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「役に立つ」を超えて行け!

2013-03-31
いつから〈教室〉で、
「役に立つ」か否かが基準となってしまったのか。
受験に、就職に、「役に立つ」なら学ぶ。
そうでないなら学ぶ必要がない。
もとより博く学ぶはずの〈教室〉が閉塞した場になってしまった。
もちろん、このような基準の外で“正常”さを保つ〈教室〉も多いだろう。
だが、効率至上主義の世相が、
〈教室〉での感性を破壊して来たのも事実。

もとより高等学校段階で「文系・理系」とは何ぞや?
「理系」に「古典」なる科目は不要なのか?
否、人生で最後に「古典」を読む機会かもしれない。
効率至上主義は、「文理」の選択年齢を一層引き下げる。

受験科目に「漢文」がないから授業は不要か?
否、日本語の文体・音律・語彙を形成して来たのは「漢文」。
その意義について、国語教員までも無知である場合がある。

評論文は、入試問題を解く為に読むのか?
否、身近に存在する“悪”に対し注意深くなるために読むのではないか。
もとより「読解法」などあるわけがない。
会う人、会う人が全て違うように、出会う文章は多様である。
繊細に丹念に相手のことばに耳を澄まさずして何がわかるのか。

小説は試験で問われた時、妥当な「気持ち」を答えられればいいのか?
否、己では体験できない人生を、小説世界に追体験すべきではないのか。
個人個人の人生が違うように、小説の読み方も千差万別であるはずだ。

「役に立つ」を超えて行け!

では理想の国語教育とは何か?
まずはそこを語らなければならないだろう。
これまで僕自身が現場で直面して来た問題を熟考し、
新たな模索を繰り返して行きたい。

「国語」とは何よりも「“人生に”役に立つ」ことを目指して!
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組織ゆえでない人との繋がり

2013-03-30
この2ヶ月ほどで、
多くの人々と語らう時間を持つことができた。
少々無理をしても人と会う約束をし続けて来た。
中高の恩師から大学・大学院時代の先生。
研究会やサークルの先輩後輩。
教え子たち。
そして掛け替えのない友人たち。
総合的に僕が語り合った人々を一括りにすると、
“組織”に依存せず人として繋がっているということだ。
往々にして建前が優先する“組織の理屈”よりも、
人としての繋がりこそ重要だということをあらためて思い知った。

仕事をする組織との関係も、時代によって、そして年齢によっても大きく変化する。昨日の小欄に記した新任教員の頃は、“組織”に所属しているという感覚ではなく、楽しい“仲間”と毎日を過ごしているようであった。当然ながら上司への愚痴もないわけではないが、それを仲間同士で冗談半分に語らうことで、ストレスにもならず、また組織の中での泳ぎ方を自ずと先輩教員から教わった。僕自身の感覚でいうならば、まさに大学のサークルが延長され、ある種の“教育サークル”活動が進行しているかのようなものであった。年度末には小集団による温泉旅行も催された。次第に若手だけの温泉旅行を僕自身が幹事役を買って出て開催したこともあった。こうした人との繋がりの濃厚さが、現場での対応を支えていたわけである。組織はやや冷遇する傾向があったゆえに、むしろ人間的関係が強固に形成されていたのかもしれない。

対照的に組織の理屈を最優先に運ぶ場もあった。人事を始めとする待遇に関して異様なまでに執着し、己の安泰を求める為には他人への非難も辞さない風潮があった。換言すれば、他人への非難をすることで自己への非難を躱すという、「攻撃は最大の防御」といった行動を実践する人々が多い場ということだ。その組織特有の“力の持ち方”が存在していた。最近になって思うのは、年賀状の存在である。その組織を離れてからというもの、ほんの一部の人からのみ年賀状が届くようになる。ということは組織に属している間に来ていた年賀状は、概ね“建前”の象徴であったとうこと。ゆえに、冒頭に記したこの2ヶ月間において会うことができたのは、当該組織の中からは唯一1人であった。


