野球を愛することだと昨今痛感している。
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小さな負を摘み残さない ー甲子園決勝に思う
2013-08-23
今できることを今する。後回しにしてろくなことはない。
負の材料こそ随所で摘み取っておくべきだ。
蓄積されてたいそうな重圧になる前に。
小さなうちに小さな解決を施しておこう。
全国高等学校野球選手権大会も幕を閉じた。甲子園大会は地方予選を含めると、真夏に始まり、秋が目覚める頃に終わる。今年は準々決勝全試合を始めとして、決勝でも白熱した1点差ゲームが展開され手に汗握る好ゲームが多かった印象である。ここ何年かは、様々な理由があって甲子園大会をテレビで観ることを意図的に避けていたが、今年は折々にテレビ観戦を楽しむことができた。
文学研究をしている性(さが)か、文脈の節目を見極めたくなってしまう。決勝戦・前橋育英高校対延岡学園の4対3の試合。1点差の分水嶺はどこかなどと僕なりに考えてみた。3点を先制した延岡学園が迎えた5回表、前橋育英の攻撃は8番打者・田村君。1ボールからの2球目、延岡学園好投の横瀬君がストライクを取りに来た直球を左翼席に本塁打。前橋育英のベンチは、劣勢の沈滞した雰囲気から一気に息を吹き返した。問題はこの次の打者への対応にあった。
前橋育英9番打者・楠君は初球を投手横瀬君の右側にセフティーバント。転がるボールへは十分に追い付いていた横瀬君だが、グラブを上からボールに被せるように掴もうとする。ゴロ処理の基本としては”グラブは下から”である。仮にバント打球と自分の身体との関係性で上から出さざるを得なくとも、(特に横瀬君は左投手ゆえ、一塁側で右手グラブで処理する場合は難しいのは確かだが)敢えて逆シングルに出せば、最後には下からイメージでゴロ処理が可能で、一塁への送球やトスに対しても良好な姿勢が保てたはずだ。いや、というよりはむしろ本塁打直後の初球を、左投手が処理しにくい位置にセフティーバントを決めた楠君の決断と緻密さを褒めるべきかもしれない。尚も2点リードと優位に立っていた延岡学園守備陣を大きく揺さぶった。現に次打者・1番工藤君のセカンドゴロはエラーとなり、1・3塁となりスクイズで2点目を前橋育英が捥ぎ取っている。更に四球で1・2塁から2アウトとなるが、前橋育英5番・小川君の右前打で同点となる。
この場面で同点になるか否かが、この試合の大きな分水嶺であったように思う。本塁打を打たれた後に、やや高揚した気持ちを抑えきれずに動揺した延岡学園守備陣。横瀬君のバント処理に象徴されるように、やや冷静さを欠いた雑な面を露呈してしまったように僕には見えた。甲子園では、華々しくパワーあるプレーに話題が集中しがちだが、あの聖地で勝つ為には、緻密さと丁寧さが必要であると痛感する場面であった。
僕たちの日常にも言えること。
眼前の負の材料は、精緻に冷静に摘み取っておくべきだろう。
感情に起伏が現れたときが要注意なのだ。
長々と理屈を書き連ねたが、
本大会に参加した全国の高校球児たちすべての健闘を讃えて、
結びとする。
「熱き夏をありがとう』
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「蛍」の深淵を覗き見る(1)
2013-08-22
「愛している。とは言いませんでした。我々の世代は愛などという言葉を使うことはありません。それは宮部も同様です。彼は、妻のために死にたくない、と言ったのです」ぼくは頷いた。
伊藤は続けて言った。
「それは私たちの世代では、愛しているという言葉と同じでしょう」
(百田尚樹『永遠の0』講談社文庫P120・121より)
サザンオールスターズのニューシンングル「ピースとハイライト」に収められた「蛍」という曲がある。それは本年12月公開の映画「永遠の0」のテーマ曲だ。「蛍」の歌詞と雰囲気に魅せられて長編である原作文庫を読み始めた。歌詞に共鳴する原作部分に対して僕なりの覚書を記しておこうと思う。
「愛している」とは何か?簡単にことばで言えるものではない。その具体的事象を、僕たちは物語・小説を読んだり、映画などを観ることで総合的に理解しよう努め、現実の人生で実行しようとする。だがそれは短時間で決して”正解”が得られるほど単純なものではない。一生かかって初めてわかったような気になる、ものといえようか。
中学校や高校で教壇に立っていた際に、教材で「愛」をテーマにしたものを扱うとよく次の例を紹介していた。明治時代の文学者・二葉亭四迷は英語の「I love you」を、「死ねます」と翻訳したと云う。僕の教員生活のある時季までは、特に女子高生を中心にこの話に感激する生徒も多かった。だがしかし、直近の教壇経験でこの話をした時の女子高生の反応はこうである。
「そんな重いの嫌だ!」
「命預けられる相手」ほどの感性は、今の高校生たちには”重い”のである。これは一概に軽薄であるというわけでもなさそうだ。相手のことを思い慕うことに気を遣う果てに、疲れてしまうといった感覚のようである。中高生は、学校空間の中で想像以上に、その同調圧力を持った集団から疎外されないように気を遣っているようだ。それが恋する相手に対しても適用されてしまうかのようであるのだが。
冒頭に引用した「永遠の0」の会話ではどうだろうか。戦時中は「愛」などということばを使うことはないと語られている。より厳密に言えば、「(最愛である筈の)妻に対して「愛」ということばを使うことはない」というほどの意味であろう。「愛してます」が「死ねます」なのは、天皇を頂点とする国に対してであるという誤謬が蔓延していた。そんな時代背景の中で0戦操縦士の主人公は、「妻のために死にたくない」と言う。
そうだ、「愛する」ということは「死ねます」ではいけない。
「命預けた人」のために「死にたくない」〜「生きている」ということだ。
社会が個人の尊厳を踏み躙った異常な歴史の中で、
「死にたくない」と語る『永遠の0』の主人公・宮部。
あまり詳細に書き記すことは避けるが、
この主人公の生き様を語り出す作品には、実に大きな魅力がある。
最近は気付くと「蛍」の曲が、僕の脳裏に流れている。
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