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古典を声で学ぶということ

2013-06-30
古典をなぜ学ぶのか?
「学ぶ」でなくてもいい。
なぜ「味わう」のか?
その理由がわからないなら、
せめて声に出してみよう。
ただ楽しめばいいのだ。

今年度第4回目「授業に活かす朗読講座」のテーマは「古典散文の朗読」。4回目となって、だいぶ受講者の「朗読創り」もスムーズに進行するようになった。古典を声で味わう。『平家物語』や『源氏物語』の文体リズムを表現として追体験していく。本来、古典学習は、古典が持つ総合的な魅力を自らの表現を通して理解して行くものである。過度に詳細な文法事項の学習に代表されるように、われわれは「文字」として古典を見つめることだけに偏りすぎているのだ。

表現という目標があると、主体的な内容解釈が深まる。まずは作品内容の共有が朗読表現を創る始発点。高校教科書程度の脚注を使用しながら、班内での作品解釈の時間。声にするということは、すぐにでもできる行為でありながら本気で挑むならどこまでも奥深い。「読みを深める」という目標があるのなら、最後に表現を見据えるべきだ。

この日は、即興で僕たち講師及びスタッフによる『万葉集』の秀歌朗読で幕を開け、『源氏物語』「若紫」の垣間見場面、そして『平家物語』から「木曾殿の最期」「能登殿の最期」が各班によって発表された。作品が提供され発表まで約2時間。このぐらいの中で一定のレベルの作品が創り出せるようになった。受講者の朗読へのひたむきな取り組みに、今年度は特に驚かされることも多い。

さて、来たる7月27日(土)がこの授業のクライマックス。
「朗読実践への提案in早稲田2013」である。
今年度は、とりわけ秀作が披露できそうである。
小欄読者諸子におかれましても、ぜひ会場に足をお運びいただきたい。
各班の今後1か月の成長を担当者として存分に楽しみたい。

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時を刻む

2013-06-29
朝起きれば時が刻まれている。
曜日という鋳型で自分の生活がある。
一定の流れに沿いながら一日を創る。

去来する様々な人との応対。
小さな出会いで流れに変化が生じることも。
その偶有性を味わいながら今日も時が刻まれる。

飛行機は飛び電車は走る。
精密に刻まれた時間通りに遂行される。
精密さに置いていかれないように人々は走る。

刻まれた時に左右されすぎてやしないか。
場所によって、そして眼前の人によって、
刻まれる時の速度や呼吸は大きく変化する。

いつしか忘れている。
自分が生きていることが先だ。
刻まれる時に支配されているのではない。

そんな呼吸をしていたい。
そんな場所にいたい。
そんな人といたい。


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自己との対話コミュニケーション

2013-06-28
オムニバス形式の3回授業担当の覚書。
取り上げるテーマは、
「コミュニケーション」
「ことばの力」
「笑い(落語)と対話」
の3本です。

昨日初回の骨子を簡単に振り返る。
最初に僕の教え子で第一線で活躍している人物を知っているかどうか?その知名度を量る意味でも学生に問い掛けてみた。多くは野球とサッカーのスポーツ選手であるが、中にはゴルファーやアナウンサーもいる。これだけ多勢挙げられるものかと、改めて自分の教員生活を回顧する感慨を抱いた。「自己紹介にはエピソードを添えて」を実践で示そうとする試みでもある。

次に「コミュニケーションとは何か?」という定義。話し手が上手ければ伝わるとか、卓球のような双方向性が必要といった旧来の考え方ではなく、「相互の中で解釈した新しい意味付けを創り上げる過程」こそ「コミュニケーション」であるとした。まさに「対話」の構造を意識したものである。そしてまた、「コミュニケーション」は「他者」のみならず「自己」とも行うべきものであるという方向を模索した。

そこで、学生に課題。
「自己の生活の中で”ルーティン”になっていることを”ことば”で列挙してみる。」
それを「能動的」か「受動的」かに区分する。
周囲の人と「ルーティン」を比較して情報交流をする。
新たに付け加えたいこと、削るべきことを発見する。
といった小さなグループ交流へ。
例えば明治期に近代国家建設へ向けて学制が導入された際に、多くが農民だった者たちに教育されたことは「排便」であった。という事例に触れて、いかにわれわれが近代国家に適するような身体に教化されているかということも紹介し、「日常生活」というものへの見方を俯瞰する刺激を与えた。