蓋し、
あらためてこの2ヶ月間、
温かい気持ちを寄せていただいた、全ての方々に深い感謝の意を申し述べたい。
やや自画自賛することが許されるならば、僕はこのように思う。
組織に依存しない豊かな人間関係を築こうと努めてきたことが、
この機会に象徴的に“かたち”になったということであろう。

こうした人間関係を持てる“教員”であること。
僕が、“教員”である理想の前提条件である。
全ての方々の思いを胸に、新しい出逢いがもうすぐそこにある。

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教員であるということ

2013-03-29
授業をどのように成立させるか?
そこから全てが始まった。
新任教員として教壇に立った日が、今にして思い返される。
初年度にして高校3年生「古典」担当。
生徒の方が学校の全てを熟知していた。
次第に授業の50分間は、彼らのペースになっていった。

授業担当クラスの全ての生徒の顔と名前が一致するまでには、暫くの時間を要する。その時間の猶予が与えられる間もなく、生徒たちは自分たちが心地よい座席に“移動”していた。目的はもちろん“おしゃべり”か“睡眠”。その授業中として両極端な行為は、教壇に立つ僕が発することばを黙殺することに等しい。著書にも書いたエピソードであるが約1ヶ月の後、僕は「うるさい!!!」と怒りの大声を〈教室〉で上げる。しかし効果は一瞬であるばかりか、生徒の心と大きく乖離する原因を作ってしまった。更に“睡眠組”に対しては、“机間巡視”(教育実習等でよく使用される用語)をして、肩を叩き(ご時世柄「肩に触れ」と表現した方が適切かもしれない)目を覚まさせるが、それも数分すれば元の状態に戻ってしまう。

教材研究を入念に行い、「古典」の魅力を存分に伝えたいと構想しても、肝心の伝える場である“授業”が成立しない。教員となって最初にぶつかった大きな壁。伝える為にはどうしたらよいか?そんな模索が僕の中で繰り返された。最初に考えたのは、彼らは日常でどんなことを考えているのだろうかと想像すること。全国レベルで強豪とされる運動部を2つ有していた僕の最初の勤務校では、独特の環境があったといってよい。多くの生徒が考えているのは、部活動で“成功”すること。極端にいえば、15時以後の放課後が彼らの真剣勝負の場であった。ならばその“成功”の為に、少しでも“利益”になるようなスポーツ競技上の逸話やら、勝負を決する機微にまつわる古典の話というものをしてはどうか。自ずと授業では「マクラ」が重要になった。

初年度を終えて、2年目以降になるとこの「マクラ」が有効に機能し始めた。(と思い込んでいたのかもしれないが。)世に言う「雑談」によって生徒の興味をまずは教壇に向けることに成功したといえるだろう。(もちろん全員というわけではないが、比率として)僕自身もスポーツを大変愛好しているという関心の高さが、生徒の意識と合致して来た。そこで感じたのは、〈授業〉とは、聴く側の生徒の感覚を大切にするべきだということ。決して授業者の思考を押し付けたのでは始まらないということだ。

以後比較的、運動部の生徒とは良好な関係を結ぶことができた。その原点は、〈教室〉に座って授業を受ける者には敬意を払って対応するということ。これはどんな面においても「人として」の原則であるように思われる。例えば、酒場のカウンターで一人グラスを傾けていたとしよう。店の人や隣に座った客と会話がしたいなら、まず「相手の話を聞く」ことが第一であるはず。世間には、こうした場で一方的に自分のことを話し尽す輩も見掛けるが、本人にとっても周囲の人にとっても無益な時間となってしまう。人と人とのコミュニケーションの原則は、相手への“敬意”に他ならない。

授業とは絵空事ではなく「対話」である。
聴き手に伝えようとするコミュニケーションの場である。
様々な困難もあるが、「人として」深く模索したい。
僕の経験から思うこと。

最後にある歌詞を引用しておこう。

「人として人と出逢い
 人として人に迷い
 人として人に傷つき
 人として人と別れて
 それでも人しか愛せない」

この歌詞、ご存知の方も多いであろう。
ドラマと現実は違うと言う声が常に聞こえて来る。
だがしかし、教育に「愛」が必要なのは間違いない。
「それでも人しか愛せない」のである。

教員になって本当によかった!
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なぜ「文学」ではいけないのか?

