春口あいさん&下舘直樹さん「東北被災地激励行脚絵本語り」
2012-03-25
絵本を語ることで何ができるだろうか?その「物語」は、被災地の方々の心を励まし勇気を与える。
仮設住宅の集会所で老人たちが「物語」に拍手を送る。
保育園の園児たちが絵本語りを聞いた後に自らの身体で表現しようとする。
絵本が語られた前と後では、多くの方に精神的な健全さが生じた。
春口さん&下舘さんの「激励行脚」の映像を視て思う。
お二人は1月にも同じく、神保町Café Flugさんで朗読会を開いた。
小欄1月30日付記事にも、その内容を記している。
春口さんの「絵本語り」は、「読む」のではなく「演じる」のである。
絵本の文字列を「読む」という印象がまったくない。
あくまで絵本が構築している世界観を、自らの感性で捉え咀嚼し表現するのだ。
『おかあさんになるってどんなこと?』(PHP研究所)という絵本では、
絵本さえも見ずに、人形ひとつでその世界を「演じた」。
その語っている空間に、絵本世界が描出してくる感覚になる。
以下、
『ともだちからともだちへ』(理論社)
『空とぶライオン』(講談社)
『おおきなき』(篠崎書林)
それぞれの絵本世界を「演じ」ることで、Café空間に再現したと言えるだろう。
その絵本語りのBGMとして、下舘さんのギターが響く。
「語り」と競い合うこともなく、静かながら印象深い絃の響きが耳に心地よい。
人は「声」と「音楽」の組み合わせで、こんなにも癒されるのかという思いになる。
最後に、下舘さんのギターソロ演奏で会はお開きとなった。
ジャズアレンジのスペインギターという組み合わせも絶妙に、
本の街に響く「三日月」のような音色。
「絵本語り」に何ができるのか?
この命題は、僕自身のテーマとしても重要だ。
ぜひ大学の授業に春口さんをお招きし、東北での活動を紹介したい。
「絵本」の力で人々が笑顔になる社会を作りたい。
人の「声」の力は偉大ゆえに、使い方を間違わない社会を目指したい。
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真山知幸著『君の歳にあの偉人は何を語ったか』(星海社新書)
2012-03-24
自分の“今”を相対化することばが欲しい時がある。どんなに客観的に自己省察しようとも、
哀しいかな人間は独善的に己を見つめてしまう。
特に年齢に関する感覚においては、
その傾向が甚だしいと、かねてから感じていた。
自身が若い時に憧れていた人の年齢になった時に、
果たしてその憧れを自身の成長に加算できたかどうか、
大変疑わしいという感覚に包まれることがある。
タイトルを見て一目瞭然。
著名な偉人が何歳で何を語ったか。
そんな「年齢的な感覚」を知りたいと思う方は多いだろう。
手に取ってまずは、
自分の“今”の年齢における偉人のことばが掲載されている頁を開けてみる。
また過去に自分が人生の分水嶺だと感じている年齢において
偉人のことばに耳を傾ける。
目次からいくつか例をご紹介しよう。
22歳=ダーウィン
「私の第二の人生がこの日に始まるでしょう。
この日は今後の人生の誕生日になるでしょう」
34歳=正岡子規
「悟りとは、いかなる場合でも平気で生きること」
49歳=立川談志
「よく覚えとけ、現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。
現実は事実だ。」
67歳=トーマス・エジソン
「自分はまだ67歳でしかない。
明日から早速、ゼロからやり直す覚悟だ。」
88歳=ピカソ
「まだこれから描くべき絵は残っている。」
といった偉人のことばが年齢別に興味深く解説されている。
この日は、著者・真山氏と宵のうちグラスを傾けながら語った。
人物研究家・新進気鋭のライターである真山氏自身のことばからも
また僕自身の“今”が相対化される。
人生においては様々な媒介を通じて、
できるだけ多くの人々のことばに耳を傾けるべきである。
そんな意味で
多くの方々にこの年齢別による