そして授業のまとめへ。
日常生活からいかに来るべき時の「準備」ができているか?日々積み重ね、継続するということは「生活」の中に「習慣」化しているということが重要。際立った究極の「ルーティン」を実践しているイチローの生活を紹介しながら、なぜ彼が”ここ一番”で力を発揮できるのかを考えた。そこでキーになるのは「妄想力とフロー状態」。日常から能動的な姿勢で自己によい意味でのプレッシャーを掛けることによって、「緊張ではなく集中」している状態を産み出すことができる。「緊張」と「集中」を混同してはならない。来るべき教育実習を不安なく実行するには、日常生活にこうした自己を産み出す「ルーティン」を盛り込む必要がある。あくまで「自己との対話」から、「新たな意味付け」を創り出しておくコミュニケーションを実践しておくべきである。

そして締め括りにこの一言。
「夢を叶えるには、
 今日の一歩から。」



といった覚書を起床後にまとめるのは、
僕の「ルーティン」である。
今回の授業の”ネタ”も、
ほとんどが小欄で過去に採集しておいた情報をもとに構成している。
そして今日もまた、昨日の授業を文章化し自ら客観視して検証への足掛かりとする。

自らが歩んだ1日の足跡を残そう。
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まだまだ甘い・・・

2013-06-27
ある友人から深夜に電話をもらった。
携帯から「今まで仕事だった」という声。
約1時間前に僕から電話した。
その時はまだ仕事中だったと知った。
僕の想像を遥かに超えて頑張っている友人の姿勢を初めて知った。

電話で用件を話しながら、僕の胸の中から「自分はまだまだ甘い・・・」という声が聞こえて来た。前日は20時過ぎまで職場にいたが、比較的夜の時間帯は自分自身の趣味に使える。この日も出張先から直接ジムに出向き、トレーニングを励行した。自分の生活の流れがあると、それに準じた想像から相手の生活状況を考えてしまっていた。ところが・・・。

先延ばしにしている課題はないか?直前に迫る仕事のみならず、長期的な展望を持って進めるべき研究の進行は?基礎的文献を今一度読み直そうとしていたのではないか?授業を活性化させる話題を諸方面から採集しているか?自分の人間的な幅を拡げる読書はしているのか?等々が心の中から問答のように去来した。

人は「精一杯」である限界点を自分で定めれば、そこが「いっぱいいっぱい」になってしまう。「忙しい」と感じるのは、自分が限界点を下げているのではないだろうか。ことばは行動を規定するような面があるので、昔から極力「忙しい」という語彙を口にするのは意識的に避けて来た筈だ。それでも自分で自分のハードルを下げているのに気付く時がある。

友人の頑張りに心から敬服した。
そしてやや勘違いしていた自分を恥じた。
そんな電話の声を聞いて明日への活力が湧いた。
まずは安眠に入ることが次への「精一杯」であろう。
などと考えながら穏やかな眠りに就いた。

友人に心から感謝である、ありがとう!!!

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瞬間本気モード

2013-06-26
枕・前置き・ウォーミングアップ
風呂に入るには掛け湯。
準備運動に音合わせ。
事の始まる前に行うべき動きの大切さは常に説かれる。
だが、特に知的活動の場合は少々事情が違うように思う。

机に座った瞬間本気モード。この入り方が最近重要であると思う事が多い。様々な雑事、会議、出張等が入り込んで来る日常において、いかに本を読む時間や思考する時間を確保するかが課題だからである。筋肉や心肺機能を使う運動であれば、徐々にというのが好ましいのは自明だ。準備の大切さはアスリートの行動を見ていればすぐにわかること。だが、脳活動においては肉離れや呼吸困難に陥ることはほぼないといってよいだろう。

先日、ある方のTweetを見ていると「本は時間のある時に読んではいけない。時間があれば思考をすべきである。」という趣旨の名言(出典を忘れてしまいました)を引用しているのが目についた。また、子どもたちが「読み聞かせ」を好きになる一つの方法として、見えるところ手に取るところに絵本を置いておくという習慣があった。双方とも「読みたい」と思った瞬間本気モードになるべきだという趣旨のことを伝えたいのであろう。

枕詞に序詞・昔話の導入・落語の枕等々「前置き」が日本文化的特徴だといえるとすれば、瞬間本気モードは西洋的文化の発想であるといえるのであろうか。西洋的発想では、プレゼンの冒頭でいきなりサプライズを好む傾向も見られるかもしれない。もちろん日本国内でも、関西気質においてはもったいぶるのは聞き手をイライラさせ、”掴みが肝心”という傾向もある。俳句の一句目のことばと切れ字というのは、瞬間本気モードの結果かもしれない。

