行動という表現

2012-06-30
意見を忌憚なく言う姿勢を持っていると、ある時「口先ばかり」と非難されたことがある。ならば、「不言実行」であれば文句はあるまいということなのか。「実行」の後に「結果」を出せば、たいてい他者は何も言わないものである。ある意味で、「結果が全て」の社会において、どんな姿勢で、自己の考えを表現し行動していったらよいかなどと立ち止まって考えることもある。

江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し口先だけではらわたはなし

とはよくいったものだが、「口先」が先行して自分の立場を窮地に追い込んでしまう落語の登場人物などは、実に愛嬌十分なキャラクターであり人々の笑いを誘う。場の勢いに任せて、大仰なことを平然と口走る江戸っ子の粋な性格。会話そのものの中に、人々の寛容さや興を愉しむ余裕が感じられる。「床屋政談」などという言葉があるのも、こうした世相の機能を讃えた一つの例であろう。比較的平穏な世相が継続した江戸時代とは、こうした庶民の心の解放を要因として、効果的に作用していたといえるのかもしれない。

そんな観点からすると、実に「世知辛い」世の中になったものである。意見を持ちながらも懐奥深く終い込み、他者が何を言うのかを探る。大勢に影響のない言葉に目くじらを立てて、言葉尻を非難する。非難されるのを恐れるがゆえに発言を控えて、その先において他者とのコミュニケーションが減退する。行きつく先は、無表情で自己を消失した関係か、建前のみを前面に出した会話のみが残存するばかりである。

それゆえに、どんな場合も「行動」が求められる。
思考したことは、「行動」として表現しなければ何も始まらない。
表現すれば、何かが変わり始める。

「行動」は自身を変革し、周囲を変えていく。
そして人が繋がれば、社会が変わる。
「行動」の大切さを改めて自覚した1日。
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「ふるさと」をことばにして

2012-06-29
自分の「ふるさと」に対する思い入れは何か?それは何も実際の光景ではなく、「こころのふるさと」を考えてもいいはずだ。幼少期の記憶の中で、自分を育ててくれた人々はどうであったか。その関わりの中で、何が印象深いことか。そんな「こころ」の光景が見えて来てこそ、「ふるさと」としての価値も高まるはずだ。

朝日新聞28日付教育面に、「唱歌「ふるさと」続く光景は」の記事。首都大学東京の西島央准教授が、「21世紀の日本のイメージを探る」のを目的とし、唱歌「ふるさと」の続きを高校生らに作ってもらうという試みが紹介されている。記事では、西島准教授の母校である麻布高校生徒の作品がいくつか紹介されているが、「自然が失われ、地縁や血縁も薄らぎ、立身出世から遠ざかった作品が多い」と伝える。昨年の東日本大震災以後、東北地方を中心に再びこの唱歌が注目されて、その意味が再考されているともいう。

「うさぎ追いし かの山
小ぶなつりし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと

いかにいます 父母
つつがなきや 友がき
雨に風につけても
思いいずる ふるさと

志を 果たして
いつの日にか帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと」

(作詞:高野辰之・作曲:岡野貞一)

果たしてあなたなら、どんな歌詞を創るだろうか?
美しいと感じる光景が失われてきた昨今。
いや、美しいものを美しいと感じるこころが減退したのか。

自分の育って来た時代や環境、そして取り巻く人々。
そんなものを個人個人が再考すべき時なのかもしれない。

同時にそれは「今の日本」を考えることでもある。



西島准教授は、小中高大学生による新しい「ふるさと」の歌詞を募っているという。
(@furusatonippon)
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「水戸黄門」の悪代官イメージ

