内外上下の発想
2013-07-31
「立場を内外に区分し内から見ようとする。立場を上下に区分し下から見ようとする。」
一見、似たようであるがその立場は正反対である。
かつて何らかのコラム欄で読んだ記事を思い出した。
発想における線の引き方を考えてみたくなった。
内側を重視すれば、外側に対して批判的となる。過剰になると”いじめ”のように排外作用が起きる。連帯し守られていれば安心感を覚え、外からの意見を撥ね除けることで、内側の理論は守られて行く。だが全く新陳代謝のない内側は、最終的に破綻への道を歩むであろう。新しい呼吸ができないのは、水槽の金魚の如き限界がある。
下側を重視すれば、上側に対して批判的となる。過剰になると”クレイマー”のように下側にいること利用して立場を反転させる。ただ、「長い物には巻かれろ」といった御都合主義を避けることができ、純粋に下側を意識できれば視野は如何様にも開かれる。ただし下側であるのを理由に、口先だけで行動できなければ、野良犬の遠吠えに過ぎない場合もある。
最近、研究の視点が大変重要だと感じている。一定の立場で様々な論陣を張っては来たが、あらためてその立場を見定める必要があるのではないか。内側に拘泥することなく、上下に過剰なこだわりをもつこともなく、広範で自由で豊かな視点が欲しい。研究そのものは内なる静的な作業であるが、外へ動的に出てこそ見えて来る地平があるものだ。
動静の均衡。
いっそのこと内外上下という線も引かなければいい。
少なくとも研究においては、自由人でありたいなどと考えている。
あなたはどの発想で暮らしてますか?
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節目・糊しろ・繫ぎ目
2013-07-30
前期の授業も最終日。予備日として設けられていたこの日。
特に大雨などでの休講もなかったゆえ、
学生も教員も余裕のある一日となった。
新しい環境での、節目・糊しろ・繫ぎ目のような。
やや閑かなキャンパスというものもいい。学生の姿もまばら、どこに籠って勉強しているのであろう。研究室の廊下も人影が少ない。落ち着ける雰囲気の学内は仕事が捗る。
プリンターのインクが切れる。事前に表示が出ていたのに用意をしておかない怠慢。生協購買部に買いに行くと、「インクは予備を準備してきましょう」の表示。そうそう、学生がレポート締め切り直前の場合は、死活問題である。繫ぎ目で立ち止まらない鉄則。
結構な学生が学食にはいた。みんな試験勉強のノート等を広げている。15回の授業の集積。試験というより、考え方はどう変化したのか?そんな学生の姿を見つつ、自らの新しい環境での仮免のような運転期間が終了間際だ。
少々トレーニングを怠けていた。「身体が鈍ったなあ」〜「仕方ない」と思い込み、また筋肉への刺激を求める。このジムでも4カ月という月日の間で、充実したトレーニングが行えた。また頑張ってひとつ上の身体を造ろう。
ということで、様々な節目・糊しろ・繫ぎ目。
また次なる段階へと時は進む。
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「明日」(谷川俊太郎)に潜むもの
2013-07-29
"いつか"と"また"は、ほぼ実現しないと世間ではよくいう。
現実を意識させながらも、
実は「幻」であることを述べているに過ぎないからだ。
今回の朗読会冒頭に読んだ、谷川俊太郎さんの「明日」から考えること。
「だが明日は明日のままでは
いつまでもひとつの幻」
「明日」ということばは、当然ながら「未来」や「夢」に置き換えられる。また「想像」や「妄想」と置き換えてもいいのかもしれない。"想い"はいかようにも抱けるものだが、果たしてそれをどのように現実としての「今日」にするか。「想念」を「行動」にする瀬戸際にこそ、重要な分水嶺がある。
「明日は今日になってこそ
生きることができる」
「約束」「予言」「願い」「夢」がある。
いずれも「明日」への方向性をもっている。
守られるか・的中するか・叶うのですか・叶いますよ
事前に浮かぶ不安・心配・期待・希望が僕たちの心を揺さぶりながら落ち着かせる。
「約束」は「時と所」が書きとめられる。
「予言」は「雲の渦巻き」画像によって信憑性を増す。(ように見える)
「願い」は「心のときめき」をともなって「支度」に託される。
「夢」は「未知の力」によって「くらやみ」から開放される。
いつしか
旧友は新しい世界に生きて
天気予報は折衷案を「つつましい口調」で述べ(最近はどうだか)
自然は眼に耳に訴えかけ
「まばゆい朝」へと「私たち」は開放される。
僕たちは基本的に睡眠という儀式を境にして、
明日から今日に移動する。
「予・」は、「実・」に変化する。
「明日に向かって」
「明日を信じて」
「明日を想って」
「明日のために」
僕たちは「今日」を生きている。
その「今日」はかつての「明日」なのだ。
僕たちの「生きる」を切り取る詩の力。
何とも偉大ではないか!
