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太平洋上から俯瞰する心

2013-01-31
子供の頃から地図が大好きである。社会科の時間になると、ある意味授業そっちのけで地図の世界に陶酔していた。同時に「年鑑」などによりデータを見るのが好きになり、小学校の歴史や公民の時間は、音楽が専攻であった担任の先生より知識通になった。中学になると地図上の地名を10カ所見つける競争というのが地理の授業で行われていたが、いつもクラスで1番早かった。

自動車を運転するようになってからというもの、やはり道を覚えることが、並ではないと自覚している。国内外を問わず、地図を見て現地に行けば大抵の土地の場所や方向を捉えることができる。カーナビなどを設定して“ガイド”されると、自認した道と違っていてむしろ戸惑うこともある。ナビの使用はGPS機能のみで現在地を確定するだけという“貧乏性”な使い方をする場合が多い。換言するならば、ナビに対して“ライバル心”があるということかもしれない。

羽田空港から宮崎行きの便に搭乗した。滑走路から千葉方面に向かって機体は上昇する。東京湾上にアクアラインの出入口や浮島が見える。やがて大きく右旋回を始めると窓から右手に東京が俯瞰される。この大都市で生まれ育って来た自分、出逢った人々、夢を追う人、夢に破れた人、様々なドラマの舞台。そんなことを考えているうちに、窓からは横浜や湘南海岸が確認できる位置に至る。橋で結ばれた江ノ島がはっきり見えて、海岸線に眼を奪われていると、翼の先に白く化粧した富士山が顔を覗かせる。稜線の美しさに魅せられながら、東京から見たのとは違う立体感のある姿に心を奪われる。

地図というのは、測量などによる資料を元にしながらも、人間が造った机上の見取り図である。実際は地図を何倍にも拡大した土地がそこに存在している。それを実感するには、航空機からの俯瞰という“人工的な援助”が必要になる。僕たちは、航空機が無い時代より明らかに大きな視野を獲得しているといってよい。

だがしかし、俯瞰した大都市・東京では、些細なことに心を痛め、閉塞的な心に陥る人々も少なくない。改めて僕自身が地図を好む意味を考え直してみた。たぶん自分が今存在していることを深く確認する為ではないだろうか。今現在、どんな世界に囲まれているかを感じ取りたい為ではないか。そしてまた、自分の未だ知らない世界に希望を見出す為ではないか。



日本列島の太平洋沿岸上を、ほぼ真っ直ぐ。
「日向」の名にし負う、真東に正対した宮崎の海岸線が視野に入る。
機体は何の抵抗もなく、静かに着陸態勢に入った。
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かれらとわれわれ

2013-01-30
「かれら」といえば他者が意識され、
対立軸上に「われわれ」が立ち上がる。

「われわれ」といえば自己の存在する範疇が意識され、
その枠外の者を「かれら」と呼ぶようになる。

小説の些細な表現をどう読むか。
人称代名詞にも思想がある。

なぜだか人は線を引きたがる。
保身のため世のため人のため?

「かれら」と呼ばれたら気をつけたほうがいい。
いつしか小さな穴の中の「われわれ」に注目されているかもしれないから。

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人と出逢う幸運

2013-01-29
自分の限られた時間をどのように使うか?
計画を綿密に立てて行動することもあれば、
時には偶然に身を委ねて自然な流れで行動することもある。
興味あるイベントに参加するや否や?
その参加が大きな分水嶺になることもある。

約1年前に足を運んだ朗読会。そこで出逢った素敵な2人が開催する様々なイベントに僕は足を運んで来た。また僕の授業にもゲストでお招きした。相互が持つ活動領域において、表現できる場面を見つめ合った。いつもその刺激が、次の意欲を掻き立ててくれた。

また、ある方を扇の要とする新年会に参加したことがある。今思えば既に遥か昔となった。だがそこで得られた人との繋がりには、その後大変支えられて来ている。異分野で活躍する人との出逢いは、熱い刺激とともに思考の柔軟性をもたらせてくれた。この出逢いなくして、今の自分はないと言い切れる。

決して全てのイベントでこのような貴重な邂逅があるわけではない。
だがしかし、行かなければ貴重かどうかもわからないのだ。
時間は自分の制御次第で、いつもどうにかなるものだ。

それにしても人との出逢いは人生の宝だ。
出逢いの重要性を確認できる“止まり木”のように穏やかな空間で、
その偶有性に小さな感嘆をしつつ今日という1日がまた満たされた。
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ワインを楽しむ大人会

