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小説が呼び起こす「点」と「線」

2013-04-30
1秒・1分・1時間・1日
日々を「点」の積み重ねで生きる。
それがいつしか「線」となっている。
平板に流れているように見える”時間”は、
各自の「点」によっては大きな波を生じさせる。

それを予測できようができまいが、
人は日々、その「点」を積み重ねることしかできない。
意図せずに過ぎた「点」が、後になって”波”の原因になったりもする。
全てを読み切れない偶有性に満ちているからこそ、
人生は面白のかもしれない。

小説の一節を読んでいて、
ある語句が喩えようもなく気になることがある。
その地点で文字を追うことができなくなるほどに、
自分の意識の中から、様々な”波”の体験が顔を覗かせる。
行間に埋め込まれた僕にしか”読めない”無意識の装置。

「破綻の時期」
そんな「点」を繰り返すこともある。
ただし”波”は押し寄せれば必ずいつかは引いて行くものだ。
最下降の「点」は意識されないままに、
いつしか上昇への契機となる。

この10年ほどの「線」を繋いで思うことども。
それにしても小説の深淵は偉大である。
「狂うための期間」
たまらない・・・
小説を”読む”という「点」の繰り返し。
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施設・店ではなくて“人”なんだ

2013-04-29
5年ほど通って来たジムを約1ヶ月ぶりに訪れる。
受付・下足箱・階段・ロッカー・ストレッチスペース
スタジオの床・スピーカーの響き・サウナの温度
何もかもが僕のトレーニングを支えて来た“施設”である。
敢えて「僕のトレーニング」と書いたが、
それは大仰に言えば「僕の生き方」を支えて来たとも。
どれもこれもが“思い出”になりつつある。

どうしても一つだけ欠けたものがあった。それはトレーナーさんの存在感。慣れ親しみアドバイスを沢山いただいたトレーナーさんは、今はこの施設にはいない。もし彼女が今もこの施設にいたならば、この1ヶ月ぶりの“帰還”で大袈裟な抱擁さえ辞さないほどの感慨があっただろう。もちろん、他にも顔馴染みのトレーナーさんはいるのだが、僕が“1ヶ月ぶり”であることに無頓着な印象しかなかった。このジムで日常的なトレーニングができなくなることに対して寛容であれたのは、こうした存在する“人”の変化なのであった。

トレーニングプログラムの中で掛かる音楽はその当時のもので、少なくともそこから過ぎし日の力を貰うことはできた。この曲では、こんな話題を添えてレッスンをしていたなど、同じ曲でもトレーナーさんの個性が身体に記憶されている。やはり“施設”“プログラム”を求めているのではない、“人”を求めていたのである。唯一、受付で会員種別の変更を担当してくれた方が、当時からの継続的な感慨を語れる“人”であった。(唯一、と書いたが、そういえばロッカーでいつも声を掛けてくれた「おっちゃん」もこの日はいた。彼には職場を移動したことを親しみ深く話した。)

ジムの後、昼食は馴染みのカフェへ。もちろん店主夫妻に会いに。その気持ちの上でこそ、美味しい食事も引き立つ。更には馴染みのカットサロンへ。長年、僕の髪を切って来た親友たる彼のもとへ1ヶ月間の報告だ。もちろん髪を切る技術の相性も大切なのであるが。

あくまで場所ではなく“人”のもとへ。
その邂逅に支えられて生きているということ。
あらためてそれを反芻すれば、彼の地での生き方も見えて来る。
出逢うことの運命的な“奇跡”を存分に楽しみ享受したい。
“生きる”とはそういうことであろう。
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今年度「授業に活かす朗読講座」開講

2013-04-28
今年度「授業に活かす朗読講座」の開講。
昨年度までとの大きな違いは、1日(90分×3)の授業を、
5回シリーズで発表会まで行うこと。
原則月1回月末実施ということになる。
なお、あらかじめ小欄でお伝えしておくが、
今年度の「朗読実践への提案IN早稲田2013」は、
7月27日(土)午後、早稲田大学にて開催の予定である。

「朗読表現」や「届く声」を意図したこの講座、初回にどのような船出となるかは、非常に重要である。まず第1声で挨拶、その反応がどの程度のものか。〈教室〉に座っている受講者たちの個々が、僕に向かって挨拶の声を届けようという意図があるか?そこに耳を傾けながら、開講の挨拶に臨む。幸い今年度は、大変明るくしかも張りのある挨拶の声が返って来た。いよいよ4ヶ月に及ぶライブ空間の立ち上げである。