(*谷川俊太郎さんの詩「明日」は、詩集等を各自ご覧下さい。)
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「朗読実践」と向き合い早10年
2013-07-28
「朗読実践への提案in早稲田2013」が無事に幕を閉じた。出演した学生たちはもとより、ゲスト講師・スタッフの院生・学生。
また僕と個人的に親しくしてる方々もご来場いただいた。
そしてこの授業担当に導いてくれた教授。
すべての方々に心より感謝の意を申し述べたい。
ありがとうございました。
思い返せば、この発表会を催して6年。それに先立つ「ことばの力GP」に取り組んでいたのが、2007年の夏。その夏は、僕自身がまだ博士後期課程の大学院生(現職教員でもあった)であり、博士論文を仕上げる大詰めであったが、指導教授が急な病で天に召された。その病床で苦闘する恩師を見舞い、その足でGPの講義に向かったこともあった。更にそれ以前の4年間は、「朗読の理論と実践の会」の創成期であり、様々なゲストをお迎えしてシンポジウムや実践報告を通じて議論を重ね、「朗読」と「声」について考えた。その時点から早10年の月日が経過した。
この日の発表会でも、出演した学生たちは班ごとに、深く「声」で表現することを考え抜いた結果を披露してくれた。テキストをただ声に出すのは簡単だ。だが本当に人々に届く「声」になるまでには、どれほどの過程が必要か?それは体験したものでなければわからないほどの奥行きがある。同時にテキスト内部を精密に読み込んで、個人はもとより発表班の中で共有する必要がある。更にいえば、個人個人で多様な解釈があるのを擦り合わせて、一つの朗読作品としてまとまったものとして表現する必要がある。この1ヶ月ぐらいの間に、学生たちはこうしたことばで書き連ねたのでは想像もできないほどの葛藤にまみれた、自他との闘いを繰り返してきたはずだ。
発表会に参加した高校生に対して、会場でインタビューが行われた。何人かの高校生は物怖じもせず見事な意見を述べていた。その中で「普段の国語の授業でも朗読を聞いたりする機会があれば、学習が楽しくなると思う。」といった趣旨のことを複数の学生が述べた。教材選定と提供という教科書の仕事。どのような授業方法でその教材を学習者の中に届けるかという国語教員と国語教育の仕事。そして受け取った内容を自分の価値観や感性に照らし合わせて、自らの生きる糧にする学習者の仕事。そのどれもが「マニュアル的技術」で実行できるような安易なものではない。文学と格闘する「志」あればこその所業ではないか。少なくとも、今回の発表会に参加した学生たちは、その「志」に気づいたはずだ。それを起動させて将来教壇に立った時、必ずや「本気で楽しい国語授業」を創造することができるはずだ。
「朗読」に小手先技術は通用しない。
そこに教養の力を動員し、テキスト内部と深い呼吸を通わせること。
だが、〈教室〉では安易な「音読」ならいくらでもできてしまう。
その差が天と地ほどの違いがあることに指導者は自覚的になるべきであろう。
天を求めるならば、「文学を読む」という基礎・基本が必須なのである。
早10年の月日が経過した。
僕自身の現在の到達点を今一度見定めながら、
新たな場所で、「文学」と「朗読」を考える次なる使命が眼前に控えている。
「この今日のうちにすでに明日はひそんでいる」(谷川俊太郎「明日」の一節より)
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「枠」を超える活性化した呼吸
2013-07-27
「枠」は取り払うべきだ、といつも思う。
自由にオープンに内に込めず籠らず。
だが時に己がどんな「枠内」にいたのかを、
振り返ることも必要なのかもしれない。
