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「ひとにくしとお(も)はれ」は語る

2012-11-30
平安時代の右大臣・藤原良相(よしみ・813〜867)の邸宅跡(平安京)から、墨で文字が書かれた土器の破片、約20点が出土したという。文字のない破片を合わせて約90点。これらは1200年前のあり様をどのように語るのだろうか。ある皿の裏には約40文字が書かれており、ひらがなと漢字が崩れて仮名になる過程を示す「草仮名」が認識できるという。まさに最古級のひらがな表記資料ではないかと、その調査にも期待が寄せられる。

特に意味が解せる部分として、「ひとにくしとお(も)はれ」が、朝日新聞に紹介されていた。( )内は欠損部分で推測であるが、「人憎しと思はれ」と解釈可能な資料である。この当時の平安朝における文字に対する認識として、“漢字”が正式な文字として朝廷官人を始めとする男性が使用し、「真名」と呼ばれた。一方、ひらがなは“仮の文字”ということで、当時社会的地位の低い女性が使用し「仮名」と呼ばれた。紀貫之作『土佐日記』(935年以後の成立)の冒頭には、有名な「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」とある。

こうした社会通念からすると、今回の土器に記された文言も“女性”が記したという推測がまず思い浮かぶ。「人憎し」という内容からそのように誘導されて考えるのは十分慎重であるべきだが、高位なる貴族邸宅からの出土と考えると、やはり男性は漢文で記すことから脱しえない時代であるはずゆえ、女性が皿に書き記したというのも、あながち間違いではあるまい。果たしてどのような状況をもとにこの文言は書かれたのであろうか。ついついその先にある“物語”を妄想してしまう。

抑が、平安朝の女流日記文学等では、「人(男性)」に対する「憎し」とする心情が多々表出される。男性中心社会の中で、卑下された女性たちが「ひらがな」という文字を獲得し、自らの思いを自由に述べられるようになった。書くことで、蓄積された鬱憤を何とか晴らしていたともいえるかもしれない。やはり表現することには大きな意味があるのだ。また、そうした女性の日常の「声」が、初めて「文字」に記された資料ともいえる。実際の「声」を挙げられる場面が限られていたとすれば、やはり「文字」に遺すことで、社会が動き出したという側面を無視することはできない。この「仮名表記」の嚆矢とも思える資料の存在は、実に様々なロマンをかき立てるのである。

「ひとにくしとおもはれ」

表現することからコミュニケーションは始まる。
平安朝の人の「声」が聞こえるのも、「文字」が存在するおかげ。
あらためて日本語表記のあり方を奥深く考えてみたくなる出土である。
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語ることで思考は躍動する

2012-11-29
前週に続き担当するスピーチクラスでは、「新聞記事に対する意見」が課題。衆議院解散総選挙の時季と重なり、様々な日本の未来の課題が浮き彫りになっている情勢の中、学生たちも真摯に今の自分に向き合った。前回総選挙の投票率を掲げて、3分の1の人が投票していないことに疑問を呈する意見を述べる者もいた。大学1年生ゆえに、まだ投票権がないことがもどかしいという趣旨のことも添えて述べた。語ることで目前の選挙に対しても、大変意識が高まるという実例を見て、やはり巷間でも多くの人々が政治を語るべきではないかと改めて思うのであった。

授業後の講師室を、春学期に担当した学生が訪ねて来た。教職科目の課題で、教員経験者へのインタビューがあり、僕を対象に実施したいという用件。約30分間、そのインタビューに応じた。「教員としての経歴」「教員になった動機」「教員として難しかったこと」等々を問われて、僕自身が過去の教員としての自分をことばとして表現した。次第に、自分はどんな教員だったのかということが、客観的に回顧され、その歩んで来た道の意味が反芻された。ここでもまた、語ることで思考が躍動した。質問の最後に、「教育とは何ですか?」とあったが、「対した生徒(学生)から学び続けること」と答えた。そうだ、この眼の前でインタビューしている学生からも、改めて自分の過去を回顧するという“学び”を与えてもらったのだ。

授業後の夜は、知人のライターさんと久し振りに会った。お互い違う分野で活動しているが、やはり彼とも語ることでいつも自分の問題意識が先鋭化される。更には知人と会ったお店には、今の政治情勢を語るにはこの上ない方が来店していた。選挙の情勢やこれからの日本はどうなるのか。いくつかの観点から意義深いお話ができた。本当に1日中、様々な語りによって自分の思考が、更に躍動した1日であった。もちろん、こんな政治・社会の奥深い話ができる馴染みのお店こそ、「思考の舞台」ともいえる。その存在に感謝この上ない。