2012-06-28
昨年惜しまれて幕を閉じた時代劇「水戸黄門」。その定型ストーリーに登場してくるのは、諸国の悪代官とそれに通じる腹黒い大商人がお決まりであった。お決まりなのは、役柄のみならず、配役を受ける役者さんにも“定型”があったと記憶する。残念ながら役者さんの名前までは記憶にないが、悪代官・大商人をいつも演ずる方々がいた。敢えて記憶を紐解くならば、過去に「初代ウルトラマン」に変身する“ハヤタ”役をやっていた役者さんと、「キャプテンウルトラ」という宇宙空間を舞台にしたヒーロー物の主役であった役者さんが、必ずといっていい程に悪代官役になっていた。彼らは役者として、若かりしときに“正義の味方”を演じていたにもかかわらず、中年以上になって「水戸黄門」では、“悪役”の所業や表情を好演していたことになる。諸国の庶民が激しく痛めつけられれば痛めつけられるほど、「黄門さま」の印籠はその効力を発揮する。悪代官役は役者として、ある意味で、その悪さを限りなく表現することで脇役としての役割を十分に果たしていたのだ。

“正義の味方”は、急転直下“悪役”に転ずる。それが虚構のドラマを支える役者であれば、その素晴らしき演技に惜しみない喝采を送りたくもなる。しかし、現実の世界でそんな「急転直下」を見せられると、甚だ腹立たしい気分を拭えなくなるのだ。

馴染みの料理店で消費増税の話をしていて、自営業者の切実な現実を知った。消費者として生活を圧迫するという視点しか考えていなかったが、自営業者への圧迫も甚だ大きい。この不景気・デフレの状況下で消費増税がなされても、料理の値段に「消費税分」を上乗せできないというのだ。現状でさえも、大手ファーストフード店の安価競争の波が激しく、客の流れはそちらに行ってしまう。更にはコンビニ食などの台頭もあり、街の料理店の売り上げは過去に比べて、厳しい状況であるという。そんな庶民の経済を、更に消費増税が襲うのだ。素材にこだわり、手間暇をかけて、丹精込めて作った料理を提供し、一人一人の客を大切にしてくれるありがたき空間を、この消費増税は破壊して行く可能性がある。

料理店の店主御夫妻も、「昨日から首相の顔を見るだけで腹立たしい気分になる」と語り、僕も同感であると応えた。そんな会話をしつつ、首相の顔を思い浮かべると、いつしかそれは、「水戸黄門」の悪代官役と重なった。肥えた頬、恰幅の良い容姿、やや低音の声色、どの点をとっても悪代官を演ずれば好演できそうな要素が揃っている。党代表になった際に、庶民が少しは期待したやや一見すると柔和な外見は、その言動によってものの見事に“悪役”に転じた。「水戸黄門」という番組は、あの定型性の中でどこか哲学的な理性を提供してくれていた気もする。

政権交代前の、野田氏の演説がYou Tube上にある。

マニフェスト 書いてあることは命懸けで実行

まさに“正義の味方”だった頃の典型的な内容である。
庶民を裏切った者は、いつしか「黄門様」に裁かれないだろうか。
自営業者の方との世間話に、ふとそんなことを考えた。

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傍観者でいいのか

2012-06-27
総選挙による政権交代で、国民が票に託した期待は何だったのか?政治の透明性・歳費の無駄削減・福祉への温かい配慮等々、「人」を大切にする政治ではなかったかと、私見としての想いをもっていた。これまでもその期待は何度も裏切られてきたが、26日に衆議院で採決された消費増税法案において、真逆の政治が行われていることを痛切に感じた。仕事の合間にも、その採決の行方を注視していた。もちろん政権交代の理念、いや哲学を通そうとした議員がいなかったわけではなかった。時として、正義を通そうとすると、組織により悪者として扱われるのが、“世の中”なのであろうか。

そして僕たち国民には、心底から消費税を上げたいと考えている官僚たちの顔は、全くと言っていいほど見えない。その官僚のあり方に対して監査して行くことを、選挙で政治家に託しても、それが殆ど機能しないのだ。国家の金庫は火の車であるのは、紛れもない事実であろう。だがしかし、歳出の検討が十分でないままに、歳入を増やすがために、国民一人一人から消費税を徴収するのは、筋違いであるという思いを禁じ得ない。

