議論に抵抗なく取り組む

2012-05-31
大学の留学プログラム参加者クラスにおいて、ミニディベートの授業を行った。他の講師の先生と合同で3クラスの学生が一堂に会した。身近な話題ということで、「電車内の化粧」「美容整形」「中高制服」について賛否を論じ、実質的な考え方よりも、いかに説得力ある主張を述べるかという点を審査基準として進行した。4人1組の班を6組構成し、3つの課題のどれかに対して「賛成・反対」のうちから立場を選択し、それぞれの立論を洗い出す。その後、賛否の理由を2分間で主張する。更に各班において反対の立場である班に対して反論を述べる。該当のテーマに加わらない班4つは、2チームの説得力を基準に審議をして優劣を投票する。主張の際の口頭表現が、どれほど効果的に機能するか。その過程から議論する際の基本的姿勢を学んでいく。

「車内化粧」のトピックでは、
賛成組の主張として、
「迷惑はかけていない」「時間短縮」「他の人の化粧の仕方から学べる」など。
反対組の主張として、
「匂いが迷惑」「隣の人にぶつかる」「公共の場のモラル」「だらしなさが表に出る」
などが表明された。

「美容整形」のトピックでは、
賛成組の主張として、
「メイクと一緒」「整形が文化となっている国もある」など。
反対組の主張として、
「個性が失われる(コンプレックスも個性)」「それ以前にすべき努力がある(あくまで最終手段)」「中毒性がある」
などが表明された。

「中高制服」のトピックでは、
賛成組の主張として、
「時間短縮(更衣・選択)」「秩序な協調性を学べる」「ふさわしくない服装を防止できる」「学校の看板を背負う」など。
反対組の主張として、
「子供でないので好きなものを着ればいい」「快適で成績も上がる」「学校の評判などに左右されず個人のプライバシーが守られる」「先生の注意も不要」
などが表明された。

その後に、それぞれの論点に対しての反論の主張が為され、どちらが説得力ありかが判定された。

概ね、「車内化粧」「美容整形」では、反対組が優位の判定を得て、
「中高制服」では、賛成組が優位の判定を得た。



班を構成し、各トピックについてどの立場になるかは、偶然性に拠る。それだけに、各自の基本的な考え方に反する立論・主張をしなければならないこともある。だが、一つの立場において、感情論を排し客観的に主張を述べ合うという姿勢から学ぶことは多い。その上に、違う立場の人々をどのように説得するかという点に主眼が置かれる点も、この学びの意義として有効に作用する。


小中高の教育に於いても、ディベートを学ぶことは「話す・聴く」という国語教育の領域で、実施すべき内容である。個人的な教員の努力により、実りある授業実践が行われている学校も多くあるだろう。だが、総じて国語の授業において活発な意見が交わされるという状況が一般的かというと、甚だ懐疑的である。少なくとも一般的な教科書教材を扱う授業に於いては、なかなか個性的な意見を主張し合うという“空気”にはならない。〈教室〉とは、意見を主張してはいけない場であり、右に倣った意見に服し教員主導の読み方に従う場となっているのが現状ではないだろうか。試験という現実を眼の前にして、そのように進行するのが、当たり障りのない授業ということにもなる。

その為か、巷間においても「議論」はあまり好まれない傾向にあるようだ。仲間内や親しい間柄でも、自己の意見を論じ合うことは少ない。はてまた、主張するとなると感情論剥き出しとなり、お互いに冷静で客観的な立場を失う。それゆえに、身近な社会問題に対して語り合うような場が、なかなか持てない。それぞれは意見があるはずなのに、それを主張することもなく、無難に柔和な顔をして当たり障りのない関係性を持続する。たぶん、その反動が、ネット上での異様なまでに攻撃的な主張と化して匿名性の上で表出されてくるという現象となるのだろう。

議論に抵抗なく取り組もう。
自分の意見に反する主張を聞く耳を持とう。
無難に仮面を被り合った関係性ばかりで、果たしていいものだろうか?