語ることで思考は躍動する。
ことばを持っている人間であるゆえに、
まさに「声で思考する」べきであるのだ。
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5限の睡魔に「一人一文読み」

2012-11-28
みなさんも経験がおありだろうが、中高時代の昼休み後5限というのは甚だ眠い授業ではなかっただろうか。実技科目ならまだしも、特に「5限・現代文」などであると、起きているのが至難の業かと思えるような状況であっただろう。授業中の“睡眠学習”常連者はもとより、かなり誠実な生徒まで止む無く“舟を漕ぎ出す”始末に・・・。食後、30分後ぐらいの人間は必然的に睡魔が襲うのである。

こんな状況が一般的だとしたら、「5限・現代文」担当者教員が、いかに工夫を凝らして眠くならない授業を構想して授業に臨むかが重要になる。そんな中で考えられる、単純かつ即効性のある方法が音読による「一人一文読み」である。小学校段階の授業でよく使われるが、その目的は「読む集中力を養うため」であろう。教室の机の配置であらかじめ順番を決め、文章が句点(「・・・。」)まで来たら次の人へ順繰りに音読を繰り返す。文章を追っていないと読む場所がわからなくなる。早々に教室全員が読んでしまうので、2度目3度目の可能性もあるというもの。これを実施していれば、よっぽどの“強者”でなければ、睡眠に陥ることは少ない。

勿論、弊害も大きい。「順番が来たら音読する」ことのみに集中し、内容理解が疎かになりがちだ。同時に文章がぶつ切りに読まれるので、前後関係は自ずと理解しづらい。しかしながら、当たる順番に応じて文章の長さが極端に違う場合も多々あるので、作品の文体を体感するという効用はあるように思われる。大変短い一文を読んで、即次の人へとなると教室では周囲から聊か笑いがこぼれたりする。「第一に安静。」(梶井基次郎『檸檬』より)などという、たかが五文字の箇所が当たる人が、クラスの人気者であったりすると尚更である。

〈教室〉で行う「音読・朗読」の効用とは何だろうか?そんな命題を今年4月に刊行した著書で考察し纏めているが、まだまだ課題は多いと感じている。小学校で昨年度から、中学校で今年度から、高等学校で来年度から施行される新しいが学習指導要領でも、「音読・朗読」は尚一層重視されている。小学校で古典教材も扱うことになった。そんな教育現場で、「音読・朗読」という「言語活動」をどのように有効に機能させて行くか。今後も臨床的な現場での考察を含めて、深く研究して行きたい大きな課題である。

著書でも繰り返し述べたことだが、
〈教室〉で「音読・朗読」を強いられることで、
「国語嫌い」になる学習者を増やすことだけは、
何としても避けなければならない。
〈教室〉での「音読」で文学が好きになる授業を目指し、
今後も様々な実践を模索し研究する責務を痛感しているところである。

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「奇妙さに満ちた逆説的な存在」の如し

2012-11-27
僕たちは広告を見ることで商品の実態を判断し、購入するか否かを決定している。同時にその広告自体を楽しみ、興味を引かれ、果てはキャラクター等を購入することさえもある。元来、商品の価値を示し消費者の判断材料となるのが目的であった広告は、いつしかそれ自体が商品価値をもっている。このような「広告」のあり方を、「形而上学的な奇妙さに満ちた逆説的な存在」と評したのは岩井克人(『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫1992)であった。

名称やそれに含まれる理念は、時と場合によって形骸化への道を辿り頽廃しかねない。広告も商品の実態との「差異」がどれほど生じてしまうかという問題を常に孕んでいる。しかし、そうであっても他の商品との「差異」を生み出すことが「広告」の役割でもある。ゆえに、実に巧妙にあの手、この手で消費者の興味を引くような「広告」が存在するのである。もちろん、「広告」の存在そのものが、「競争原理」の中で揉まれ発展し、同時に衰退の危険性を常に含有しているということになるだろう。まさに「奇妙で逆説的」な所以である。

「広告」と呼称してよいものか?来月の総選挙へ向けた各党の理念の表明が、上記のような「奇妙で逆説的」という意味において、危うさを感じざるを得ない。実際にどのような「政治」(商品)になるのかが全く見えないままに、「広告」的に、名称と誇大な理念のみが先行しているような印象を受ける。消費者よろしく有権者である僕たちは、真のところ、どのような道を選んだらよいのかが、全く見えにくい情勢である。