TVの街頭インタビューなどを聞いていると、「財政を再建するには、仕方がないのでは」「孫子の代まで赤字を引きずるのも可哀そうなので」といった増税への肯定意見をいう庶民の方々もいる。だが、こうした政治決定の状況から発した増税によって、「財政再建」や「孫子の代」の幸せが期待できるとは思えない。“お金”そのものをどうしよという議論よりも、その“お金”をどう使うかという議論が透明性のもとに行われなければならないはずだ。少なくとも、民間企業や組織には、その透明性を担保する施策が過去に比べて格段のレベルで導入されるようになった。教育現場である学校でも、その自己評価を公開し透明性に配慮することが執拗に要求されている。それはそれで然り。教育現場は、堂々と行っていることを公開して信頼を得ていくべきであろう。だがしかし、最も透明性がないのは政治世界という現実が、我々の眼前で恥ずかしげもなく展開している。

僕たちは意識無意識を問わず、政治・行政からの要求を履行している。
そして増税がもしこのまま参議院でも可決されれば、2年後にはそれを支払わざるを得ない。
これまでの約20年間で、中小企業が様々な角度で“苦汁”を舐めて来た現実社会がある。
その庶民感覚を無視して、再び強引な手法で「苦渋の選択」という看板を掲げ、
これしか国家が生き延びる道がないというような喧伝により、
新たな“苦汁”が押し付けられる。
果たして庶民の生きる道は、どこで考慮されているのだろうか?

今一度慎重に考えてみたい。
政権交代で何も変わっていないことを。
しかも、変革するという期待を抱かせた欺瞞を盾に行われている現実を。

僕たち一人一人が、傍観者であってはならない。
+3%さらに+5%を支払いうのは、僕たちなのだから。
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ひらがなの効用―語の響き

2012-06-26
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」

著名な紀貫之『土佐日記』冒頭部分である。
平安時代当時、男性は漢字・漢文こそ真の文字ゆえ「真名」と呼び文章を記すのに使用した。それに対して女性は、新たに開発されてきた仮の文字ということで「仮名」を使用した。このような文化的背景の中で、下級官僚である紀貫之は、男でありながら自由に文章を記したいという願望を叶えるために、自らを「女もしてみん(女である私も書いてみよう)」と宣言して、「仮名による日記」を書き始める。男性官人たちが、漢字・漢文で書き記す日記は、公的な意味合いもあったわけだが、やはりその表現に制約があったのであろう。かくして、和文体が仮名文字で自由に書き記すことができるようになり、やや時を経て、平安朝女流文学が全盛を極める時代を迎える。文字表現の変革は、新たな文化を開花させるのである。

もちろん、「仮名文字」のみの表記というのは、現代ではむしろ違和感が強いかもしれない。同音語の識別に困難が生じ、文節・単語の切れ目の認識に気を遣う。自分で使用する意図はなくとも、自然にキーボードを叩けば「漢字」が顔を覗かせるので、仮名ばかりになることも少ない。幼児向きの絵本を読んでみたりすると、仮名文字ばかりですんなり読めるかというと、常に内容解釈をしながら読み進めなければ、流暢とはいかない。この漢字・仮名(片仮名を含む)交じり文という日本語表記こそ、言語としての特徴的な韻律・文体を造り出しているのだ。

仮名表記を敢えて採用した表現者もいる。
会津八一の短歌の多くは、仮名文字のみによる表記法で、和語のやわらかな韻律を再現することに配慮し、元来、短歌が声で「謡われていた」ことを髣髴とさせる。

ならさか の いし の ほとけ の おとがひ に こさめ ながるる はる は き に けり
(『南京新唱』より)

短歌を構成する一語一語の韻律がどのような響きを持つか。漢字仮名交じり文では、見過ごしてしまう感覚を呼び覚ますことに成功している。決して読み易いとは言い難いのであるが、一音一音を大切にして短歌を読もうという態度を必然的に要求する。一音の連続が一語となり、各語が助詞によって連接され、短歌の核心部分で助動詞が導入されて、見事に一首が収束し余韻を残す。我々が日常で失ってしまった、和語の響きを極度に意識させる短歌ということができる。

