キャンパスでの2カ月

2013-05-31
入梅となった。
湿気を帯びた空気がやや身体に気怠さを感じさせる。
印刷機に差し込む紙も同様で詰まることの連続。
新たな勤務地の梅雨とその後の暑さはどうなのだろうか?
四季折々、発見を楽しんで行こうと思う今日この頃。

研究室のドアを開けてからの動作が固定して来た。ブラインドを挙げて光を取り入れつつ遠景の山並みに挨拶する。電源タップをONにして、PC・プリンタ・電話の子機に通電。ラップトップを開けて起ち上げると、まずは大学アドレスに届いたメールチェック。即時返信が必要な用件に応える。その間にこの気温が上昇して来た時季となっては、自然の風を窓から取り込むようになった。やや草木の薫りがする風が優しく僕を包み込んでくれる。

朝一番から通学する学生の姿が、窓下に見える。講義棟への広い通路が次第に賑やかになって来る。勤務校ではチャイムが始業を知らせてくれるが、その時間に通路は既に静かになっている。多くの学生が教室に座っているからだ。それゆえに僕らも、講義開始時間前には教室入りする。(他の多くの同僚の先生方がそうしている。)休み時間が20分間という時間構成も、この状況を産み出す大きな要因だ。僕自身の出身校では、休み時間は10分間(現在は夕刻の授業に限ってキャンパス間の移動が多いゆえに15分間)、先生方も約10分程度は遅く教室に来るのが通例であった。(結果的に混雑するキャンパスでは休み時間は20分間必要だということだろう)たぶん多くの先生方が講義開始時間に研究室を出るということだ。更には講義開始時間から30分近く経ってから来る先生も学部時代にはいた。(そういう時代であったのだろう。30分間が過ぎると自然休講なる慣習も存在していた。それを心得ていてほぼタッチの差で29分ぐらいに教室に現れる先生もいた。)

最近は講義において、タブレット端末で教材や要点をプロジェクター表示している。ラップトップと違い起動に時間を要せず、手元で持ちながら話すこともできる。身近で表示したい物はすぐに写真で取り込めるし、電子書籍で教材とする文学作品を投影することも容易だ。またその日に気になった新聞コラムを学生に読ませることも可能。「国語」を専門とするゆえ、「縦書き」を使用したい場面でそれが適わないのが唯一の不満だ。(電子書籍の名作版はもちろん縦書き表示だが。)今後は、学生との双方向性ある使用方法に向かえるかどうか?ある友人が大学で講義をするときは、その試みを実践していると聞いた。その可能性を模索してみようと思う。

かくして新しいキャンパスに慣れた。
研究室からの眺めに、4月当初はこんなことを考えていたという回想が伴う。
順応の時季は通り過ぎた。
今一度、自分の教育・研究を見つめ直し、
皐月より水無月へ暦は遷り行く。
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多様性が認められる社会ではなかったのか?

2013-05-30
”グローバル社会”などと言われて久しい。
もはや一時代前の標語のように響く。
それは果たして自明性を伴ったからなのであろうか?
「異文化理解」を促進し多様性を認める社会。
否、大変中途半端な位置で日本社会の場合は宙吊りになってやしないだろうか。

3.11以後に盛んに語られた「絆」や「一つになろう」といった類の語彙。またその延長上で語られる「日本」という枠組。「この国はどんな苦境にも挫けない」という発想の裏側に潜む懐古主義的な現実逃避。「昔はよかったが、今の若者は・・・」と日常でよく聞く言葉にも多様さを認めない排外主義の発端がある。「今の若者は・・・」と思わざるを得ない状況を社会の中に造って来た世代の当事者であるにもかかわらず、多くの者が口にする言葉である。

四方を海で囲まれた島国。この地理的条件が幸か不幸か”グローバル化”という喧伝も空しく宙吊り社会を構成している。「外国語(特に英語)を喋ることができない日本人」というレッテルはいつまでも払拭されず、様々な政策が施されるがむしろ現場混乱の誘因となっていることも多い。政策・制度の問題はもとより、教える指導者側が”グローバル化”した多様性ある生き方がどのようなものかという発想を身を以て理解しているのだろうか。会話する「技能」も大切なのであるが、会話への意欲を醸成する基本的な発想の上で、決定的に欠けるものがあるように感じてしまう。直接的に結びつけるのは慎重であるべきだが、学習する若い芽は「海外留学」に目を開かず内向き思考に籠らざるを得ない悪循環が生じている。