2013-03-28
大学受験の際には文学部を選択し受験した。志望からすると教育学部なども受験対象ではあった。現に高3の11月頃までは国立大学教員養成系を志望し必要科目の受験勉強をしていた。だが、この時季に僕にとって人生の師とも呼べる先生に講習会で出逢い、ある特定の大学文学部への進学を固く心に誓った。もう一つ理由があるとすれば、幼少の頃から商家で育った環境が、“教師”に対してある種の偏見を芽生えさせていたともいえよう。その偏見とは、「視野が狭い」→「他者の考え方を受け容れない」→「高慢」といった図式である。そこで僕は、「教育」のみならず「人の生き方」を考えてみたくなり、文学部受験に専念したのだった。

その時代から世相も変遷し、すっかり「文学部」という存在の影が薄くなってしまった。大学によっては看板を架け替え、比較的世間受けする「社会」「心理」「コミュニケーション」などを前面に出した学部に改組している。だが、その内容は「文学部」に他ならない。「文学部」に限らず、こうした改組の“流行”によって、大学卒業時に与えられる「学士」の名称数が肥大しているという。ここでその詳細を述べることは避けるが、果たして何を学んだのかが体系として可視化できない状況ともいえよう。換言すれば、学問が安易な称号によって安価に(実際の授業料は上がるばかりだが)切り売りされているかのような印象がある。その背後に、「文学」という語彙への偏見が見え隠れする。

「文学」それは人の生きる道。哲学・歴史・各国文学・語学等にこそ、これまでの“人の生き方”が刻み込まれている。もちろん「社会学」「心理学」は科学的に有効な手段を施し、“人の生き方”を解析している。この分野の社会的有効性を捉えて、世に「実学」などと呼ぶ場合がある。更に言えば「社会科学」や「理系学部」の諸分野は、尚一層「実学」として“有効”だと評価されて来た。僕自身が、高校専任教員として進学指導に従事していた際にも、予備校の講演などでは、常に「実学志向」という文字が踊っていた。それゆえに、高校現場でも多くの教員が、「文学」よりも「“実学”」を勧める傾向の進学指導を行うようになる。こうした意味では予備校(特に大手)の影響力は大きい。母体数の多い模擬試験による分析結果であろうが、その扱い方が逆に志望動向に影響を与えるという現象が起きているかのように僕には思えた。

なぜ「文学」ではいけないのか?
僕の原点たる信念が再び大きく起動する。
そこで至った考え方はこうだ。
大学教員も中高の教員も、「文学」を魅力的に伝えていない。
中高生の「国語嫌い」は、果たして教材だけのせいなのだろうか。
中高生は「文学」を理解しなくなった(できなくなった)というような、
世代論に落とし込んで教員が甘えていないだろうか?
生き方を方向付ける時季に、「国語」は何を提供できているのか?
こうした疑問を解消するがために、
僕は「国語教育」と真摯に向き合おうかと考えた。

次年度からの赴任先は、
「教育文化学部」
まさに「教育学部」と「文学部」が融合したような学部組織である。
此処で僕ができることは何か?
これまでの経験をもとに独自な力を発揮したいという、
新たな“志”を今再び噛み締めている。
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研究者か教育者か