元来、「政治」が「広告」のような資本主義的競争原理で動いているように見えること自体が、問題なのかもしれない。「マニュフェスト」は「公約」であるから、政権を獲得した政党が実行しなければならない「行動」が表明されているはずである。少なくとも実行すべき「理念」が示されていると、僕たちは信じていた。それが実に空虚な「広告」以下のものであることを実感してしまった。少なくとも「誇大広告」を見抜く力はあっても、「誇大マニュフェスト」を見抜こうとは思わなかった。「政治」と「経済」が違うものであると信じて疑わなかった一つの「信頼」が、この約3年間で瓦解したといってもよいだろう。

それだけに、今回の選挙でも各政党が表明している「政治」のあり方には、注意深く見識を高めて検討しなければならないだろう。政策が十分に合致していなくても、小さな政党同士が離合集散を繰り返している。未だに新たな政権の枠組みにおいて、どの党に(あるいは連立に)託したとしても不安しか残らない。政治家が語るとなぜか“崇高”に聞こえてしまう言葉を、実は「広告」にも匹敵する、いやそれ以下の実態を伴わないものであることを、僕たちは心得ておくべきかもしれない。

「奇妙さに満ちた逆説的な存在」
その批評を更にいかようにも顛倒させるような事態にあることを、
自覚するのは僕たち国民の責務であろう。
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心に宿るある曲の響き

2012-11-26
休日にて、早朝から暫くの間“懸案”となっていた部屋の整理を敢行。殆どが不要な郵便物の廃棄やら、新聞・雑誌等“資源ゴミ”の束ねに追われた。飽きてTVを付けると、政治家たちの立ち位置も明確でない議論にならぬ議論が放映されている。中には唐突で過剰とも思える発想がことばにされているが、果たして今回の総選挙の争点やいかに、などとは思いながら「自らの掃除こそ第一」という気分でTVを消したい心境になった。

ふと音楽を掛けようと、久し振りにある曲を選択した。その旋律が流れて来ると、思わず約10年前のことが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。ある一曲が僕の心の中に絶大な力を持って宿っている。この気持ちは何だろう。喩えようのない回想力と、自らを奮起させる起動力を兼ね備えたある一曲。この曲を起点にして、この10年間の“闘い”が開始され、時に藻掻き苦しみ、暗澹たる闇の中を彷徨いながらも、温かな気持ちにいつも支えられ、小さな光を求めて前進をし続けてきた。この曲は、僕の人生の記念碑とも言える名曲である。

僕自身の内面において、あまりにも大きなことなので、曲名は明かさないが(「明かせないが」という方が正確かもしれない)、こうした一曲が心の中に宿っていることの貴重さについて、敢えて声を大にして語っておきたい。人生にはいくつかの大きな分水嶺があるはずだ。その岐路に立った際に、どんな行動ができるかで、その後の人生は天と地ほどの差が生じる。分水嶺での決断や行動は、並々ならぬ苦しみを伴うことも多い。もちろん、岐路を岐路であると認識しないとか、分水嶺の存在さえ全く見えない場所で生きている“安定”した人々の生き方がないわけではない。だが、少なくとも僕は平坦な道は歩きたくはなかったのであろう。

約10年前の心に宿る一曲。
その時に思い描いていた“理想”と“今”を引き比べてみる。
あくまで“理想”は理想に過ぎない。
だが、それに向かって歩んで来たこと自体がとても貴重だと回想できた。
心に宿る一曲は、人生の節目を実に饒舌に語ってくれる。

ゆえに
常に素敵な音楽とともに生きるべきであろう。
それは間違いない。


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筋肉の“声”を聴く

2012-11-25
先月来、週末の地方学会出張などが重なり、トレーニング頻度が減少している。やむを得ないことと思いながらも、今まで作り上げて来た身体が退化してしまうようで、むなしさを感じてしまう。地方への交通手段内での姿勢、研究学会に行けば、土日の2日間は延々と座り続ける。(もちろん懇親会などは立食なので歩き回ってはいるのだが)次第に背中や腰の筋肉が硬直して来る。その硬さが一番肝心な腰に違和感を生じさせもする。