ゼミの最中に「方言」の話になった。ゼミ学生の全員が九州地方出身であるが、その地域が違う。お互いの方言のあり様を批評している。「方言」圏外出身者である僕には、その差異をリスニングすることは、少々難しかった。思ったのは、ある地方の「枠」に入ると、そこを基準に相対的に言語が浮き彫りになうというとだ。各自の発話における言語的特徴が、理解できるようになった。
新しい土地で生活を始めると、そこで培われた感性が宿る。価値観に嗜好など、物事の考え方が微妙に変化しているのであろう。ふと空港から飛び立ち、もと住んでいた「枠」に向かう過程で、強烈な力でそのような「微妙な変化」に気が付いた。しかし、もとの「枠」も以前のままではない。明らかに変化しているように思える母校の光景がそこにあった。
やや小さ目な「枠」から、大き目な「枠」に回帰した時、自分の視野そのものが狭窄的になっている自覚があった。新たな発見に満ちていて、元の場所では味わえないものを沢山享受はしている。だがその志そのものは、小さく纏まろうとしてやいないか。眼前にあるモノが全てだと思ってやしないか。聊かではあるが、地方出身者が都会に憧れる理由がわかるような気がした。
空港から母校に直接向かうと、そこにはこの6年間取り組んで来た感覚が待っていた。明日の朗読会の最終リハーサル。こうした機会を通じて、僕自身は一定の「枠」内にいながらも、階段を一歩一歩登って来た。今年はその集大成。新たな校舎の新たな教室でいつもと変わらぬ熱いリハーサルが展開していた。「己を見定めよ!」その雰囲気はそう僕に語りかけた。
「枠」に籠って生きようとしているわけではない。
だが、何かを成すには一定の身の置き場が必要だ。
そこで活性化した呼吸を決して忘れないこと。
時折「枠」外に出てみて、熱い視線に触れることだ。
世界は喩えようもなく広いのである。
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いよいよ今週末は早稲田で朗読会開催
2013-07-26
【朗読実践への提案in早稲田2013】御案内日時;2013年7月27日(土)13時開演〜16時30分終演(開場:12時30分)
場所;早稲田大学8号館B-101教室(大隈重信銅像を正面に見て左手の校舎)
主要演目;詩の朗読
芥川龍之介『杜子春』
絵本語り
古典散文(『宇治拾遺物語』『伊勢物語』・『平家物語』)
その他。
出演;早稲田大学学部生・院生(「授業に活かす朗読講座」受講者)
昭和女子大学学部生
いよいよ今週末は早稲田で朗読会開催です。
みなさまのご来場をお待ちしています。
思えば、2006年〜2007年に行われた早稲田大学教育学部の文部科学省選定「ことばの力GP」の一環としてこの講座は産声を上げた。学校教育現場で「音読・朗読」を今まで以上に有効に機能させるにはどうしたらよいか?また指導者・学習者が相互に「届く声」と「聴く力」を意識化して授業創りができるようになるにはどんな配慮と工夫が求められるか?そんな問題意識からの出発であった。
その後、2008年に教育学部国語国文学科の教職関連科目として授業化。様々な模索を繰り返し6年の月日が経過した。受講した学生も既に学校現場で教壇に立つ者も多い。今やスタッフとして授業でのTA的な存在として貢献してくれる者もいる。一つの授業がサークルのように循環し、「届く声」を創り上げて来た。そしてまた多くの方々が「聴く力」を意識すべくご来場いただいた。
今回の発表会は、僕自身にとってもこの7〜8年間の集大成となる。勤務地が地方に転じたが、月1回の集中講義としてこの4カ月間担当して来た。甚だ変則的な授業形態となったが、担当教授や多くのゲストの皆さんに助けられ、スタッフに助けられ、学生たちの「声」に励まされた。やはり「朗読」というものは実にいいものだと、都鄙往還を通して感じた次第である。
ここで毎年の朗読発表会打ち上げで、
僕の中から湧き出して、
会場で述べたことばを二つ反芻しておこう。
「朗読は人を繋ぐ。」
そして
「文学こそ(学ぶべき価値の高い)実学である。」
今年もまた幾多の「声」がライブで会場に響き渡る。