2013-01-28
どんなワインが好きですか?
と問われてことばで説明できますか。
レストランなどで食事との調和をどれだけ意識して
ワインを注文できますか?
そんな点をいつもその場凌ぎでやり過ごしてはいませんか。

懇意にする神保町のCafé Flugさんで、「ワインを楽しむ大人会」が開催されたので興味があって参加した。その講師はまた懇意にするワインバー・Bon Vivantの店主。日頃から美味しいワインを出して貰っているが、系統立てて説明をお聞きするよい機会となった。

会では白・赤それぞれ3種のテイスティングが行われ、「蘊蓄よりも飲んで楽しむ」を主眼に和やかな雰囲気で進行した。収穫年や品種を定めるといった高度なものではなく、その味わい方が充実するような要点を存分に知ることができた。ここに覚書として箇条書きに記しておこう。

ワインボトルに貼られているラベルを、「エチケット」と呼ぶ。
フランス・イタリア・ドイツ以外の新世界のワインであれば大抵は品種も明記されている。
眼(外観)→鼻(香り)→口(味わい)の3点によってワインは堪能していく。
白ワインの適温は10度前後。赤ワインは常温といっても18度前後。(夏場はいささか冷やすべき)
その温度によって味わいが大きく左右される。
グラスに注いだらやや斜めにして(できれば白い背景で)色を観察する。
戻した時にグラスの側面に残る粘着性の程度により、アルコール度数が知られる。
時計と反対回りにグラスを穏やかに回して更なる香りを味わう。
コルク芯の長さはものによって違うが、概ね値段に比例するという。
テイスティングの際に、香りの識別ができなくなったらパンの香りでリセットする。
赤ワインは、グラスを斜めにして液体とグラスの境界線上の色を観察すると外観がはっきりする。
ピノノワールなどは香りを味わう為に、幅広グラスを使用する。
注ぐ量はせいぜいワイングラスの一番膨らんだ部分まで。

このような要点を、用意されたワインをいただきながら飲む楽しみ方として伝授していただいた。

この日、白で3番目に味わったフランスはアルザス地方産「キンツレー」、品種は「ゲヴュルツトラミネール」というもの。「ゲヴュルツ」はドイツ語でスパイスという意味、「トラミネール」は南チロル地方の村Traminに由来する。味わいはスパイシーでありながら華やか。果物でいうとライチのような独特な風味がある。この味に妙に惹かれてしまったが、同席した他の男性2名もこれを絶賛していた。今まで白ワインから感じ取ったことのない深みのある味わいが、このような結果となったのだろう。大仰な言い方をすれば、僕自身にとっての「白ワイン革命」であった。

酔う為ではない
味わう為の酒である。
どこかで聞いたことのあるフレーズだが、
ワインに限らず“味わい”を大切にする人でありたい。
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全学級35人断念=「費用対効果」への疑問

2013-01-27
「一対多」という形式で教壇に立った経験があればすぐに分かる。
何人ぐらいまでが一人で把握する限界であるかが。
それでも最大48人という学級を担任した経験が僕にもある。
授業担当はもちろんのことだ。
HRも授業も決して「多勢」に語り掛けるのではない。
個々の生徒に語り掛けるという意識が大切だ。
そんな意識が可能な最大値は、せいぜい30人から35人。
できれば25人なら尚更よいというのが、僕の“経験則”である。

文部科学省が進めて来た、すべての公立小中学校における35人学級の実現を断念したという報道。財政当局の「費用対効果」を疑問視する声による抵抗が原因で、教員増に積極的であった民主党が野党に陥落したことで白紙に戻されたのだという。民主党政権において全般的な失政が目立ったことは、今回の選挙での民意に反映されたわけであろうが、ただその全ての政策が的確ではなかったという訳ではあるまい。少なくとも3年半前の選挙で「政権交代」を選択した民意が期待したことで、実現して来た政策がないわけではない。そうした利点が、大きな政治の潮流のみによって反故にされるのは、何とも教育の現実や現場の感覚を無視した方向性であり、大きな疑問を呈せざるを得ない。

報道に拠れば、現政権の考え方では「全国一律の底上げよりも、学力向上やいじめ問題対応などに焦点を絞った追加配置の方が費用対効果が高いとの主張が強い。」(朝日新聞)のだという。この意向を反映して文科省と財務省が調整した結果、次の3点を主眼にした学校に限定して追加配置を認めるという。
1、小学校で担任とは別に理科や英語を教える専科教員を配置
2、いじめ問題への対応などで生徒指導の対応を強める
3、マネジメント強化のため主幹教員を置く
果たしてこの3点による追加配置が教育再生に功を奏するのであろうか。