詳細な文化論はさておき、日常での瞬間本気モードはお勧めだ。
授業の場合は、なかなかそうはいかないのだが。
せめて自己の活動の中では励行できる習慣である。
もちろん、”前置き文化”も場面によっては有効であることを認めた上で、
”短時間差し込み読書”などへの発展が期待できる。
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「断トツ」「最悪」「絶好調」

2013-06-25
「断トツの最下位」
耳で聞き流せば特に気に留めない表現。
だが、よくよく考えてみればおかしな使用法だ。
「断トツ」は「断然トップ」の省略形。
ゆえに「上位」でなければならないはずが、
最「下位」の形容として使用されているからだ。

こんな話題を辞書編集長である大学の先輩が執筆するコラム(日本語どうでしょう?第165回)で知った。『日本国語大辞典 第2版』の用例では、石原慎太郎氏の『死のヨットレース脱出期』(1963年発表)を採用しているという。当時は「断然トップ」と注釈を加えていることから、この時代に生まれた言葉ではないかと当該コラムは指摘している。小欄冒頭に記した例は、以下「つながりやすさNo1へ」と続くある携帯会社の広告からのものである。これを厳密に読むならば、「断然首位の最下位」というように「明らかに意味を重ねた重言」であるという指摘である。

語源が曖昧になり正しい意味から派生的使用法に傾く語彙は多い。古語では「いみじ」などが典型で、「忌み嫌うべき物」という本来の意味から、次第に「甚だしい」という広範な領域で使われる語となり、まったく対極の「とても良い」「最高」という意味合いに至る。「甚だしい」という語彙の多様性はいつの時代も同じで、一時期「鬼・・・」という表現を高校生が頻用していた。例えば「鬼アツ」といえば「鬼のように(甚だしく厳しく)暑い」という意味だ。ところが男子高校生が「鬼カワ」と言っているのを、教員として意味を問い質したところ、「鬼のように可愛い(女の子)」という意味だという。果たして「鬼のように・・・」とはどんな可愛さなんだろうか?まさか自虐的男子たちが、尻に敷かれる願望から性格のキツい女子を「鬼カワ」と言っていたという厳密さがあったかどうか。語彙が感覚を醸成し「草食系男子」の先導となっていたのかは定かではない。いずれにしても「鬼」自身は、さぞ戸惑っていることだろう。

最近、僕も使用してしまうこともあるのが「最悪」。決して「最」っとも「悪」いわけではないが、「少々」厳しい状況・立場になると「最悪」という。例えば学食(カフェテリア方式)で膳の上に味噌汁が運ぶ際に揺れてこぼれたとしよう。たぶん学生なら「最悪」という。本当に「最悪」なのは膳ごと学食の床に全てを”ブチマケタ”とか、更にはそれを他人に掛けてしまったとかいう更なる「最悪」状況が想定されるにも関わらずである。場合によると、携帯電波があまり届かない程度のことで、「最悪」という学生も多いだろう。「最」はまだまだ上手の「最」がたくさん想定できるが、日常には「最悪」が氾濫している。

「絶好調」もそうだろう。現在あるプロ野球チームの監督をしている方が、選手時代によくインタビューでこう答えていた。「絶・・・」は、「絶唱」「絶世」「絶品」「絶妙」などのように「他よりかけはなれて・・・(特にすぐれた)」というニュアンスであったはずだ。「絶好調」な状況などそう簡単には訪れないのだが、これも頻発すると「好調さが持続している」程度の意味になる。もっとも発言していた選手(現監督)は、己のテンションだけは「絶・・・」だったのかもしれないが。周囲が付いて行くか否かは別問題のようである。

ことばは生きている。
使用されながら語源や本来の意味が失われて行くことも多い。
こうしたことばの汎用性を決して否定するつもりはない。
ただ、語源や本来の意味を知っているか否かが重要だ。
その意識を”教養”と呼び、その差が日本語・日本文化への愛着でもある。
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バッティングセンターでの快打!

