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なぜ「文学」ではいけないのか?

2013-03-28
大学受験の際には文学部を選択し受験した。志望からすると教育学部なども受験対象ではあった。現に高3の11月頃までは国立大学教員養成系を志望し必要科目の受験勉強をしていた。だが、この時季に僕にとって人生の師とも呼べる先生に講習会で出逢い、ある特定の大学文学部への進学を固く心に誓った。もう一つ理由があるとすれば、幼少の頃から商家で育った環境が、“教師”に対してある種の偏見を芽生えさせていたともいえよう。その偏見とは、「視野が狭い」→「他者の考え方を受け容れない」→「高慢」といった図式である。そこで僕は、「教育」のみならず「人の生き方」を考えてみたくなり、文学部受験に専念したのだった。

その時代から世相も変遷し、すっかり「文学部」という存在の影が薄くなってしまった。大学によっては看板を架け替え、比較的世間受けする「社会」「心理」「コミュニケーション」などを前面に出した学部に改組している。だが、その内容は「文学部」に他ならない。「文学部」に限らず、こうした改組の“流行”によって、大学卒業時に与えられる「学士」の名称数が肥大しているという。ここでその詳細を述べることは避けるが、果たして何を学んだのかが体系として可視化できない状況ともいえよう。換言すれば、学問が安易な称号によって安価に(実際の授業料は上がるばかりだが)切り売りされているかのような印象がある。その背後に、「文学」という語彙への偏見が見え隠れする。

「文学」それは人の生きる道。哲学・歴史・各国文学・語学等にこそ、これまでの“人の生き方”が刻み込まれている。もちろん「社会学」「心理学」は科学的に有効な手段を施し、“人の生き方”を解析している。この分野の社会的有効性を捉えて、世に「実学」などと呼ぶ場合がある。更に言えば「社会科学」や「理系学部」の諸分野は、尚一層「実学」として“有効”だと評価されて来た。僕自身が、高校専任教員として進学指導に従事していた際にも、予備校の講演などでは、常に「実学志向」という文字が踊っていた。それゆえに、高校現場でも多くの教員が、「文学」よりも「“実学”」を勧める傾向の進学指導を行うようになる。こうした意味では予備校(特に大手)の影響力は大きい。母体数の多い模擬試験による分析結果であろうが、その扱い方が逆に志望動向に影響を与えるという現象が起きているかのように僕には思えた。

なぜ「文学」ではいけないのか?
僕の原点たる信念が再び大きく起動する。
そこで至った考え方はこうだ。
大学教員も中高の教員も、「文学」を魅力的に伝えていない。
中高生の「国語嫌い」は、果たして教材だけのせいなのだろうか。
中高生は「文学」を理解しなくなった(できなくなった)というような、
世代論に落とし込んで教員が甘えていないだろうか?
生き方を方向付ける時季に、「国語」は何を提供できているのか?
こうした疑問を解消するがために、
僕は「国語教育」と真摯に向き合おうかと考えた。

次年度からの赴任先は、
「教育文化学部」
まさに「教育学部」と「文学部」が融合したような学部組織である。
此処で僕ができることは何か?
これまでの経験をもとに独自な力を発揮したいという、
新たな“志”を今再び噛み締めている。
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