ストレッチなどを繰り返せば回復するのだが、やはり身体が柔軟性を失うことが、これほど良くないことかと痛感した。旅先でも必ず風呂上がりや起床後にストレッチが必須だと思う。これは、ある整体関係の方に教えてもらったのだが、長時間同じ姿勢で座り続けると「内蔵が下がる」のだそうだ。それが腰痛の一因にもなるという。普段から歩く際に、内蔵全体を引き上げるような意識でいると良いとアドバイスを受けた。確証はないが、これは“へその下”を意識する呼吸法とも関係していそうだ。

このようなコンディションの中、ジムでウエイトトレーニングクラスに参加すると、重量を過小に自己制限している。トレーナーが女性の重さの目安という程度のウエイトで、フォームを大切にしている。意外や、これを励行すると翌日の筋肉への効き方が、重いウエイトを挙げていた時よりも適切である気がしている。たぶん、軽いことで挙げる時も降ろす時もフォームが崩れず、特に降ろす時に十分なカウント(最大8カウントを使用して挙げた地点からウエイトを元のセットの状態に戻す)を経過しているのであると思われる。ウエイトトレーニングというと「挙げる」という印象が強いが、実は「降ろす」時も筋肉弛緩の過程である。そこで十分なる刺激を与えられるかどうかが重要であるということだろう。

何事も「行きはよいよい、帰りは怖い」こともあろうか、
造り上げることも大切だが、収束させることを疎かにしてはならないだろう。
自分の筋肉ながら、その“声”から学ぶこともある。
同時に何事も柔軟性が大切であることは忘れてはならない。

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「現代東京奇譚」考

2012-11-24
桑田佳祐が書いた「現代東京奇譚」(本年7月発売「I LOVE YOU-now&forever」所収)という曲がある。その冒頭の詞はこのように唱われている。

 「明日の行方も知らない
  羊達の群れ
  都会の闇に彷徨い
  身を守るだけ」


出張した地方から飛行機で約1時間と少々のフライト。羽田空港に降り立ちモノレールから電車を2路線と乗り継いで帰宅。その車内で思わず、前述の歌詞を思い出し脳裏で唱ってしまった。なぜこの「羊達の群れ」は、多くが眉間に皺を寄せ、携帯画面を真剣この上ない表情で見つめ、横に座った人が少々でも自らの身体に触れれば、迷惑千万な表情しかできないのだろうかと。まさに「彷徨い」ながら「身を守るだけ」の人々が、「明日の行方も知らない」中で日々を送っているように見えた。

地方の疲弊が訴えられて久しい。シャッター通りの増加・農業や漁業の後継者不足等々、過疎化が深刻な地域も多いという。しかし、地方には地方の利点もある。あくまで地方都市を訪問しての実感だが、人々が優しくて人懐っこい。飲食店を始めとする店員さんも、形式的ではなく真心で接してくれているように感じられた。例えば土産店のレジの女性は、僕が会計を終えてから買った土産の賞味期限を確認してくれて、やや早く期限が来るものをそうでない商品と交換してくれた。しかも、商品の種類も変更し合計額も変更されたにも関わらず、面倒くさい顔一つせずに対応してくれた。

実はその土産にしたお菓子は、僕の大学時代の先輩が、現在は社長となっている会社によって製造されている当該地方の銘菓である。今回は、僕自身が強行日程であったゆえ、その先輩とは敢えて連絡も取らなかったが、せめて土産を手に入れようとして立ち寄った駅の土産売場での出来事である。その女性店員さんに、菓子会社社長のことを話すと「よくお見えなのでお伝えしておきましょうか」と言ってくれた。僕はすかさず名刺を彼女に渡した。単なる駅の土産売場の店員が、人と人との繋がりをかくも大切にしてくれたことに、この上なく嬉しい心境になった。

「現代東京奇譚」は、2番の冒頭では次のように唱う。

 「人間(ひと)はあてなき旅路に
  疲れ果てたまま
  己(おのれ)の仕掛けた罠に
  堕ちてゆくのね」
  *【(  )内は筆者注。】

更にサビでは、

 「淋しくて淋しくて
  魂(こころ)に死化粧
  今は亡き面影が
  泣くなと呼び掛ける」


中心部一極集中が生み出した、まさに「奇譚」の中に
僕たちは暮らしているのかもしれない。
各地方に生きる人々の優しき魂(こころ)
日本再生の原点がそこにあるように見えた。