僕を含めた授業スタッフの自己紹介。授業ガイダンス。そして「春が来た」を使った「音読・朗読」定義の体験的理解。『竹取物語』冒頭文のミニ群読。まずはこの授業の基本方法を提示する。次第に受講者の声と顔が上を向いて来る。この講座出身のスタッフの一人が自己紹介の中で語っていた。「この授業は、〈朗読〉を学ぶのみならず、ここに集まる人同士の関係を作ることである。」と。まさにコミュニケーションを創り上げるのが、発表会までの長くも楽しみな道程である。

初回の発表題材は「かさじぞう」。小学校教科書にも掲載されている定番教材であるが、やや中等教育向けに脚本化したものを用いる。スタッフによる全文内容を把握するための「音読」が2回ほど繰り返される。冒頭と終末のテーマ曲決定や音響効果音の確認を経て、4班に分かれどのように読むかの相談を開始。班分け時点から学生の自主性に任せて「春夏秋冬」の誕生月ごとに別れる活動から始めたが、実にスムーズかつ主体的に学生は動いた。

各班の相談に耳を傾けると、読みの分担や配役などに留まることなく、作品場面の解釈に踏み込んだ議論へと発展していった。「おじいさん・おばあさん」の台詞、2人の関係性や性格、街の中で出会う声の節回し、地蔵の声、地蔵の力等々。次第にその定番作品を個々の学生が読み解こうとしていく。更に発表の為に一つの表現として意見を擦り合わせて行く。その進行具合が、初回とは思えないほど豊かな流れを見て取ることができた。

今回は、4ヶ月間で発表会まで漕ぎ着ける為の模擬体験でもある。
土曜日午後の集中講義ということもあってか、
教育学部以外の学生も多く、また単位互換による他大学の学生もいた。
幸い授業3時限分という流れがむしろ有効に作用した。
開講とは、学びの教室に集まる人々の関係を立ち上げること。
まさにそれを実感できる初日であった。

次回は、5月25日(土)
「近代小説の朗読
 中学校教材としての芥川龍之介『杜子春』」となる。

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翼の先の人の輪

2013-04-27
先日、“有識者”の間で「ドラえもん」の話題になった。
「どこでもドア」を持っているのに、
「竹コプター」を使用する必要性があるのか?
という“議論”になった。
そこで僕が考えたことはこうだ。
「ワープ」のように途中の風景も見えないで移動してしまうのは無味乾燥。
街の中で人を捜すとか、偶有性をもった風景に出会うためには、
生身で俯瞰する必要性があるのではないか・・・と。

人が今日でも“翼”を使って1時間半程度で移動できる距離。遥か東の海上にはやや赤味を帯びた大きめの満月が昇り始める。しばらくすると漆黒の闇の中で光を放つ満月と同等の視線にまで上昇。手持ちの小説を余白まで丹念に読んでいると、すぐに光の密集地帯が見えて来る。

「往還」の基準を何処に置くか?自分の現実とことば上の反転に、小説世界が重なって見える。長年、慣れ親しんだ街を俯瞰して明らかに“旅行帰り”とは違う感慨に耽る。着陸後には実に利便性の高い乗物に、約1ヶ月ぶりの乗車。人の群れが車内を絶え間なく出入りする。

「きっと翔べるよね、勇気を出して。」
行き着く先には、そんな“悦び”のことばが待っていた。
偶然?そこに居た人。
そしてまた意図してこの日に定めて来てくれた人。
“翼の先の人の輪”に最高の温かみがあった。
ふと考えてみた。
都会が悪いのではない、
そこに“人の輪”を築かないのが悪いのだ。
「どこでもドア」ならぬ
「どこでもただいま」を持っていればいい。
素晴らしき空間、素晴らしき仲間。
そしてまたそのコントラストから、
あらたな「自分探し」をしている己が見える。
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大学購買部レジにて

2013-04-26
大学の購買部レジで、店員さんとお客さんの女性同士が話し込んでいる。
書籍の支払いをすべくその後方に並んだが、にわかに話は終わらない。
横で別の仕事をしていた店員さんが、レジに入ろうとしてようやく気付いたらしく、
「ごめんなさい」といって僕の支払いする順番が回ってきた。
特に腹立たしいわけでもなく、和やかな光景であると僕は受け止めていた。

僕が2冊の書籍の支払いを終えると、店員さんは何の話題で話し込んでいたかを僕に語り始めた。この大学オリジナルな製品についてであると。大学で飼育された牛の肉を使用したレトルトカレーがあるというのだ。その製品は、牛が食肉用にされないと製造されないという。大学の農学部が実習用に飼育しているのであろうから、どんなタイミングで食肉用にされるのだろうかなどと、あれこれ考えた。それにしても「大学Beef100%」などという表示は稀少であると感じた。

