やさしき「受難者」たちへ
2012-05-15
先日、あるパーティーの席上で、詩を朗読した。やさしい気持ちがあることで、社会において“受難者”になってしまうという内容。いくつかの詩の中から、自然にこの詩を読んでみようという気持ちにさせられた。教科書にも掲載されたことのある吉野弘「夕焼け」。
満員電車の中で「としより」に席をゆずる「娘」。「礼も言わず」その「としより」は次の駅で降りる。するとまた別の「としより」が「娘の前」に。1度は「うつむいた」が、「又立って」席をゆずる。今度は「礼を言って」次の駅でおりた「としより」。しかし、再び「娘」の前に他の「としより」が立った。「娘」は、「うつむいて」、今度は席を「立たなかった」。そして、「固くなってうつむいて」、「下唇を噛んで」、電車の席に座り続ける。
「やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにあらず受難者となる」
という一節は、喩えようもなく心に響く。
「娘」のみに焦点が当てられたこの詩であるが、実は多数の傍観者が電車内に存在する。たまたま、この「娘」の前に3人の「としより」立たされていた。多くの傍観者たちは、まさに傍観し続ける。もちろん、この詩の語り手である「僕」も、傍観者の一人である。満員電車内という狭い空間であるから、この起こり得なそうでもある光景が、不思議とリアルに感じられもする。満員電車は、そのまま都会における様々な環境に置き換えられる。
昨今の巷間では、更に傍観者の質が“高度”になった印象がある。“傍から観る”のではなく、“視野に入れない”態度を平然と実行できる人々が増えたということだ。とりわけ、都会の喧騒の中では、他人は他人以上の何者でもないのだろう。不特定多数の人々が肩寄せ合う空間にあって、人々は“他人”という態度を貫く。不特定多数ならまだしも、時に知っている人にさえ、平然と“視野に入れない”態度で接することのできる輩もいる。いや、むしろその態度を感知してしまう感性を持っている方が、都会では“損益”を被っているかのような錯覚を起こすことさえある。“視野に入れない”態度には、同等の態度をとるのが、何よりも“楽”である。だが、それは自分の感性として許せないことの方が、圧倒的に多いといえる。
吉野の詩では、満員電車内の「娘」が「受難者」になる理由として、
次の一節が用意されている。
「やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから」
“高度”な傍観者たちは、携帯という武器を片手に、
今日も都会の喧騒の中で、「他人のつらさ」を感知しないよう徹する。
小さくも果てしない携帯画面の世界が、
「忙しい」「他の会話中」「自分の世界が大切」という
暗黙のメッセージを身体的態度として表出しつつ、
“超”傍観者としてそこに存在する。
もちろん、耳からの情報をも受け付けないように
携帯からコードが伸びていれば完璧であろう。
携帯の使用だけが問題なのではない。
携帯が進化するから「人」が試されているのだ。
やさしき「受難者」たちへ
その「やさしさ」を裏切らないでいよう。
されど、自分だけで抱え込まないでいよう。
身近な日常で、人間としてのコミュニケーションとは何かを考えよう。
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