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優しき良心こそこの国の支えでは

2012-11-23
出張で夕刻の羽田空港へ向かった。3連休を前にしてスーツ姿の人々に混じり、ツアー客のような中高年も目立つ。比較的余裕を持って到着したが、小腹が空いたので、軽く麺をすする。たぶん米国で同じような状況なら、僕は一目散に保安検査場を通過するだろう。何しろ搭乗時間に遅れたら、まさに「自己責任」であるからだ。国内線という聊かな“甘え心”が、検査場通過前に軽い食事をする気持ちにさせた。

麺をすすりながら保安検査入口を見下ろしていると、更に人が増えて来た。どうやらかなり時間的に切迫して来たようだ。一転して列に並び保安検査を待つ。するとやはり思うように列が進まない。暫く並んでいたが、係員が「○時△分までにご搭乗のお客様は、3番ゲートをご利用下さい。優先的にお進みいただけます。」と案内した。僕のフライトは、係員が指定した時間よりは「5分」ほど遅い出発であったが、おもむろに「3番ゲート」に移動した。

セキュリティ検査を通過する前に、係員が僕の搭乗券代わりの携帯を光りにかざし、搭乗口案内の用紙を渡してくれる。「5分ほど後なのですが(ここに並びました)すいません。」と断ると、「とんでもない。お気をつけて」と笑顔で対応してくれた。その後は、もちろん余裕をもって目的の搭乗口まで行き着くことができた。

米国をよく訪れるのだが、たとえ乗り継ぎ便があっても頑に並んだままの列を遵守させられる傾向がある。ある時、ワシントンDCでもう限界だと判断した僕は、体格のいい女性係員に申し出たが、かなり無愛想に優先的に進むことを1度は拒否された。それでも乗り継ぎ便があるということを主張してやっと先に入国審査のゲートに通してもらった経験がある。僕が言い出したら、周囲にいた複数の人が(日本人が大半であったが)、「私も時間が迫っているので」と名乗り出た。ある日本人女性は、僕よりもだいぶ乗り継ぎ便の時間が迫っていた。

搭乗時間に間に合うか否かは「自己責任」だろうか。もちろん(自己主張をすることも含めて)そうも考えられるだろう。だが、特に日本の国内線という範疇で、遅れそうな事情の人々を優しく擁護する良心は貴重ではないかと思われた。僕のように(半ば確信犯的に)心得ながらも軽い食事をしてやや時間が押してしまった者もいれば、事情に暗く不慣れな人々もいる。保安検査が初めての人もいるだろう。全てを「自己責任」で縛るのではなく、弱者に温かい“良心”が見えたことがこのように考えた理由である。

この国は、実はこうした「優しき良心」で支えされているのではないだろうか。90年代から進められて来た「規制緩和」の波が、「自己責任」という理屈に市民権を与えてしまった。これは大学認可の問題等も同様であろう。それでもこうした空港の保安検査場で、ささやかな「良心」に助けられると、この国の素晴らしさを実感することもある。強引な力で「自己責任」に任せ自由競争を煽るような流れは、この国には適さないのでないかと思う所以である。

そんなささやかな「優しき良心」を
改めて大切にしたいものである。
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思考の撹拌は発信から

2012-11-22
担当するスピーチクラスも15回の折り返し地点を過ぎた。後半の課題として「新聞記事に対する意見」の回を迎えた。授業の冒頭で僕は「このスピーチの時季が、解散総選挙と重なるなんて幸運だね。」と発言した。学生たちはややきょとんとした表情を見せたが、「様々な日本の現状における争点が露わになるから」と理由を付け加えた。

そしてスピーチを開始すると、やはり「TPP参加」「エネルギー対策」「原発問題」「晩婚少子化」「いじめ問題」等々の話題が展開された。スピーチのあり方として重要なのは、「自分の意見」を述べるということ。新聞記事の紹介のみで終わってしまうのが最も好ましくない。ゆえに、スピーチの最初で「自分の意見」としての結論を述べることを推奨している。そこからなぜそのような結論に至ったかを話すことになる。

この約3分間の表現のために、新聞記事の内容を「受信」し、述べるべき結論に至るまで「熟考」し、スピーチを構成し他者に伝えるための「発信」をする。一人の学生の中で、この過程が生じることが大変重要である。このクラスは、大学の基盤教育であるから1年生配当の科目ゆえ、学生たちはまだ選挙権を有してはいない。しかし、こうした「思考」をすることで、「投票をしたい」という意欲を持つことは、大変意義あることだと担当していて痛感した。一人一人が生きる社会について真摯に考える為には、「発信」する場が必要なのである。