こうした抵抗感が、
「意見を主張しただけなのに、人格まで否定したと勘違いされた」
といった状況を多数引き起こしている。

議論とは何かを知らぬがゆえである。
議論の出来ない社会の行く末は恐ろしい。
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映画「ビターコーヒーライフ」―入川保則さん主演・最期の情愛物語

2012-05-30
虚構であるはずの映画が、こんなにもリアルに心に響くとは。素朴な脚本と演出に加えて、“主演”の渋い演技が際立つ作品。昨年3月に、癌による余命半年宣言をした後に、9月に撮影を終了。12月24日に永眠された名脇役・入川保則さんの遺作となる一本である。以前に、小欄で幾度か紹介したが、入川さんとは何度か馴染みの店でお会いしたことがあり、「朗読」に関してのお話をお聞きしたこともある。ほんの僅かではあるが、人間・入川保則に触れる機会を得ていたことが、この映画の感激度を異常なほどの数値に引き上げてくれていた。

物語の舞台は、福島県白河市。オリジナルブレンドのコーヒーが評判な、一軒の喫茶店のマスターを入川さんが演ずる。喫茶店は、愛娘と二人で切り盛りするが、実はこの娘はマスターの養女である。現在はひた隠しにしているが、このマスターは元警視庁捜査一課で「鬼」と呼ばれた敏腕刑事。殺人事件で逮捕した犯人の娘を引き取り、男手一つで育て上げて来たのだ。しかし、このマスターの身体は末期癌に蝕まれており、養女を出所した実の父に逢わせようと奔走する。マスターの実の娘との関係を含めて、父娘の愛情とは何か、生きるとは何かを、渋さの中にも芯が強く描く秀作である。

これまで時代劇等で名脇役と讃えられてきた入川さん。主演として、過去の鬼刑事ぶりをひた隠し、優しい喫茶店マスターを演じる主役という位置に座る。同時に、現実に末期癌と闘いながら、末期癌の役柄を演じる迫真ぶり。次第に体調が悪化していくマスターの姿に、現実世界における入川さんの闘いが背後に浮かぶ。病室を抜け出してまで、育てた愛娘の実の父を捜し続ける奮闘ぶりに、次第に心が熱くさせられる。そんな役者としての全てを賭けた演技の中にも、入川さんの優しさが垣間見える。いつしか娘役の山本ひかるさんが、実に美しい輝きを放つようになる。それは入川さんが、“生きて”きた“名脇役の血”が、自然体で放たれた証拠ではないかと思う。友情出演の秋吉久美子さん、また「マスター顔色悪いんじゃないの」と言って喫茶店でお金を支払うのみの演技をする松方弘樹さんなどが花を添える。主役・脇役が反転した僅かな場面に、役者として演技のあり方までも、入川さんは語っているように受け取れた。

この映画の音楽担当は、岡本美沙さん。昨年6月に、入川さんが開催した朗読会でも、ピアノ伴奏を担当していた。その際も、入川さんの声を最大限に引き立てる旋律であると解していた。今回の映画内でも、白河市の穏やかな光景と入川さんの芯のある演技を、どこまでも引き立てるピアノの響きが印象的であった。その曲・音作りは、入川さんの“声”を自然に髣髴させる“名脇役”ぶりを発揮している。


入川保則さんの人生。
余命半年宣言後にも作品に関わり続けた役者魂。
その姿から、改めて生きるとは何かを学ぶ。


この映画を観て、改めて悟った。
生きるとは、「今現在に妥協のないこと」である。
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自然統御のあり方

2012-05-29
朝日新聞夕刊「素粒子」欄に次のようにあった。

「暗闇でガスの恐怖と闘った消防隊。
海辺に原発、山々にトンネル。
自然をあまく見た安全軽視でまたも犠牲者。」

自然を統御しようとするのは、古代から人間の願望でもある。その時代時代に応じて、様々な技術が駆使され、自然の中で人間の意志を通すための工夫が為されてきた。ただ、それが「支配」なのか、「融合」なのかでかなり方向性や度合は違ってくるようにも思う。とりわけ日本文化の中では、その自然を「美」と捉えて生活の中に融合させようとして来た歴史がある。

日本史上初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紐解けば、第1巻から6巻までに「四季」の和歌が配列されている。四季の巡航はどのようになされるのかという自然の摂理を、和歌という「ことば」によって捉え、その推移を理念として配列したわけである。そんな勅撰和歌集の存在によって、「自然を統御」する天皇が存在する国家としての姿を顕然とさせていたのだ。美しき「ことば」という文化によって、「自然を統御」を達成しようとする日本人のこころを覗き見ることができる。豊かなこころは、「ことば」を美しく磨き、また最重要視するのである。