偉人たちのことばをお読みいただきたいと思う。
3月22日新刊
星海社新書13
¥820円
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「電気ご使用量のお知らせ」を読む
2012-03-23
ちょうど1年前、東京も街灯が消えて一斉に節電モードになったのを思い出す。それまで、当然であった明るさが失われ、東京の道路はこんなにも暗かったのかと聊か驚いた覚えさえある。地下鉄の駅構内なども同様で、どこか外国の駅を想起するような雰囲気があった。だが、その時は大震災直後であった緊張感から、その暗さでも問題ないという認識を持った。しかし、今はまた明るい東京に戻っている。それを幸福と捉えていいものかどうか、甚だ複雑な気持ちにさせるのは、電力会社の値上げのニュースなどによるものだけではないだろう。毎月20日を過ぎると、「電気ご使用量のお知らせ」という通知が郵便ポストに投げ込まれている。以前であれば、値段を何となく見て終わらせていたものが、今や十分に内容を吟味するようになった。当月の使用量はもとより、「昨年同月」使用量、「1段料金」と「2段料金」の内訳(「3段料金」まであるが、僕の使用量では「2段」止まりである)、燃料費調整額、太陽光促進付加金などが示されている。不覚にも、「昨年同月」の使用量と今年を比較すると、(期間が2日間の違いはあるが)40KWhほども多く電気を使用していた。3月に入ってもやや寒い日が続いていた影響だろう。
1年前を振り返り、改めて電気使用への意識を高めたいと思う。小さな家の中で無駄になっている電力はないか常に意識を高めたい。コンセントをこまめに抜くことや、厚着による暖房の節約など、考えれば実行できる節電対策は多い。その上で、闇であっても問題なく過ごすことや、むしろ趣をもって生活できるという感覚を、今一度見直してみるべきではないかと思うのである。考えてみれば著名な谷崎潤一郎『陰翳礼讃』に示された、日本古来の芸術的特徴を、今こそ再起させるチャンスなのかもしれない。
果たして、この1年で僕たちは大きく変われたのだろうか?
不信感というような負の影響ばかりが目につき、
前向きに日本文化を捉え直そうとするような崇高な思考は影をひそめる。
今一度、自分の生活の中で本当に必要な電力量を各自が考えるべきではないだろうか。
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闘争本能は宿っているか
2012-03-22
幼少の頃の遊びといったら、駆け回るか、球を追うか、対峙するかだった気がする。鬼ごっこ・球技の応用・そして格闘系に類する遊びである。必然的に何かを“競う”という要素があり、追い付く・投げる蹴る・組み合うという姿勢から自ずと優劣が顕在化してくる。特に格闘系の遊びとなると、身体的な大小の影響も大きく、有利不利の度合いが大きかった記憶がある。それでもウルトラマン・仮面ライダーといったヒーロー物全盛の時代にあって、誰しもがその主人公を演じたいという気持ちは持っていたように思う。「仮面ライダーごっこ」をやって、主人公になれるのはせいぜい1人~数人。敵対する怪人になれればまだいいが、「ショッカーの戦闘員」という“その他多数”になってしまうと、「イー」と叫びながら主人公の一撃で倒れなければならず、遊びとしてつまらない思いをしなければならないこともあった。やや内向的な子供だった僕は、こうした“憂き目”を見ることも多かった。それだけに家に帰ると、いきなり玩具の「仮面ライダー変身ベルト」を装着し、「実は自分は強いんだ」という気持ちを確認していた。それは誰しもが「ヒーロー願望」を持ちながら成長していくという表われでもあるだろう。同時に「闘争的な本能」を持つことで、社会生活における耐性を身に付ける段階であったような気もする。「ショッカーの戦闘員」という“身分”を経験することも、まんざら無駄にはなっていなかったのだと回顧できる。