「多様性を認めている」確かにそう思えることも多くなった。だがしかし、教育現場では、試験の為、評価の為、好成績の為、はてまた排除されない為に、一つに収斂した考えに同調せざるを得ない雰囲気を感じることも多い。国語では「意見の交流」といった活動が行われる。そこで自分が他者の意見を受信し熟考し表現する過程を経て、どのように変われるかが重要な筈だ。「変わる」ということに抵抗があるのも我々の”欠点”である。「先ほどと言っていることが違います」という指摘を憤慨して施す局面が多々あるが、他者の意見を受信して熟考したら表現は変化してこそ妥当である。

まさに「対話」が醸成されるか否か。
「A+B=C」という図式。
「A+B=AorB」ではない。
しかし、日常生活の多くの場面で
「A(◯)かB(×)か」という二者択一な発想が幅を利かせている。
司法の場でもまた、夫婦の生き方に対して多様性を認めない判決が出された。
まさに”グローバル化”(国際化)はどこに行ったという方向性である。
内向きな視点で広域と交流することほど怖いことはない。
せめて歴史からは、今一度学ぶ我々でありたい。
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焦りもせず苛きもせぬ

2013-05-29
「駆け込み乗車はおやめください」
というアナウンスにむしろ促されるように走る人々。
都会には何処でもある光景が奇異に見えた。
電車が数分刻みにプラットホームに滑り込んで来る。
その緻密なダイヤと同じように人の生活も効率を求める。
背中を何物かに押されるように時間に追い立てられる。

1ヵ月に1度の東京行きでふと感じたこと。在住していたときは殆ど気付かなかった感覚。いや、むしろその”効率化症候群”を背負った一人だったかもしれない。仕事に追われ、休日にも余裕がなく、時間が矢の如く走り去るように過ぎて行く。だいぶ前に「サザエさん症候群」というのを指摘する書物があった。日曜日の夕刻に「サザエさん」のテーマ曲を聞くと、休日の終わりが反射のように心身に自覚されて、翌月曜日からの仕事や学校への嫌悪感から、具合が悪くなるというものであっただろうか。これもまた休日を十分に満喫できない精神的な作用による影響が大きいという指摘だろう。

時間に追われていない。キャンパス内では走ることもない。効率化の波が全くないとは言わないが、実にゆっくりゆったりしている。次の行動に余裕がある。焦りもせず苛つきもせぬ日々の時間。ゆえに己の心の内と対話する時間も自ずと多くなる。そこできっちりと都会で流れている時間も相対化して捕捉しておく必要も感じている。精神的な俯瞰をすることで、意欲を意識的に喚起しておくことが不可欠だということだろう。

とはいえ、生まれてこの方までの長い間の都会生活が、身体各所に染み付いていることに気付くことも多い。即時的な展開を求め期待し待ちきれなくなることもしばしば。ゆったりした時間に宥められるかのように、先走る心を自制する局面に出くわすことになる。少なくとも、こうした時間意識の振幅ある彷徨を繰り返す中で、自己の客観視に更なる磨きをかけたいという願望を叶えようとしている。

居住地を移動するというのはこういうことか。
一人でゆったりゆっくり自らの心と向き合う。
身体的に保存されている”意欲”と”情熱”を保ちながら。
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平田オリザ氏著『わかりあえないことから』への共感

2013-05-28
昨日の小欄でも紹介した平田オリザ氏の著書。
『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何かー』
(講談社現代新書・2012年10月)
巻末まで読み進めるに、その深いコミュニケーションへの情熱に目頭さえ熱くなった。
されど僕自身は、演劇人ではない。
芝居の経験も演出の経験もない。
だがしかし、この違う価値観から学び自己の中で何かが確実に変わり始める。
書面から「情熱」を読み取るというコミュニケーションが成立したからであろう。

平田氏は、現在の日本が「「異文化理解能力」と「同調圧力」のダブルバインドにあっている」社会だとする。職場・学校・地域・家庭等々、身近な社会を見回せばすぐにその狭間を発見することができるだろう。その結果、既に「日本はバラバラ」であり、その中で「どうにかしてうまくやっていく能力」が求められていると。教育現場への視点で述べるならば、「伝える技術」を「伝える意欲」がない子どもたちに教え込むのでは定着せず、「伝わらない」ことを経験してこそ「伝える」気持ちが養われるというわけだ。

