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勉強ではない「文学」のままで

2013-06-13
幼児は「読み聞かせ」が好きである。
無条件に絵本を楽しみ「また読んで」と何度でも求める。
そこで真摯に向き合う大人に出逢えれば、
きっと子どもたちは本が好きに、文学が好きになるだろう。
「読み聞かせ」を学生たちとともに考え体験する今週。

感想文の為でも、テストの為でもない、面白いから読む。幼児の「読み聞かせ」に対する態度は無邪気そのものだ。だが、小学校に入学し「・・・の為」に文学を読み始めると、次第に無邪気さが失われ好奇心は減退し、果ては文章そのものを読むことを嫌悪する結果となる。中学高校と進むにつれて「教育」する側は「読書指導」を盛んにと鼻息は荒いが、それと逆行して読書量は低下して行く。子どもたちは”試験の為”に読まなければならない文学に辟易してしまうのである。

好きなものを好きなように。それで感想文なども求めない。米国でベストセラーとなった『Read Aloud Handbook』には、このような趣旨のことが多様な表現で散りばめられている。特に目を惹く一節は「文学の目的とは、われわれの生活に意味を与えることである。」だ。元来、文学というフィクションには「われわれの人生」を考えるヒントが多数書き込まれている。生育段階でその襞に触れておく、しかもテストが終わったら全て消去されるような短期的記憶では意味がない。いつかどこかで人生の機微に邂逅したとき、自然と心の底から浮上するような長期的記憶の”種”として埋め込んでおきたい。

先述した著作から詩人・ロバート・ペン・ウォーレンの「フィクションを読む理由」を。

「フィクションには葛藤があるからーそして葛藤は人生の中心だから。」
「フィクションはわれわれの感情を、涙、笑い、愛、憎しみなどで
 発散させてくれるから。」

そして、

「そこに記された物語が自分自身の人生の物語への手がかりを
 与えてくれるだろうから。」

「読み聞かせ」は、「自分自身の人生の物語」の入口なのだ。
もちろんその時の子どもたちにその意識はなくていい。
その後、「教訓だ道徳だテストだ」といって強要し
「文学(フィクション)」を嫌いにさせているのは誰だろうか。

「文学」を尊重できてこそ、「人生」を尊重して生きるということ。
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