それから約1100年の月日が経過した。その後も和歌の歴史には、日本人の豊かなこころが託されてきた。その後、室町期の連歌を経て、江戸時代の俳諧に至り、季語によって季節のあり方を一語で捉えようとする「自然統御の文化」を育んだ。多くの外国人研究者が、俳諧に魅せられるのも、そんな日本人のこころの歴史が集約された文学であるからだろう。


ところが、冒頭の新聞記述が記したように、現状の日本では「自然をあまく見る」行為ばかりが横行する。この文化が育んできた「自然統御の思想」をたやすく踏み躙り、自然の摂理に逆らって、有害物質を撒き散らしたり、穴をこじ開けたりしている。その過程で、かけがえのない人命が失われたり、生活場所を追われたり、人間の基本的生活に危険を及ぼしたりしている。あくまで尺度は、「対費用効果」にしか向けられない。この国土で生きてきた人々が育んできた「思想」に逆らう所業を、これほど繰り返していいものかと切実に考えたい。


このような憂いがあるからこそ、古典文学を学ぶのだ。
「自然を統御」する方向性を誤った、今の日本人のこころ。
いい加減に、この国土で生きる術を、先人の貴重なことばから学んでもいい頃である。
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マイクを通した「届く声」の自覚

2012-05-28
毎度、研究学会に赴き、様々な発表を聞いて学ぼうとする際に、発表内容以外で大変気になることが一つある。それは発表者のマイクの使い方である。一定の広さの会場であれば、全体に声を届かせるためには、マイクの使用が必須である。その際に、発表者ご自身において、自分の声が会場全体に届いているかという自覚をもつかどうかという点が、過剰に気になってしまうのである。著書にも書き記したことだが、「届く声」をどれだけ意識して話せるかということに僕自身が、日頃から敏感な感性をもっているからに他ならない。

昨日の小欄に記した、ドナルド・キーン先生の講演において、キーン先生が話し始めた際に、マイクの指向性を活かしていないが為に、広い講堂においてその声はかなり聴き取りにくい状況になってしまっていた。たぶん多くの方が、「マイクの調整を求めるべきだ」という〈空気〉がある中で、担当の先生方もボリューム調整に苦心していたが、なかなか改善されなかった。とうとう、前列中央あたりに座っているご婦人から、「キーン先生、聴こえないんですけれど。」という声が掛かるという顛末。最終的には会場担当の先生が、キーン先生の横に座り、口元に向けてマイクを向けながら、講演が続けられたという状況であった。ご高齢のキーン先生は、椅子に座り原稿を読むという形式の発表であるがため、マイクスタンドに設置されたマイクでは、その声を拾うには限界があったということである。なかなか、こうした想定は難しくもある。

僕自身は、小学校に時に放送委員会に所属していたせいか、マイクに向かって話す際には、敏感な感覚が宿っている。マイクとの距離・どんな性質のマイクなのか(単一指向性なのか、広域から声を拾うのか)・マイクを通してスピーカーから出る自分の声のボリューム等々。確認したいことは、多岐にわたる。事前にそのマイクをテストできればいいのだが、学会発表等の際には、いきなり本番というのも稀ではない。その際、最初に「資料の確認」などと事務的な内容を“意図的”に話して、本題に入らないうちにマイクとの距離感や自分の声の届き具合を試す。また肉声によってどの程度会場全体に届けることが可能かどうか、ということも即座に検討してみて、万が一マイクの具合が悪い場合にも備えておく。会場の広さにも依るが、基本的に肉声で届くことを基本として、マイクは補助的という感覚を持っていると、どんな場合にも対応しやすい。

いきなり本題というのも、発表としては格好がいいのかもしれないが、事務的連絡は内容以上に、こうした「届く声」を確認するという意図があるわけである。

発表原稿を読む形式なのか、
聴衆に向いて項目ごとに訴える形式なのか
プレゼンの方式によっても、だいぶマイクの使い方に変化が生ずる。


一昨日は、「古典研究の国際化」を考えた。
そんな意味で、世界のどこでも通用するプレゼン能力を、
日本人研究者として磨いておかねばならないと自戒を込めて認識する。


少なくとも“機材”に振り回されない、
人間としての「届く声」に自覚的でありたいと思う。
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日本古典文学の可能性を考える