平田氏の国語教育への提言は実に斬新である。僕自身の研究・実践にも大変示唆的であるため、ここに覚書として引用させていただく。

「要するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編み直していかなければならない。
 そのことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不定型なものだという覚悟を持つということを意味する。」(同書・P58/59)

「演技」とは、「もともと他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術なのだ。」(同書P187)というのが平田氏の定義。更に日本社会は「演じる」ということに順応しておらず、例えば日常生活の中で「(職場・学校等で)役割を演じる」ということは「悪」だと見なす慣習が強いと指摘する。確かに「正直で素直な心」が学校教育の目標として掲げられることは多い。この問題を「コンテクスト」という語彙を使用し、演劇が社会・教育に対してできることを前向きに提案しているのが同書である。

「同情から共感へ」
「同一性から共有性へ」
「シンパシーからエンパシーへ」
「協調性から社交性へ」
平田氏の思いが多彩な語彙で換言されていく。

「「わかりあえないこと」を前提にわかりあえる部分を探っていく営み」
同書のタイトルが、すっと腑に落ちて来た。
ぜひ「エンパシー」を感じていただきたい一書である。
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翼が揺れるゆえの安全

2013-05-27
今年6回目の同航路フライト。
常に座る席からは翼がよく見える。
気流の影響を受けると上下に聊かの揺れが生じる。
初めてフライトした人なら「揺れている」と驚くかもしれない。
だが、僕はその翼の揺れゆえに「安全」を確信する。

飛行機に殆ど乗ったことがなく嫌悪していた母。「耳が気圧で聞こえなくなる」とか、「着陸時に車輪の衝撃がすごい」とか、もちろん「上空で翼が揺れている」などという悪条件を挙げ列ねて乗ることを避けていた。だが、先日試みにフライトしたところ、「新幹線(上越)より揺れない」と言うようになった。その予想以上の安定感に驚いた様子であった。何事も喰わず嫌いはよくないということだろう。

翼が上空で揺れるのは、機体構造上の「遊び」があるということ。強固なばかりで硬直していたら接続部分にばかり負荷が掛かり断裂してしまうであろう。しなやかに揺れが生じる程度であるからこそ、機体は安定して気流にも離着陸時の空気抵抗にも耐えられる。剛強な物は硬直し、柔弱な物は軟熟するのである。

「遊び」は時に「無駄」に見える。だがしかし、その「遊び」こそが生命線になるということも。劇作家の平田オリザ氏の著書『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』(講談社学術新書・2012年10月)に教わった。名俳優が名俳優たる所以は、演技に「無駄」があることだという。認知心理学では「マイクロスリップ」と呼ばれる無駄な動きこそが「人間らしさ」を表現するらしい。何事も効率よく無駄のない”仕事”が要求される現代社会。それはまた、教育の現場がそのように教え込むことの影響を受けているともいう。

スピーチ等でも「冗長率」を操作できる話し手の方が、聴衆を惹き付けるという。確かに要点は整理されているが「記憶に残らない」という話し手に出会ったことはある。落語に代表されるように、主眼とする内容とは関係ないような「無駄」を含んでこそ「記憶に残る」スピーチになるようだ。しかしながら、国語教育の現場では無駄がなく整序され型に嵌ったことばかりが指導されていると平田氏は指摘する。ゆえに「短期的な記憶」ばかりを養成してしまっているとも。僕自身の経験でも、学習者は「試験」を終えればあっさりと記憶から学習内容を”指示”もしないのに、ほぼ完璧に消去している。これからの時代は「長期的な記憶」を養成する教育に転換すべきだというのが平田氏の主張である。

「無駄」な「遊び」こそが肝心。
「翼の揺れ」が多数の生命を支えている。
元来、人の脳は硬直しやすいのかもしれない。
「無駄」を受け入れる許容範囲を常に持っていたい。
コミュニケーションとはそのようなものであろう。
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『杜子春』は難しい

2013-05-26
今年度第2回目の集中講義「授業に活かす朗読講座」
今回は、「近現代小説の朗読を考える」というテーマ。
題材は芥川龍之介『杜子春』である。

教材としては中学生、または小学生でも読めそうな話である。だが、いざ朗読素材として読もうとすると、何とも難解な小説である。漢語の使用、独特な語り手・文体、描写密度の振幅等々、考えれば考えるほど難しさに気づく小説である。