プロレスなどのリアル格闘技を見るのもまた同じ。僕らの頃は、圧倒的に男子にプロレスファンが多かった。ヒーローが悪役レスラーを倒す図式。“天下の宝刀”などと称する必殺決め技を持っているヒーローが、最後の一撃で勝利を収める。悪役はヒーローがどん底まで傷つくように、ルールを度外視した凶器攻撃等を敢行する。その困難を乗り越えるがためにヒーローの勝利が一層引き立つ。僕の家では、なぜか祖母がプロレス好きだったせいもあって、放映の時間帯にはプロレスにチャンネルが合わされていた。過剰な凶器攻撃のシーンに興奮し、心臓発作寸前までいってしまったことのある祖母は、ある意味で“本気”でプロレスを見入っていたのだろう。
ジムで「コンバット」エクササイズに参加するのが楽しい。大人になって封印され隠された「闘争本能」を、憚ることなく表面化できるからであろう。そのボクシング・マーシャルアーツ・空手・ムエタイ等の構えを取るにつけ、幼少時に「ごっこ」で身に付けた感覚が蘇る。もちろん今や、こうしたエクササイズには女性の参加も多く、僕のお気に入りトレーナーも女性だ。「闘争本能」=「男性」“専売特許”というのは思い込みに過ぎず、雌動物が子供たちの為に狩猟や保護をするのを見れば、両性において「闘争心」は宿っていなければならないはずだ。もちろん60分間でフィットネスを目的にした有酸素運動であるのだが、それでも「闘争本能」を揺さぶられる時間に、精神的な解放や回顧という効用も生まれているのではないかと思う。
徒競走で抜かれまいとして限界まで速度を上げる気持ち。
どんなスピードボールでも打ち返してやろうとする気持ち。
相手と闘争して負けまいとする気持ち。
遊びの中には「耐性」や「闘争心」を喚起する要素がなければならないはずだが。
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お彼岸の上野・谷中界隈
2012-03-21
昼夜の長さが同等になり、お彼岸の中日でもある春分の日を迎えた。夕刻に彷徨していると、陽が長くなったことを実感する。先祖に感謝の気持ちを込めて谷中へと墓参に出向いた。普段以上に多くの人が谷中墓地を訪れている雰囲気がすぐにわかる。穏やかな陽気ではあるが、例年この時季の暖かさは感じられない。今年の春は、妙に“奥手”であると肌で感じながら下町の光景を愉しむ。「もうすぐ春~ですねぇ♪恋をしてみませんか。」
というキャンディーズの歌声は永遠の歳時記のように語り継がれているが、今年は気象庁の設定条件を満たす「春一番」がいまだ吹いていないと新聞で読んだ。「立春から春分までの期間において、風速8m以上の南風が吹き前日より気温が上がる」のが条件だという。どうやら「南風」が暖かさを運んでくるのを怠けてしまっているようだ。空気感としては、遠望がすっきりと見える「冬」の状態が続いており、春の香りもいまだしないと本能的に感じている。
「彼岸」はもともと、「日願」に由来するともいわれる。太陽が真東から昇り真西に沈むのを礼拝し、彼の極楽浄土に思いを馳せるのだという。暖かさは太陽の恵みに相違ない。こうした天象にも感謝しつつ、気持ちを穏やかに保つ日でもある。先祖や仏への祈りとともに、この地球という星のあり方に気持ちを向ける。
谷中・上野界隈は、幼少の頃から親しんだ街だ。街角やお店などを見ると、過ぎし日の記憶が急に蘇る時もある。明るさの残る夕刻に、両親と食事の卓を囲みながら、思い出話に花が咲く。自分の中に残る記憶を、両親の記憶と照合することで、更に正確な幼少時の体験が映像化される。話は更に祖父母に及ぶ。こうして各自が、今を生きていることの意味を、過去の時間から汲み取る時も必要なのだろう。型どおりの仏事以上に、自らが意味づける「お彼岸」こそ、貴重な時間だと実感した。
「上野・谷中の花の梢・・・」
今年は卯月を待たねばならないようである。
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〈教室〉の「音読」は好きでしたか?
