桜から桜まで花の蹊
2013-03-22
東京の桜が間に合った。昨年は4月、学校暦でいえば始業式頃に桜が満開であった。
ところが今年は、終業式に桜がほぼ満開となり僕たちに微笑んだ。
その桜から桜まで、花の蹊(みち)を歩むがごとく品性ある教育に出逢った。
教員としての原点を僕の心の中に起動させてくれた。
毎回の授業でもその学校独特の挨拶があった。僕も、日々それを繰り返すことで漂う品格に少しは近づくことができた。ひとたび情が湧くと、次年度もまた〈教室〉に行きたくなるのが教員としての人情。1年間の授業で養った心と心の“交流を再び”という思いは強かった。だが、次の一歩を踏み出す為に、僕はこの〈教室〉を離れなければならない。
教員が“通称”(あだ名)で呼ばれるのは宿命である。「生徒たち」というのはどの時代も巧みに教員の素性を観察し、実に“機智”に富んだ呼称を“発明”する。だが、その「機智」を反転して捉え、豊かな「発明」を否定したくなるのも教員としての習性である。それが今回は、僕がある尊敬する野球選手の話を力説し続けたが為に、いつしかその選手の名前で呼ばれるようになっていた。
ゆえに日々の授業でも、その野球選手の語る哲学ともいえるような“行動”の意味を高校生の生活に当て嵌めて説いて来た。
だから最後にもそれを語ろう。
僕の贈る言葉。
「夢を叶えるには、今日の一歩から」
壇上で語った後、講師室に担当クラスのほぼ全員が顔を見せてくれた。
この瞬間、1年間授業をしてきた“意味”が報われた思いがした。
君たちが大きく羽ばたくことを心から願う。
またどこかで逢いましょう!
花の下に続く正門までの蹊
首から下げていた教員証を事務所に置いて、
笑顔の桜に見送られて歩む僕。
瀬戸際を支えてくれたこの花の蹊に心から感謝したい。
1年1年を大切にしなければ、
教員は始まらない。
僕は既に次なる出逢いに歩み始めている。
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