韻律に目もかけず、キーボードが打ち出す無味乾燥な文体に慣れてしまっている日常。時として、難解な漢語を避ける傾向も否めない昨今。『天声人語』に「酸鼻=むごたらしいこと」や「無辜=罪を犯していない」などの語彙を発見し、漢語としての意味を意識的に読もうとすることに、教養を維持する境界線を見出したりもする。外来語の頻用に走るのではなく、日本語が本来持つはずの多彩な要素を、我々は存分に使用していく責務を果たさなければならないはずだ。文化を継承するというのは、大仰に構えるのではなく、まずは身近なことばを大切にすることである。

日常の文章の点検にも、積極的に「声」による推敲を導入したい。
その韻律・文体の響きが美しいかどうか。
もちろん小欄の文章も、「美しさ」を持つかどうかは甚だ心もとない。
それでも自己の表現のあり方にこだわりがあるかないかの差は大きいはずだ。
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『エリア51』から今感じること

2012-06-25
「エリア51」といえば、野球ファンならイチローが守るライト領域の呼称を思い浮かべるであろう。彼の守備範囲の広域性・返球の的確性に加えて強さ・華麗さなどの要素が、守備として“聖域”のように感じられるゆえ、メジャーファンの中で背番号に重ねてこのように呼ばれるようになった。しかし、元来「エリア51」というのは、米国ネバダ州にある極秘軍事施設の呼称である。米国の一つのメディア的風習として、何らかの歴史的な呼称を他の出来事に重ねて使用する傾向があるのだろうか。「グランドゼロ」もまた然りである。

昨年全米でベストセラーとなった『エリア51』を描いた書物がある。最近、日本語翻訳版も出版されたようであるが、まだ読むには至っていない。「ロズウエル事件」と呼ばれるUFO墜落と宇宙人遺体回収を始めとして、様々な軍事的実験の実施。そしてアポロ月面着陸捏造の現場であるとされるのは、あまりにも有名な話である。僕が幼少の頃に、「確保された宇宙人」という写真を書物で見て、何ともいえない怖さと同時に、それが果たして真実なのかどうかという点で大きく気持ちを揺さぶられたことを記憶している。ましてや人類の月への第一歩という、文明開発の象徴的な出来事が極秘施設周辺の砂漠で捏造されていたとする説を知った時は、子供心にも「真実」とは何かなどという気持ちが、ある種の歪みと同時に、報道されている出来事というのは、全て人間が造った“虚構”のようなものだという淡い感覚を持ったことが思い出される。

子供の頃というのは、好奇心と純粋さに満ちている。それゆえに、こうした「俗説」的なものを知る事への興味と同時に、自分が眼にしていることは、周囲の身近なことを含めて全てが、仕組まれていて実はそれを信じているのは自分だけなのではないかというような疎外感を持ったこともあった。要するにそこに、「真実」とは自分の眼でしか確かめられないという感覚が育つ芽があったように、今にして感じられる。UFOや超自然現象などを扱う番組を視る度に、こうした「疑って確かめる」気持ちが高まって来たということであろう。それでも、どんな年齢になっても『エリア51の真実』というタイトルの本には、無条件に食指が伸びそうな自分がいるのである。アメリカに存在する「極秘」と称される「事実」には、ハリウッド映画的な豪快さと相俟って、無性に人の心を惹きつけるものがあるのだ。

それだけに、「事実」とは何であるか?ということには、いたく敏感でありたいと常に思う。UFOや超自然現象の特集番組を、どれほどの真実味を持って視ていたかどうか。現在では、それと同等か、それ以上の懐疑的なフィルターを通して、特にTV報道に接するようにしている。全ての報道は、どこかで製作者の“意図”が付加されている。バラエティーが喧伝する「衝撃の真実」という内容を、鵜呑みにする方は少ないであろう。そこには明らかな「受け狙い」という低級な意図がすぐに見えるからである。しかし、昨今は特に、バラエティーならずとも、報道する側が受ける制約やしがらみにより醸成された、混沌とした“意図”を読みたくなる報道も多い。その“意図”を、Web上のある意味で制約のない放逐な視線をもった言論が、暴こうとする図式が露わになって来ている。