まずは、この購買部の店員さんの姿勢そのものが、実にのどかである。都会の大学の購買部であったなら、「待たせたのだから、1秒でも早く精算を終えて客を開放しろ。」といった気持ちが、双方に生じるだろう。それほど都会では、時間が過密に流れている。よくスーパーのレジに並んでいても、いち早くというような憤慨した形相で待っている人が多い。都会生活とは「待ちきれない」社会そのものである。

こんな状況があって、2日後に再び購買部に行った。店舗に入るとレジ方面から視線を感じる。その時の店員さんともう一人の新人の店員さんが、僕の方を見て微笑んでいる。おもむろにレジに近づくと、例の店員さんが「先生!カレーを買いに来たのですか?」と声を掛けてくれた。まさに図星であっただけに、こちらも「読まれていましたね!」とことばを返した。先月にお世話になった方々に、このカレーを贈ろうという意図で、少々大量にレトルトを買い込んだ。

会話ある店舗。
まさに僕の希望する環境だ。
大学オリジナルな製品が、ビーフカレーというのも面白い。
大学内で、ひとつの憩いの場が見つかった。
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学び合う「現場」がある

2013-04-25
「事件は会議室で起きているのではない!
 現場で起きているのだ。」
あまりにも有名な刑事ドラマの台詞である。
全国津々浦々、いや世界には多くの「会議」が存在するだろう。
日本の政治でも国会を頂点として各地域との関係性。
そしてまた分野ごとに考えるならば、
教育研究と学校現場との関係性。
あくまで「現場主義」を貫きたいと改めて考えることがある。

僕が大学院修士課程に在籍していた頃、教育界を震撼させる事件があった。その直後の共通科目の授業である先生が、「研究をしている我々が、この事件に対してどんな提言ができるかが重要である」と述べた事がある。裏を返せば、この大学院という教育研究の組織から”現場”に有益な提言が果たしてできているのかという疑問の投げ掛けでもあった。教育現場で繰り返される事件、また発達段階の青少年による事件、その病巣に対してどんな対策を施すべきか。机上で議論することは容易であるが、現場で何が起きているかということを置き去りにすることも多い。

研究はあくまで理念であり理論であろう。だが、実践なくしてどうして教育が語れるだろうか。国語教育を語るのならば、そこに学習者を対象にした授業がある。もちろん、その現場には授業者と学習者そのものがいる。実践を施してどのような反応や成果があるか、果てまた不具合は生じないのか。授業者も学習者も生き物である。現場の環境によっても大きくその”成果”は左右されるだろう。

僕の置かれた新たな環境で、現場との学び合う関係性が始まった。
そこで授業担当をする先生方との交流。
生きている「国語教育」を実践するためにも、大変貴重な”現場”である。
長年、”現場”にいた当事者としての視点を失わずに、
この関係性の中でも「とことん現場主義」を貫きたいと思う。
この標語、僕の尊敬するある方の主義であり基本姿勢でもある。
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自己観察の60分

2013-04-24
今月から新入会したジムで、週1回ヨガに参加している。
以前からヨガの動きを利用したトレーニングプログラムには参加した経験があった。
だが、ヨガそのものに継続的に参加するのは初めて。
ヨガにも様々なスタイルがあると聞くが、
そこでは、徹底した「自己観察」を施すということが大きなテーマとなっている。
動きやポーズ等の外見上を気にするのではなく、内面から己を見つめる時間。
新たな”運動”の境地に出会っている。

自己の中に多様な視点を持つということ。もう一人の自分が、ヨガに入っている自分の姿を見つめているということ。その薄暗い空間の中で目を閉じて、心に浮かんで来るものは何か?一つずつ浮かび上がる邪念を排して行った時に、遺るものは何であろうか?精神構造の中が雑然としているのを、書類整理をするかのごとく一つ一つ片付けて行く。そんな感覚に浸っている。

昨日で3回目であったが、ようやく”ここだ”という瞬間に出会った。自己観察をするというのも容易ではない。ほんの刹那の中に、今の自分が佇んでいるのが見えたような気がした。邪念・情動・欲求に左右されない静寂な心になるとき。

そして最後には、呼吸そのものを自覚する。左右の鼻から交互に呼吸を繰り返す。(一方の鼻を指で押さえる。)鼻の詰まり具合はもとより、日常的にどれほどの呼吸ができているかが思い知れる。肺の奥底まで、存分な空気を落とし込む。そしてまた風船を萎ませるように、全てを吐き切る。

己と向き合う60分。
外が雨であるなど、何ら問題ではないということ。
人は何よりも自己を知らないのかもしれない。
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「0」「4」「7」の正体は?