2013-06-24
「ボールが止まって見えた」
かつて「打撃の神様」と云われた川上哲治の名言だ。
プロなら最低でも130Km以上の投球が止まって見えるのか?
という疑問を少年の頃から抱いていたが、
今までに何度かそれに近い瞬間を経験した。

久しぶりの休日らしい日曜日、思い立って以前から気になっていたバッティングセンターに足を運んだ。ボールを打つこと自体がかなり久し振りである。バットを選び革手をはめていざ打席へ。小雨が降り始めていたので、予想通りその機械からの投球は低目ばかり。雨に濡れた軟式ボールは、アームから放たれる瞬間にスリップして必然的に低目となる。

これを知っているのは、学生時代にバッティングセンターでアルバイトをした経験から。雨が降り始めるとコース調整を行う忙しい時間になる。そのセンターには尊敬できる誠実な係員の方が2名いた。1ゲーム200円(1球あたり10円)というお金を払い打撃を楽しむお客さんに、1球たりとも無駄にさせまいとする真摯な態度を見習ったことが記憶に深く刻まれている。

この日は数球、低目にバウンドするほどの投球があった。すると係員の方が気付いて僕の機械を調整してくれた。そこでようやく打てるコースにボールが来るようになった。最初の2ゲームは、感覚を取り戻すだけで終わった。身体も温まった。少々の休憩を入れて更に球速が高い打席へ。その初球、久し振りに「ボールが止まって見えた」のだった。打球は機械のあるボックスの上を綺麗なライナーで越えて行った。爽快そのもので上々な気分。以後、納得のいくスイングを取り戻して打撃に専心できた。

打撃はほぼタイミングが全てだ。来るボールとどのようにシンクロするか。その刹那の間において”計算”ともつかない身体の動きが要求される。もちろん打ち損じも多く出るのだが、その中で何本かでも先述したような快打が出ると、打撃としては”成功”の部類に入る。そんなバッティングの真髄を久し振りに味わってあらためて考えた。生きて行く中でも、幾多のタイミングに遭遇する。打ち損じもあれば、快打もある。どんなに好条件だと思っても、力んでは凡打に終わる。

野球には人生が見える。(と僕は考えている。)
観るだけでなく時に自ら実践することも大切だ。
次はボールを投げたくなった。
「フィルディングセンター」はないので、誰か相手を見つけるしかない。
やはり僕の身体には「野球の虫」が根深く住み着いている。
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雑談を楽しもう

2013-06-23
用がないのに訪ねる。
「ちょっと顔を出しただけ」
といって立ち寄れる場所があるのはいい。
久しぶりのゆっくりした休日。
そんな場所を訪ねてみた。

雑談は楽しい。別に何を話そうと決めているわけでもなく、顔を合わせるなり「暑くなりましたね」と言えばいい。その心がわかる方も、昔に比べれば随分少なくなったようだ。飲食店に限らず商売をしている店舗において、昔は大量の”雑談好き”がいたものだ。幼少の頃に、母親と商店街に買物に行くと、八百屋でも魚屋でも豆腐屋でも乾物屋でも、必ず母親は雑談をしていた。子どもながら僕は痺れを切らして、「早く帰ろう」と母に”忠告”したことも多かったと記憶する。だがその時間が母親にとって、大きなストレス解消の場であったのではないかと、今にして思える。

いつ頃からだろう?〈教室〉からも雑談は姿を消し始めた。僕の中高生時代の経験からすると、いかに雑談に持ち込むかというのは生徒にとって重要なテーマであった。大抵、雑談誘導係が学級内に存在していて、各先生から雑談を引き出した。大学講義もまた然り、研究者として見識の高い先生ほど、雑談が面白かった。そのために、雑談までノートに書いたことがあった。同世代のライバル教授の悪口(実はお互いに仲がよく、意図的に相手の悪口を言う)では、それが専攻する文学ジャンルの特徴に相似したものであって、聞き手としてなかなか楽しめた。雑談も高尚になれば、何らかの意味を発見できる。要は聞き手の問題でもある。

僕の教員生活の中でも、初任校に赴任した若かりし頃は雑談を量産していた。それが許される雰囲気があったのと同時に、強豪運動部の存在していたその学校の生徒たちに対して学習への興味を引く為には、雑談以外の手段が見出せなかったともいえる。古典の時間には時代劇の言葉遣いの話。日本文化的な「めでたしめでたし」話型は、ヒーロー物に活かされている。そして運動競技の機微を文学構造で捉え直すとどのようになるか等々。随分と雑談ネタを展開したものだ。その話題提供と笑いの〈教室〉にこそ、双方向性のあるコミュニケーションがあった。お陰で、だいぶ教員としての話術を鍛えてもらったと、当時の生徒たちには感謝している。


「必要か必要でないか」などと分別する社会は無味乾燥。
「役に立つか役に立たないか」も同様だ。
思いもよらぬ発見があるから、生きていて面白い。
〈教室〉にも、社会にも、「余白」があってこそ、
健全に人々のコミュニケーションの糸が双方向で通じ合うはずだ。
せめて、雑談を楽しもう!
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英語と標準語〜画一化幻想が生む劣等感