自分の情報収集に責任を持ち、自分の眼で確かめる。
もはや、そんなことでしか「事実」はわからないのではないかと思うことさえもある。
やや「物語性」を帯びた『エリア51』について語られてきたことと、
実はそれほど変わらない報道に接して、僕たちは右往左往しているのかもしれない。
「真実」として投げ掛けられることばには、必ず発言者の「意図」が、
意識無意識を問わず潜在することを忘れてはならない。


【日本語訳版】
『エリア51―世界でもっとも有名な秘密基地の真実』
(アニー・ジェイコブセン著・田口俊樹訳・太田出版)

【ペーパーバック版】
『Area51 An Uncensored History of America’s Top Secret Military Base』


夏休みに楽しみな一冊ということで、ここに記しておこうと思う。
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朗読の人柄―2つの朗読公演に接し

2012-06-24
ひとえに朗読といっても、様々な性格がある。もちろん読み手の個性で多様になるのは前提でありながら、その題材に向き合う情熱や姿勢・題材咀嚼の方法・語り方、表現そのもののあり方に至るまで、実に個性的であり、まさに“人柄”が存在するといってよい。この日は、2つの朗読会に参加し長編の朗読を聴く機会に接し、改めてそのような思いを強くした。

台東区立樋口一葉記念館で開催された「一葉研究会」。その一葉の旧居跡に程近い場で、代表作『たけくらべ』の朗読を聴いた。朗読家・内木明子氏による約70分間の朗読である。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて・・・」

という冒頭部分を、ほぼ暗誦するかのように語り始めた内木氏。この雅俗折衷体である文体を、いかなる呼吸で読んでいくか。まさに句読点のという方法による作者の呼吸が十分に表出していない文体を、流麗に読んでいくことには、相当量の作品咀嚼と準備が必要であろうことを、痛切に感じさせる朗読である。次第にその文語表現独特の韻律が際立ち、不思議と声が小躍りするような躍動感が現れてくる。また同時に、江戸時代の名残よろしく当時の口語表現による会話部分などが融合し、場面の再現が現実味を帯びてくる。

内木氏が全朗読を終えた後、挨拶の中で「その場面・場面を稽古した際のことを思い出しながら、懐かしい気持ちで朗読しました。」という趣旨のことを述べた。小説のそれぞれの場面を、どのように表現して行こうかとする模索が、様々な形で結実し70分間が織り成されて来る。やはり朗読の基本は、作品の読み込みが重要であることを、改めて感じさせる朗読であった。

朗読会の後、一葉記念館の展示、および『たけくらべ』の舞台である付近の散策をし、まさに「大門跡」から屈曲した路を歩み「見返り柳」に後ろ髪をひかれながら、この地を後にした。


この日、2本目の朗読は、神保町Café Flugでの開催。今月初めには大学の授業に来ていただいた、春口あいさん・下舘直樹さん出演の朗読会である。浅田次郎原作『ピエタ』を、春口ゆめさんによる演出。春口あいさんが、大好きだと語るこの作品が、夜の帳が降り来る本の街の一隅に響いた。

春口あいさんは昨年、この作品による一人芝居を演じたという。元来の役者魂で、その「愛」とは何かを問い掛ける作品を表現した。今回は、敢えてそれを朗読という形式に引き戻しての公演。「朗読」なのか「朗読劇」なのかという境界線は大変微妙であり、毎度の授業や学生の発表会に於いて、論議を呼ぶ部分である。どこまで「声」のみで表現し、どの程度動きを伴い演じるのか。その調合具合というのは大変微妙なものがある。一歩間違うと、相殺されてしまい、表現自体が台無しとなる危険性を伴う。そんな難しさを乗り越えて、春口さんの表現は、見事に朗読として而立していた。