2012-03-20
みなさんも中学高校時代の「国語」の時間に、〈教室〉で指名されて「音読」をさせられた経験はおありだろう。
その時のことを思い出してほしい。
あなたはどんな気持ちでどんな態度で、その「音読」を行ったか。
何の抵抗もなく、作品の内容を考慮し、場面に応じた表現力で朗々と「音読」しました、
という優等生の方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれない。
だが多くの方が、〈教室〉での「音読」には抵抗があったのではないだろうか。
それは、何ら目的が理解できず、
周囲のクラスメイトが心の内できちんと受け止めてくれるわけでもなく、
ただ、教員の指示だから仕方なく「音読」を行ったのではないだろうか。
担当する部分が早く終わればいいと願い、
作品の内容へも無配慮に、場面を無視した“棒読み”を、
これ以上ないくらいに「頽廃的」に行ったのではないだろうか。
こうした状態を、僕はある造語で表現している。
「孤読」である。
あの「読まされる」から「仕方なく読む」
という意欲における“負の連鎖”。
クラスメイトは、聞いている“ふり”をして、
大半は自分勝手な思考に耽るか惰眠を貪る。
〈教室〉に響き渡る「声」は、ほとんど意味を持たないという現実。
この「現実」を経験することで、
「文学」作品は好きなはずなのに、
「国語」が嫌いになった方も多いのではないだろうか。
〈教室〉で「声」に出して「読む」学習活動を、
どのように改善したらよいのだろうか。
こんな問題意識を出発点に、近刊単著は構成されている。
小欄でも追って更に具体的にご紹介したいと思う。
春分の日の予告第一弾。
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Yシャツの機能性
2012-03-19
仕事の際に着るものとしてYシャツの機能性は重視したい。襟元が整い、ややタイトで腹回りがだらしなくならず、ネクタイとの相性がよいものを求めたい。その上で、家の洗濯機で存分に洗えるものがよい。しかも形態安定機能が備わっていて、干しておけばすぐに着られるのがベストである。自分でアイロン掛けをするとか、クリーニングに出す手間に対しては甚だ怠惰であるからだ。そんな観点で以前からいくつかのYシャツを使用している。廉価なものはユニクロ製、デザインを重視すればデザイナーズもの。そして中間に位置する商品もある。ユニクロ製のシャツはそれなりで機能性という意味では合格点だ。汗をかく時季などには、思いっきり着て思いっきり洗えばいい。そんな潔さをもって使い回せるといいう感覚であるが、同じデザインを着ている人に多く出会うことで心が揺れる時もある。デザイナーズのシャツはデザイン重視でやや値段が張る。その上、洗ったりする上での機能性が劣る場合が多い。たいていはクリーニング店へ出すことになって、日常的な仕事で着用するのには好みの範疇から外れる。そんな両極の中庸的存在として発見したのが、「SHIRT MAKER CHOYA」の製品である。ここ数年、「Smart Fit Non Care」という8000円台のシャツを使用して来て、その機能性がたいそう気に入っていた。冒頭に示したどの条件も満たしてくれる逸品であると感じている。
この日は、改めて6000円代で「contemporary」というデザイン性に優れた製品を発見した。襟やボタンのデザインが個性的であり、その上形態安定機能は備えている。新年度へ向けて新たに数枚を購入した。これで新学期の教壇への気持ちも高まった。
人前に立つ仕事であるから
襟元は大変重要だと思っている。
高級なものを着ればいいというのではなく、
清楚な品性を大切にしたいと思う。
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「業平橋」は名にし負ふ遺産
2012-03-18