2012-05-27
緩やかな歩みで大きなホールの舞台に登壇した90歳になるドナルド・キーン氏。中古文学会春季大会と東洋大学(125周年記念講演)の共催による講演を拝聴した。「日本古典文学の魅力」と題した講演では、御自身が「日本古典」に魅せられた経緯が、流暢な日本語で語り出された。米国の教育において「文学」の古典は「ギリシア」であり、なかなか東洋のものには目を向けなかった若い頃。戦争も経験し、より「日本」のものは読んではいけない風潮も体験する。最初は『論語』に触れる程度であったが、ある時、『源氏物語』に出会い、その魅力の虜になる。愛した女性を決して忘れない光源氏の行動。物語中に“人殺し”が一度もない平安朝の穏健な空気。まさに日本的美意識にキーン氏が目覚めた流れが、そのお話から深く窺えた。そして更には、『徒然草』の「世はさだめなきこそ、いみじけれ」という一節にみる普遍性や、笑いを伴う随筆の魅力。芭蕉発句のもつ、閑寂の境地。いずれも「あいまいさ」というのは、「豊かさのしるし」という捉え方が実に印象的であった。

その後、米国コロンビア大学のハルオ・シラネ氏による「世界へ開く和歌―言語・ジャンル・共同体」と題した講演。日本文学の「翻訳」は世界に知られているが、「研究」はまだ世界には知られていないという。そんな観点から、和歌研究を他国の文学との関係性をもって研究すべきであり、普遍語としての「漢詩文」との関連から、地域語である「仮名」により発展した文学であるという視野が必須であるという立場を説いた。日本古典文学研究が国際化するには、①他の研究にも触れる。②海外の研究者と共同研究をする。③自分の範疇以外の人々と触れる。という三点が重要であると指摘。その後のシンポジウムでもシラネ氏は、日本の研究者も英語により外国で発表する必要があることを強調している。また、社会に「古典文学研究」の意義を認識してもらう為には、「環境」(例えば「里山」)などの視点から位置づけるという発想が必要であることも説いた。文学の社会における可能性を考える上で、大変示唆的な内容であった。

更に、阪急文化財団逸翁美術館館長・伊井春樹氏による「日本古典文学国際化への戦略」と題した講演。日本国内の状況そのものにおいて、人文学研究が衰退気味であることの指摘。また人口減少による大学環境の今後の変化、それに伴う研究者ポストの確保の問題等々。「人文学研究の元気」を回復しなければならない状況に直面している厳しい状況を、柔和な語り口で訴えた。その上で、研究者として大学授業の工夫をはじめ、「古典文学」を上手くアピールすることの必要性を説く。また地域の人々との繋がりや留学生の受け入れなどを通じて、「人と人との関わり」を重視した「日本古典文学」の活性化を求めた。

第二部は「国際シンポジウムー日本の古典をどう読むか」
進行役に、国文学研究資料館館長の今西祐一郎氏。
パネラーは以下の通り。
韓国・檀国大学校日本研究所教授・キム・ジョンヒ氏
ブリティシュ・コロンビア大学アジア学部助教授・クリスティーナ・ラフィン氏
ケンブリッジ大学アジア中東研究学部研究員・レベッカ・クレメンツ氏
東洋大学文学部日本文学文化学科准教授・今井上氏

こうした方々から、各国における日本古典文学研究の事情なども紹介され、国際化の中にどう位置づけるかという視点が提供された。

韓国における『源氏物語』を中心にした「日本古典文学受容の現状と課題」。青少年の推薦図書として毎年必ず選ばれ、いくつかの韓国語訳も出版されているという事情。それぞれの翻訳の問題点を取り上げつつ、『源氏物語』という文化を受容するという意味での魅力とは何かという視点を、隣国・韓国における事情がどのようであるかを知る契機となった。

欧米の研究者からの指摘は、ある意味で大胆であり、それだけに殻の中に籠る我々「日本古典文学研究者」にとっては刺激的な発言が続いた。「国際化」は理念ではなく、本質的に何をどのようにしたらよいか。他分野の研究者との交流が自然に行われる欧米の大学の状況。「日本文学」という枠ではなく「東アジア文学」という中で、歴史や背景を考慮した欧米での研究。そのような視点から、共同で研究と教育を進化させる必要性が説かれていた。中でも、欧米に多数存在する「日本漫画オタク」を「日本古典文学オタク」に変えるのが私の仕事であると言って、会場の笑いをとったラフィン氏の発言には、ある意味で核心的な要素が含まれているのではと感じた。


