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映画「マネーボール」に学ぶ日本の未来

2011-12-31
 2000年代に入ってから日本の野球が急速に魅力を失った。もちろん、投手を中心に新進気鋭の選手も登場し、06年09年のWBC2連覇は、瞬間的最大的に過去の全盛期を思わせる熱狂ぶりであった。だがその熱も冷めると、野球に対する世間の温度は停滞もしくは下降し、TV中継の削減などと相俟って厳しい状況が続いていると言わざるを得ない。果たしてその根本的な原因は何なのか?

 他のスポーツ競技に比して、歴史や伝統が重んじられる傾向にある野球。戦術・練習方法・チーム編成・身体的鍛錬・集団内人間関係・組織運営理念・組織経営母体・メディア対応等々の野球界に関わるあらゆる環境に対して、“過去の栄光”が大きく反映されていると言ってよい。こうした因習や旧弊に満ちた社会であることが、プロ野球今季総決算の試合を行っている前後に暴発し、それが最大のニュースであるがごとくメディアが扱ったことからしても、明確に負のメッセージを社会に送り出したといえる。瀕死の重傷である自覚もなく、日本野球界がこのまま固着していると、メジャー球団の投手養成場(イチロー・松井秀を別格として野手に関しては養成場にもなり得ていない)になってしまいかねない状況が、すぐ眼の前にあるのだ。

 映画「マネーボール」を観た。原作を読んでからかなりの時間が経過しており、その記憶と時折リンクさせながら、台詞の真意・実際のMLB映像の使用など、隅々まで楽しめる内容であった。小生が日本野球からMLBファンへ“移籍”してから、たぶんこの野球に対する革命的な理論に対しての期待をもって観戦に熱狂してきたことが、改めて理解できた。ここに描かれた「マネーボール」理論が優れていることを実証したのは、主人公である人物が現在も所属するオークランドアスレチックスではなかった。こうした状況の奥底にこそ、アメリカ野球の多様性が潜むのだと、エンディング字幕を見ながら深い感慨に耽った。ある意味で、旧弊を脱出する革命的なストーリーが、そこには存在したからである。それと、小生が熱狂的MLBファンとして過ごしてきた10年近くの歳月が、見事にリンクしていたと言えるのである。

 歴史や伝統が重く存在する社会が、新陳代謝を失うと酸欠状態となり、その果てに「因習」や「旧弊」に満ちた社会に成り変ってしまう。その淀みには「経験」「直感」という不確かな“感覚”が重視され、狭窄的視野でそれを絶対視する固着した観念だけが横行する。MLBで言えばその極点が90年代の人気低迷であったわけである。その「因習」「旧弊」に対抗するために導入された統計学と瞬発的組織の新陳代謝という方法。試合での印象や打率よりも、四球を含めた出塁率を重視し、確率的に損出の高い犠牲バントや盗塁は極力避ける。スターとなり得た選手は他球団に移籍させて資金を得て、他球団が切り捨てようとした選手の統計学的な利点に注目し獲得する。それを実行するには、周囲からの甚だしい疑念が渦巻き、組織内での抵抗も大きいが、それを乗り越えて自己の信じた理念を貫徹する人間的な力強さが、この映画の魅力でもあった。

 潤沢な資金力に物を言わせて戦力を整え常勝軍団を作り上げようとする発想は、ある意味において、限りなく“アメリカ的”とも言えるだろう。そうした金により肥大化した組織に資金力なくして対抗する手段が、統計学という叡智を母胎として産み出されてくるあたりが、これもまた多様性のあるアメリカ社会そのものである。100年以上の伝統あるMLB社会に、新たな潮流をもたらした「マネーボール」理論。そこには閉塞的な組織において、いかに風穴を開け、新たな地平に導くかというヒントが多数埋め込まれている。


 社会全体に固着した価値観が横行する日本。野球界もまた同じ。個人の価値観を柔軟に多様化させなければならないだろう。そのような立場を受け止め行動する人々もいる一方で、「排除」「即断」といった先入観と感覚に満ちた集団からの疎外的な事象が後を絶たない。「正解」「前例」「事なかれ」といった旧弊から脱して、各々の価値観の多様性に敬意を表する社会を構成していかなければならないはずだ。
 戦後日本社会が、プロ野球の隆盛とともに歩んで来たという歴史観が成り立つならば、その文化的な固着は、もはや解凍不可能な地点に近づきつつあるかもしれない。それならば、メジャーに席巻される恐怖におののくよりも、メジャーで革命を起こした新しい価値観から未来を学ぶべきではないだろうか。