1の専科教員配置は、小学校の担任授業負担の軽減に役立ち、教育効果も期待できるという意味で首肯できよう。ただ、2・3について現場感覚で述べるならば、何ら問題解決に寄与しない方策であると言わざるを得ない。いじめ問題は何も特定な〈教室〉で起こることではないだろう。その「対応を強める」というならば、まずは担任教員が全ての生徒に眼が行き届く環境を整えることが急務であるはずだ。40−35=5の差は実に大きい。たかが5人と言われるかもしれないが、30人を超えてからの5人の差は、絶大な大きさを感じるのだ。

 また、「マネジメント強化」が現場の教育「効果」に繋がるという発想もいただけない。既に多くの(地方自治体により)公立学校でこうした「強化」の流れは実行されて来た。その現実を僕自身も友人・知人の公立教員から生の声として聞いて来たが、むしろ生徒指導に対する「監視→制約」といった状況が強化されて、活き活きとした教員の指導が妨げられている現実がある。また地方自治体によっては、こうした「主幹教員」になることを自ら避ける教員が多いという話も耳にする。いわば「現場」と政策施行側における感覚の乖離が甚だしいということである。

抑も「費用対効果」を基準にして教育政策を進めるという発想そのものに貧困さを感じざるを得ない。教育先進国としてこの10年ほど日本の教育関係者が崇める北欧などにおいては、根本的発想が豊かであると感じることが多い。商業主義における「費用対効果」という発想に加えて、「新自由主義」における「自己責任」といった発想が教育現場の尺度になってしまうことが、教育貧困への道であるように思われる。少なくとも、今現実に現場で起きている諸問題を解決するにあたり、上記の観点による「費用対効果」で改善されるとは到底思えない。

以前に米国を訪れた際に、現地で華々しく活躍する日本人と話していた時のことだ。「(日本の)教育の最大の改善点は何か?」と問われて、「少人数学級の実現」と僕は答えたことがある。しかし、彼女には真っ向から反論された。「個々の教員が多勢であっても対応しようとする努力をすべきである。」と。言い訳めいた能書きよりも、個々の教員の「自己責任」としての努力が足りないのではないかという発想をあからさまに呈された。経済最優先、何よりも頼りになる尺度は「お金」であるという立場で生活観念を築いている人に、教育を語るのは難しいという感想を抱いた。僕のささやかな経験であるが、経済最優先の観念に教育は引きずられて行く危惧を象徴するような出来事として、今でも心から離れない。

「費用対効果」
その「効果」に対する評価にも多々問題があろう。
少なくとも、「予算執行権」を教育現場に押し付けるのは暴論であろう。

これまでの長期的な教育現場のあり方を総合的に勘案して、
現場で起こっている現実的な問題を十分に把握し、
政党の主張を超えた待ったなしの議論が急務であると述べておきたい。
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母校の変様

2013-01-26
期待に胸を踊らせて初めて入った教室。
美味いかどうかは別として友人と語り合った学食。
狭いながらも夢中で野球の練習をしたグランド。
母校の光景を思い出せば、様々な先生・友人の顔が思い浮かぶ。
とりわけ成長期である中高の校舎というのには深い愛着があるものだ。
学校は、その当時の自分を物理的に保存してくれている唯一の空間だ。

少々用事があって母校を尋ねた。しかし上記のように感慨深くはなかった。母校は事情があって他の土地に移転していたからだ。当時より広いグランド、自然も多い環境。野球の練習をしたらさぞよかろう。だがしかし、その空疎な印象を放つ校舎からは、それが自分の母校だという気持ちには到底なれなかった。
授業中ゆえに当然なのかもしれないが、建物全体がやけに静寂であり、覇気を失ったかの如く、TVドラマのロケでもしそうな校舎の雰囲気に対して、空疎な気持ちだけが込み上げて来た。

少子化による統廃合を始めとして、様々な理由で学校の移転は珍しくはない。子供達がたくさんいた昭和は過去のものとなり、使用されない教室が大量にある学校も多い。都会の環境も多様化し新たなる用途が適していれば、校地とて例外なく商業主義の波に曝される。母校の思い出は、僕たちの心の中だけに宿るしかない。

父子二代にわたり同じ学校に通った。僕が入学したとき、その古びた校舎を指して父は「あれが新校舎として建った頃だった」と感慨深げに語った。そして校舎を見上げつつ、当時の友人たちとの“悪戯”の数々を語り、少年のような表情をしていたのを今でも覚えている。母校にはそんな伝統があった。父が“悪戯”の対象にした新任教員が、僕の時には校長に就任した。父の中では今でも、その母校で得られた友人関係が宝物のように貴重な存在となっている。僕もまた同じ。同じ野球部で過ごした友人とは、今でも親しく交友している。そんな人と人との関係には、決して褪せない色彩がある。