前日リハーサルに向けて、僕は恒例のフライトに臨む。
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好きな光景
2013-07-25
理由はない。ただその光景がたまらなく好きだ、
と思える処がある。
喩えようもなく心が惹かれるところ。
いままたあらたにそんな光景に出逢う。
心は柔弱である。だが、そうであるからこそ変化できる。もし心が剛強であったならば、いつも折れてしまうであろう。柔弱な心にはストレッチが必要だ。その柔軟性を保つ為にも、栄養となる眺めが必要だ。いつしか些細なことを忘れ、何かを一歩前に進めてくれる光景。誰にも教えない、そんな光景を心にいつも保有していたい。
五感の全てを起動させて、
好きな光景を抱きしめていたい。
眺望は微笑み、
風はささやき、
砂は肌にふれ、
涌水は優しく、
潮は香を放つ。
好きな光景、
そこには、
果てしない世界への扉がある。
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心なしか今夜・・・
2013-07-24
ことばとは人が現象を心で捉えたもの。その心の動きがあってこそことばという豊かな表現に転じる。
ことばの蓄積は豊かな心の存在そのもの。
ゆえに「心なしか・・・」という表現がたいそう気になる。
サザンのデビュー曲「勝手にシンドバッド」の一節にもこれが・・・。
言語の誤用というのは、時代とともによく起きる現象である。「心なしか・・・」は、「そう思ってみるせいか。」ほどの意味で、「心」+「なし」(物事の状態を表す)という成り立ちであり、「無し」ではない。もちろん「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という西行の名歌に見えるように、「無し」の場合もある。このような区別を明確にするためにも、古語を学ぶ意義がある。
最近、辞書編集者である僕の先輩が書くコラム「日本語どうでしょう?」(ジャパンナレッジ)で、やはり「とんでもない」は「とんでも」+「無い」ではなく、「ない」は「たいそう〜だ」という意味で、「とんでもあり(ござい)ません」は誤用であると指摘されていた。(しかし慣用となってしまっているということ。)ちなみに手元の辞書で引いてみると、「途でもない」が変化したもので、1「思いがけない」2「あってはならないと思われる様子だ」3「どのような点からもそのような事実はない様子だ」といった意味が列記(『新明解国語辞典 第6版』)されている。その上で、3の用法では「謙遜の意味を含む」とされて「とんでも+無い」と分析する誤用が指摘されている。あらためて考えてみれば、やはり日常的に誤用を通行させてしまっていたかと我が身を振り返りもする。
同コラム(169回・7月22日付)では、「いさぎよい」は「いさぎ+良い」ではなく、一語で「潔い」であるという指摘がテーマである。小学校で「潔い」の読み方は学習するのだが、ついつい「よい」という音から「良い」を連想してしまうのであろう。ゆえにもちろん「いさぎが悪い」は「とんでもない」誤用であることになる。「いさ(甚)(勇)(弥)+きよい(清い)」という語源説が有力であることも確認できた。
さて「心なしか今夜・・・」に戻ろう。
この表現は、僕としてはたいそう愛すべき語彙である。
この日も、心配事に突然直面し憂鬱なことがあった。
それまで「夕焼けが美しい」などと感じていた心が急に暗くなった。
まさに「心なしか今夜・・・」である。
人は「心」次第で様々な事象をまったく違う捉え方をしてしまうものだ。
それでも時間は先に進む。
早めに寝ようと思いきや、
最終的には一本の電話で安眠への道が用意されていた。
「心なしか今夜、遠く蝉時雨・・・」(桑田佳祐の曲を合わせて)
などという一節を思い浮かべながら。
起床時には、「蝉時雨」も五月蝿いとは感じられない。
実に豊かな情緒であると思えるようになっていた。
安眠完遂!