2013-03-27
電話口の向こうで恩師が半ば憤慨した声で僕に言った。
「大学院に行ってどうするんだ!?」
僕:「大学教員になりたいと思います。」
恩師:「今は昔と違って大学教員になぞ簡単になれないんだ!」
僕:「研究を進めたいんです。」
恩師:「本気で研究をする気があるのか!!!?」

この厳しい叱責は、僕が私立中高専任教員をしながら大学院修士に入学しようと決意した際に、学部時代の恩師に相談した際の電話でのやりとりの一部である。学部を卒業する際には「大学院に行くか、教員になるか。」という選択で、後者を選んだ。机上の学問よりも、現場で実働的に生徒に接することの方が、僕自身には適性があると思ったからだ。現に当時、ある女子大の親しい友人が「よっちゃん(当時の愛称)は早く先生になるのがいいよ」などと言ってくれていた。そして現実にある私立中高の教員(当初1年は非常勤)となると、授業はもちろん、学校での諸活動がこの上なく“楽しく”感じられた。非常勤でありながら、多くの学校行事にも参加し部活動指導のお手伝いも始めた。

僕自身は、中高時代に運動部に所属しており「文武両道」が信念であった。大学時代は、「文学」への志を叶えるべく単線に歩んだ。その反動か、中高教員となり部活動顧問となった時、部室やグランド周辺に漂う汗の“香り”が懐かしく感じられ、心の口火から再び大きな炎が燃え上がった。自分が顧問する部活指導はもとより、全国レベルの部活動が2つ、双方にしのぎを削るように全国制覇を目指しているという環境に、この上なく心を惹かれた。

それから約10年間の専任教員生活を経て、冒頭に記した電話に至る。恩師も当初は「お前は教育者に向いている」と考えていたようであるが、執拗に「今一度研究者への道を歩みたい。」という意志を行動で示すと、ようやく納得してくれた。そして初めて僕が学会で研究発表する際には、自宅に呼び寄せて様々な観点から内容に穴がないかを確かめるように様々な指摘をしてくれた。そして御体調が悪い時期でありながら、学会にも足を運び再び敢えて公に厳しい質問をしてくれた。

かくしてその学会発表を機に、その内容を初めて雑誌論文に投稿し採用され、僕の研究者としての一歩が踏み出された。もちろんそれは中高専任教員として“二足の草鞋”での挑戦であった。だがしかし、所属した大学院の指導教授は、「文学研究をすることこそ最高の教材研究」という信念を僕に伝え続けてくれた。研究をすることは教育に対して大きく貢献できるのである。ゆえに現場での仕事がどんなに忙しくとも、研究に対して妥協はしなかった。(現場の仕事の効率化を考えるようにもなった。)自ずと睡眠時間を削り無駄な時間をなくし、整骨院に通わないと両肩に痛みが走り、首が回らないほどの思いを経て、修士論文を書き上げた。

僕の今があるのは、この時の苦闘が出発点となる。あらためて思うのは、「研究者か教育者か」という二項対立の問答は、現在の実情からいうと無用のものである。「大学教員」である以上、「研究者」であり「教育者」の両方の要素を高次に兼ね備えていなければならないからだ。図らずも、僕はその双方の経験を存分に現場で積んで来た自負がある。あの電話で、恩師が伝えたかったことは、こういうことだったのではないか。

人生には誰しも、
たぶんいくつかの大きな岐路が用意されているのだろう。
その一つで、恩師からいただいた“叱責の意味”。
それが今、まさに現実に報われようとしている。
常に研究室では厳しかった恩師が、
南国の空の上から微笑んでいるかのようである。
そういえば恩師はこんなことも言っていた。
「晩年になったら、魚が美味しい地方にある大学にでも赴任したい。」
確かに此処は魚が美味いのである。