 今一度、野球界が新たな呼吸を始め、むしろ社会を牽引する存在となるよう生まれ変わる為にも、一ファンとして支援したいという妄想さえ持つ。


 そのヒントは「マネーボール」の中に多数埋め込まれている。
 たかが野球、されど野球。
 社会の閉塞感を野球が打破する日本を、果てしなく夢想するのである。
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カウンターでの1年に感謝

2011-12-30
 今年1年を心の中で振り返る際に東日本大震災のことには、何らかの派生的関係を含めて必ず話題として抵触してくる。多くの人が各自の領域で、他人には分からない傷を受け、それを癒し回復させ立ち直ろうとする心を起動させつつ、様々なことを考えた年であったはずだ。そのような情勢の中で、新たな人間関係に勇気の糸口を発見するとか、または病との闘いの末に力尽きた方もいる。いずれにしても、社会という大海の中を泳ぐ自分という卑小な存在を、どこかで安心して披歴し、心に栄養を注入する場所が必要になる。ある人にとってはそれが家庭であるかもしれないが、この年末になって振り返るに、小生の場合は8人掛けのカウンターこそ、そんな癒しの場であったと改めて感謝を込めて心に刻むのである。

 神保町のワインバーにそのカウンターはある。東日本大震災が起こった翌週は、1日おきにその席の一員であった。余震の不安、放射能の不安、食糧不足などの生活の不安などと心の中で闘う為には、マンションの一室に籠っているのは辛すぎた。その場にいる頻度が高いために、「小生が行くと余震が来る」という“通説”も立ち現れ、眼の前にある棚からワイングラスが落下しないかということを幾度となく心配した。しかし、それは一度も落下はしなかった。その状況をTwitterで投稿したりすると、その店のオーナーとも懇意にするあるライターの友人は、「そのバーに住んでいるのですか?」と冗談交じりの返信をくれたりもした。

 その店の常連さんたちとの交流においては様々な分野の情報をいただき、いつも好奇心を触発され励まされ勇気づけられた。7月に行われたお店主催の屋形船では、シンガーソングライターの浜田伊織さんのライブを聴き、お台場の夜景が涙で霞んで見えた。同時に、新たな大空を意識して飛び立つ勇気が湧いた。10月にはお店の5周年記念会で、ジャズライブを聴きながら、お店に関係する方々の厚情を改めて知った。人情深く素朴な人柄を曝け出して交友を深める有田芳生さんの温かな心がそこにはあった。そしてまた多くの常連さんが、自らの夢を追い求めて外界で闘い、そして傷つくと鳥が羽を休めるかのようにこのカウンターに飛来し、しばし留まっているのだということもわかった。

 仕事納めの翌日というこの日は、お店の忘年会。常連バンドによる演奏が行われ、貸切による“真”の忘年会となった。音楽は人を覚醒し繋ぎ希望を提供する。このカウンターを中心に醸成された人間関係の温かな一つの達成が、音楽という形となり夜が更けるまで時間を忘れて店内を席捲した。今年だからこそ、新たな意味が浮上した「上を向いて歩こう」を全員で大合唱。4月頃にはサントリーのCMで俳優がリレーで歌っていたのを思い出すが、それにも負けない歌の力が店内に響き渡った。更にはパロディ創作によるお店のテーマ曲で笑いの渦に。深夜に及ぶ時間は瞬く間に過ぎて行く。そんな中、浜田伊織さんも急遽来店してくれて、来年への勇気を湧き立たせる2曲を熱唱してくれた。


 忘年会もお開きになった深夜、店主がその心情を語った。このカウンターにいらした方で、今年この世を去った方もいる。俳優の入川保則さん・脚本家・劇作家の市川森一さん。(入川さんとは、小生もささやかながらお話を伺う機会も得たが、小欄にも書いたようにクリスマスイブに天に召された。)一方で、多くの出会いや新たなスタートをした方々もいる。そんな話をカウンターの後ろから聴いていて、そのカウンターには人々のぬくもりがいつも保存されているのではないかという気持ちを抱いた。店主は入川さんや市川さんの話をする際に、カウンターのある特定な場所に目線を送った。そこに彼らの温かい心が今もなお遺されているようであった。

 激動の2011年。多くの方々と出会ったあのカウンター。
 店主とその場所に改めて感謝の気持ちを表し、深夜の店を出た。
 寒風吹きすさぶ師走の東京であったが、なぜか心は充分に温かかった。
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走り込むイチローの境地