2013-04-23
「1」から「10」まで声に出して読んでみよう。
次に「10」から「1」まで逆に声に出して読んでみよう。
前後の音読における違いに気付くだろうか?
そう!「4」と「7」の読み方が違う。
前者は、「し」「しち」で、後者は「なな」「よん」となるはずである。
これは井上ひさしが、『ふかいことをおもしろくー創作の原点』(PHP研究所刊)の中で
述べていることである。(NHKBS「100年インタビュー」の単行本化)


僕はこの気付きを拝借して、授業の中で日常的な音声表現を語る場合、受講者に体験的な導入として実践している。なかなかその理由は「ふかいこと」なのであろうが、それをとりあえず置いておいて、「おもしろく」体験できる機会となる。「ことば」に対して小さな”気付き”を持つことは、どの年齢においても大変重要である。まさに「学習指導要領」における、「言語感覚を養い」ということになるだろう。

久しぶりに、この「1〜10の昇順・降順”音読”」を思い出した。その契機は、国語辞典編集者である先輩・神永暁氏の連載コラム(日本語、どうでしょう?第156回数字の「0」はゼロかレイか?)によってである。当該欄では、「数字の「0」はゼロかレイか?」を話題にしている。基本的に「ゼロ」とは「英語」読みであり、「レイ」が「零」の漢字音であり、「改訂常用漢字表」には「ゼロ」は示されていない。またNHK『ことばのハンドブック第2版』では、原則が「レイ」であるが、「ゼロ」と「固有の読み方が決まっているもの(「海抜0メートル地帯」とか「零戦」などの例を挙げる)」は、「ゼロ」を使うべきだという断り書きがあるという。

確かに、冒頭に示した「1〜10の”音読”」に「「0」を加えて読む場合も、多くの人が「ゼロ」と読むのではないだろうか。とりわけ、「10〜1」と「カウントダウン」する場合などは、「0」が強調されるゆえ(物事の到達・達成感が強調されるから)、ほとんどが「ゼロ」以外は考えづらいように思う。ここで日本語として問題なのは、その「ゼロ」が「外来語」であるという由来を忘れ去られているということだ。となると清涼飲料水の後につく「ZERO」の表記などはむしろ妥当ということになる。前述したコラムでも、「何もないことを強調する場合」「ゼロ」を使用すべきだ(『ことばのハンドブック第2版』)としている。

様々な観点から勘案すると
「ゼロ」
「レイ(れい)」(「ゼロ」と区別するには「れい」だが、漢字音読みだと「レイ」とも)
といった表記の上でもこの読み方を意識すべきであり、
当該コラムが結論として語るように「使い分けが必要なようだ。」となる。

ひらがな・カタカナという2種類の表音文字を有する言語において、
大変特徴的な現象が顔を覗かせているということであろう。
「音読」してこそ気付く視点がある。

さて、「4」「7」の読み方の問題をどう考えようか?
神永氏にも提示してみたが、今後じっくりその理由を調べてみたい。
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田村耕太郎氏著『世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか?』

2013-04-22
この4年ほど、というのは小欄を書き綴り始めてからというもの。
研究・教育実践・批評等を自分なりに文章化し模索して来た。
そのカテゴリの中でも「トレーニング・健康」は、
「教育」の「56」に続き、「47」と2番目に更新数が多い。
これは日常生活において至って自然な流れで、フィットネストレーニングが、
脳の活性化にも効用があることを、どこかで念頭に置いていたのであろう。
そのような意識を具体的に肯定してくれたのが標記の一書である。

同書では、氏の様々な留学経験から、主に「ハーバードビジネススクール(HBS)」に在籍するようなエリートたちが、まさに「文武両道」であり、日常からトーレーニングに励み脳を活性化させ、研究・実践の活動に奔走している姿を紹介している。更に第2章では、その「運動」「食事」「座禅」といった脳活性化の要点を、具体的な方法として提案している。第3章では、日本の偏向した体育会系事情を鑑みて、世界では「文武両道」が正道であることを具体例とともに説いている。