総じて、「国際化時代」などと、敢えて理念を掲げて喧伝するのではなく、我々研究者が、文化・歴史・言語等々の様々な分野の垣根を越境し、「古典文学研究」に関わっていく必要性を痛感した。「日本古典文学研究の論文は、内輪の研究者に向けてしか書かれていない」というシラネ氏の指摘が、全てを物語っているように思う。翻って真摯に現状を見つめてみるに、世界的視野以前に、日本国内で「古典文学研究をどうするか?」ということが、緊急の課題であるということを切実に感じさせられた。

それは、研究者のみの問題ではなく、
社会が古典文学をどのように受け止めていくかという問題でもある。
当然ながら、研究者が社会にこそ訴える方法を模索し実践なければならないことを前提としてではあるが。

また、中学校高等学校で行われている古典教育のあり方を、
根本的に点検する必要も急務だ。
果たして「古典授業=文法の時間」になってしまい
大量の「古典嫌悪学習者」を産み出していないだろうか。



海外における研究者の視点から、「古典文学研究」を見つめる機会を得て、
国語教育研究と並行して、日頃から考え模索している一研究者として、
まさに「背水の陣」で課題に立ち向かわなければならないことを自覚した1日であった。
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身体に内包する七五音の響き

2012-05-26
授業開始時の即興ワークショップを、大変重宝しているこの時季。前期も折り返し地点にさしかかり、受講学生同士の中で“親しみや笑い”が求めたくなる雰囲気がある。それでお互いの個性を更に深く露呈し合い、コミュニケーションを深める。内なる自分に籠っていては、自己表現にも限界がある。

教室の机・椅子を端に追いやり、受講者全員で大きな輪を作る。ある起点となる者を指定して、そこから順番に五音、次の者は七音、更に次の者は五音、そして七音を2者連続で思いつくままに「声」で発して行く。5人まで行ったら、改めて起点の者から、ゆっくり発したフレーズを繰り返してもらうと、一首の和歌(短歌)のようになっている。意味連鎖の関係で前の人が言ったフレーズに類似した内容をいうことが多いのだが、むしろ意外性のあるフレーズを発言してもいい。両者の関係において「正解」があるわけではない。あくまで、「五音・七音・五音・七音・七音」というリズムを生み出し、ことばが紡ぎ足されていけばいい。

暗誦している百人一首の断片を言うものもいれば、口語的な今の心境をことばとして発する者もいる。その意外性の化学反応が、参加者の笑いを誘う。もちろん、自分の順番になった時に、思案して詰まってしまう者もいる。だが、どんなことばでもいい、身体に内包する七五音の響きが、豊かであるのは、韻文学をいかにたくさん読んでいるか否かという、それまでの自分の日常的な蓄積でもある。日本語として一番耳で聞いて心地よいとされる、“七五音”のフレーズが、豊かに貯金されており自然に反芻できる身体性を醸成しておくことは、文化そのものを背負うことにもなる。

古典的な優雅なことばと、日常での口語表現が偶然にも連鎖することもある。
その齟齬にこそ、「正解」のみを追い求めない“遊び”の豊かさがある。
古典文学を“再生”させるためには、まずその入り口で面白いと感じる心を養いたい。


授業後に、数人の学生が自然と教室に残り、「学校で学習する古典(国語)はなぜ面白くないか?」という議論をしている。教室備付のPCなどを片付けながら、時折、僕自身の意見も投じてみた。彼らの「古典教育」への思いはかなり熱いものがあった。こうした教員志望の学生にこそ、是非とも現場に行って「古典教育再生」に取り組んでもらいたいと願う。

同時に「現場」が、こうした学生時代に盛んな教育への情熱を削がないような環境作りにこそ腐心してもらいたいと願う。

現場教員・研究者・教員志望学生など、そこに関わる全ての者たちが、本気で古典教育に活力を注がないといけない時期が来ているようである。
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都会で自然とどう共存するか

2012-05-25
Twitterを見ていると、或る方が「家の中にツバメさんが2羽きた。」とあり、「ひとしきり居間を飛んでドアにとまってるよー。出れなかったらどうしようー」と続けていた。そんな季節になったものかと、ほのぼのと感じると同時に、自分の部屋にツバメが入り込んで出ないで居座ったらどうしようなどと、リアルなことも考えてしまった。決して何ら実害があるわけではないが、都会での生活では自然との共存に対して苦手意識が先行する。部屋の中にツバメの巣ができて、糞を大量に散布し、睡眠時間内に雛が鳴いていたり、はてまた透明な硝子窓に激突することを憂いていては、まったく自分のペースで生活などできなくなるだろうと想像を巡らした。