2011-12-29
 「200安打などまったく頭になかった。」とイチローは語る。多くのメディアが“予定”としての200安打到達如何にしか焦点を絞ってしか報じないのに対して、イチローの思考は次元が違う。自分の打撃がどんなに拙く改良が必要か。不十分な打撃のあり方なのに偶然に出てしまう結果に惑わされた自分自身を嫌悪する。それでもアメリカンリーグ9位の安打数184本、打率272で今シーズンを終えたイチロー心理の一面である。

 NHKBS1「日本人メジャーリーガー2011・イチロー苦しみの果てに」のインタビューに、自身を振り返るイチローを見た。例年になく絶好調な4月の打撃は、「不正解」な打撃であるのに偶然出てしまった「結果」だという。ゆえに修正をしなかったツケが5月6月の低迷を呼び、極度の不振に陥り月間打率は2割台前半にまで下降した。そうした自分自身の姿を「バカ」だと称し、イチローは自らを苦しみの淵に追い込み、孤独な苦闘を続けていた。次第に打撃フォームに変化が生じ、一時は好調さを取り戻したように見えたが、それも混迷の中での「偶然」であったと振り返る。そんな中で初めて「心がポキッと折れた」と語る。だが、184本まで積み上げられたのは壊れた「心」「技」を「体」が支えたというのだ。一般的には「技」「体」が崩れたのを「心」が補うのが世間の通例。ゆえに、イチローは体力の衰えを自身では感じていないという。「20代より速く走れる」と自覚している。

 夏を越えて悩み続けるイチローは、自らの打撃に専心するためにチームメイトやメディアとの会話を極力避けた。理由は「価値観が共有できない」からだという。そうした状況下でチームメイトに「摺り寄ることができない人間」だと自覚し、「自分の情報を出さない」孤独な闘いを自らに強いた。傍目には完成していると思える彼の打撃は、“壊しては創る地道な作業”であると番組は伝えた。時に、こうしたイチローの姿勢を非難するメディアやファンがいる。だがしかし、それこそ価値観の次元が異質過ぎるのであって、彼が求めている境地は彼にしか見えないのかもしれない。そして迎えた今季最終戦。ゲームセットの瞬間、「なぜか晴れやかな気持ちになった」とイチローは語った。周囲が見つめる呪縛のような「200安打の予定」から解放されたからである。イチローが人間・鈴木一朗に戻った瞬間であったかもしれない。

 イチローは自らの目標をこう語る。
 「野球選手としての成熟ではない、人間としてのそれである。」
 日本的野球道とメジャー安打記録保持者の融合は、こんな境地に見据えている。

 来季への抱負を聞かれたイチローが語った。
 「756号を打った王選手が両手を挙げて一塁へ走る後ろで、ジャンプする張本勲さんが目標である。」と。その時点で張本氏37歳、現在のイチローと同年齢。他者の世界記録達成に対して、これだけの素晴らしい「ジャンプ」で喜びを表現できる人はそうはいない。それが来季の目標であるという。WBC日本代表チームにおけるイチローのリーダーシップに疑問を呈する人はいないであろう。もしいたとしたら、野球など観ない方がいい。どんなに自身の打撃に苦しんでも、チームを牽引する彼のパワーは、日本代表2連覇の大きな原動力である。もしかすると、来季のイチローは、シアトルにおいてそんな姿を見せてくれるのではないかと、密かな期待を胸に抱いた番組であった。

 そしてもちろん夢は、2013年春の第3回WBCへも連なる。


 オフになって、シアトルで欠かさず「走り込み」を行っているイチローの映像が紹介された。起伏のある道路で息を荒くしつつ、来季を見据えた孤独な闘いを続けている。彼は、今季の苦しみを消化し来季への肥料とするが如く、自分自身の身体に鞭を打っている。

 激動の今年を消化するために、彼が地道に行っているような努力を、小生も実践すべきであると、心を奮い立たせるその映像であった。

 苦しみの果てに。
 天才打者が2012年に新たな姿を見せる予感が堪らない!
 やはり野球は人間の生き様そのものである。
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「絆」という名で出ています

2011-12-28
 世間に「絆」という言葉が跳梁跋扈している。東日本震災後、家族・夫婦・友人・知人などの間で、「絆を深めよう」という文脈で使用され、人々が助け合い、心を結び合い、情を通い合わせる、というような語感として理解されているように見受けられる。例年、京都清水寺で発表される“今年の漢字”にも、やはり「絆」が選出された。ちょうど1年前には京都を訪れ、清水寺で2010年今年の漢字「暑」の実物を見ていたので、それと比べると、甚だ趣も語感も字の放つ力も大きな相違があるように感じられ、今年1年の激動を物語る漢字としては相応しいのかもしれない。

