批判してこそファンである
2013-03-11
スポーツの贔屓チームがある。本拠地の試合でファンがどんな姿勢を持つべきか。
仮に贔屓チームに“プロ”として納得できないプレーがあったとする。
それを徹底的に批判するのが真のファンであると思っている。
無批判な選手への応援は、そのチームへの愛に欠けるというのが僕の信念だ。
米国のMLBを現地で観て来て、こんな信念が一層強まった。とりわけ僕が贔屓にしているチームの本拠地ではそんな姿勢が強い。地元チームの投手が四球を連発すれば、激しいブーイングを浴びせ、怠慢なプレーすれば野次を飛ばす。もちろんライバルチームへの“攻撃”も半端ではない。先発メンバーの発表時点から、気に食わない選手にはブーイングが飛ぶ。
地元紙を始めとするメディアもまた同じ。不甲斐ない選手を批判的に論評する。契約金や年棒に匹敵しない働きしかしない選手には、容赦のない酷評が待っている。それでこそ地元がチームを育てているという感覚があるからだろう。日本における特にスポーツ紙といった類が、贔屓チームに対して“妄信”してしまう視点で見出しを掲載し続けるのとは、実に対照的である。
久し振りに日本の球場で野球を観て、やはりファンの応援姿勢の違いを痛感する。僕が小学生の頃は、それでも贔屓チームへの“愛”のこもった野次を飛ばす“大人”が数多くいた。現在は、多くのファンが集団的に塊となり、鳴り物に合わせて声を揃え、共通した道具を手に持ち共通した動作で共通した歌詞を球場にこだまさせる。必然的に打撃の成否を“妄信”的に判断するものだから、凡フライに対しても大きな歓声が巻き起こる。
ところが昨日の東京ドームで、久し振りに“熱い野次”を目にした。不甲斐ない投手交代をした際に、ベンチ前に出て来たコーチに徹底的な野次を浴びせた中高年の男性がいた。僕は思わず時代が30年ぐらい戻ったかのような印象を持った。周囲の観客はあっけにとられていたが、こうした批判こそ日本代表チームを愛するならば、必要なのではないかと僕は感じた。
日本プロ野球の人気が低迷したといわれて久しい。視聴率が取れないという理由でテレビ放映自体が少なくなり、生活の中から野球の影が薄くなる。それでも4年に1回のWBCの折は、かなりの視聴率となるという事実がある。やはり日本国民は野球が好きなのである。だがしかし、権威主義的な球団への一極集中の構図や、“プロ野球選手”が特権を持っているかのようにファンに対して接する態度を見るに、改善すべきことは山積している。日本プロ野球を愛する一人として、こうした機会に様々な改善点を模索したいと強く思う。
ファンがチームを育てる。
宮崎に召集された日本代表が、不甲斐ない試合を重ねて来た。
しかし、ようやく“チーム”らしくなった。
東京ドームで観た試合もさることながら、
数人発見できた“批判”精神をもって観戦する方々の存在に、
大きな期待を感じた。
試合の勝敗以外に、もう一つのWBCの意義を忘れてはならない。
それは僕たちファンが成熟する重要な機会なのだから。
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