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物語で「男・女」と呼ばれるとき
2013-07-23
同僚の先生の公開授業へ。大学1年生配当の「国文学講義」。
僕自身も研究課題として興味ある『伊勢物語』がテキスト。
ふと初心に帰って大学ではどのように講義をするか考えていた。
そしてある考え方が示されると、しばし物語の世界に没入した。
物語中で男女が恋愛関係になると、官職や位を脱ぎ捨てて「男・女」と呼称されるということ。僕も既知であったこの考え方に、改めて物語のロマンを感じた。そして『伊勢物語』に登場するこの「昔男」(狩の使)と「女」(斎宮)との、禁断の恋が描かれた六十九段に吸い込まれてしまった。
身分違いの許されぬ恋。古代にはこんなことも多々あったのであろう。現在は至って自由な世の中であると改めて思う。恋とは、意図して始まるものではなく、突然予想もしない状況で始まるものだ。それゆえにロマンに富み、人はなぜかその渦の中に没入するのであろう。むしろ禁忌があればこそ、「物語」として面白いということにもなる。
どんな社会的な体面があっても、最後は「男・女」の仲。自由な世の中ではありながら、様々な状況を考え過ぎて、われわれも実は自由でないのかもしれない。それゆえにこうした古典の物語を読む必要もある。大学1年生に、この物語がどのように映ったか、興味深いところであるが、文学の力から自らの立ち位置を確認するような、豊かな心の動きを持って欲しい。
「男・女の仲をもやわらげ」
というのは『古今集仮名序』に紀貫之が記した和歌の効用のひとつ。
三十一文字に託して、「男・女」はお互いの恋情を伝え合った。
あっ〜!やはり物語や詩歌はいいものだ!
あらためてロマンを持ち続ける研究者になろうと思う一コマであった。
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通りすがりに手を挙げて
2013-07-22
選挙でもある。たまには居住地域を徒歩で散策。
暑い陽射しが照りつける中、
野球帽にサングラス姿にて、
住宅街を抜けて投票所のある中学校まで。
車で移動しているとわからない光景。閑かな住宅街にも様々な発見がある。飼い犬が門扉の向こうからおとなしくこちらを見ている。日除けの葦簀が張られている玄関先。美しく整備された庭先。一戸建ての家は住む人の個性が表面化している。僕自身は、しばらくマンション住まいが続いているので、こうした光景を目にするのも刺激的だ。
投票所の中学校から、野球の練習を終えて真っ黒に陽焼けした少年たちが自転車で出て来る。かなりの陽焼けであるが、たぶん顔・首と腕以外は焼けていないのであろう。(僕自身の体験から)野球をしている少年の宿命。そういえば、ソフトボールをしている少女は、半パン・膝までハイソックスの為に、海やプールに行く時にかなり恥ずかしい思いをするらしい。かつて顧問をしていた時に、部員同士が話すのを小耳に挟んだことがある。
投票を済ませ、帰路もブラブラと。すると知り合いとなったある店の店主の姿を発見。やにわに通りの反対側から、頭を下げて手を挙げてみた。すると同じような動作で彼も応じてくれた。(野球帽とサングラス装着なのにわかってくれた)その瞬間、ことばでは表現できない親近感を覚えた。「あっ!この人はともだちだ!」といった感覚である。東京からこの地に移り住んだという共通点が、彼と意気投合する大きな理由である。
この夜は、選挙速報のため早い時間帯の大河ドラマ。
しばらく會津・鶴ヶ城での壮絶な闘いが続いていたが、
この回で「降参・開城」となった。
毎回、「會津の人々は・・・」という下りには、様々に考えさせられる。
(”もちろん”気丈な役を演じる綾瀬はるかには魅せられている。)
「国とは、そこに住む人のこと。」
そんなことばが心に響いて来た。
こうした凄惨な幕末・明治維新の闘いを経て、
われわれは一人一人が尊重される社会を、当たり前のように享受している。
だが、果たして”当たり前”なのであろうか?
同じ顔をして、普通に、突出せずに生きるをよしとする社会風潮。
聊か、個性とは何かと立ち止まって考える時かもしれない。
個性を知るためにも、
地域社会で人と笑顔で挨拶をすることに、
大きな意味を感じるのである。
選挙結果には敢えて触れないでおく。
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