 ただ、今やありとあらゆる公共の場に、この「絆」「きずな」という語が氾濫し過ぎている。被災した方々によって実感を伴って使用された際の語感が、甚だしく希釈され軽んじられているような気がしてならない。芸能人による軽々しい発言。利益拡大という目的でこの語を組み込んだ広告。些細な宴会での挨拶、等々と溢れ返る「絆」という文字は、もはや記号にしか見えず、有名無実とさえ受け止めてしまいたくなるほどで、眼にすると嫌悪感さえ覚えることもある。この言葉によって救われたと感じている方々には、甚だ失敬であるかもしれないが・・・。

 職業柄、言葉や語感に対して常に敏感でありたいと願うゆえ、こうした作用が心の中で起きる。すかさずその文字の語源などに遡って調べてみたくなるのも職業病だ。すると、すでに世間でも指摘されてきたが、「絆」という語は決して好感が持てる文字でないことがわかる。漢字としての語源は、「ひも(糸)をぐるぐると巻いてからめること」(『漢字源』学研)であり、「単語家族」として「攪拌」の「拌」(固まったものをぐるぐると混ぜてほぐす)の文字が挙げられる。漢語の名詞として使用されると「ほだし・きずな」は「馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理人情のたとえ。」。動詞ならば「つなぐ・ほだす」で「しばって自由に行動できなくする。」ということになる。類語に「紲」があり、この文字となると「犬馬や罪人をつなぐつな」という更に限定的な意味となる。
 古語の場合は、どうであろうか。中世の歌謡集『梁塵秘抄』には「御厩(みまや)の隅なる飼い猿は(きづな)離れてさぞ遊ぶ」という例が物語るように、「動物を繋ぎ止める綱」の意味である。また、『平家物語』(維盛都落)に「(若君や姫君が走り出て来て父親を)慕い泣きたまふにぞ、憂き世の(きづな)と覚えて」とあって、「仏道修行のさまたげとなる離れがたいつながり。」とある。(以上。『全訳読解古語辞典』(三省堂)より)

 このように、漢語や古語においてはあくまで「自由を奪う束縛」という語感が強いことがわかる。現代語の訓読みとして「ほだし」(動詞「ほだす」)があるが、この読み方であると「思考・行動の自由を束縛する物事」という意味で、「手かせ・足かせの意」に由来する。(『新明解国語辞典第6版』(三省堂))確かに「絆創膏」という最近は漢字で表記されない語彙も存在するので「傷口を保護し健全に回復させる」といった語感がないとも言えない。言葉は時代・世相を反映し変転するものであるから、一概に「絆」が間違った使用法だと弾ずることもできないだろう。
 だが、やはりここで注意したいのは、無意識下に埋め込まれた言葉の影響力である。前述した「絆創膏」のような傷口への救世主という語感、つまり心痛めた人々が協調し奮起し復活することを支援する連帯的共同体を構成する概念で使用されるならば、それはそれでいいだろう。しかし、宣伝広告などの利益誘導に表示されたり、精神的な強制力が働く場面での使用には、相応しくないという認識を持つべきだと思うのである。少なくとも強制的な上から目線で「絆を深めよう」などという発言を、安易に聞きたくないのである。

 更に深読みをするならば、世間に跳梁跋扈するこの言葉が、東日本大震災以後の日本において生活する上で、何者かによって「ぐるぐる巻きにされるほど、思考や自由の束縛を受けなければ立ち行かない。」ことを暗に知らせる喧伝であるとしたら恐ろしい。我々の生活は、少なくとも東日本での生活は、「自由の束縛」を何らかの「絆」によって受けていると言えるのかもしれない。だとしたら、「絆」という語を我々は、全く正反対の意味で、真摯に謙虚に深い配慮と洞察のもとに受け止めなければならないはずだ。もちろん、「自由な言論・表現」の崇高なあり方の維持を含み込んで、「束縛」という記号としての「絆」に立ち向かわなければならないのかもしれない。


 言葉の二律背反。
 漢語と和語との融合による日本語の重層性に自覚的であるべき。
 世間に跳梁跋扈するものには、せめて一時でも穿った視点を持つことを忘れずにいたい。
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2011トレーニング頻度を振り返る