それでも、もうあの校舎はなく場所も違う、
ということを受け入れるのはそう容易ではない。
物理的な環境はやむなく変化せざるを得ないのだろう。
最初に教員として勤務した思い出の高校も校舎が移転した。
初めて教壇に立った日の〈教室〉はもうない。

無常ということ。
学校の伝統と栄枯盛衰。
ソフトがしっかりしていればとは思いながらも・・・
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盲いた男の百日祈願物語

2013-01-25
「開眼すれば柄が見えるだろうと、母がこしらえてくれた着物。
家に帰ればその母が息子の開眼を喜ぶに違いない。
だから観音様、開眼せねば家にもけぇーれないってんです。」

そんな場面を観て思わずほろりと涙が浮かぶ。
落語「景清」の一節である。

 木彫師の定次郎は、にわかに眼が見えなくなり赤坂の日朝様に願を掛けていると、同じ境遇の女が経文を唱えている。この女に邪心を起こした途端に、開眼しかかった眼が再び闇へと転じる。日朝様のご利益が無いとふてくされている定次郎に、ある旦那が上野の清水への願掛けを勧める。この観音様は、その昔、剛勇たる平家の重臣・(悪七兵衛)景清が、源氏の世の中を見たくないと、目ん玉をくりぬいて奉納したという言い伝えがある。京都は清水の出店であるからご利益があるといいながら、百日祈願を終えてもなかなか定次郎は開眼しない。再び観音様に罰当たりな罵声を浴びせていると、旦那は「百日でだめでも二百日、二百日でだめでも三百日」と定次郎を諦めてはいけないと諭す。その帰り道に、不忍池の弁天様あたりまで来ると本郷台の方からにわかに黒い雲が出で来て、雷雨に遭って定次郎は倒れてしまう。しかし、この雨が上がると定次郎は見事開眼したという、大変おめでたい盲いた男の物語である。

懇意にする落語家・金原亭馬治さんが「いつかは名人会」で好演した演目。冒頭に記した場面では、しんみりとした人情に訴える噺でありながら、結びは幸福になる男を見事に演じていた。くすぐりが多いわけでもなく、噺の筋道で聴衆を魅了する見事な一席。「いつかは・・・」が取れるのもそう遠くはあるまいと納得の噺を聞くことができた。

また真打ち昇進間近の三遊亭きつつきさんの「寄合酒」。
そして“とり”は、柳家花緑さんの「御神酒徳利」。
二席と“とり”の合間には、三人によるトークショーが行われて、
和やかな話題の中にも、
若手落語家の実力を観た思いであった。

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誇りと現実の報酬

2013-01-24
学園ドラマに登場する教師は、報酬に関して全くと言っていいほど無頓着だ。それにも関わらず、生活の全てを賭けて生徒に向き合っている。ドラマのテーマにおいても、給与に関するものはほぼ皆無と言っていいだろう。いわば「教師としての誇り」で、教育にその身を没頭させている。虚構のドラマであるゆえに、放映時間の枠内で、たいていの事件が解決する。

刑事ドラマもまた同じ。彼らは警察官としてほぼ報酬は度外視し、命を賭けて悪を許さじと奮闘する。私生活が殆ど描かれないのは学園ドラマと同じ。刑事が集まる部屋を拠点としつつ、「現場」たる事件の起こる巷間が主たる舞台である。学園ドラマであれば、その舞台はほとんどが〈教室〉空間ということになろう。

過去には「聖職者」と呼ばれた職業人を題材にしたドラマでは、「報酬を度外視する」姿勢で、「現場」の問題について困難を乗り越えながらも痛快に解決するストーリー展開が主軸となる。主役となる教師や刑事は、「身体を張って」仕事に取り組む。同僚には「報酬」を気にする人物が必ず好対照に描かれていて、主役である人物の行動を引き立てる。

警察官においてはさて知らず、教師においてはこうした学園ドラマに嫌悪感を示す方が多いと身近で感じていた。あれほど報酬を度外視し生活を犠牲にしなければ、教師として輝く存在ではないという喧伝が、生徒や保護者という仕事上で面と向かう人々に波及してしまうことを忌避するからではないかと思う。またドラマでは確実に事件の解決が約束されているが、現実の〈教室〉では未解決の事態も多く、常に問題と向き合わねばならないという使命が教師にあるからではないか。「良い先生」とは何か?という感覚を、造り上げられたヒーローの如きものであると勘違いされてしまう危険性が、現実の教師が学園ドラマを嫌う理由だろう。