名にし負はばいざ言問はむみやこ鳥我が思ふ人はありやなしやと平安時代の歌物語である『伊勢物語』・第9段「東下り」の結びとなる名歌である。大きな川のほとりに至った男が、白い鳥で嘴と脚が赤く鴫の大きさ位で水の上で遊んでいるのを見つけ、京都では見ない鳥なので川の渡し船の船頭に尋ねると、それは「都鳥」という名前であることを知る。そんな状況で男が詠んだ和歌だ。
「都(京・みやこ)」の「鳥」という名前を持っているならば、
そこにいる都鳥さんよ!君にあることを尋ねてみよう。
京に残してきた私が愛する女(ひと)は、
元気に暮らしているのであろうかどうなのだろうか、ということを。
和歌の解釈は概ねこのようになる。
この川に男が至る場面を物語は次のように語る。
なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きな河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや船に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
京都から遥々遠く武蔵の国まで旅してきた男の一行は、隅田川という大川のほとりに至る。そこで京都へ思いを馳せると「限りなく遠くに来てしまったなあ」という気持ちで、一行のみんなが「悲しみ合っている」と語られている。当時の日本の中心地である京都から、「東の国」に「下り」、そのあまりの遠さを川のほとりに来て、改めて実感するという場面である。人間は「水」を越える時に、「越境」の認識が強く作用し、更なる「異世界」へ「渡る」という感覚が増幅する。そんな感情で、「京(みやこ)」にちなんだ名前を持つ「都鳥」がいたので、その鳥に向かって、京都にいる愛すべき女性の消息を問い掛けるという、感極まる物語場面なのである。男が和歌を詠んだ後で、渡し船に乗り込んでいた一行の人々は、「こぞって泣いた」と物語は締め括る。
「業平橋」は、古典の名作物語を「名にし負はば」なのである。
その東武鉄道「業平橋」駅が、昨日から「東京スカイツリー」駅と改められた。
もちろん、小欄に書いたような発想で、「業平橋」の名を遺すようにとの要望が相次ぎ、
「“旧”業平橋」という括弧付で遺すことにはなったらしい。
それにしても、高等学校の教科書にも必ずといっていいほど掲載されているこの物語を、
どれだけの人たちが意識しているだろうか。
天空へと伸びる高さが世界一の塔の完成で、
平安時代の色男「在原業平」も、さながら引退といったところなのであろうか。
新たな東京の象徴的な建造物「東京スカイツリー」
ただ、それが建てられた街が、古典名作物語の舞台であったことを忘れてはならない。
やや大仰な物言いが許されるならば、
こんな点にも、「伝統的日本文化」を大切にするかどうかの国民性が問われている。
「名にし負はば」と歌に詠んだ平安時代の色男のセンスに学びたい。
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べらんめえ調の心意気
2012-03-17
落語には江戸っ子が豪快に啖呵を切る場面が出てくる。江戸っ子は「粋」な行動を信条としており、「宵越しの金はもたねぇ」だの言って威勢のいいところを見せて見栄を張り、その上で言い出したら引っ込みがつかなくなるような無鉄砲さを特徴とする。「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し口先だけではらわたはなし」
という狂歌には江戸っ子の生態が絶妙にまとめられている。
さて、この江戸っ子言葉のことを「べらんめえ調」などと呼ぶ。元来は人を罵っていう「べらぼう」に「め」がついて「べらぼうめ!」となり、さらに音が変化して「べらんめえ」となったという。「べらぼう」がなぜ人を罵ることばであるかというと、語源として江戸時代に愚鈍なしぐさで笑いをとった役者の名前からという説。あるいは、「へら(箆)」と「ぼう(棒)」に由来するという説。いずれにしても「馬鹿者」という意味として使用されたことを由来としていて、「バカ・阿呆・愚か」といった意味となり、他人への罵声として定着して来たという。