2013-06-22
世界には少なくとも3000以上、5000ほどの言語があるが、
それらは減少し消滅へ向かうものも多い。
1言語が消滅するには60年ほどもあれば十分で、
多言語・多文化社会は標準とされる言語に浸食されて行く。
世界で英語が話せる人口は10億人程度(世界人口の約六分の一)。
たぶん日本人の多くが、「英語=グローバル」という幻想から脱し得ないでいる。
それは「早期英語教育」の推進傾向を見ても明らかだ。

大学院の複数担当授業で、英語教育の先生から提供された話題。実に考えさせられる内容であった。たぶん多くの人が概略は心得ていたとしても、日本人の持つ英語に対する意識は、こうした背景を無視した劣等感の中に置かれていることが再確認できる。同じような現象に、「標準語中心主義」があるのではとふと考えた。明治以降の近代国家建設を目的に「国語」という教科が設置されて、「標準語」によりどの地方出身者でも理解可能な”政策的”言語を産み出して来た。決して「標準語=東京語」ではない。僕自身は、「江戸”方言”話者」であることにささやかな誇りを持っているのだが。

西洋文化の過度に加速的な流入を、この150年間ぐらいの間に2度経験した島国。国内言語の統一化を始めとして、明治期の教育が人々に施して来たことは計り知れない。どこかでわれわれも、その影響下にあるのだが既に自覚がない。直立不動で立っていたり、等間隔に統制されて並ぶことは、学校では標準的な遵守事項であるが、これも明治期に始まる軍隊規律に端を発している。そして明治期に「国語」が、戦後に「英語」が、画一化され価値の高いものと意図的に標榜されて行くというのは、聊か乱暴な結び付けであろうか。いずれにしても多様を廃し画一化を求めて来た歴史が、劣等感となって随所に表出しているということぐらいは言えそうである。

夏目漱石は、英国留学の目的を「英文学」と定めていた。「英語教育」なぞ毛頭学ぶつもりはなかったという。この明治期に存在していた風潮が、豊かな近代文学の始発に貢献した。「文学」と「国語教育」の交差点を考えるとき、自ずと明治期に行われたことを検証し直す必要性をいま強く感じている。「英語教育」もまた然り。「会話技能」優先の発想からすると、明治期の教養主義的な英語が埃を被ったもののように見えるようだが、果たしてそうなのであろうか。「話せない」のは、文化を学ぶという敬虔さを捨象しているからではないのか。骨なき筋肉付けに躍起になっても、所詮砂上の楼閣であろう。

英語教育の先生が授業の最後で語ったことが印象深い。
「言語は人と人とを結びつけるもの」
否、
「人と人とを排除し合うもの」
であると。


言語を奪えば文化が消失する。
要は、文化なくして学ぶ「国語」も「英語」も幻想に過ぎない。
画一化幻想に眼が眩んだ劣等感の持ち主こそが教育を矮小化してしまう。
言語を通して真に思考力・想像力を育むにはどうしたらよいか。
僕らは常に時間的・空間的に広い視野から捉え直す必要がある。
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かけがえのない親友

2013-06-21
どんなに経験を積んでも、
どんなにわかっているようなつもりでも、
自分の心を勘違いして捉えてしまうこともある。
そこで求められるのが鏡となってことばを返してくれる人。
かけがえのない親友。

人生は旅のようである、とは過去に幾多もの詩人たちが語って来たことである。旅というのは、同じ光景にまた出会うこともあるが、全く知らない光景に出会うことの連続である。その未知の光景に出会った時に、素直に感動できるかどうか。自分は「知らない」ということを意識できるかどうか。”大人”になればなるほど、そこで「知っているつもり」になってしまい、純粋な感動から遠ざかってしまう。自ら旅の価値を貶めてしまう。

「知らない」ということを素直に伝えられるのが、誠の親友であろう。恥も外聞もなく、自分が愚かであることを伝えて、それに対して同等な立ち位置から柔らかなことばを返してくれる人。その相手にしかわからないような”聖域”のような呼吸で、期待できる返答をしてくれる人。勘違いしていた今から目覚めさせてくれる人。まさに”文学”が語り出すような、珠玉のことばを提供できる人。決してそれは高尚なことばではなく、あくまで日常的なことばでそれを語れる人。それが親友であろう。

人は一人では生きられない。
その理由は自分でも自分が十分にわからないからだ。
いや、自分というのは他者の中に存在しているからだ。
だから親友が必要だ。
かけがえのない文学に出会うように、
かけがえのない親友に出会ってこそ人生は豊かになる。
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