いくつかの県で、教員や警察官が退職金の引き下げに伴い早期退職が急増しているという報道が喧しい。年度の終わりを待たずして〈教室〉から担任が消えてしまうとか、学校の中核たる管理職が消えるという現場もあるらしい。ドラマ的尺度でのもの言いが許されるならば、彼らは「誇りよりも報酬」を選択したということになる。だが果たしてそうした尺度で職業上の“使命感”に依存して、彼らを責めることができるだろうか?「聖職者たる者」といった精神的な領域を以てして、生徒を人質に退職金の減額を受け容れなければならない方々の立場も十分に理解できる。「聖職者たる」という標語が有効であるとすれば、報酬を含めて精神的に余裕のある待遇が求められて然りではないだろうか。

巷間では「教員は楽である」という感覚が一部に横行していることも、僕自身が過去に痛感したことだ。自動車で通勤していた頃、夏休み中に近所のガソリンスタンドに給油に行くと、そこの“オヤジ”が必ず、「休みが長くていいですね〜」と毎度繰り返すように皮肉めいたことばを僕に投げ掛けていたのが思い出される。もちろん夏休み中でも給油をするということは、部活動の練習・試合・合宿などで“通勤”するからに他ならない。授業が無ければ仕事が無く、「何もしないのに給与が貰える」といった短絡的な教員に対する偏見が、確かに存在しているように思われる。

教育が安定している国では、教員に威厳がある。
それは待遇を含めて社会が教員を大切にしているから。
早期退職を選択した教員・警察官の方々の行動は何を意味しているか?
そんな課題を、冷静かつ知性を持って社会が受け止めなければならない。

「事件は現場で起こっている。」
〈教室〉に立つ者が紛れもなく教育を支えている。
ドラマの中のことばにも真理がないわけではない。
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ある恋のお話

2013-01-23
昨日友人からこんな話を聞いた。

大学時代に心底好きだった人に今でも会うと心が躍動すると。その若かりし日の恋心は、決して実らずに終わっていたにも関わらず、彼の心の中で燻る火の如く燃え続けているようだ。初恋でもなく、憎しみに変わることもなく、憧れに似た妙な気持ちが彼の中に去来するのを感じ取った。

彼はその恋によって、「自分が大きく変わった」と自覚している。その年上の女性の気持ちを惹くにはどうしたらよいか?その命題が彼の学生時代の行動を変えたという。教養レベル・服装センス・行動パターンから格好付けの喫煙に至るまで。いつしかその恋心によって磨かれた彼は、恋をしていた相手から精神的に自立したそうだ。

そして今も、姉弟に似たような豊かな関係性を持てるようになったという。その女性も今は既婚で、お子さんも大きくなっているらしい。しかし、彼女も自らの信念に基づいた仕事を続けている。いくつになっても、生活状況が変化しても、刺激し合える関係性というのは、何かを産み出すものだと、話を聞いていて感心した。

恋は人を成長させる。
恋は人を駄目にもする。
そんな両面性があるのは自明だ。
でも恋することに臆病では、成長する刺激は得られない。
この友人の話を聞いてこんなことを考えた。

ある恋のお話。
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支えられている人々への感謝の日

2013-01-22
いくつになっても誕生日はいい。
特段格好をつけて祝う訳でもなく、
心が和やかになる人々と語り合えるのがいい。
この世に生を受けた記念日だから
決して疎かにはしてはいけないのだろう。

大変尊敬できる人と語り合う時間が持てた。
自分がどん底に沈んでいたとき、
この時ぞとばかり厳しい言葉を投げ掛けてくれた方。
今思えば、そのアドバイスには千金の価値があった。
そして普段は厳格であるからこそ、
賞讃のことばがかくも温かく心に響く。
後進の者を思えば徹底的に厳しく接すべし。
自らもその姿勢を行動の柱に刻みたい。

馴染みの店に次第に集まって来てくれた友人たち。
偶然性の上に予想もしない温かさが
お一人またお一人と加わる。
この歳の自らの生をどう活かして行くかが見えて来るような
希望に満ちた時間。
そして店主が提供してくれた人情溢れるシャンパンの味。
何よりも大切なカウンターの仲間。
人生の宝物。

多くの人に支えられて今があることを、
改めて知った一夜。
感謝の気持ちを何倍にも膨らまして
今日からまた現在を生きる。
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