朗読への作業を開始する前に、教育現場で小説をどのように扱うかという国語教育における現状認識。「言語活動」を通して「学習者主体」な小説授業を創るにはどのようなことを考えておいたら良いかを提示した。「受信⇨熟考⇨発信」という過程を通じて学習者が自ら考え、自分なりの感想を持ち、発表する授業を求めたい。

こうした「言語活動」を主軸にした授業においては、「音読・朗読」が大変有効である。「音読」で内容理解を促進し、他者とのよみの方の違いを交流し、そして「朗読」表現する為に各自の思案を擦り合わせて行く。この過程で、学習者の中で次第に深く小説が腑に落ちてくるわけだ。

この日の授業では、こうした過程を大学生が体験した。より小説に対して深い分析力がある為に、「熟考」の過程が奥深い。同時に表現するために「アクセント」や「読み方」の検討も疎かにしない。その結果、授業前と後では『杜子春』に対する教材観が変化したと実感する学生が多かった。

5人平均6班の学生たちが「一」から「六」までを読み継いだ。個々の班の個性が存分に発揮されながらも、一つの物語を構成できた。多様な考えを伝え合い、そして調整して一つの朗読表現にすることで、その場にしか存在しない『杜子春』が現出した。

学生の中から5名が『杜子春』を7月の公開発表会で扱うことを希望した。
さらに練り上げた朗読作品が期待できる。
集中講義としての今年の講座。
毎回が期待と喜びに満ちている。
意欲ある学生たちとの出逢いに感謝である。
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都鄙往還

2013-05-25
都は憧れだと人はいう
だが良いところがあるだけ
悪いところもある

鄙はゆったりしていると人はいう
海幸山幸の食料自給に恵まれ
太陽と自然が育んだ温厚がある

1時間半の時間旅行
上空から見る肥大した灯り
電車に乗れば他者と密着する

都鄙往還
相互客観視
埒外定位

ともに人で結ばれ
人に助けられ
人に喜怒哀楽す


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自分の立ち位置が交流の始発

2013-05-24
多様な考え方を紹介し交流することは貴重である。
それまで気付かなかったことを自覚する。
疑問から始発し多様性を享受し共感していく思考過程。
他者の立場を認めることで自己の中に納得が生じる。
こうした容認の過程に於いてもまず自分の立ち位置を知ることが重要だ。

教材文に対してどのような考え方・感じ方をするかは多様でよい。決して「答えは一つ」ではない。テレビ番組等では、「◯か×か」という二者択一の手法で「正解か誤答か」と問い掛けるが、「何を基準にどのような観点で◯なのか、×なのか」と思考する必要がある。それまで「正解」「当然」だと思っていたことに疑問を抱く。果たしてこの情報の真偽は何か?そこに多様な思考の入口がある。

指導者たる立場において、教材文に対して「自己の思考」を確立しておく必要がある。それでこそ多様性を享受し交流する学びの場を生成することができるからだ。例えば、ある短歌を教材として扱ったとする。その短歌に対して深い愛着を覚え共感し感激している指導者が、「素晴らしい・素晴らしい」と訴え続ける。それは押しつけではなく、自分の立ち位置を披瀝したということ。もちろん学習者が「意味わかんない」「くだらない」と思うこともあるだろう。だがしかし、一つの基準たる立場を示すことで短歌を読み取る窓口に出会うことができる。共感はむしろ押し売りしなければしないほど、その性質が浸透する矛盾に満ちた感性であるように思う。

それだけに多様な読書体験が指導者には求められる。評論や文学をどれだけ読んで、自分の立ち位置を見定めようとしているか。一冊一冊の本が、今の自己を投影する鏡となる。そういえば先日、懇意にする方がTwitterで次のような内容を紹介していた。「本は時間がある時に読んではいけない、時間があるなら思考せよ。」といった趣旨であったと思う。この内容を呟いていた方もたいそうな読書家だ。電車内、休憩するCafeなどで次々と読書を重ねている。時間は有限、ゆえにいかに創り出すかが肝要である。

教育実践の現場に赴いて感じたことから。
読書好きな教員が読書好きの子どもを育む。
いたって自明なことである。
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知識とは何か?