 作品が問い掛ける「愛とは何か」というテーマ。その人間の心の機微を、作品を通しながら、ひとりの人間として語り出していく。一つの台詞にどれほどの生命があるか。人間存在そのものを賭した重みがあるか。作品から受け取ったメッセージ性を、自らの声と表情に託して訴える。その全身の雰囲気そのものが、春口さんの朗読表現でもある。咀嚼を超えた作品との一体化。もしかすると原作も意図しない、人間「愛」という深淵が、春口さんの身体を通して表出して来ているのかもしれない。作品と向き合うのではなく、作品そのものに“なる”。これぞ、役者経験を高度に活かした朗読であると感じ入った。

その表現に添えられる絃の響き。下舘さんのギターは、決して主張しない。だがしかし、いつしかその表現世界に不可欠な存在感を示す。BGMとも効果音ともいえぬように、朗読表現を最大限に引き立てていく。柔らかでありながら芯の通った音色。愛を語る「声」と共鳴し、いつしか独特の表現世界に聴衆を誘う。改めてアコースティクな「絃」と、人間の「声」との相性の良さを実感する。たぶん、人間愛の表現に「電気」は不要なのかもしれない。

最後に、公演パンフに示された作品『ピエタ』の捉え方に共感したので、ここに引用しておくことにする。

「誰しも、愛する人のことは全力で支えます。それは時に、背中を叩くことであり、時に当人が望まなくても本音を伝えることであり、自分をさらけ出すことであり、許しを乞うことでもあります。笑顔で包容するだけでない、人の『愛』のあらゆる姿が、詰まっているのが、この『ピエタ』という作品です。
全ての感情は、愛の変形だ、と言った人がいます。
全ての脚本の根源は、愛だ、と言った人がいます。」



文学作品を文学として正面から向き合い、
自分との距離を測定しながら客観的な理解の域を声にしていく朗読。

文学作品の世界に身を投じ自らの魂を以て演じ、
その“真実的”虚構世界で感じた人間愛を身体全体で表現していく朗読。

1日で、そんな2本の朗読に接することができた。

はてまた、ナレーション・アナウンス・声優・役者・創作者・研究者等々・・・
その領域・領域において、様々な朗読の“人柄”がある。
それぞれの特徴を、今後も言説化して見つめて行きたいという思いも新たにした。
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学生が朗読表現へ挑む1カ月

2012-06-23
早稲田大学教育学部での担当科目「授業に活かす朗読講座」では、毎年、その授業成果の集大成として、履修生による発表会を開催している。受講者は、教職志望の学生が多いが、もちろん内容的な関心から履修している者もいる。音声による表現が何を成し得るか、といった基本的な点に興味を抱き、聴衆の前で自己表現に挑む体験というのは、それだけで貴重なものであるといえる。学問的な知識を吸収することも学生時代には必須であろうが、同時に自己の思考を披歴し一定の批評に曝される経験が、どうしても必要であろう。自己表現により様々な視点から思考の練磨が為されると思うがゆえである。

発表会まで1カ月となったこの日、発表会に向けての班分けを実施した。「近現代文学」・「読み聞かせ」・「古典散文」の3つのカテゴリーで希望を尊重し、概ね3班を編成する。その班内で、題材をどうするかという話し合いから出発する。今回は、近現代文学では、芥川龍之介『杜子春』を扱うことになっていた。芥川生誕120年という節目の年であることと、児童文学または中学校程度の教材として、『杜子春』をどう読んで表現するかを改めて考えたかったからである。

読み聞かせに関しては、まさに白紙からの題材選びとなる。構成メンバーの人数や顔ぶれによって、どのような作品選定をしていくか。授業の読み聞かせの回では、ゲスト(春口あいさん・下舘直樹さん)をお迎えして、「絵本語り」ライブを学生には体感してもらった。その体験をどのように自分たちの「読み聞かせ」作品として活かしていくかという点にも非常に興味が湧く。