この「べらぼうめ!」が「べらんめえ」となる音の変化にこそ、「べらんめえ調」の真髄があるような気がする。多くの語を「てめえ」「すっこんで」「やがれえ」などと「え」を付けて語尾に威勢を付ける。しかも「やがれえ」などの「え」の前のラ行音「れ」などは、舌を巻いて発音する。このあたりの語尾変化が自然にできるようになると、江戸っ子的な響きでの会話を楽しむことができる。また、促音「・・っ・・」の多用も特徴的だ。「犬を野原に放してしまった」などという時に、「犬(っち)の野郎を」「のっぱらに」「おっぱなしちまった」などという。僕の祖父は東京下町生まれだったので、幼少の頃、その生の“発音”を聞いて育ったので、僕自身もいささか「江戸言葉ネイティブ」である自負はある。舌の回りが好調になった時、心の底から怒りが込み上げて来た時、酔って調子づいた時、などには自然と「べらんめえ調」になっていると周囲の方から指摘されることがある。
この日は、金原亭馬治さんの「あのあの種の会第18章」で「大工調べ」を拝見した。大工の棟梁が「てやんで、べらぼうめ!!!」と啖呵を切るあたりが大きな見せ場である。同時に、大屋さんや与太郎の発話との変化が、演ずる立場では大変難しい噺であると痛感した。ことばが背負っている文化を、そのことばの特徴を再現することで、より効果的に噺の内容を伝える。終演後、馬治さんご自身も盛んにその出来栄えを気にしていたが、まさに落語の奥行の深さを思い知る機会であった。
時に現代は、人前で感情を表出することが憚られる世の中。
「てやんで、べらぼうめ!!!」
と啖呵を切った方が、世の人情も上手く運ぶ場合があることを、
ことばが背負う文化に教わるのである。
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シラバスと講義
2012-03-16
1月~3月にかけて、大学講義のシラバス作成期間が設定されている。大学によって登録・〆切の時期は違うが、次年度の講義を見据えてあれこれと思案する時を過ごす。秋学期の科目ともなると、実際の講義を行うまでに半年以上の時間があり、やや「机上の空論」といった感も否めない。講義そのものを考えれば考えるほど、“生もの”のように時間と共に変化するのが必然であるからだ。それにしてもこの20年ぐらいの間に、「シラバス」という制度が大変整って来たのだと改めて思う。僕が大学学部時代には「講義要項」と呼ぶ冊子があって、そこに各講義の概要が記されていた。それでも詳細な説明があるのは稀で、ほんの数行か長くても20行ぐらいの文章で説明されていたと記憶する。その僅かな情報をもとに講義履修を登録するのだから、自ずと「予想外」という講義内容に出くわすこともあった。初回の講義に出席して、登録するか否かを決めるという判断をすることが大変貴重であった。もちろん友人関係を通じた口コミ情報は、昔も今も大きな判断材料のようであるが。
事前に曖昧な情報しかない過去の大学講義を思い出すと、中には“名講義”と呼ぶべき卓越した内容も多かった。名物教授の名物講義には、学生の思考を変革させる力があった。講義とは関係のない余談の中にも、考えたくなるヒントが山積であった。中には、教授同士がお互いを批判する内容を披歴し合って、双方の講義に出席するのが楽しかった思い出もある。システム化され教務的管理からは程遠いような破天荒な講義が、学生の学問的好奇心を根底から揺さぶっていた印象がある。
整ったシラバスを提示したら、そこからむしろ講義構想の練磨が始まる。いわずもがな「有言実行」の“現実の講義”を実践しなければならない。提示した“ことばの写真”と現実に齟齬があるようでは、履修を決めた学生に対して申し訳が立たない。「到達目標」「評価」と詳細に記すように年々その緻密さが増すのであるが、だからこそライブ講義の真価も問われていることを肝に銘じたい。
次年度の内容的な指針は整った。
ここから更にライブ性豊かな「ことば」「仕掛け」「刺激」を盛り込めるか。
そこに予定外の化学反応が生じることを期待しながら。
〈教室〉にいる“生身”の学生たちとの出会いが今から楽しみである。
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