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人の心に支えられ羽根で飛んだ日

2013-03-26
「羽根がないのなら作ればいいでしょ・・・」

浜田伊織さんの曲・『羽根』の一節。
ライブで、しかも彼から1mほどの距離で、
この曲を初めて聞いた時、思わず涙が溢れた。
その涙の意味は、僕自身の当時の気概と、
この詞(ことば)が高水準で合致したから。
曲の中では、このことばを彼女が彼に贈るという設定。
この曲を聞くに至るまでの8年間ほど、
僕自身も同様の境遇で発せられることばによって
日々自分を支え、変革を遂げるべく歩んで来ていた。
歌詞は実体験に拠って、深い処まで“腑に落ちる”のだ。

その浜田伊織さんが、僕に温かいメッセージをくれた。返信で僕は、「ようやく羽根が作れました。」と書いた。すると早々に彼はブログ(浜田伊織オフィシャルブログ「羽根」)にその交流を書いてくれた。文学やことばの力を研究レベルで追究してはいるが、“僕たち”の構築する理論が効果的に人心を動かす訳ではない。(ない場合が多い。)むしろ「歌曲」という方法で、リズムにのせて詞を語る方が遥かに人心に深い感激を提供できる。あるライブの折に僕は伊織さんと話していて、そんなミュージシャンと研究者の“断層”を感じ取った。ゆえに彼と詞の話をじっくりしてみたいという衝動に駆られた。彼は彼なりにきっと作詞の段階で、他者が想像もつかないほどの苦労があるに違いない。そしてまた研究者としての僕も、その成果によって人心に豊かさを提供できる存在でなければならないと藻掻くのである。この双方の苦悶を擦り合わせた時、きっと豊かで新たな道が見えて来そうな気がしている。未だ実現していないそんな機会を、近いうちに持ちたいと念願している。

人は詞に心を動かし、そして行動として昇華させる。
その詞が含有する世界観は、常に一番身近にあるはずなのだが、
気付かずに過ごしている場合も多い。
一曲の歌詞によってそれに気付いた時、
人はいつしか「羽根」をもって空さえも飛べる。

人と出逢い、歌と出逢い、心の豊かさに出逢う。
10年前の僕にはなかった豊穣な心。
浜田伊織さんと出逢うに至るまでにも、
いくつもの温かい人の心がある。
その全ての人々の心によって、僕は「羽根」を手に入れた。

だがしかし、
この「羽根」に決して驕ること勿れ。
伊織さんとの交流への基点となった方の顔を思い浮かべ、
僕は、“今”をこのように噛み締めるのである。


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ひとえに50年

2013-03-25
両親の金婚を祝った。
絶えず努力して現場で仕事をしてきた父。
その仕事が存分にできる環境を整えて来た母。

この節目に及び、あらためて両親の歩みを尊敬する。
僕が知らないところで、苦しいこと、辛いことも山ほどあっただろう。
しかし、前進を決して止めずに2人で50年間をともに歩んだ。

いまの僕があるのは、確実に両親のお陰である。
いつ何時も、僕が歩こうとする道を信じてくれた。
親戚のたくさんの笑顔に祝福された両親が輝かしかった。

ありがとう!父さん・母さん。
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「いま生きているということ」

2013-03-24
「生きているということ
 いま生きているということ」
(谷川俊太郎『生きる』の一節)

引き続き僕の声が語る。


ワインとなった葡萄の命をいただくということ
カウンターのグラスに人生を映すということ
語り合うことばに希望の光を見出すということ
Bon Vivant
人生を楽しむということ
いま此処で声を出すこと




簡単には語り尽くせない一夜であった。
まず今朝はこの創作の掲載にて。
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いってらっしゃいステーキ

2013-03-23
まずは頭髪のカットに出向く。
30年間、彼以外の人にカットしてもらったのは数回。
(彼がやむなく外出し、妹さんと弟子にカットしてもらった2回ほど)
笑顔と活気溢れるその店では、
整髪後に客を見送る際に、「いってらっしゃい」といつもいう。
それが真実味を帯びて聞こえたのは長い歴史の中でも初めてである。
彼は店頭まで笑顔で僕を見送った。
来月から僕は、この店でも最も遠くに自宅を持つ顧客となる。