古典散文は毎年、群読に取り組みやすいという理由から『平家物語』を題材としている。しかし、今回は『平家』に決めつけず、あくまで古典散文という広い範囲から、どのような朗読表現が可能かを考えるようにした。この班に所属した学生たちは、様々な角度から模索を繰り返し、新たな作品の組み合わせを目指そうとする方向性を得たようだ。

これから毎週金曜日の授業での練習を繰り返し、発表会までの1カ月が進んでいく。発表そのものが集大成であるのはいうまでもないが、作品を創り出していく過程にこそ、大きな意義がある。将来、教壇に立つであろう学生たちが、その教育現場で「朗読表現」を学習に導入しようとした時、自らにその「表現経験」があるかないかは雲泥の差である。しかも、授業という閉鎖的な空間ではなく、“公開”による発表会を実施する意義は非常に大きいと毎年、実感している。

小欄でも、これからの過程をでき得る限りレポートしていくつもりである。ぜひ興味をお持ちの方々は、発表会にご来場いただきたくお願い申し上げる次第である。


「朗読実践への提案in早稲田2012」
(早稲田大学国語教育学会研究部会「朗読の理論と実践の会」主催)
日時:2012年7月21日(土)13:00~16:00(予定)
場所:早稲田大学16号館106教室
(*一般公開ですので、どなたでも来聴できます。)
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生活に嵌め込む身体トレーニング

2012-06-22
日常的に身体トレーニングに励んでいる旨を他の方に話すと、よく「ストイックですね」という反応を頂戴することがある。すると大概は「そういうわけではないのですが」と否定的に答えるようにしている。相手によるのだが、それ以上の自分の感覚を説明するのは難しいと判断し、その場はお茶を濁す場合が多い。そんな精神作用を、聊か自己分析してみようかと思う。

身体トレーニングをすることは、確かに厳しさが伴う。だが、それが生活の中に嵌め込まれて、実施すること自体を楽しく感じていたらどうだろうか。むしろ、「楽しくて実行したい」のであるから、禁欲的というよりは「欲望任せ」であるという方が正しいのかもしれない。もはや、生活の中で身体を動かさないことは考えられず、筋肉を刺激するとか酸素を十分に摂り込む動きをすることは、悦びとさえ感じられる。脳内のみならず、身体の各機能を存分に働かせることは、人間として非常に重要ではないかと思うのである。

この状態を継続して、約4年になる。現在の体重は学生時代のそれと同じとなり、身体はすこぶる軽い。風邪などをひくことも全くと言っていいほどなく、健康的な生活が持続できている。体重・基礎代謝・体脂肪率・内臓脂肪・筋肉量・水分率・骨量などは毎晩必ず測定し、トレーニング成果を数値化して、自らの指標とする。かつて、健康診断において「中性脂肪値」がやや高く出てしまい、自宅の近所を毎朝ウォーキングし始めたのが約5年~6年前のこと。この間で身体年齢は、だいぶ若返ったのではないかという自覚がある。

何事も生活の一部に嵌め込むことが重要だ。最近、トレーニング通いとセットになっているのが、「英会話聴解」である。片道約15分間の歩きの中で、必ずipodで「英会話」を聴解し、小さな声でその表現を呟いている。通りすがりの方々からすれば、異常に感じられる場合もあるかもしれない。路の角を曲がる際などは、視覚的に意識できないので、相手の方からすれば唐突に場に即さない英語表現をぶつくさと呟く人が現れて、異様に感じているかもしれない。最近は、そんなこともあまり気にしなくなって来た。ジムへの往復道路は、僕の「英会話の時間」なのである。これまた生活に嵌め込んだ一例である。

その他にも、読書の時間・野球の試合をチェックする時間・週に1度料理をする時間等が生活の中に存在する。もちろん、小欄の文章を書く時間というのも義務感ならず、自分の毎日感じ得たことを記し、思考を記録し蓄積し攪拌するという“生活”となっている。もはや歯磨きの習慣に匹敵するほどといっても過言ではない。文章化することで、自分の考え方の深浅を、客観的に見直すことができる。そこから、様々な新しい発想が産まれて来る可能性を持つ、生活思考の鍛錬の場であり実験場でもある。

生活に嵌め込み、楽しくできること。
それでこそ無理のない「進化」を望むことができる。
こうして書きながら、更なる嵌め込み要素を模索するのである。
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試験対策が学校の意義か?