残念ながら、日本の教育現場ではこうした機会が未だ少ない。年々様々な実践が為され改善の兆候はあるが、小中高を通じて活発な意見交換が為されるには、まだまだ多様な教育方法の改革が必要だ。授業そのものを学習する者の発言や対話で構成するという理念を、更に実践的に押し進めねばならないだろう。教育現場はともかく僕たち社会人に、このような「発信」の場が確保されているであろうか。「発信」の場が無ければ、やはり政治・社会に対して無関心となる傾向も否めず、有権者としての「思考」も「撹拌」されることはない。

授業を終えて地元地域まで帰り、馴染みのカフェで夕食。ラストオーダーの時間まで寛ぎ、1日の疲れを癒した。同時に店主夫妻と、総選挙へ向けての各自の思いを多様な角度から「発信」した。3人が3人とも、現状の日本社会に対しての憂いは多々あった。しかし、それを孤独に考えているよりも、こうした“日常”に談話があることで、「思考」は「撹拌」されて鬱憤として蓄積した要素も、少々ながら解消したような気になった。やはり“表現”することで精神的な健全さが保たれるという典型的な例であろう。

大学の授業もさることながら、
一人一人が生活している日常に「発信」できる場を持つべきである。
せめてそこで「思考」を「撹拌」することで自らの意識を活性化し、
政治に参加するという意識を持つ。
ぜひとも賢い有権者でありたい。

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真の政治的リーダーとは?

2012-11-21
米国オバマ大統領が、ミャンマーを初訪問し、アウンサン・スーチー氏とともに会見する映像を観た。軍政からの脱却と、長年の圧政に耐えながら民主化を進めて来た指導者をオバマ氏は讃えた。その笑顔で抱擁する2人の姿は、“平和”はこうして指導者同士が頬を寄せ合って造り上げるものだというメッセージにも見えた。少なくともアメリカ国民は、「4年間で何ら社会は変わらなかった」という逆風の中、接戦ながらオバマ氏へ次の4年間を託した。こうした平和的な外交姿勢を見せるあたりは、理性ある人々が彼を支持する一つの要因ではないかと感じた。世界に影響のある超大国が、ただただ“強さ”だけを主張すれば、反感も買い平和的な均衡が崩れる。オバマ氏には、「早過ぎたノーベル平和賞」という汚名的な“枕詞”を払拭する外交を、今後の4年間で築いて欲しいと切に願う。

一方日本国内では、ある意味で景気のいい政治家の豪語がメディアを賑わせている。「(無制限に)お札を刷りまくる(政策)」と野党党首が語り、市場が反応した。当事者側の日銀総裁は実に冷静に、この政策にリスクが大きいという趣旨を会見で述べた。また、ある政党党首は、「この国は核を持たないから国際的な発言権がない」という趣旨のことを会見で述べた。2度の被爆体験と福島原発での事故をどのように受け止めているのであろうか。また、経済状況を見ないで原発の白黒を決めるのも「乱暴」だとも発言した。“平和”という概念に程遠いこうした発想に対して、「乱暴」のことばをそのままお返ししたい。前者の“バブル的”経済政策の発想も、後者の“歴史的犠牲”を省みない発想も、ともにこの国においてこうした政策が“過ち”であったことを痛切に体験してきたことである。現状ですらその時代の大きな“負債”があるにも関わらず、そこに回帰するような政治的リーダーを選択してよいのかと、甚だ不安を禁じ得ない。

それに加えて小さな政党の乱立。政策の不一致は明らかであるのに、選挙での利害によりその理想的看板はいとも簡単に引き下ろされる。「企業献金禁止」「脱原発」といった方向性は、果たして単なる空論だったのか。TV番組で鍛えられた詭弁は、その矛盾をいとも簡単に隠すだろうが、問題は国民がそれに騙されるか否かである。新しい改革的政策提案に付けられた名前のモチーフとなった坂本龍馬もさぞ迷惑であろう。この程度で歪曲する志を、龍馬は「志」とは呼ばない。勝手に「・・八策」などという呼び方は、誠に歴史に失礼である。

真のリーダーとは何か?
現況の日本の政治状況ではまったくそれが見えない。
政策を強引にでも実行する「決める政治」は、
果たして日本に幸福をもたらすのだろうか?
「解散」を「決めた」首相の人気も、少々ながら回復したりもする。

せめて平和的理性のあった米国民の判断に
劣らない理性をもった有権者でありたい。


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