軒先という共存空間への意識が薄れ、都会生活は自然と隔絶した生活をよしとする。そのような姿勢を理念として疑問視しても、実際に部屋の中に鳥が住みついたらという現実を受け入れる勇気はない。虫等の生物であっても、敵視して排斥するのが都会生活の基本であるかもしれない。

かなり以前に、隣に大きな樹木があるビルの外階段を3階から2階に降りていた時、いきなりカラスが耳元で大きな声を上げて接近してきて、僕の脳天あたりを足で蹴りつけ、そのまま樹木の方へと飛び去ったことがある。季節は確か5月か6月頃。まさに産卵と雛を養育する頃合いである。たぶん自分の巣の縄張り内に入ってきた僕を、外敵だと見なし母親カラスが、先制攻撃に出たのであると思う。後から冷静に考えてみれば、ほのぼのとした“物語”なのである。

しかし、カラスの急襲を体験した僕は、一気にカラス嫌いになった。なにせあの爪の嫌な感触が頭皮に残り、最接近状態で鳴かれた声の異様さは、今でも記憶に鮮明である。幸い視野に入る方向から襲われなかったので、黒いグロテスクな全身を目に焼き付けることはなかったことが救いである。何も巣を破壊しようなどと考えてもいないのではあるが、都会のカラスにとっては、人間はいつでも巣を破壊する“天敵”と認識するのであろう。その上で、双方の生活空間においてふいな越境が起きると、このような事態に見舞われるようだ。この季節のカラスには、ご用心である。

いずれにしても、人間は自分たちの為に“世界”が存在していると考えがちな傲慢な生物である。都会であっても様々な生命が息づき生活の場として共存しているはずだ。その実像に接する体験によって、感情的に相手を嫌悪するのもまた人間の勝手な感情に他ならない。カラスには罪はないのだが、どうしてもカラスは好きにはなれないというジレンマがある。

自然との共存。
理念のみではなく、身近な体験からせめてそんな意識を持ってはいたいと思う。
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即興Storyを創るこころ

2012-05-24
半期15回の大学授業も、ほぼ中盤になってきた。始める時は、先が長いと感じながら、こうして時が過ぎていくのは、次第に加速的な感さえある。このあたりで、今までの〈教室〉の雰囲気に、何らかの刺激が必要だと感じることも多い。初顔合わせで得られていた新鮮な刺激が、次第に慢性的な空気に変わり始めているからである。

あるクラスで、動作と発想で自由に遊ぶワークショップを実施。例えば、ある人が「木」になり、そこに「カラス」がやって来る。その場面に、何らかの関わりを発想し周囲から入り込み、一つの要素と交代する。「豪雨」がやってくれば、「カラス」は巣に避難して「木」の周囲を飛ぶことをやめる。「豪雨」に加えて「強風」が至れば、「木」は薙倒されて荒れた天候のみが残る。そこに「太陽」が顔を出せば「豪雨」は退散し、「強風」と「太陽」という環境が訪れる。次第に、動物や人なども登場し、即興的なStoryは延々と続く。そして最後に、「木」のある元の環境に回帰して行く発想を要求して、「木」に戻ればStoryは完結する。

2つの物事の関係性に、理屈はない。発想したままに、2人が演じる“世界”に入り込む。その関わり方には様々な個性が表出する。「焚き木」「焼き芋」「熊」「雪だるま」等々、この日も、様々な発想が〈教室〉に即興Storyを創り上げた。お互いの「日常(現実世界)」の関係性に加えて、ファンタジーの世界に遊ぶのである。

Storyを創り上げるには、「意外性」が必要だ。こんなものまで登場するか!?といった驚きが、笑いとして場を和ませる。即興ながら、豊かな発想と世界観を表現し合うという意味で、クラスのメンバーを一層親しく結び付ける。小さなジェスチャーが入ることで、照れや恥ずかしさを払拭していく。


昨年、放送されたNHK「スタンフォード白熱教室」で実施されていた授業ウォーミングアップを元にしたアクティビティー。


〈教室〉内で、授業を構成するメンバーを融和し、更なる豊かな発想で授業を進める。即興Storyを創るこころにこそ、自己表現の素朴な原点が見える。特に「スピーチ科目」という授業内容を考えたとき、お互いが話し手であり聴き手でもある。その環境に於いて、垣根のないこころを開いた関係作りが不可欠である。
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映画「幸せの教室」-「スピーチクラス」が人生を変える