2011-12-27
 12月は諸方面で忘年会の予定も多く、なかなかトレーニングへ行く時間を作り出すのは難しい。その上、宴会での飲食量も通常より増えて体調に関してもバランスを欠きがちな月である。だが、昼や朝の時間帯を含めてジムへ行く時間を確保し、昨日で月10回を達成した。日常的に運動することで免疫力を高め、肩凝りなど筋肉の硬直を解く効用もある。トレーニングは今や生活の一部である。また小欄に時折、その成果を公表することで、継続の意志が強化されるという効果もある。

 本年の月別トレーニング回数を振り返る

 1月:16回
 2月:14回
 3月:12回
 4月:11回
 5月:13回
 6月:12回
 7月:10回
 8月:7回
 9月:11回
 10月:15回
 11月:11回
 12月:10回(27日迄)


 1月・2月は年頭の決意よろしく、かなり奮闘しているのがわかる。
 3月の震災後は、ジムの休館や節電の影響による営業時間短縮という事態がありながら、12回と健闘。
 4月は新年度のリズムを作る時期としてやや落ち込むが、5月6月には回復している。
 7月は主催するイベントやその稽古で低調にならざるを得なかった。
8月は、ほぼ半月にわたり渡米したので15日間で7回であるから、頻度から言えば低いとは言えない。
 9月は米国から帰国して後、コンディション回復にやや苦戦した。
 10月は、精神を支えようとする意図も強く、後半での最高回数を叩き出した。
 11月は出張中も出先でジムのチェーン店舗に通って10回以上を維持。
 12月は朝昼晩を問わず、行ける時に行くという姿勢で10回を達成した。

ということで、本日付で年間142回に至ったという訳である。(通ジム率=約39%)

こうした健康維持と身体強化は、現況のみならず今後に大きな影響を及ぼすであろう。意識した肉体改造も約3年目を迎え、小欄の更新と共に習慣化したのが継続のとても大きな要素である。


 では、今後に向けてトレーニングに対する心身の構えをどうするか。そんな概念を、次の一節を引用して自らにも言い聞かせておこう。


人というものは
生まれたときは柔らかく、弱々しくて
死ぬときはこわばり、突っぱってしまう。
人ばかりか、
あらゆる生き物や木や草も
生きている時はしなやかで柔らかだが
死ぬと、
枯れてしぼんでしまう。
だから、固くこわばったものは
死の仲間であり、
みずみずしく、柔らかで弱くて繊細なものは
生命(ライフ)の仲間なのだ。

剣もただ固く鍛えたものは、折れやすい。
木も、堅くつっ立つものは、風で折れる。
元来、
強くこわばったものは
下にいて、
根の役をすべきなのだ。
しなやかに柔らかで
弱くて繊細なものこそ
上の位置にいて
花を咲かせるべきなのだ。

『タオ・・・老子』(加島祥造著:筑摩書房)より




「みずみずしく、柔らかで弱くて繊細なもの」
真の強さをわきまえた柔らかさに、いかに自然体で至るか。
それが今後のトレーニング課題である。

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自分自身以上に大切なものは何もない

2011-12-26
 クリスマスをどのように過ごすか。定型的な何かがあるわけでもなく、ただ世相の流れを汲んで“こうしなければならない”というような強迫観念にも似た感覚で、予定を組み上げたりする。それはたぶん、“バブル”時代の日本社会が産み出した、社会総体的な感覚であるかもしれない。ところで、それは何の為なのか?本質的な目的から遠ざかり、むしろ眼に見えない世間に合せるという、実に日本人的な過ごし方がそこに表面化しているのではないかと毎年のように思う。


 「自分自身以上に大切なものは何もない」

 ある意味で、痛烈な言葉である。家族・恋人・友人など大切な人がたくさんいる。その中でなぜ敢えて「自分自身」が一番大切だと断じるのか。クリスマスという華やかな世相に楔を打つようなこの言葉。だが、むしろクリスマスであるからこそ、考えなければならない言葉なのかもしれない。

 朝一番から江東区豊洲で開催された「木下黄太氏講演会」に赴いた。ブログ「放射能防御プロジェクト 福島第一原発を考えます」において、様々な角度から外部・内部被曝の実態について情報を提供している木下氏。開口一番「昨年のクリスマスから考えますと、本日は実に暗く脅すような話しかできません。」といって講演が開始された。講演内容や様々なデータは、木下氏がブログにも上げているので、そちらを参照願いたい。ここで小生なりに書き留めておきたいのは、やはり眼の前の現実、だがこの「現実」の内容自体に各自大きな振幅があるのだが、それだけに、できる限りの情報をもとに「真実」に近い「現実」を共有できる話ができる人間関係であること、またその関係を築くことがとても重要であるという点について切実に訴えたいと思うのである。