2013-05-23
簡単なようで難しい問い。
明快に説明するにはそれ相当な準備が必要だ。
「知識とは何か?」
喩えるならば何を思い浮かべるだろうか?
「知識とは・・・の如し、その心は〜である。」と。

ある共同研究会の席上、まとめの話の中である先生が問い掛けたことであった。「階段の如し、その心は、段階的に昇ります。」とか、「スライムの如し、その心は、如何様にも変化します。」などの返答が会場で指名された方から出された。問い掛けた先生も言っていたが、そのまま議論すれば結構面白い展開となったであろう。「学力観」を問う上では不可欠な議論であるともいえる。

僕はその時、心の中で「知識とは”筋肉”の如し、その心は、常に動かし鍛えればそれに比例して力を発揮し、動かさなければ衰え続けて行く。活用して何かの”仕事”をこなしてこそ意味を持つもの。」といったことを思い浮かべていた。筋繊維の断裂・更新が繰り返されてこそ高度な”仕事”がこなせる筋力が生じて来る。見せる為の物ではなく、活用して何かを成すものといった考えを咄嗟に思いついた。

問い掛けた先生が、最後には自分なりの考えを披露した。「知識とは”光”の如し、その心は、見えないもの見えるようにする。」と。それまで道端に生えていた植物に目も止めなかったものを、「知識」があればその名称や特徴から「何がどのようにこの季節だから花を咲かせている。」と気付くことができる。また、知識とは「道具」であるとも。「活用してこそ意味が生じる。」というわけだ。

その上で先生の話の締め括りは、「教育の中で語られる「知識の定着」という概念は旧態な発想である。」と指摘した。指導者側は、往々にして「知識が定着しているか」を問題にするが、そこが要所なのではなく「活用」することを考えるべきであるということを述べた。確かにそうだ。僕の比喩である「筋肉」で考えてもそうだが、「活用」していれば「知識」そのものも維持・発展する。「覚えたか・覚えていないか」を問うようなテストを繰り返し、”イタチごっこ”になるよりも遥かに建設的な学習活動となる。例えば、古典文法の知識を問うテストなどが典型であろう。たとえその内容を覚えたとしても、活用できる「筋肉」にはなっていない。形骸化した見せる「筋肉」であっては致し方ないということである。

共同研究という理論と実践の場を結びつける格好の舞台。
今年度の成果を目指して、その一員として奮闘する心構えができた。
「国語」において少しでも「活用」できる学びを構築したい。
それには「言語活動」が鍵を握るのは言うまでもない。
学習者の「脳内知的筋肉」を鍛える学びとは?
年度内に僕なりの成果を形にしようと思う。
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ことばと自己との対話

2013-05-22
カーラジオからある曲が流れた。
題からして気になった。
曲が始まり思わず歌詞の内容に重点を置いて聴いた。
いつしか涙が流れた。
運転に支障が出るほどに・・・。

ことば・文に邂逅して一気に心を揺さぶられることはないだろうか。思いがけない状況で意外であればあるほど心の振幅は大きい。予想もしない場面で、心の奥底にある琴線を歌詞のことばが大きく搔き撫でるのである。その響きが”涙”となって流れ出る。「心」は何と純粋なのだろう。そしてまた「ことば」は何とも表現し難い誘発力を持っているのだろう。

ことばと自己は常に対話をできるとよい。ことばが形成する思考を読み取り、自己の経験や現況と対比する。語彙や文法上の理解ではなく、自己の心の鏡でことばを写し取る。すると自分にしか見えない響き方が現出する。歌詞の優劣というのは、多くの人が心で汲み取った時に共鳴する普遍性の深浅であるといえるのではないか。

ことばは訴える。だがその訴えの本質を聴くには、汲み取る側の”仕事”が必要だ。ことばの咀嚼・理解はもちろん、様々な体験を通して自己を開放する心の広さが求められる。苦しい状況で歌詞のことばに勇気づけられるのは、体験をことばで客観視したからに他ならない。新しい体験をしたからこそ、ようやく理解できる歌詞のことばがある。また逆に歌詞のことばによって新たな世界観を築く場合もある。

歌詞のことばを中心に考えたが、
できるならば「教材のことば」からも
同じような心との対話を持って読み取り理解する〈教室〉にしたい。
それでこそ学習する主体である「読み手(読者)」を
最大限に尊重した教育になるだろう。
自己と対話する〈教室〉を目指して。
それでこそ初めて他者も尊重できる。
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