2012-05-23
学歴がないことを理由に、いとも簡単に解雇される。いたって勤勉に、誇りをもってスーパーで働いていた中年男性を待っていた非情な運命だ。高校卒業後、軍のコックとして長年従事し、離婚し住宅ローンを抱えた挙げ句に至る男の人生における苦難である。再就職を探すが見つからず。その果てに男は、大学で学ぶことを選択する。学生担当者は、いくつかの科目選択を彼に勧める。中でも、「スピーチ217」という科目を、「人生が変わる」という理由で、一押しするのだ。


かたや、大学授業への情熱を失いかけた女性講師。教室へ来ても、最低人数に達していないとみるや、「このクラスは不成立ね」と宣言し、教室を去ろうとする。私生活では、本を2冊だけ出版した自称“小説家”の夫が、家のPCでポルノに興じ、コメントすることを“執筆”だと主張する毎日。夫の生活を支えているのは、間違いなく彼女である。彼女は次第にアルコール依存となり、先の見えない頽廃した大学講師としての生活を続けている。

前者のリストラ中年男性ラリー・クラウン役を、トム・ハンクス。
後者のやる気のない大学講師メルセデス・ティノー役を、ジュリア・ロバーツ。
2大スター共演によるラブ・ストーリー。
監督・脚本もトム・ハンクスである。

キャストの割には、いかにも淡白で予想通りのストーリー展開。
たぶん、映画としての一般的な評価は、決して高くはないかもしれない。
その上で、「幸せの教室」などという邦題が、安価な印象に拍車をかける。


だがしかし、今現実に大学で「スピーチクラス」を担当している僕としては、この上なく楽しめる映画であった。最初の授業では、「フレンチトーストの作り方」という題のスピーチで、材料を羅列することしかできなかったラリーであった。しかし、最後の授業においては、教室全員の心を鷲掴みにしてコミュニケーション抜群の感動的なスピーチをするようになる。もちろん、その過程における講義・演習などが詳細に描かれているわけではない。むしろ大学キャンパスにおいて、生きる意味を見出していくラリーの人間的な変化が描かれている。視野が狭く発想が貧困だった中年男が、若い大学生らと友人となり、スクーターを乗り回し、恋心に揺れたりする。その人間的な革新ぶりが、まさに感動のスピーチを生み出す要因となる。あくまで虚構としての映画は映画であるが、「スピーチする」=「自己表現する」ことに磨きをかけるには、人間的な成長が不可欠であることを実感させてくれる。

駄目キャラを、この上なく“普通”に演じ切るトム・ハンクスの演技は、個人的に大好きである。不器用な男が、新たな人生の光を見つけるまでの行動の一つ一つ、些細な表情変化の刹那な連続は、心の内に笑いと納得を何度も起こさせた。感動的な最後のスピーチ場面では、涙さえ浮かんだ。〈教室〉で「スピーチ」と「コミュニケーション」を学ぶということが、かくも人生を変えていくものか。もちろん、ラブストーリーとしての結末は現実と別問題としても、〈教室〉に学生として、教員として来ることで、人生に起爆剤が与えられたように噴出する光ある未来。どこか、アメリカの大学が一つの「思想」として抱え込む、「開かれた学びの場」に共感してしまうのである。「2大スター共演」だから派手で過剰な内容を期待せねばならないわけではなく、駄目リストラ中年男性と、やる気のない駄目大学講師が、新たに前を向き直す、“普通”の姿を描いているあたりに、この映画の奥行を視るのだ。


自己表現で人生が変わる。
考えてみれば「スピーチ科目」の責務は重大である。
新たな自覚をもって、今日も大学の〈教室〉に向かおう!