 3月以降今日までより、むしろこれからの方が、放射能の影響は顕在化してくるはずである。それはチェルノブイリの“前例”で明らかだ。空間放射線による外部被曝よりも、食品を通しての内部被曝が深刻であったのも、“前例”から学ぶべき重要なポイントであるはず。木下氏がチェルノブイリに関して伝えた情報として気になったのは、事故後26年が経過しているのに、半減期30年と言われる種類の放射性セシウムが、未だ減ってきていないこと。それは「半減期」の規定自体が、研究上の暫定的な“定説”なのであって、確実に30年で半減期になるとは言い切れないという実態があるらしい。チェルノブイリ自体も未だ大きな困難を抱え込みながら、格闘しているという「現実」があるという。そして、こうした“前例”における健康被害の露見よりも、“フクシマ”由来による健康被害の出方は、その表出時期が早いような状況であるというのだ。


 政府の「冷温停止宣言」を受けて、ある意味で“普通のクリスマス”が訪れたとも解せる世間の様子。何より“平穏”に向けて歩み活動し生きなければならないのも「現実」であろう。だがしかし、もう一方で多くの大衆が見えない「現実」があるとしたら恐ろしい。その可能性が全く「0」であると考えている方も少なくないはずだ。また逆に木下氏が懸念するような事態が具体的にどうなっていくかは、ご本人も語るように「誰にもわからない」。だからこそ、危険な状態になる可能性が僅かでもあるならば、その情報を共有し回避すべき行動をとることを意識すべきではないだろうか。バブル期の“クリスマスの過ごし方”による過剰な浪費や見栄張り合戦のような様相が、後の「失われた時代」の温床となってしまったように、「冷温停止宣言」をどのように捉えるかということは、ある意味で2011年を終えるに当たり、今後へ向けての大きな分水嶺になっているような気がしてならないのである。

 そこで、「自分自身以上に大切なものは何もない」の話に戻ろう。これを極論とすれば、周囲を取り巻く人々も、仕事も組織も趣味の領域よりも、何より大切なのは「自分自身」ということになる。そこで何を優先順位として生活するか。そんなことが今、問われているのかもしれない。いやむしろ「自分自身以上」と考えたときに、逆説的に浮上するのは、どうしたって「愛する人々」なのである。その「愛する」が真実であるならば、様々な情報や可能性について眼をつぶらずに直視し共有する姿勢がまずは必要なのではないだろうか。政府やメディアによる情報への不信感が渦巻く中において、感情的感覚的に情報を避けたり、受け付けないという姿勢こそを、まずは排除すべきではないだろうか。少なくとも、「愛する人々」の間では、公正に様々な情報を共有してみる必要があるのではないかと痛感するのである。


 この日の講演会場でも、家族間で意識の差が激しく、涙ながらに訴える方の質問を目の当りにすることもあった。「愛する家族であるのなら」という思いが痛切に心に浮かぶ。


 目を背けずに情報をまずは精査してみよう。
 そして「愛する人々」と語って共有しよう。
 素直に受け止めるのを良しとする、これまでの日本的道徳観から脱しよう。

 大きく言えば、今こそ日本人のコミュニケーション能力が問われているのかもしれないとさえ思う年の瀬である。
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クリスマスイブに『笑ってさよなら』―入川保則さん逝去を悼む

2011-12-25
 半年前の6月24日、ご著書の『その時は、笑ってさよなら』(ワニブックス)に日付入りでサインをいただいている。「盲導犬サフィー、命の代償」(秋山みつ子著・講談社)の朗読会場でのことだ。これまでにも、俳優さんの朗読会にはかなり足を運んでいるが、入川さんのそれは別格だと感じた。それは朗読すべき対象作品の世界が訴えて来るのではなく、入川さんという人間の生き方を通して「命の代償」という作品テーマが“語られて”いたからだ。まさに「命を賭して」という迫真の朗読会という深みに涙腺が緩んだ。

 “名脇役”と称された俳優・入川保則さんが逝去された。昨年、癌が発覚したが延命治療を拒否し、今年3月には「余命半年宣言」の会見を行った。しかし、その後も、前述の朗読会や歌手デビュー(CD発表)、映画への参加に『水戸黄門』出演と精力的に活動されていた。3月の時点で医師による「余命半年」診断を、一笑するかのように超越し、夏以降もお元気で活動を続けられていた。