そして次は、馴染みの洋食屋さんへ。
奥さんが笑顔でワインボトルを1本提供してくれた。
そして旦那さんが、温かいお気持ちの分だけ
サーロインステーキを焼いてくれた。
ここ3年間ほどの苦闘の中で、いつも心身に栄養を与えてくれたお店。
英会話に通うという執念によって出逢ったお店。
1年ほど前までは、馴染みの老人とカウンターでいつも語り合った。
90歳を過ぎた老人のことばから学ぶものは多かった。
その老人も、自ら施設で生活することを選択しその店には来られなくなった。
そして、僕も“毎週”というわけにはいかなくなる。
店のご夫婦のこの上なく温かい気持ちに、ここでも見送られた。

 この日の締めは、母校近くの居酒屋さん。
大学の授業がないこの時季は、閉店が早いこともしばしば。
既に半分ほどシャッターが降りていたが、店の中を覗くと常連さん2人。
店主ご夫妻・女性2人の常連さんと1杯の焼酎を呑んだ。
精神的に困窮した時に、いつも励ましの言葉をくれたこの店。
常連さんたちとともに花見や富士山ツアーにも参加した。
そして娘さんの結婚パーティーでは、大胆にも英語でスピーチを敢行した。
(ご主人がフィンランド人であり外国人来賓が多かったため)
その全てが僕を支えて来てくれた。

連続で3軒の店を訪ねた。
いずれも僕にとって不可欠な大好きなお店。
帰路では、母校時計台の灯火が見送るかのように語り掛けた。
そして東京の桜も満開となって花のアーチを築いてくれた。

カット
ステーキ
焼酎

「いってらっしゃい」の声を心に響かせながら。


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桜から桜まで花の蹊

2013-03-22
東京の桜が間に合った。
昨年は4月、学校暦でいえば始業式頃に桜が満開であった。
ところが今年は、終業式に桜がほぼ満開となり僕たちに微笑んだ。
その桜から桜まで、花の蹊(みち)を歩むがごとく品性ある教育に出逢った。
教員としての原点を僕の心の中に起動させてくれた。

毎回の授業でもその学校独特の挨拶があった。僕も、日々それを繰り返すことで漂う品格に少しは近づくことができた。ひとたび情が湧くと、次年度もまた〈教室〉に行きたくなるのが教員としての人情。1年間の授業で養った心と心の“交流を再び”という思いは強かった。だが、次の一歩を踏み出す為に、僕はこの〈教室〉を離れなければならない。

教員が“通称”(あだ名)で呼ばれるのは宿命である。「生徒たち」というのはどの時代も巧みに教員の素性を観察し、実に“機智”に富んだ呼称を“発明”する。だが、その「機智」を反転して捉え、豊かな「発明」を否定したくなるのも教員としての習性である。それが今回は、僕がある尊敬する野球選手の話を力説し続けたが為に、いつしかその選手の名前で呼ばれるようになっていた。
ゆえに日々の授業でも、その野球選手の語る哲学ともいえるような“行動”の意味を高校生の生活に当て嵌めて説いて来た。

だから最後にもそれを語ろう。
僕の贈る言葉。
「夢を叶えるには、今日の一歩から」

壇上で語った後、講師室に担当クラスのほぼ全員が顔を見せてくれた。
この瞬間、1年間授業をしてきた“意味”が報われた思いがした。
君たちが大きく羽ばたくことを心から願う。
またどこかで逢いましょう!

花の下に続く正門までの蹊
首から下げていた教員証を事務所に置いて、
笑顔の桜に見送られて歩む僕。
瀬戸際を支えてくれたこの花の蹊に心から感謝したい。
1年1年を大切にしなければ、
教員は始まらない。

僕は既に次なる出逢いに歩み始めている。
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