全体を通して強く共感したのは、こうした世界的エリートたちは「時間がない」ことを理由にしないということだ。朝型の生活を旨として、効率的に筋力を鍛えることで研究やビジネス上の体力も獲得しているという。社交は概ね朝食か昼食に限定し、夜にアルコールを伴い無益に長く時間を浪費することがない。書名の由来として、多くのエリートたちはランニングマシンをしながら書物を読む姿が象徴的であるというわけである。

僕自身も以前より、欧米の政治家・研究者・医師・弁護士などが、学生時代等を通じてスポーツでも一定の業績を残していることには関心があった。プロゴルファーであるが医師である(僕の記憶の中にあるギル・モーガン)とか、プロ野球選手であるが博士号を取得しているとか(田村氏の著書で、赤ヘル旋風時代の広島カープの助っ人・ホプキンスを紹介)いう例も珍しくはないということである。それは既に欧米人が高校時代から身に付けた姿勢であり、「文武両道」でなければ「運動」もやらせてもらえないという環境が存在するのだという。日本の場合は、まだまだ「運動」でさえ実績を上げれば、他のことは全て免除されるが如き誤謬が蔓延している。それはプロスポーツ界や高校スポーツ界をみればすぐにわかることだ。

「運動が脳機能に与える影響」について研究している筑波大学・征矢英昭先生に対して、田村氏が行ったインタビュー記事も興味深い。征矢先生は、特に「脳の機能によい影響を与える、運動強度や運動量がある」という仮説をもとに研究を進めているという。特に「筋トレなど高強度の運動が脳に効くということにつながる可能性がある。」といった大変興味深い談話が載せられている。

田村氏は、動物としての「ヒト」の特長に随所で言及し、その優位性と脳発達との関係を述べている。100mなら動物に劣るが、「42.195Kmを走らせたら生物界ナンバーワンだという。」といった記述である。人類発達史に敷衍して「ヒト」の機能を語りたくなるのもわからいではないが、ややこの点は慎重に考えたいという感想をここに添えておきたい。

全体として、ベジアリアンの勧めや高齢化社会での生き方など、今後の日本社会を見据えたライフスタイルの提案という「コンディショニング術」が記されている。雑誌『ターザン』の連載記事を纏めた一書。僕自身も、小学校時代から「文武両道」を信条としていたので、十分に納得できる内容であった。

そしてまた運動をすることは勿論、
格好よく服を着る、そして異性にモテる、
ことに通じる言及も避けていないあたりが嬉しい。

本書を読んで早速、日曜日の早朝から約5Kmのウォーキングを自らに課した。
今後も自らの「生き方」として、トレーニングを充実させる意志を新たにした。
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印象深い自己紹介文を書くために

2013-04-21
2回目のゼミの時間。
前週出した課題は「自己紹介文」。
400字〜800字程度でどのような自己紹介を綴れるか。
5名のゼミ生たちの”これまで”を知る意味でも大変興味深かった。

型通りに、名前・所属・学年・出身等の基本プロフィールを書く。その中でも印象強くするのに役立つのは、名前の由来や使用されている文字の特徴を盛り込むこと。親に聞いた名付けの動機、そしてまた「読み方」が特徴的な場合などは格好のエピソードになりやすい。自分の名前に対しては誰しも、幼少の頃から様々な感情を抱きがちであるが、そうした経緯を盛り込むのも有効である。読む側が記憶に残る名前の伝え方を心得たい。

問題は、これに付随させる趣味等の部分であろう。好きな食べ物・スポーツ・こだわり等々。これらを単に羅列するのはいただけない。現にゼミ生の多くは、思いついた点を列記するという文章となっていた。できれば1つか2つに絞り込み、その内容を嗜好する契機や経緯を綴りたいものである。具体性のない羅列は印象が薄いが、エピソードが盛り込まれれば読む側の記憶に刻まれる。

文章上の問題もいくつか散見された。同語の反復の多さ。主述関係の曖昧さ。助詞の不適切な使用。といった点を矯正項目として指摘した。教員に限らず、社会に出て印象深い自己紹介文を提示できて、そして口語でも語れるのは重要なことだ。欲をいえば、その自己紹介を素材にして、初対面の人々とコミュニケーションが促進する内容が望まれる。僕自身の場合は、たいてい受け止めた人々が、「私も野球が好きです。」と返してくれる。(もちろん嗜好に個人的な好みがあるので、「私も・・・」でない場合もある。場の状況に応じて、他の素材を用意していることも必要。)

まずは自分自身を知ること。
己を文章化すること。
卒業論文までの2年間の付き合いになるゼミ生たち。
次週は、今回矯正した文章を口語で語るのが課題である。
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