 入川さんとは、馴染みのワインバーで何度かお会いした。ある日、席が隣になったのをいいことに、図々しくも入川さんに質問をしたことがある。

「私は朗読表現の研究をしているのですが、入川さんが朗読する際に一番大切にしていらっしゃることは何ですか?」と。

 この質問に対して、実に懇切丁寧に笑顔で自分のお考えを小生如きに力強く語ってくれた。それを聞いた後に、6月末の朗読会を拝聴し、入川さんが語る「実践」を目の当りにして更に理解が深まった。俳優さんの朗読は「読む」のではない、やはり作品世界を「演じて」いるのだと。しかも6月の朗読会では、確実に主役的な存在でありながらも、入川さんの読み方には人生が表出したのか「脇役」的な雰囲気が感じられることで、『盲導犬ソフィー』の世界が余計にリアルに劇場に現れてきたようであった。
音声表現としての「朗読」研究者として、この入川さんとの出逢いを大切にし、何らかの形として遺したいと改めて誓う。さすがはダンディーな名脇役である。クリスマスイブに、多くの方々に入川さんなりのプレゼントを置いて、天に召されて逝った。ご冥福を心よりお祈りする。


 街はまた“日本”のクリスマスイブだ。“日本”のというのは、誤解を恐れずに言うならば、どこか偽装的で作為的な臭いがするのである。この日とばかりに街にはカップルが溢れ返り、デパ地下あたりの有名ケーキ店には長蛇の列ができ、イルミネーションが見られる地点には慣れない運転の車までもが氾濫する。この日を特別視するなら、日頃が頽廃していてもいいのか。生きている以上、“特別な日”はない。毎日が生きるという貴重極まりない時間なのである。

 入川さんは、人間が生きる意味を自らの身体を持って表現されていた。

 こんなに格好いい男を身近で初めて見た気がする。

 入川さん!ありがとうございます。
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桑田・すき焼き・有楽町

2011-12-24
 朝から落ち着かなかった。大晦日に予定されている“桑型佳祐年越しライブ”のチケット発売日であったからだ。午前10時からの一斉発売に照準を合わせて、書斎のPC前でかなり力みながら時を待った。時刻が近付くにつれて、当該サイトの接続状態が混み合い始め、いざ10時になると予約購入画面まで行き着けない始末。それでも一瞬の幸福を期待して諦めずに何度も試みを続けた。ようやく画面が進んでいったかと思うと、「予定枚数終了」の表示。万事休すである。

 長年の親友と共に、今年は年越しライブに行って元気を出そうと約束していたので、大のファンとして甚だ無念な結果である。少年の頃に野球のチケットを買い求めるために、朝暗いうちから自転車で球場に乗り付けて長時間並んで購入した際のことが思い出された。労力を賭けて熱意を表わせる制度ならば、自信があったのであるが・・・。

 午後は、ジムの年末イベント「すき焼き」。何も鍋を参加メンバーで食べるわけではない。様々な種類のプログラムを経験できるように、鍋の具のように構成されたイベントプログラム。日頃はトレーニング目的に合せて、自分の好きな内容にしか参加しないが、こうした機会にそれ以外のトレーニングも体験できるのが嬉しい。今までに体験したことがなかった“ゴムチューブ”を使用したトレーニングがかなりキツいことを体感。来年は改めて様々なプログラムに参加し、バランス良い身体作りに励もうと決意も新たにした。

 帰宅して夕刻からは、有楽町で“従兄弟会”。ある従兄弟の高校生になる娘が、全国高校選抜バスケットに出場するというので、彼らが久し振りに東京へ出てきたというもの。東京在住のもう一人の従兄弟夫婦と小生の妹とで、美味しい焼き鳥をいただきながら、楽しい時間が過ぎた。血縁関係というはなぜか不思議なもので、親兄弟によって繋がる深い人間関係である。


慌ただしさの中にも、充実感も湛えながら過ごした時間。


久し振りに日記風に小欄を構成したくなるような年の瀬の1日。
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金原亭馬治さんを囲む忘年会

2011-12-23
 忘年会も大詰めというこの連休前。街中を慌ただしく移動する人や、ATMに長蛇の列を作る人々が目についた。そんな中を東京から横浜まで列車に乗って、桜木町で下車。この日は、金原亭馬治さんを囲んでの忘年会に参加した。
 忘年会の時間まで暫く時間があったので、大学で落語プロジェクトを主宰する教授と、その友人の方々とで野毛界隈を散策した。いまだ昭和の香り漂う街並みには、様々な発見があった。時代や時間は、ある場所で保護され保管され今もなお生き続けている場合があるものだ。落語もまた同じ。