映画に描かれていた典型的な「スピーチ科目」のあり方が、
僕自身が担当する科目と、その方法の上で合致していたことも、
この映画に深く共感する、大きな理由でもある。


日本人が苦手とする「スピーチ」
それは人生を変えるほどの力があるのだが・・・。
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金環日食の捉え方

2012-05-22
前日になって“日食眼鏡”はないものかと、数軒の眼鏡店やコンビニに寄ったが、結局売り切れや扱いなしで手に入らず。まあ仕方ないかという思いで、前日の晩に天気予報を窺がうと、「曇り」だという。結局、眼鏡があっても見られないのかなどと、万全の準備をしている方々からすれば、冷めた発想をもって前夜の床に就いた。その程度の意識ゆえに、実際に日食がどのように見えるかなど、それほどの期待もなかったといってよいだろう。

普段通りの時間に起床。朝型生活ゆえに、特段の早起きをせずとも、日食の進行を追うことができる。起きてすぐに東向き寝室のブラインドを上げると、予想に反して太陽光が強く差し込んだ。前日のやや投げやりな感覚から、これなら「何とか見られないのか」という気持ちが高ぶってしまった。それでも太陽は、思わせぶりに雲間に見え隠れしている。

居住する東京ではなく、他の地方ではどうなのだろうという思いで、起床後には滅多に見ないTVのスイッチを入れた。NHKを始め民放各局も、こぞって日食を取り上げている。珍しくこれも滅多に観ない民放各局を、リレー式に巡ってみたりする。独断的なキャラクター人物が、各地の中継とのやり取りをしていたり、はてまた人気アイドルグループがTV局屋上に居並び、日食眼鏡で時折空を見上げたり。レポーターが五月蠅く様々な中継を伝えていたりしている。その喧騒具合に辟易して、NHK総合に戻ると、そのメインアナさえも、妙な興奮具合を露呈しつつ「世紀の天体ショー」などという看板を掲げて中継している。せめてNHKは、大晦日紅白後に感じるような、異常ともいえるほどの冷静さと客観性をもった「声」で伝えていて欲しかったなどという感情が沸き起こってしまった。公共放送が何も民放に右へ倣えの演出を“無理に”する必要はないはずだ。

関東地方の大部分では173年ぶりというから、江戸時代にまで遡る。次に日本で見られるのが18年ぶりの北海道。日本の広範囲で見られるのは300年後であるという。この稀少な機会にめぐり逢えたこと自体が、奇跡的ともいえるのかもしれない。遥か以前から2012年の金環日食は、時間的な“指標”として意識されていた節もある。

TVを離脱してから、何とか自分なりに観察しようとあれこれと試案した。東側寝室のブラインドを最大限に活かして、急造の“木漏れ日”をもたらそうとする。幸運だったのは、太陽を薄雲が覆っていたこと。その上で、手持ちのサングラスを2つ重ねて使用したりすることで、何とか観察する可能性を創り出した。ブラインド・薄雲・サングラスという3つのフィルターを通して、ようやくその美しい「指輪」の“現物”を観ることができた。情報に拠れば約5分間だったというが、太陽と月の直線状に自らが存在していることを感じることができた。

それにしても、「日」が侵「食」されるということば上の表現。過去には「日蝕」と、まさに「日」が「蝕(むしば)まれる」という表現も通行した。天にいる怪物か何かが、太陽を「蝕んだ」というような物語的発想による表現。人間の想像力は自然現象を記号化し、様々な修辞をもって表現の世界に遊ぶ。「金環」もまた然り。「金のリング(指輪)」とは、何とも美しくもロマンチックな表現といえるだろう。ことばは派生し現実行動を左右する。この日の「金環」にあやかって、「指輪」を贈り求婚するとか、「金婚」と類似の音韻に引っ掛けて結婚50年を祝うとか、人間の空想は商業主義か如何は別問題として、どこまでも止まるところを知らずに拡大する。

「日食」の折に「動物の異常行動」が見られるという説もあり、中には動物園でその様子を見学する方々が、TV中継されていた。それでも多くの人工的に飼育された動物たちは、何ら変わらぬ朝を迎えていたようではある。一番の「異常行動」を取っていたのは紛れもなく“ヒト”にほかならない。天体の変化にこれだけの関心を寄せ、騒ぎ興じて道具まで駆使してその様子を追い続ける。ちょうど『徒然草』の「花は盛りに」の段にある、「祭に興じる心なき人」を思い出した。「祭り」の中心である「行列」が通る時だけ大騒ぎをしているが、その前後の情趣を味わうことのない人々。該当の数時間を「世紀の・・・」などと呼称するならば、神秘極まりない未知の宇宙に生きている己の不思議に、日頃から目を向けたい。「心なき人(情趣を解さない人)」はいつの時代もあれど、昨今の「心なき」度合は、眼を覆うばかりである。


天体を観るロマンの心は、どこか物語的でもある。
そこに文系理系などと、無理に人事の枠組みに仕分けされない、
美しくも物理的に精緻な世界が存在している。
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