2012-06-21
70年代から80年代にかけて、青春ドラマというものが盛んに制作されていた。ある高校を舞台に、生徒たちと破天荒な教師との心の交流を描く物語だ。大抵、中村雅俊あたりが主人公の教師役となり、高校生たちの青春の“生き方”を問うていく。クラスには人柄の憎めない不良系の生徒もいるが、真面目一本やりの秀才もいる。秀才たちは、授業もせず“生き方”を語る中村演じる教師に、「授業してください」と毎度のように訴える。しかし、その教師は、「大学入試なんて結果だ。今を精一杯生きて楽しまないでどうするんだ。」といった趣旨のことばを突き付ける。もちろんドラマの設定上、主人公教師が授業する場面というのは、もともと脚本に殆どない。教室で語る場合は、多くが“生き方”についてである。そこがまさに“青春ドラマ”たる所以であった。

時代は移り変わり、現実の学校も様変わりした。もちろん、80年代以前に、高校が“生き方”ばかりを語っていたというつもりはない。だが、“生き方”を語ることが許されていたとはいえるかもしれない。時に教師の脱線した雑談を愉しみ、教材から派生した内容を考え、何らかの主義主張を述べ合うような雰囲気が十分に許されていた気がする。それが、現在は多くの高校現場で、大学入試を念頭に置いた授業が通常になってしまった。授業は入試という“試験”の為だけを目的とし、その後の人生における“種蒔き”のような要素を失ってしまった。教材から“生き方”を学ぶというよりは、“試験でどのように解答するか”を学ぶのである。青春ドラマに出てきた秀才たちは、現在なら、さぞ喜んだであろう。

しかし、青春ドラマの秀才たちは、ある時、周囲の“生き方”に感化され、勉強だけが学校生活でないことを悟る。その場その時をいかに大切に生きるか、という感性に目覚める。ましてや、大学入試だけが高校生活の目的ではないという感覚に、様々な抵抗感を乗り越えながらも到達するのだ。これぞまさに青春なのである。


中学高校大学(小学校も含め)のそれぞれが受験対策の場ではないのは、ある意味、自明のことであろう。だが、学校の“実績”を数で示す為、世間の流れが要請する為において、多くの学校現場が「受験対策」を授業で行わざるを得ない状況にある。大学であれば、「就職対策」として様々な“講座的”内容を授業で扱うようになる。あくまで、その学校を卒業した直後にどうするのかという、目先の暗闇に明かりを照らすような、即効的な内容が求められるようになっている。

こうした考え方を持ちながらも、あるクラスで大学生と語り合っていて、あることに気付かされた。無意識に自分が「就職の為に」という文脈で語っていたことである。学生からは、「終身雇用を求めるではなく、一生において様々な仕事・活動に従事したい」といった意見が出された。その「様々な」を発見するために大学で学んでいるのだという。まったくもって賛同できる考え方である。学校現場は、いつしか「いい学校に進学しないと(大変だ)。いい企業に就職しないと(大変だ)」という閉鎖的で小さな生き方を奨励してしまっている現実がある。ゆえに、試験対策に重点を置いて、様々な発想を学ぶはずの授業ですら、小手先技術の習得に目的を移行している。

現実だから仕方ない、というのは虚し過ぎる。
この時代だからこそ、泥臭くとも青春ドラマの主人公教師が訴えていたような
“生き方”を〈教室〉で学べる授業が貴重なのだと改めて悟る。

というように、学生と教員側がそれぞれの“生き方”に気付くような、
双方向のコミュニケーションが授業には必要なのだ。
積極的に意見を語る学生に、また一つ教えられた気がしている。
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