 そしていよいよ忘年会の開会。今年は誰しもそれぞれの苦労や痛みを抱えているような年の瀬。十数人のメンバーが、各自の今年を振り返りながら来年への展望を語った。落語好きな仲間であるから、小生も何らかの「笑い」を付加できればと思いながら語ったが、やはりプロの“口上”には敵わない。
 改めてこうしたカジュアルな場での、小さな「笑い」の醸し出し方を、馬治さんに学ぶような時間が続いた。忘年会という場は、まさに「年忘れ」の要素が必要な訳で、それには談笑なくしては成り立たない。小さな一言で場を盛り立てられる落語家さんの妙に聞き入った。
 中には「謎掛け」の“コツ”を質問する方もいて、落語家さんがどのように考えているかという舞台裏を垣間見るような時間もあり、楽しいひと時が過ぎて行った。楽しい時間はまさに早く過ぎ去る。終電時間となって横浜在住の方々より一足先に家路についた。

 今年は人前で、落語の一席も披露できた、ある意味で記念すべき年。自分が「語る」ことにこだわり続け、来年も「笑い」ある年にして行きたいと誓い、気分よく帰宅し就寝。

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知名度と人柄

2011-12-22
 先日の小欄に王貞治氏について記した。小生が少年時代、試合後の疲れた中でも、嫌な顔一つせずに握手をしてくれたことが印象深かったという内容だ。こうした体験が物語るように、憧れの野球選手とできれば直接会いたいという思いは今でも継続している。それゆえに、米国のボールパークやスプリングトレーニングにも、しばしば足を運んでいる。自分にとっての第二言語である英語で接する印象だからかもしれないが、往々にしてメジャーリーガーはファンを大切にしてくれる。それに比して、日本のプロ野球選手は、冒頭に書いた王貞治氏のようなありがたい態度ばかりではなく、時にファンに対してがっかりするような態度をとる場合も少なくない。にもかかわらず、インタビューなどでは満面の笑みを浮かべているのを見ると、果たしてその選手の人柄は何なのかと疑念が強まるばかりである。基本的に社会的知名度と人柄の関係は、切り離して考えなければならないと心に決めている一つの理由がこれである。


 暫くご無沙汰していた馴染みの店に、年末の挨拶がてら顔を出した。すると先月、芝居を見せてもらった声優のTARAKOさんの誕生会が行われていた。ほぼ貸切状態であったが、“馴染み”をいいことにカウンターの隅の席を空けてもらった。するとTARAKOさんがすぐ後ろのテーブル席にいらして、「先日はお芝居にいらしていただいて、ありがとうございました。内容はどうでしたか?」と声を掛けてくれた。紛れもなく“まる子ちゃん”の声である。彼女は、声優としての声と普段の声に殆ど変化がない。やや不思議な気分になりながら、小欄にも感想(11月28日付)を記したことや、その要点を簡潔に申し上げて、自分なりの生き方の中で共感できた芝居であったことを伝えた。すると彼女は、心から「よかった~!ありがとうございました。」と小生の反応を深く受け止めてくれるような表情で言葉を発した。

 その後、暫くして誕生日ケーキが切り分けられたのだが、その際には小生までも御相伴にあずかった。カウンターの隅でしばし一人酒を楽しみながら、背後から聞こえてくる楽しそうな会話に自分も励まされた思いである。夜も更け始めると、誕生会もお開きの様相。帰り際にTARAKOさんは、再び「騒いじゃってすいません」とご丁寧な挨拶をしてくれたので、「こちらこそお邪魔してすいません。ケーキまでいただいて光栄です。」と返答した。その後、彼女は家路についた。

 たぶん、世間で彼女の声を知らない人は少ないに違いない。その知名度を考える時、見ず知らずの一介の客に対して、これほど謙虚で丁寧な言葉を掛けてくれる人柄の高尚さに対して感激せずにはいられなかった。“ちびまる子ちゃん”の持つ素朴な表裏のない人物像は、“あの声”の純朴さと温かみによって支えられていることを改めて悟った。



 冬至前夜の街並みは、夜が更け行くとともに寒さを増していた。帰路を歩きながら、改めて自分自身にも言い聞かせる。

「どのような方に対しても敬意と謙虚さをもって接しなければならない」ということを。

お店に何枚か提供されていた“ちびまる子ちゃんカレンダー”を1本いただき、帰宅して開いてみると、やはり純粋なあの笑顔。そのアニメの奥から温かい言葉が聞こえてくるようであった。

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